吉見百穴地下軍需工場とは?古代の横穴墓の地下に造られた中島飛行機工場の歴史・現在・今後

埼玉県吉見町の吉見百穴全景

吉見百穴よしみひゃくあなは、埼玉県吉見町にある国指定史跡です。山肌には古墳時代末期の横穴墓が並び、現在219基が確認されています。その同じ丘陵の内部には、太平洋戦争末期に中島飛行機大宮製作所の生産を分散するため造られた巨大な地下軍需工場が残っています。

米国戦略爆撃調査団(USSBS)は、吉松地下工場の坑道総延長を約33,000フィート(約10km)と記録しました。終戦直前には工作機械が坑内に据え付けられ、航空機エンジン部品の加工まで始まっていました。2026年9月現在、吉見百穴そのものは通常どおり見学できますが、地下軍需工場の坑内は点検・調査のため立入禁止です。町では保存・整備と将来の再公開を見据えた調査が続いています。

埼玉県吉見町の吉見百穴全景
吉見百穴全景。2010年11月5日撮影。京浜にけ / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)

吉見百穴とは|約1,400年前の横穴墓群

吉見百穴は、6世紀末から7世紀後半に造られた横穴墓群です。丘陵斜面の凝灰質砂岩を掘り込み、遺体を安置する空間を設けています。内部には段が造られ、古墳時代後期の横穴式石室と共通する構造がみられます。

1887(明治20)年、坪井正五郎つぼい しょうごろうらが大規模な発掘を行いました。吉見町の広報資料では237基を発掘したと説明されています。当時は「住居なのか墓なのか」が論争となりましたが、その後の考古学研究によって横穴墓群として理解されるようになりました。1923(大正12)年3月7日に国史跡となり、1928(昭和3)年11月30日には横穴内のヒカリゴケ発生地が国の天然記念物に指定されました。

吉見百穴の横穴墓と地下軍需工場跡
吉見百穴と地下軍需工場跡。2010年11月5日撮影。京浜にけ / Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)

なぜ国指定史跡の地下に軍需工場が造られたのか

中島飛行機大宮製作所と生産分散

太平洋戦争末期、日本の航空機工場は本土空襲の危険にさらされ、生産設備を各地へ分散・地下化する動きが進みました。吉見の地下工場は、現在のさいたま市にあった中島飛行機大宮製作所から航空機エンジン部品の生産を疎開させるための施設でした。

吉見町は、物資調達や輸送に便利で、百穴周辺には掘削しやすい凝灰質砂岩が分布していたことを建設理由として説明しています。工事は1944~45年に進められ、「吉松工事」と呼ばれました。町は名称を「吉見と松山に至る工事という意味と思われる」と説明し、由来は未詳としています。

吉見町は地下工場の建設を1944~45年の工事として説明しています。USSBSは1945年1月15日に地下化命令が出され、その後まもなく掘削が始まったと記録しています。現場ではダイナマイトを使い、掘削後に測量して高低や方向を修正する突貫工事が続きました。

中島飛行機の戦争末期の生産分散については、浅川地下壕にも武蔵製作所系の巨大地下工場が残ります。吉見・吉松は大宮製作所系で、親工場が異なります。武蔵製作所の歴史は中島飛行機武蔵製作所の戦争遺跡と引込み線跡でも紹介しています。

4工区と6エリア|地下工場はどこまで広がっていたのか

地下工場の区分は資料によって異なります。吉見町は「松山城跡下」「百穴下」「百穴北側」「岩粉山近辺」の4工区に分けています。一方、USSBSの配置図Figure 5では地下工場計画を6つのAreaに区分しています。

町が説明する松山城から岩粉坂まで約1,300mという数字は、工事対象地域の広がりです。地域資料には坑道総延長約8,400mという記載があり、USSBSは約33,000フィート、約10kmと記録しています。1.3kmは区域の長さ、8.4~10kmは内部に張り巡らされた坑道の総延長です。

USSBSによると、計画床面積は353,000平方フィート(約32,800㎡)、掘削済みは約320,000平方フィート(約29,700㎡)で、全体の約80%が完成していました。第1~5エリアは掘削を終え、第6エリアも3本の坑道が完成していました。標準的な坑道幅は約13フィート(約4m)、高さは11~13フィート(約3.4~4m)です。第5エリアでは木製支保工が使われ、多くの区画にはコンクリート床が設けられていました。

USSBS Figure 5には吉松地下工場の全体配置が示されています。 USSBS原報告書の図には6エリア、松山駅、地上施設、古代横穴群、坑道断面などが描かれています。

誰が巨大地下工場を掘ったのか

建設は多数の労働者による昼夜の突貫工事でした。吉見町公式ページは、全国から集められた3,000~3,500人の朝鮮人労働者が工事に従事したと説明しています。地域の聞き取り資料には日本人労働者約1,000人とする記録もあります。人数や動員の表現は資料によって異なります。

