法政大学と中央大学の歴史をたどると、どちらも明治前期の法律教育から出発します。法政大学の源流は1880年の東京法学社、中央大学の源流は1885年の英吉利法律学校です。両校はそれぞれ別の若手法律家ネットワークから誕生し、創立者の人脈や重視した法学の系統も異なりました。
両校の違いを理解する鍵は、明治政府が西洋の法制度を急速に導入していた時代背景にあります。フランス法、イギリス法、アメリカ法、のちにはドイツ法を学んだ若い法律家たちが、それぞれの知識と人脈をもとに私立法律学校を設立しました。現在の法政・明治・中央・専修・早稲田・日本などの大学史は、この法律学校群と深くつながっています。
- 法政と中央は別の法律家ネットワークから生まれた
- 「学生が大学を作った」という理解はどこまで正しいのか
- なぜ1880年代に法律学校が次々と生まれたのか
- 法政の源流:ボアソナードとフランス法の人脈
- 中央の源流:英吉利法律学校が掲げた英米法と「実地応用」
- 明治法律学校は法政に近い「フランス法系」の仲間
- 専修学校はアメリカ留学組から始まった
- 早稲田の東京専門学校は政治と法を結びつけた
- 日本法律学校は「日本法」を前面に出した
- 五大法律学校という「競争相手であり仲間」の関係
- 民法典論争では法政・明治と中央・早稲田が対立した
- 東京大学も英・仏・独の法律を並行して教えていた
- 東京以外にもあった:関西大学の前身・関西法律学校
- ドイツ法系と京都の法律学校
- なぜ神田・駿河台に大学が集まったのか
- 主要校を年表で比べる
- 散歩でたどるなら御茶ノ水・神保町が面白い
- 主な参考資料
法政と中央は別の法律家ネットワークから生まれた
法政大学の前身・東京法学社は、1880年に金丸鉄、伊藤修、薩埵正邦らが東京・駿河台で設立しました。金丸は法律専門誌の出版、伊藤は代言人、薩埵は司法省で法典編纂に携わった若手法律家でした。創立時の3人は20代です。
中央大学の前身・英吉利法律学校は、その5年後の1885年に神田錦町で設立されました。創立者は増島六一郎、穂積陳重、菊池武夫、岡村輝彦、奥田義人ら18人の少壮法律家です。中央大学の公式資料では、18人を海外留学組、官僚組、代言人組に分けて紹介しています。
法政の3人と中央の18人は別々の創立者集団です。中央は1885年に英吉利法律学校として独自に創立されました。両校は、同じ明治の法律教育ブームの中で、異なる法律家ネットワークから誕生しました。
「学生が大学を作った」という理解はどこまで正しいのか
法政の金丸鉄は法律出版に携わり、伊藤修はすでに代言人として訴訟実務に従事していました。薩埵正邦は司法省雇として民法編纂局に勤務し、フランス人法律家ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの指導を受けています。学校を作った時点で、3人は法学を職業や実務に結びつけていた若手専門家でした。
中央の18人も同様です。増島六一郎は東京大学を卒業後、イギリスのミドル・テンプルで学びました。穂積陳重は東京大学教授となり、菊池武夫らにも海外で法律を学んだ経験がありました。官僚や代言人として働く人物も参加しています。
むしろ「学生たちの行動が新しい法律学校の創立を直接促した」という話は、明治大学の前身・明治法律学校に当てはまります。既存の法律塾・講法学舎の運営に不満を持った学生十数人が退学し、神田小川町で自主学習を続けた後、かつての講師だった岸本辰雄、宮城浩蔵らに新しい学校の設立を求めました。この要望を受け、岸本・宮城・矢代操が1881年に明治法律学校を開きました。
なぜ1880年代に法律学校が次々と生まれたのか
背景には、明治政府による近代国家建設があります。明治維新後の日本では、刑法、民法、商法、裁判制度などを近代的な形に整える必要がありました。1870年代から80年代は、法律そのものを整備しながら、それを運用する裁判官、検察官、代言人、官僚を育てる時代でもありました。
当時、西洋法を体系的に学んだ人材はまだ少数でした。政府は外国人法律家を招き、学生を海外へ送り、司法省や東京大学で法学教育を進めました。その第一世代が20代から30代で帰国したり実務に就いたりすると、自分たちが学んだ法学を次の世代へ教える私立学校を相次いで設立しました。
私立法律学校が急成長した背景には、資格や就職との結びつきもありました。法律を学ぶことは、新しく成立した官僚機構や司法制度に入る道につながります。自由民権運動が盛んな時代でもあり、法律知識は政治参加や権利論とも結びついていました。
法政の源流:ボアソナードとフランス法の人脈
東京法学社は、法律を講義する「講法局」と、代言業務や実務訓練に関わる「代言局」を備えていました。現在の大学よりも、法律学校と実務家養成所、法律家の共同体を合わせたような性格を持っています。
