法政大学、中央大学、明治大学の歴史をさかのぼると、明治10年代の私立法律学校に行き着きます。現在はそれぞれ別の総合大学ですが、創立期には20代から30代の若い法律家、官僚、司法官、代言人、海外留学経験者が学校づくりを担いました。
法政大学の前身・東京法学社は1880年、中央大学の前身・英吉利法律学校は1885年、明治大学の前身・明治法律学校は1881年に発足しました。三校の創立者が一つの団体から分裂した記録はなく、それぞれ異なる人脈から出発しています。一方で、当時の法律家社会は小さく、司法省、東京大学、法律事務所、私立学校、海外留学者の人脈が重なっていました。学校同士は競争しながら、合同討論会も開いています。
なぜ明治10年代に法律学校が次々と生まれたのか
背景には、明治政府が短期間で近代国家の法制度を整えようとしていた事情があります。幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約の改正には、近代的な裁判制度や法典の整備が重要な課題でした。刑法、刑事訴訟法、民法、商法などを整備すると同時に、それを運用する裁判官、検察官、代言人、官僚を育てる必要もありました。
政府は西洋法を大規模に導入します。司法省の法学校ではフランス人法学者ギュスターヴ・ボアソナードらがフランス法を教え、東京大学でも英米法を中心とする法学教育が進みました。1885年には司法省法学校の後身である官立東京法学校が東京大学に統合され、1887年の帝国大学法科大学では法律学科に英吉利部、仏蘭西部、独逸部が置かれました。日本の近代法学は、英・仏・独の法体系を比較しながら形成されていきます。
この官立教育を受けた若者や海外留学から帰国した法律家が、自分たちの学んだ法学を広めるため私立学校を作りました。法律知識を求める学生も急増し、1880年代の東京には複数の法律学校が競い合う環境が生まれます。
法政大学の原点は1880年の東京法学社
法政大学の歴史は、1880年4月に東京・神田駿河台で設立された東京法学社から始まります。中心人物は金丸鉄、伊藤修、薩埵正邦でした。
金丸鉄は法律専門誌の出版に携わり、伊藤修は代言人として訴訟実務に従事していました。薩埵正邦はフランス語を学んだ後、法典編纂に関わり、ボアソナードから直接指導を受けています。創立者たちは学生サークルの仲間というより、法律出版、代言業務、法典編纂に接していた若い法律家でした。
東京法学社には法律を講義する部門と代言業務に関わる部門がありました。学校教育と法律実務が近接した組織だった点に、当時の法学教育の特徴があります。1881年に講義部門が東京法学校として独立し、1883年にはボアソナードが教頭に就任しました。1889年には東京仏学校と合併して和仏法律学校となります。
法政の初期史にはフランス法の影響が濃く、ボアソナードとの関係が学校の重要な柱になりました。ただし創立者全員を司法省法学校出身者としてまとめると実態から外れます。薩埵はボアソナードの直接指導を受けましたが、金丸や伊藤の経歴は異なります。
中央大学は18人の若手法律家が作った英吉利法律学校
中央大学の前身・英吉利法律学校は1885年7月、神田錦町に開校しました。創立者は増島六一郎、穂積陳重、菊池武夫、岡村輝彦、奥田義人ら18人です。中央大学の公式史は、18人を海外留学組、官僚組、代言人組に分けています。
初代校長の増島六一郎は東京大学卒業後にイギリスへ渡り、ミドル・テンプルで学びました。穂積陳重も英国とドイツで学び、東京大学教授として日本の近代法学を代表する人物になります。菊池武夫は米国ボストン大学ロースクールで学びました。
18人は同じ学校の学生仲間ではなく、海外留学者、官僚、代言人などを結んだ法律家ネットワークでした。創立時の年齢も24歳から32歳ほどで、若手専門家が共同で教育機関を立ち上げた事例と捉えると実像に近づきます。
学校名に「英吉利」と掲げた通り、創立者たちは英米法を重視しました。体系的な国内法典が十分に整っていなかった時代に、判例や実務との結びつきが強いイギリス法を学び、「法律実地応用ノ道」を身につけることを目指しました。現在の中央大学が掲げる「實地應用ノ素ヲ養フ」という建学の精神も、この創立期に由来します。
法政と中央は分裂して生まれた二校なのか
両校は別個のネットワークから出発しました。東京法学社の創立は1880年、英吉利法律学校は1885年で、創立者も一致しません。中央が東京法学校から分離して作られた経緯も、両大学の公式史には記録されていません。
共通しているのは、近代法制の整備が急速に進む時代に、若い法律家が民間の法学教育を担った点です。人的系譜を見ると、法政はボアソナード周辺のフランス法人脈との結びつきが強く、中央は東京大学、英国・米国留学、官僚、代言人のネットワークから英米法教育を掲げました。
