日比谷から半蔵門を歩く|日比谷見附・桜田門・皇居外苑の歴史散歩

日比谷公園から皇居外苑へ入り、桜田門をくぐって内堀沿いを半蔵門へ。さらに一番町まで歩くと、江戸城の門と濠、明治の公園、外交の街へと変わった東京の歴史が一本の道の上でつながります。

このコースは、2023年8月23日にゆる歴史散歩会で実施した夜散歩のルートを基にしています。日比谷見附跡、ヤップ島の石貨、桜田門、半蔵門、駐日英国大使館を順にたどり、現在の街並みに残る江戸から近代の痕跡を紹介します。

日比谷から半蔵門へ歩く歴史散歩コース

出発地点は日比谷公園です。園内で江戸城外郭の痕跡と明治期の公園施設を見たあと、桜田門から皇居外苑へ進みます。桜田濠を左手に見ながら半蔵門へ上り、一番町の駐日英国大使館付近まで歩く流れです。

  1. 日比谷見附跡
  2. 日比谷公園の石貨
  3. 旧水飲み
  4. 花の輪案内
  5. 桜田門
  6. 半蔵門
  7. 駐日英国大使館
江戸城三十六見附を示した図
江戸城の内外には見附と呼ばれる門と警備施設が置かれ、日比谷見附や桜田門も城を守る防御線の一部でした。

日比谷見附跡と心字池|公園に残る江戸城の外郭

現在の日比谷公園周辺は、江戸時代には大名屋敷が並ぶ武家地でした。明治維新後は陸軍の練兵場となり、その後、日本初期の洋風都市公園の一つとして日比谷公園が整備され、1903年6月1日に開園しました。

公園の北東側に残る日比谷見附跡は、江戸城の外郭を守った日比谷御門の一部です。見附みつけは城門と番所などを組み合わせた警備の拠点で、門の内側に枡形ますがたと呼ばれる空間を設け、進行方向を折り曲げて城内への侵入を防ぎました。

門の建物は明治期に失われましたが、石垣は現在も残っています。隣接する心字池は、公園造成の際に江戸城外濠の一部を生かしてつくられました。池の水面と石垣を一緒に見ると、現在の公園の中に江戸城の境界線が残されていることが分かります。

日比谷の地形や日比谷入江、大名屋敷、練兵場から公園への変化は、「日比谷公園の歴史と見どころ」で詳しく紹介しています。

日比谷公園の石貨と旧水飲み|明治の公園に残るもの

日比谷公園には、ミクロネシアのヤップ島で使われた石貨が展示されています。円盤状の石の中央に大きな穴をあけた「ライ」と呼ばれる石貨で、園内の洋風景観の中ではひときわ異質な存在です。大きな石そのものを日常的に持ち運ぶのではなく、共同体の中で所有関係を認識する仕組みのもとで価値を持ちました。

園内には開園当初の姿を伝える旧水飲みも残っています。人のための飲み口と、馬が水を飲める部分を備えた設備で、自動車が一般化する以前の東京では馬が都市交通を支えていたことを伝えます。公園の設備からも、明治の街で人と馬が同じ道路を行き交っていた時代を想像できます。

皇居周辺には、各都道府県を象徴する花を紹介する「花の輪」のプレートも配置されています。皇居一周約5キロの道に約100メートル間隔で並び、江戸城の遺構に加えて、近現代に整えられた皇居周辺の景観を歩いて確認できます。

桜田門|江戸城最大級の枡形と桜田門外の変

日比谷公園を出て皇居外苑へ進むと、旧江戸城外桜田門に着きます。桜田門は高麗門こうらいもんを入った先で直角に折れ、櫓門やぐらもんを抜ける枡形ますがたの構造を現在もよく残しています。環境省は、現存する江戸城の城門の中でも桜田門の枡形を最大規模としています。

桜田門は寛永期に整備が進み、現在残る門は寛文3年頃(1663年頃)の建築とされています。1961年には国の重要文化財に指定されました。門をくぐると、城門が単なる入口ではなく、敵の動きを止めて守備側が対応するための空間だったことを立体的に理解できます。

皇居外苑の桜田門と枡形
桜田門。高麗門と櫓門を直角に配置した枡形が残る国の重要文化財です。

安政7年3月3日(1860年3月24日)、大老・井伊直弼いいなおすけは江戸城へ登城する途中、桜田門外で水戸藩浪士らに襲撃されました。桜田門外の変です。事件の舞台が城内ではなく門の外だったことは、桜田門が大名屋敷の並ぶ武家地と江戸城を結ぶ重要な出入口だったこととも重なります。

