東京に1つだけ残った製紙工場。王子マテリア江戸川工場100年の転換史

東京都江戸川区東篠崎、旧江戸川のすぐそばに、東京都内で唯一の製紙工場があります。王子マテリア江戸川工場です。1922年の操業開始から100年以上が過ぎた現在も、24時間体制で紙を作り続けています。

現在の主原料は、首都圏の家庭やオフィスから集まる古紙です。年間約12万トンの白板紙を生産し、菓子、ティシュ、洗剤などの箱、絵本、店頭ディスプレイなどへ使われています。東京都心で発生した機密書類を箱ごと溶かし、再び紙へ戻す専用施設もあります。

この工場の歴史は、東京の製紙業の栄枯盛衰だけで終わりません。戦災からの復旧、日本初の新しい塗工紙、1958年の深刻な水質汚濁事件、国の排水規制法制定、古紙への原料転換、機密文書リサイクルへと、時代ごとに役割を変えてきました。現在の「都市型モデル工場」に至るまでには、環境問題を含む大きな転換がありました。

東京は日本の近代製紙業が始まった場所だった

日本の近代的な洋紙製造は、明治初期の東京から本格化しました。1873年(明治6年)、渋沢栄一らが「抄紙会社」を設立し、1875年に東京・王子で工場を稼働させます。現在の王子ホールディングスへつながる事業の出発点です。

当初の主原料は木材ではなく、古い衣服などのボロ布でした。明治期に新聞、書籍、帳簿、包装など洋紙需要が増えると、木材からパルプを作る技術が広がります。王子製紙は1889年に日本初の木材パルプ製造工場を開き、紙の大量生産へ進みました。

大量生産には森林、水、電力、広大な工場用地が必要でした。王子製紙は1910年、森林と豊富な水に恵まれた北海道・苫小牧に大規模工場を開きます。日本の製紙業は、東京で始まった都市型の工場から、原料と水を確保しやすい地方の大型工場へ軸足を移していきました。

1922年、富士製紙が東篠崎に江戸川工場を開いた

現在の江戸川工場は1922年(大正11年)、富士製紙江戸川工場として操業を始めました。江戸川区立図書館の地域資料によると、創業当初は上・中級紙や包装用の紙などを生産していました。

本州製紙の社史には、江戸川工場について「工場建設」「創業当時の苦心」「上質印刷紙製造法のはじまり」「富士製紙の研究工場」という項目が設けられています。創業期から量産工場であると同時に、新しい紙の製造方法を試す技術拠点でもありました。

1933年、富士製紙は王子製紙、樺太工業と合併します。巨大企業となった王子製紙の一工場として、江戸川工場も操業を続けました。

戦争で抄紙機を失い、戦後に復旧した

戦時中、江戸川工場は戦時生産へ組み込まれました。本州製紙の社史には、紙製ドラム缶の製造や終戦前後の原料不足が記録されています。工場設備も戦災を受けました。

1949年、占領政策による過度経済力集中排除法のもと、巨大化していた王子製紙は苫小牧製紙、十條製紙、本州製紙の3社へ分割されます。江戸川工場は本州製紙へ引き継がれました。同年11月には、戦災を受けた第1号抄紙機が復旧して運転を再開しています。

本州製紙は高級板紙、上質紙、薄葉紙、特殊紙を柱に再出発しました。1950年には江戸川工場の第1号抄紙機へ新しいマシンコーティング設備を導入し、国内初の「MCペーパー」を発売します。江戸川で作った紙は雑誌の口絵などに使われました。

同じ1950年、江戸川工場内には本州製紙の中央研究所も開設されました。戦災から復旧した工場が、戦後の新製品開発を担う研究拠点にもなった時期です。

1958年、工場排水が「黒い水事件」を引き起こした

江戸川工場の歴史で避けて通れないのが、1958年(昭和33年)の水質汚濁事件です。「本州製紙事件」「黒い水事件」「浦安漁民騒動」とも呼ばれます。

本州製紙は1958年3月、江戸川工場でセミ・ケミカル・パルプを作る新設備の試運転を始めました。その排水が江戸川から東京湾へ流れ、浦安周辺のアサリ、ハマグリ、ノリなどに大きな被害が発生します。