当時の法律家社会では、一人の人物が官立大学、官庁、私立法律学校をまたいで活動することも珍しくありませんでした。中央大学創立者の穂積陳重は東京大学教授でもあり、英吉利法律学校への出講記録も残っています。現在の大学法人の境界をそのまま明治初期へ当てはめるより、官学・私学・司法実務を横断する法律家社会として見る方が理解しやすくなります。
「学生が新しい学校を求めた」歴史は明治大学にある
学生集団が新しい法律学校の誕生を後押しした事例として、明治大学の前身・明治法律学校が挙げられます。
創立者の岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操は司法省法学校以来の親しい仲間でした。岸本と宮城はフランスへ留学し、帰国後はそれぞれ判事、検事として働き、矢代は官務のかたわら法律私塾の教育や経営に携わりました。三人はいずれもボアソナードの法学教育につながる人脈に属します。
明治大学の公式史によると、彼らが教えていた講法学社で経営方針をめぐる対立が起こり、退学した学生のうち十数人が神田小川町の長屋で自主学習を続けました。学生たちは岸本と宮城に新しい法律学校の開校を求めます。二人は矢代を誘い、1881年1月に明治法律学校を開校しました。
明治法律学校は「権利自由」を掲げ、フランス法を中心に教育しました。法政と明治は創立経緯こそ異なりますが、ボアソナードとフランス法を介して近い位置にありました。
五大法律学校――法政・明治・中央・専修・早稲田
1880年代後半になると、東京法学校、明治法律学校、英吉利法律学校、専修学校、東京専門学校は「五大法律学校」と呼ばれるようになります。現在の法政大学、明治大学、中央大学、専修大学、早稲田大学につながる学校です。
| 現在の大学 | 前身 | 創立 | 創立期の特色 |
|---|---|---|---|
| 法政大学 | 東京法学社 | 1880年 | ボアソナード周辺のフランス法系法律家との結びつき |
| 専修大学 | 専修学校 | 1880年 | 米国留学組が法律と経済を日本語で教育 |
| 明治大学 | 明治法律学校 | 1881年 | 司法省法学校出身者を中心とするフランス法教育 |
| 早稲田大学 | 東京専門学校 | 1882年 | 大隈重信・小野梓ら。「学問の独立」を掲げ法律・政治経済を教育 |
| 中央大学 | 英吉利法律学校 | 1885年 | 英米法と実地応用を重視 |
専修学校は相馬永胤、田尻稲次郎、目賀田種太郎、駒井重格ら米国留学経験者が中心となり、1880年に開校しました。法律科と経済科を置き、日本語で専門教育を行ったことを特色とします。
東京専門学校は1882年、大隈重信や小野梓らによって創設されました。開校時から法律学科だけでなく政治経済学科、理学科、英学科を持ち、最初から総合的な専門学校を構想していた点で、法律学校単科型の学校とは性格が異なります。
フランス法派と英米法派は何が違ったのか
五大法律学校を理解する際、当時の法学者がどの外国法を主な参照先にしたかを見ると関係が整理しやすくなります。法政・明治はフランス法とのつながりが強く、中央・早稲田・専修はイギリス法やアメリカ法との関係が強い学校でした。
フランス法では、成文法典によって権利や制度を体系的に定める伝統が強く、明治政府の初期法典編纂にも大きな影響を与えました。ボアソナードは刑法や治罪法の起草、民法草案の作成などに深く関与し、その教えを受けた日本人法律家が司法省や私立法律学校へ広がりました。
英法を重視した法律家は、判例や社会の慣行を蓄積して形成される法に強い関心を向けました。中央の創立者たちは、日本の法典がまだ整備途上にある状況で、実社会と結びついた英米法の学習を重視しています。
ただし、学校を「フランス法だけ」「英法だけ」と固定すると、その後の発展を捉え損ねます。1887年の帝国大学法科大学が英・仏・独の三部編成を取ったように、日本の法学者は複数の外国法を比較し、ドイツ法の影響も急速に強まりました。各私立学校も日本法の整備とともに教育内容を変化させています。
最大の対立点になった民法典論争
外国法の違いが学校間の政治的・学問的対立として最も鮮明に現れたのが、1890年代初頭の民法典論争です。
ボアソナードを中心に起草された旧民法は1890年に公布されました。施行を目前に、その内容をめぐって予定通り実施する断行派と、施行を延期して再検討する延期派が激しく争います。
私立法律学校では、明治法律学校と和仏法律学校が断行派、東京法学院となっていた中央と東京専門学校が延期派の主要拠点になりました。中央大学の大学史資料によれば、東京法学院では機関誌『法理精華』『法学新報』を通じて延期論を展開し、1892年には延期運動の拠点として議会工作にも関わりました。明治法律学校側も大規模な断行運動を行いました。
1892年、施行延期法案が議会を通過し、旧民法は施行されませんでした。その後、法典調査会で新しい民法の編纂が進み、1896年に総則・物権・債権、1898年に親族・相続が整えられ、同年に施行されます。新民法にはドイツ法の影響が指摘される一方、起草者にはフランス留学経験者の梅謙次郎らも含まれ、単純な「英法の勝利、仏法の消滅」という経過では捉えきれません。