桜田濠を歩く|門から半蔵門へ続く江戸城の防御線

桜田門から半蔵門へ向かう区間では、桜田濠が長く続きます。現代の地図では皇居の外周道路に見えますが、江戸城では濠と高い石垣が連続する防御線でした。桜田門という「点」から離れ、濠に沿って歩くと、城郭が広い地形そのものを使って造られていたことが分かります。

日比谷側から半蔵門へ進む道は次第に高くなり、濠の水面との高低差も大きくなります。石垣、斜面、濠を一続きに眺められるため、江戸城西側の守りを体感しやすい区間です。夜は建物の情報量が減り、濠の輪郭と高低差がいっそう際立ちます。

半蔵門|甲州街道と江戸城西側をつないだ門

半蔵門は江戸城内郭の門の一つで、「こうじまち口」とも呼ばれました。四谷門とともに甲州街道へ通じる西側の要衝で、元和6年(1620年)に仙台藩主・伊達政宗だてまさむねら東国の大名によって築造されました。

「半蔵門」の名は、徳川家康に仕えた伊賀者の服部半蔵はっとりはんぞうとその配下が周辺に屋敷を与えられたことに由来するという説がよく知られています。千代田区は、山王祭で使われた象の山車にちなむ説も紹介しています。門の名そのものに複数の伝承が残る場所です。

明治4年(1871年)には櫓門が撤去され、現在は高麗門が残っています。現在の半蔵門は皇居の通用門として使われており、一般の人が門内へ入る場所ではありません。外から見る石垣と門の位置が、甲州街道へつながった江戸城西側の出口を伝えています。

皇居西側の半蔵門
半蔵門。櫓門は明治初年に撤去され、現在は高麗門が皇居の通用門として使われています。

一番町と駐日英国大使館|武家地から外交の街へ

半蔵門の西側に広がる番町一帯は、江戸時代に江戸城西側の防備を担った大番組おおばんぐみ旗本はたもとが住んだ地域です。「番町」という地名は、この大番組の屋敷地に由来します。城門の外側に武家屋敷を配置し、街そのものが江戸城を守る構造になっていました。

明治になると番町は官僚や華族の住宅地となり、外交施設も置かれるようになります。千代田区の町名由来板では、明治5年(1872年)に英国公使館が一番町へ移ったとされています。英国政府の記録には1875年に建てられた赤レンガの公使公邸が残り、1905年には公使館から大使館へ昇格しました。

1923年の関東大震災では大使館の建物が倒壊し、1929年から再建が進みました。さらに2015年には大使館敷地の一部が日本側へ返還され、その土地を整備した「皇居外苑半蔵門園地」が2023年3月に開園しました。江戸の旗本屋敷、明治の外交拠点、現代の国民公園という三つの時代が、一番町から半蔵門の一角に重なっています。

2023年の夜散歩で歩いたルート

2023年8月23日の散歩イベントでは、日比谷公園で日比谷見附跡や石貨などを見たあと、桜田門から内堀沿いを半蔵門へ歩き、一番町の駐日英国大使館付近まで進みました。公園、城門、濠、武家地、外交施設が歩く順番に現れるため、東京の土地利用の変化を連続して追えるコースです。

関連する歴史散歩

江戸城の門をさらに広く巡るなら、「皇居半周ナイトウォーク|江戸城三十六見附を常盤橋門から半蔵門へ」で、常盤橋門・和田倉門・馬場先門・桜田門・半蔵門を続けて紹介しています。

日比谷から霞が関、国会議事堂、永田町へ進む街の変化は、「日比谷~国会議事堂~永田町の歴史を巡る夜散歩」でたどれます。

よくある質問

桜田門と半蔵門は何が違いますか?

桜田門は江戸城南側の門で、高麗門と櫓門による枡形が現在も残る国の重要文化財です。半蔵門は江戸城西側から甲州街道方面へ通じた門で、現在は皇居の通用門として使われています。

日比谷公園の心字池は江戸城の濠だったのですか?

心字池は、日比谷公園を造成した際に江戸城外濠の一部を生かして整備された池です。近くには日比谷見附の石垣も残っており、江戸城外郭の位置を現在の公園内で確認できます。

このコースでは江戸城のどこが見られますか?

日比谷見附跡の石垣、旧江戸城外桜田門、桜田濠、半蔵門を見られます。門だけでなく、濠と地形をつなげて歩けるため、江戸城の南側から西側にかけての防御線を連続して追えます。

参考資料・公式情報