創立者の薩埵正邦は、司法省でボアソナードの指導を受けました。ボアソナードは1873年に来日し、日本政府の法律顧問として刑法、治罪法、民法などの編纂に関与したフランス人法学者です。東京法学社の設立関係者にはフランス法を学んだ人物が多く、1883年にはボアソナード本人が東京法学校の教頭に就任しました。
1889年、東京法学校は仏学会が設立した東京仏学校と合併し、和仏法律学校となります。校長には箕作麟祥が就任しました。法政大学にフランス法の系譜が強く残る理由は、この創立期の人脈にあります。
中央の源流:英吉利法律学校が掲げた英米法と「実地応用」
英吉利法律学校という校名は、教育方針をそのまま表しています。創立者たちは、実社会の慣行や判例を重視するイギリス法を学ぶことが、日本で法律を実際に運用する力につながると考えました。中央大学の建学の精神として受け継がれる「實地應用ノ素ヲ養フ」も、この創立理念に由来します。
18人の顔ぶれが一つの学校出身者に偏っていない点も特徴です。海外留学者、官僚、代言人が集まり、東京大学や政府機関、法律実務を横断するネットワークを作りました。初代校長となった増島六一郎は東京大学卒業後にイギリスで法曹教育を受け、帰国後に英法教育を推進しました。
穂積陳重の存在も、当時の官学と私学の距離の近さを伝えます。穂積は東京大学教授を務めながら英吉利法律学校の創立に参加しました。官立大学と私立法律学校は別組織でしたが、教員や法律家の人的交流は活発でした。
明治法律学校は法政に近い「フランス法系」の仲間
法学の系譜で見ると、法政と中央よりも、法政と明治のほうが近い関係にあります。明治法律学校の創立者である岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操は、司法省法学校の第一期生でした。岸本と宮城はフランスへ留学し、3人ともボアソナードの教育につながる人脈を持っています。
明治法律学校は「権利自由」を掲げ、フランス法を中心に教育しました。東京法学校もボアソナードを教頭に迎えており、両校は明治期の私立法律学校の中でフランス法派を形成します。
専修学校はアメリカ留学組から始まった
専修大学の前身・専修学校は1880年、相馬永胤、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格の4人を中心に開校しました。4人はいずれもアメリカ留学経験を持ち、コロンビア大学、イェール大学、ハーバード大学、ラトガース大学などで法律や経済を学びました。
専修学校の特色は、法律科と経済科を置き、日本語で専門教育を行った点です。外国語の習得そのものが高等教育への大きな壁だった時代に、最新の法律学・経済学を日本語で学べる学校は大きな意味を持ちました。
早稲田の東京専門学校は政治と法を結びつけた
早稲田大学の前身・東京専門学校は1882年に創設され、政治経済学科、法律学科、理学科、英学科を置きました。大隈重信、小野梓らは「学問の独立」を掲げ、官の教育とは異なる立場から政治・法律の人材育成を進めました。
東京専門学校は政治経済と法律を並べて教え、法律学科を持つ主要私学として、のちの五大法律学校の一角を占めました。
日本法律学校は「日本法」を前面に出した
日本大学の前身・日本法律学校は1889年に創立されました。司法大臣だった山田顕義の支援を受け、宮﨑道三郎、金子堅太郎ら若手法律学者が設立に携わりました。
当時の私立法律学校ではフランス法や英米法など外国法の教育が大きな位置を占めていました。日本法律学校は、日本の歴史や社会に即して日本法を研究し教育することを掲げました。中心となった宮﨑らにはドイツ留学経験者が多く、歴史法学の影響も確認できます。
五大法律学校という「競争相手であり仲間」の関係
1880年代後半、東京法学校、明治法律学校、専修学校、東京専門学校、英吉利法律学校は「五大法律学校」と呼ばれました。後には専修学校に代わって日本法律学校が入る場合があります。
法政大学の大学史資料によると、フランス法派には東京法学校と明治法律学校、イギリス・アメリカ法派には東京専門学校、英吉利法律学校、専修学校が位置づけられています。教育する外国法の系統は異なりましたが、私立法律学校という共通の立場から協力する機会もありました。
1886年には「私立法律学校特別監督条規」により、主要な私立法律学校が帝国大学総長の監督下に置かれました。卒業生には官吏任用などにつながる制度上の利点が与えられる一方、学校側は国家の監督を受けます。こうした共通条件も五校を結びつけました。
五校は連合討論会も開催しました。法政大学所蔵資料では、第1回の討論会に約1500人の傍聴者が集まったとされています。学生や卒業生が法律問題をめぐって論戦を交わす催しは、学校間の競争と交流の両方を表す場でした。