当時の浦安は漁業の町でした。浦安市郷土博物館に残る文書には、5月24日に漁民が集団で江戸川工場へ向かい、町長や漁業組合代表者らが工場側と交渉した記録があります。工場の新設備から出る「黒い水」だけでなく、以前から排出されていた「白い水」についても議論されていました。

交渉は収まりませんでした。6月10日、約1,000人の漁民が再び工場へ押しかけ、警官隊との大規模な衝突に発展します。多数の負傷者が出て、工場の事務所も壊されました。翌11日には東京都が工場の一部操業停止を命じています。

当時、日本には工場排水を全国的に規制する十分な制度が整っていませんでした。被害を受けた漁民が工場へ直接抗議する事態が、規制の不備を社会に突きつけました。

一つの製紙工場の事件が、国の水質規制を動かした

江戸川工場事件は国会でも取り上げられ、本州製紙社長の木下又三郎らが参考人として呼ばれました。漁業被害と工場排水の問題は、東京湾だけの地域問題から全国的な公害行政の課題へ広がります。

1958年12月、「公共用水域の水質の保全に関する法律」と「工場排水等の規制に関する法律」が公布されました。一般に「水質二法」と呼ばれる制度です。国土交通省などの公的資料も、本州製紙江戸川工場事件を水質二法制定の直接的な契機の一つとして位置付けています。

水質二法は後の制度から見ると規制対象や基準が限定的でしたが、日本が工場排水を国の制度として規制する大きな一歩になりました。1970年には水質汚濁防止法が制定され、排水規制はさらに強化されます。

現在の王子マテリアは、江戸川工場を「地域社会との共生を視野に、工場からの排水処理などにも万全の対策を施す都市型モデル工場」と位置付けています。1958年の事件を経験した同じ場所で、排水処理と地域共生が工場運営の中心課題になっています。

1971年、「都会の工場」に合う白板紙へ軸足を移した

現在の江戸川工場を支える中心設備が、1971年5月に稼働した第5号抄紙機です。製紙技術の専門誌によると、国内の白板紙用として最初のハイスピードウルトラフォーマーとして建設されました。

白板紙は、菓子、ティシュ、洗剤、医薬品などの箱に使われる厚紙です。外側は印刷しやすい白い面、内部には回収した古紙などを使い、複数の層を重ねて作ります。現在の江戸川工場では7層のパルプシートを重ねています。

木材からパルプを大量生産する工場には、森林、水、広い土地が重要です。一方、古紙を主原料にする板紙工場では、回収古紙が大量に発生する都市そのものが原料供給地になります。経済産業省も、古紙が集まりやすい都市部には板紙工場が立地する傾向を示しています。

江戸川工場は、地方の大型製紙工場と同じ条件を求める道から、東京という大消費地を利用する道へ転換しました。王子マテリアは首都圏を「古紙の森」と表現しています。森林の代わりに、家庭やオフィスから毎日出る紙が原料になる工場です。

古紙が約60秒で巨大な紙になる

工場へ運び込まれた古紙は、まず水と一緒にパルパーへ投入され、繊維状にほぐされます。ホチキス、テープ、フィルムなど紙以外の異物を取り除き、紙の原料となる古紙パルプを作ります。

原料は第5号抄紙機へ送られます。現在の紹介では、抄紙機は全長約180メートル。原料を薄く広げ、水分を絞り、乾燥させ、表面を塗工して巻き取るまで、紙の厚さにもよりますが約60秒で進みます。

完成した紙は巨大なロールになり、1本で10トンを超えるものもあります。その後、注文に合わせた寸法へ断裁し、検査、包装を経て出荷されます。

工場は定期修繕などを除き、ほぼ年間を通して24時間稼働します。2024年9月時点の敷地面積は14万2,000平方メートル、年間生産量は約12万トン、王子マテリアの工場従業員は87人です。

難しいのは「紙を溶かすこと」より、異物を止めないこと

古紙には紙だけが入っているとは限りません。ひも、粘着テープ、フィルム、金属、プラスチックなどが混ざります。再生工程では、これらを設備から取り除きながら、紙の繊維だけを安定して送り続ける必要があります。