ライバル五校が合同討論会を開いた理由
法学上の立場が異なる五校は、同じ私立法律学校として共通の制度にも向き合いました。1886年には私立法律学校特別監督条規の対象となり、1888年には特別認可学校規則によって文部大臣の直接管轄下に置かれます。卒業生には官吏任用などに関する特典が与えられる一方、学校は政府の監督を受けました。
この共通条件の中で、五校は共同歩調を取ることがあります。その代表が五大法律学校連合討論会です。法政大学の所蔵資料によれば、第一回の討論会では約1500人の傍聴者を集め、各校の関係者が法律問題を論じました。フランス法派と英米法派が同じ壇上で議論する催しは、学校間の競争が学問上の交流と並存していたことを伝えています。
日本大学は「日本法」を掲げて1889年に登場する
五大法律学校に続いて1889年に開校した日本法律学校は、現在の日本大学の前身です。司法大臣山田顕義が支援し、宮﨑道三郎、金子堅太郎ら11人の若い法律学者が創立に関わりました。
日本大学の公式史によると、宮﨑らの多くはドイツ留学経験を持ち、歴史法学派の影響を受けていました。欧米法の紹介が中心だった法学教育に対し、日本の歴史・文化・伝統に即して日本法を研究・教育する構想を掲げます。この学校の登場は、日本が外国法を輸入する段階から、自国の法体系を研究する段階へ進みつつあった時代の変化とも重なります。
大阪にも同じ流れ――関西大学の前身・関西法律学校
東京以外の代表例が、1886年に大阪で設立された関西法律学校です。現在の関西大学につながります。
創立に関わった井上操、小倉久らは司法省法学校出身の司法官で、ボアソナードの講義を受けていました。自由民権運動家の吉田一士が彼らと協力し、大阪控訴院長の児島惟謙も支援しました。最初の校舎は大阪西区京町堀の願宗寺で、青年たちは夜間に法律を学びました。
1889年に関西法律学校を訪れたボアソナードが、学生に対して自分は「父の父」にあたるという趣旨を語った記録も残ります。自分が教えた司法省法学校の卒業生が大阪で次世代を教えていたためです。師から弟子、弟子から学生へという法学教育の連鎖が、東京から大阪へ広がった事例です。
なぜ神田・駿河台に大学が集まったのか
現在も御茶ノ水、駿河台、神保町を歩くと、明治大学、日本大学、専修大学などの校舎や大学ゆかりの場所が密集しています。この地域は明治期から学校、下宿、書店、出版社が集まる学生街へ成長しました。
法政の東京法学社は神田駿河台で始まり、中央の英吉利法律学校は神田錦町に置かれ、専修学校も1885年に神田へ移転しました。明治法律学校も1886年に神田南甲賀町へ移ります。法律学校が近接すると、講師や学生の移動、法律書の出版、下宿需要が集中し、神田周辺は日本を代表する教育・出版地域になっていきます。
創立者の人脈で見ると大学史がつながる
大学名をいったん外し、人の移動を追うと明治の法学界の構造が分かります。ボアソナードから司法省法学校の学生へ、司法省法学校の卒業生から明治法律学校や関西法律学校へという流れがあります。法政では薩埵正邦をはじめボアソナード周辺の法律家が学校を支え、後にはボアソナード本人が教頭を務めました。
中央では東京大学と海外留学が重要な結節点です。穂積陳重は東京大学教授でありながら英吉利法律学校の創立にも参加し、増島六一郎や菊池武夫ら海外留学経験者と学校を作りました。専修では米国留学組、早稲田では大隈重信・小野梓ら政治と学問のネットワーク、日本法律学校では帝国大学教授やドイツ留学者が中心になります。
こうした人脈は互いに完全分離していたわけではなく、学者や実務家は複数の学校や官庁に関わりました。学校ごとの「法学派」は創立期の特徴を理解する手掛かりですが、人間関係を一本の線に整理しすぎると実態を単純化します。
現在の大学名からは見えにくい「法律学校の時代」
1880年代の私立法律学校は、現在の巨大な総合大学とは規模も制度も大きく異なりました。少数の若手法律家が校舎を借り、仕事を続けながら講義を担当し、講義録を発行して遠隔地の学生にも学習機会を広げる学校もありました。
そこから法政、明治、中央、専修、早稲田、日本、関西などの大学が成長しました。各校の違いは、単なる校風の差よりも、日本がどの外国法を学び、近代国家の制度をどう作るかという明治国家そのものの課題と結びついていました。
法政と中央の関係も、この大きな流れの中に置くと整理できます。法政は1880年の東京法学社から出発し、フランス法系法律家とボアソナードとの関係を深めました。中央は1885年、英米法を学んだ若手法律家を中心に英吉利法律学校として発足しました。別々の創立者集団が異なる法学的背景から学校を作り、その後は五大法律学校として同じ制度の下で競争し、合同討論会では協力しました。