坑道を掘った建設労働者の人数と、終戦直前に地下工場で生産に従事した人数は別です。USSBSの約500人は1945年8月に地下で実際に働いていた生産従事者数で、建設労働者の人数とは区別されます。

吉見町は、掘削工事に従事した最後の人が帰国する際、日本と朝鮮の平和を願って植えられたムクゲが現在も残ると説明しています。地域資料では1976年に元工事従事者の河亨権が植えたとする記録があり、戦後の記憶を伝える対象となっています。

1945年、地下工場は実際に動き始めていた

USSBSは、吉松で最初の実作業が1945年6月15日に始まり、終戦まで続いたと記録しています。吉見町は7月頃に機械が搬入され、エンジン部品の製造が始まったと説明しています。時期の記載には差がありますが、両資料とも地下工場に生産設備が入り、稼働段階に達していたことを伝えています。

1945年にUSSBSが撮影した吉松地下工場の坑道入口
1945年の吉松地下工場入口。USSBS Photo No.28・29。U.S. Strategic Bombing Survey / NARA RG243 / 国立国会図書館(Public Domain)

工作機械は450台が現地へ運ばれ、うち300台が坑道内に据え付けられました。機械は基本的に一列に配置され、大型機械は坑道床を掘り下げて機械本体を沈める形で設置されました。USSBSは、地下工場で見た中でも特に大型の機械が吉松に置かれていたと記しています。

1945年の吉松地下工場で据え付け中の工作機械と坑道
吉松地下工場の工作機械と坑道。USSBS Photo No.30・31、1945年。U.S. Strategic Bombing Survey / NARA RG243 / 国立国会図書館(Public Domain)

計画では地下工場で月産300基の航空機エンジンを生産し、最終組立は松山周辺の分散した地上建物で行う予定でした。終戦時点で坑内の生産は部品加工の段階にありました。USSBSはマスターロッド、シリンダーヘッド、シリンダーバレル、クランクシャフト用カウンターウェイトを挙げ、8月15日までに各200~300個程度が完成したと記録しました。調査員は工作機械の脇や貯蔵坑道に積まれた部品も確認しています。

1945年の吉松地下工場に並ぶ工作機械
吉松地下工場に据え付けられた工作機械。USSBS Photo No.32・33、1945年。U.S. Strategic Bombing Survey / NARA RG243 / 国立国会図書館(Public Domain)

USSBS原報告書では、最終的な就労計画は4,000人、1945年8月に地下で実際に働いていたのは約500人とされています。工場長はK. Hirutaと記録され、部品の搬出入はトラックで行われていました。

地下工場の設備|熱処理ピット・電力・錆対策

吉松工場には、生産工程に必要な設備も造られていました。USSBSが「特に変わった特徴」として挙げたのが、第4エリアで建設中だった9基の熱処理ピットです。原報告書では1基あたり幅8フィート、深さ6フィート、長さ15フィートと記録されています。

1945年の吉松地下工場で建設中の熱処理ピット
吉松地下工場で建設中の熱処理ピット。USSBS Photo No.36、1945年。U.S. Strategic Bombing Survey / NARA RG243 / 国立国会図書館(Public Domain)

完成した各エリアには変圧設備が置かれました。地下は比較的乾燥していたとされますが、機械の腐食は早い段階から問題になり、作業員ごとに機械の防錆を担当させ、完成部品は腐食を避けるため速やかに坑外へ出していました。坑道断面も用途に合わせて変えられていました。

第1・第6エリアの入口は高さ75フィート以上の崖面に設けられ、地上から見える建物は第4エリア付近の倉庫・事務所など5棟程度でした。USSBSは工場全体の秘匿性を高く評価しています。

1945年11月、米国戦略爆撃調査団が吉松工場へ入った

USSBSはUnited States Strategic Bombing Survey、米国戦略爆撃調査団の略称です。戦争終結後、日本の軍需産業や空襲の効果を調査しました。吉松工場では1945年11月13日と15日に現地調査を行い、米側資料では主に「Yoshimatsu」と表記しています。

調査団は吉松を、日本で見た中でも最も進んだ地下工場の一つと評価しました。Photo 26~36とFigure 5には古代の横穴、坑道入口、坑内、据え付け中・設置済みの工作機械、熱処理ピットなどが残され、1945年時点の完成状況を直接確認できます。国立国会図書館のUSSBS関連目録には、最終報告のほか、地下工場一覧、分散工場地図、写真・ネガ、作業票、地下工業施設調査の基礎資料も残っています。

敗戦後、中島飛行機と地下工場はどうなったのか

1945年8月15日、地下工場での生産は停止しました。終戦時点では、工作機械を据え付け、複数種類の部品加工を始めた段階でした。終戦直後の吉松工場そのものの状態は、11月に入坑したUSSBSの記録が最も具体的です。

親工場だった中島飛行機大宮製作所は、占領期のGHQ/SCAP資料で管理対象となった航空機関連施設として確認できます。SCAPIN-629、987、1263などに続く管理・再整理の資料群に中島飛行機(のちの富士産業)大宮工場が現れます。地下工場現地の実態はUSSBS、親工場の占領後管理はGHQ/SCAP資料に記録されています。