2026年の王子グループの紹介では、古紙パルプ工程を担当する矢口雄也さんが、配管にひもやテープが絡み、一日に何度も詰まりが起きていた時期を振り返っています。詰まりのたびに設備を止めて除去する必要があり、作業時間も延びていました。

矢口さんたちの班は工程を調べ、水の流し方と後段での回収方法を変更しました。配管の詰まりは大幅に減り、時間外作業も削減されました。古紙利用率を上げるほど、異物をどう除き、設備を止めずに動かすかという現場技術の重要性が高まります。

2006年、東京の「秘密」を箱ごと溶かす事業が始まった

東京都心には、紙の原料になる古紙だけでなく、大量の機密書類も発生します。官公庁、金融機関、医療機関、企業が保管する契約書、顧客情報、内部資料などです。

機密書類は情報漏洩を防ぐため、かつて焼却処分されるケースが多くありました。王子グループは2006年10月、江戸川工場に機密書類を直接溶解する設備を設け、「王子コドレス」と呼ぶリサイクルシステムを始めます。

書類は段ボール箱を開封せず専用設備へ投入できます。ファイル、クリップなどが混ざった状態でも処理でき、紙は水の中で繊維へ戻ります。密閉された施設、監視カメラ、専用保管庫などで情報管理を行い、処理後には白板紙の原料になります。

会社の秘密が書かれた紙が江戸川区で繊維まで分解され、菓子箱や絵本へ生まれ変わります。都心に近い立地は、原料を集めやすいだけでなく、機密書類を長距離輸送せず処理できる利点にもなりました。

会社名は変わっても、東篠崎の工場は同じ場所で続いた

江戸川工場は100年以上の間に所属会社を何度も変えています。

  • 1922年 富士製紙江戸川工場として操業開始
  • 1933年 富士製紙、王子製紙、樺太工業の合併で王子製紙の工場となる
  • 1949年 王子製紙の3分割で本州製紙へ継承
  • 1996年 本州製紙と新王子製紙の合併で王子製紙へ
  • 2006年 王子板紙へ移管
  • 2012年 王子板紙が王子マテリアへ社名変更

社名が変わるたびに事業も変化しました。上質紙の研究工場、戦時生産、戦後の塗工紙、パルプ製造、白板紙、古紙リサイクル、機密文書処理へと、同じ敷地が異なる役割を担ってきました。

なぜ東京から製紙工場が消え、この工場だけ残ったのか

近代の製紙業は大量の木材と水を必要とし、大規模化するほど地方の森林地帯や港湾部が有利になりました。王子製紙自身も1910年、森林、水、広大な土地を求めて苫小牧へ進出しています。東京では地価上昇と市街化が進み、大規模な木材パルプ工場を維持する条件が弱くなりました。

江戸川工場は、同じ原料と製品を作り続けることで残った工場ではありません。1971年に白板紙の大型設備を導入し、首都圏から集まる古紙を主要な原料とする工場へ進みました。製品の消費地にも近く、回収した紙を短い距離で工場へ運べます。

東京都が巨大な紙の消費地であることが、木材パルプ中心の時代には工場立地の弱点となり、古紙中心の時代には強みに変わりました。王子マテリアが「首都圏の古紙の森」と呼ぶ発想は、東京で製紙を続ける理由そのものです。

100年の歴史は、製紙業と都市の関係が変わった歴史でもある

1922年の江戸川工場は、富士製紙の上質紙を作る工場として始まりました。戦後は新技術を試す研究拠点となり、高度経済成長期には新しいパルプ設備の排水が漁業被害を引き起こしました。その事件は国の水質規制を動かす契機になりました。

現在は、家庭やオフィスから出た古紙と機密書類を受け入れ、白板紙へ戻しています。かつて森林から原料を得て都市へ紙を供給した産業が、都市そのものから原料を回収し、再び都市へ紙を返す仕組みに変わりました。

東京に残った最後の製紙工場は、古い設備を残した産業遺産ではなく、都市が出す大量の紙を資源へ戻す現役のインフラです。100年間の変化を追うと、東京から工場が消えた理由と、この一工場だけが残った理由を同じ場所から読むことができます。

参考資料