松月院大堂の歴史|1340年の銅鐘と阿弥陀如来像が伝える赤塚の中世

板橋区赤塚六丁目の松月院大堂(だいどう)は、中世の大きな寺院の歴史を伝える阿弥陀堂です。暦応3年(1340)に鋳造された銅鐘と、12世紀頃に造られたと考えられる阿弥陀如来坐像が伝わります。現在の堂は江戸時代後期以前にさかのぼる建物で、南北朝時代に大きな寺院があったとする伝承と合わせて、赤塚の仏教史を知る場所です。

南北朝時代に七堂伽藍があったという伝承

大堂は、建武・延元年間(1330年代)には七堂伽藍や複数の脇坊を備えた寺院であったと伝えられています。七堂伽藍とは、寺院の主要な堂宇が整った大きな境内を指す表現です。「大堂」の呼び名にも、かつての寺院の規模の記憶が残っています。

中世の赤塚では、現在の松月院や泉福寺などにつながる宗教施設がありました。大堂はのちに松月院の境外堂となり、現在は赤塚6丁目40番付近に阿弥陀堂が残っています。

暦応3年(1340)に造られた大堂銅鐘

大堂銅鐘は暦応3年(1340)に鋳造された鐘で、銘文は中巌円月(ちゅうがんえんげつ)が作りました。銘文には当時の寺院や地域の人々に関係する情報が刻まれ、中世の赤塚に寺院が存在したことを確かめられる資料です。泉福寺の名も、この鐘銘から知られます。

銅鐘は旧国宝保存法にもとづく「重要美術品」として認定された文化財です。現在、大堂の鐘楼には複製が掛けられ、実物は板橋区立郷土資料館が管理しています。現地の鐘を見たときは、1340年に造られた実物の鐘とは区別して理解する必要があります。

阿弥陀如来坐像と二度の修復記録

大堂に伝わる阿弥陀如来坐像は、黒漆塗りの木像で、両手を来迎印に結んだ姿をしています。像の造形には平安時代後期の特徴があり、当初の造像は12世紀頃にさかのぼると考えられています。

像内には天正2年(1574)と万治2年(1659)の修復を記録した墨書があります。修復は大きな規模で行われ、造像当初から残る部分は体部前面材とされています。古い像の形を保ちながら、時代ごとに修理して受け継がれた経緯を示す資料です。

江戸時代の三間堂と『遊歴雑記』

現在の大堂の建物は延宝年間(1673~1681)頃の三間堂とされ、内部が内陣と外陣に分かれています。かつての大寺院全体が残っているわけではなく、江戸時代に整えられた堂と、さらに古い仏像・鐘が別々の時代を伝えます。

江戸時代後期の十方庵敬順は『遊歴雑記』で大堂の銅鐘や阿弥陀像について書き留めました。同書には永禄4年(1561)の上杉軍による焼失の伝承も記されています。これは寺院の歴史を伝える記述として知られますが、当時の戦闘を直接記録した史料とは区別して扱います。

所在地と文化財の公開

松月院大堂は板橋区赤塚6丁目40番付近にあります。大堂阿弥陀如来坐像と大堂閻魔王坐像は、松月院の宝物館「松宝閣」に収蔵されています。拝観には寺院への事前連絡や入館料が必要な場合があります。

松月院境内遺跡の中世石造物では、15世紀の石塔が埋められた発掘成果を解説しています。大堂と松月院の関係を含む地域の歴史は、赤塚・成増周辺の歴史と文化財で紹介しています。

参考資料