民法典論争では法政・明治と中央・早稲田が対立した
学校ごとの法学系統の違いが鮮明に表れた事件が、1890年代初頭の民法典論争です。1890年に公布された旧民法の施行を予定どおり進めるか、延期して再検討するかをめぐり、法学者、法律家、政治家が激しく対立しました。
私立法律学校では、明治法律学校と和仏法律学校(法政)が施行を支持する側に立ち、東京法学院(中央)と東京専門学校(早稲田)は延期を主張しました。フランス法系と英法系の違いが、法典をどう評価するかという政治的・学問的論争に結びついた例です。
論争は1892年に民法・商法の施行延期が決まる形で一つの区切りを迎えました。その後、日本の民法典は改めて編纂され、1898年に全面施行されます。外国法の単純な選択から、日本独自の法体系を組み立てる段階へ進んでいきました。
東京大学も英・仏・独の法律を並行して教えていた
外国法ごとの学び分けは官立大学にもありました。東京大学法学部の沿革を見ると、1885年に司法省法学校を前身とする東京法学校を統合し、1887年には法律学科を英吉利部、仏蘭西部、独逸部の三部編成にしています。
明治前半の日本法学は、複数の西洋法を比較しながら制度を整備していく過程にありました。私立法律学校の多様さも、この国家的な法制度整備と同じ時代状況から生まれています。
東京以外にもあった:関西大学の前身・関西法律学校
同じタイプの学校は大阪にも誕生しました。関西大学の前身・関西法律学校は1886年に開校しています。創立に尽力した井上操、小倉久、志方鍛らは司法省法学校出身の司法官で、井上と小倉はボアソナードの講義を受けていました。自由民権運動家の吉田一士が協力し、大阪控訴裁判所長の児島惟謙も支援しました。
最初の校舎は大阪市西区京町堀の願宗寺で、青年たちは夜間に法律を学びました。東京で生まれた「若い法律家・司法官が実務のかたわら次世代を教育する」という私立法律学校の型が、大阪にも広がった例です。
ドイツ法系と京都の法律学校
1883年には獨逸学協会学校が創立され、翌年に法律・政治の専修科が置かれました。ドイツ語とドイツ文化を基盤にした教育機関で、ドイツ法・政治学を学ぶ経路の一つとなりました。現在の獨協大学は1964年設置の大学であり、明治期の法律学校がそのまま大学へ昇格した法政や中央とは沿革の形が異なります。
1900年には京都で私立京都法政学校が創立されました。現在の立命館大学につながる学校です。創立者の中川小十郎は東京帝国大学法科大学出身で、京都帝国大学法科大学の教授陣が多くの講義を担当しました。夜間の専門学校として働く若者に法律・政治教育を提供した点でも、明治期の私立法律学校の流れを受け継いでいます。
なぜ神田・駿河台に大学が集まったのか
現在の御茶ノ水・神保町周辺を歩くと、明治大学、日本大学、専修大学、中央大学の施設や大学史に関係する場所が近距離に集まっています。法政大学の発祥地も駿河台にありました。
明治初期の神田周辺には東京大学の前身校や官立学校が置かれ、法律家、学生、出版人が集まりました。法律専門書や講義録を扱う出版社・書店、学生向けの下宿も増えます。学校が学校を呼び、人材と出版文化がさらに集積する循環が生まれ、神田は日本を代表する学生街・書店街へ発展しました。
主要校を年表で比べる
| 年 | 学校 | 現在につながる大学 | 創立期の特徴 |
|---|---|---|---|
| 1880 | 東京法学社 | 法政大学 | 若手法律家、実務教育、フランス法・ボアソナード人脈 |
| 1880 | 専修学校 | 専修大学 | 米国留学組、法律と経済、日本語による専門教育 |
| 1881 | 明治法律学校 | 明治大学 | 司法省法学校出身者、フランス法、学生からの開校要請 |
| 1882 | 東京専門学校 | 早稲田大学 | 政治経済と法律、「学問の独立」 |
| 1885 | 英吉利法律学校 | 中央大学 | 18人の少壮法律家、英米法、実地応用 |
| 1886 | 関西法律学校 | 関西大学 | 司法省法学校出身の司法官、夜間教育 |
| 1889 | 日本法律学校 | 日本大学 | 日本法研究、山田顕義の支援、ドイツ歴史法学の影響 |
| 1900 | 私立京都法政学校 | 立命館大学 | 京都帝大教授陣、夜間の法律・政治教育 |
散歩でたどるなら御茶ノ水・神保町が面白い
この歴史は東京の街に痕跡を残しています。法政大学発祥の地は現在の駿河台周辺に比定され、明治大学、日本大学、専修大学も神田・駿河台・神保町一帯に長い歴史を持ちます。中央大学も長く神田錦町・駿河台を拠点としました。
御茶ノ水駅から駿河台、神保町、神田錦町へ歩くと、明治の法律学校が集まった範囲を徒歩でたどれます。現在の大学キャンパス、大学史資料館、発祥地碑、古書店街を重ねると、近代法の形成と東京の学生街の歴史が同じ場所で進んだことを実感できます。