戦後、地下工場の歴史はどう掘り起こされたのか

敗戦後、工事関係の記録の多くが失われました。1970~80年代になると地域の研究者が当時の土木技師や工員らへの聞き取りを進め、長沢士朗らの調査が地域資料に多くの情報を残しました。1990年代以降は市民による保存・展示活動も活発になり、朝鮮半島出身労働者の記憶を含め、地域の戦争遺跡として継承する取り組みが続いています。

以前は地下軍需工場の一部が一般公開され、吉見町の2018年の広報でも「百穴地下軍需工場跡内ライトアップ」が案内されました。現在の立入禁止は、その後の安全点検と保存調査に伴うものです。

なぜ地下軍需工場は現在立入禁止なのか

2026年現在、立入禁止なのは地下軍需工場の坑内で、吉見百穴全体は営業しています。坑道では壁面の剥離や岩屑の崩落が進み、安全確保が必要になっています。

学術研究では、凝灰岩の壁面に塩類が析出し、乾湿変化による結晶化で岩石表面が剥がれる「塩類風化」が調べられています。吉見百穴の坑道では石膏など複数の塩類が確認され、季節や坑口からの距離によって岩屑の発生量が変化します。2015年の調査では、壁面付近の湿度が低下する頻度が高い場所ほど風化が進む傾向も報告されました。

安全のため補強を増やせば、1945年当時の坑道表面や掘削痕を覆う可能性があります。安全な公開には、原形保存と補強の両立が必要です。現在の調査は、遺構をできるだけ損なわずに安全性を確保する方法を検討するための基礎になります。

2023年、地下軍需工場の保存問題が国会で議論された

2023年6月8日、第211回国会の衆議院特別委員会で吉見百穴地下軍需工場が具体的に取り上げられました。質問では壁面崩落などで見学できなくなっていること、吉見町が再び見学できるよう整備を望み、文化庁へ相談していることが示されました。

文化庁の政府参考人は、2023年2月に吉見町から相談を受けたと答弁しました。町の保存活用計画で国史跡「吉見百穴」の本質的価値を構成する要素として整理されている中心は古墳時代の横穴墓であり、横穴墓の保存・修理に関する支援制度などを説明したとしています。ほかの史跡で、史跡本体を守るため発見された防空壕などを埋め戻した事例も紹介しました。

文化庁の答弁内容は、他史跡での埋め戻し事例の紹介と、吉見町への技術的助言の提案でした。同じ山にある古墳時代の国史跡と戦時地下工場では文化財行政上の位置づけが異なり、地下軍需工場の保存修理に国史跡向けの制度をそのまま使いにくいことが課題として表面化しました。必要に応じて他府省庁の制度を含めて検討することも国会で議論されました。

保存活用計画と再公開|吉見百穴は今後どうなるのか

吉見町教育委員会は2023年3月に『史跡吉見百穴保存活用計画』を策定し、史跡の本質的価値、保存・活用・整備方針、現状変更の考え方などを整理しました。2024年度には「(仮称)史跡吉見百穴整備基本計画」に向けた基礎調査が始まり、百穴と地下軍需工場内部の写真測量などによる三次元的な記録が進められました。

埼玉新聞の2025年5月の取材では、前年度に写真測量を実施し、2025年度に地質や植生を調べる予定であること、町が地下軍需工場の将来的な公開を考えながら整備事業を進めていることが報じられています。2026年度の吉見町施政方針でも、吉見百穴は国指定史跡であると同時に町を代表する観光資源として位置づけられています。

2026年9月2日時点で、地下軍需工場の正式な再公開日は未定です。現在は、将来の活用も視野に入れた保存・調査の段階です。古墳時代の国史跡、戦時地下軍需工場、観光施設、教育資源という複数の性格を持つ場所をどう一体的に守るかが今後の整備の中心になります。

2026年現在の吉見百穴|見学できる場所・料金・時間

吉見百穴は現在も見学できます。地下軍需工場の坑内だけが立入禁止です。

  • 所在地:埼玉県比企郡吉見町大字北吉見324
  • 営業時間:午前8時45分~午後4時50分(入園は午後4時30分まで)
  • 通常料金:中学生以上300円、小学生200円、小学生未満無料
  • 団体20人以上:大人200円、大学生・高校生・中学生150円、小学生100円
  • 休園日:年中無休
  • 地下軍需工場:点検・調査のため当分の間、坑内立入禁止

地上では横穴墓群、地下軍需工場の入口周辺、展示、国天然記念物のヒカリゴケなどを見学できます。営業時間は2026年4月1日から現在の時間に変更されています。

まとめ

吉見百穴では、約1,400年前の横穴墓群の内部に、約80年前の航空機地下工場が重なって残っています。現在は古代の国史跡を公開しながら、地下軍需工場の安全調査と保存を進め、二つの時代の遺産をどう次世代へ伝えるかが検討されています。

主な参考資料