北区豊島7丁目の住宅街に、長い麺を何列もつるして乾かす工場があります。玉川食品株式会社が運営する「江戸玉川屋」です。会社は自らを「東京23区最後に残る乾麺製造メーカー」と位置づけ、東京商工会議所も東京に残る唯一の乾麺工場として紹介しています。
創業は1935年(昭和10年)。工場は戦災で一度焼け、戦後に再建されました。その後、初代・関根元吉は学校給食用の麺づくりに関わり、1960年には食糧庁のモデル工場となります。現在は三代目の関根康弘さんが社長を務め、弟の関根清元さんが製造を支えています。
東京にあった乾麺工場が次々に消える中、この一軒が残った背景には、広い乾燥場所を確保しにくい都市の条件、即席麺やゆで麺の普及、スーパー中心の流通への転換がありました。江戸玉川屋は大量生産へ進まず、自社ブランド、学校給食、工場直売、企業向けの特注麺という複数の仕事を組み合わせて生き残りました。
乾麺は「乾かす場所」が必要な食品
乾麺は、小麦粉などを水と食塩でこね、麺状に成形した後、水分を減らして保存性を高めた食品です。農林水産省が示す一般的な製造工程では、原料の混合、圧延、熟成、切り出し、棒掛け、乾燥、切断、計量包装という工程をたどります。
乾燥工程には時間と空間が必要です。そうめんの産地では、乾燥した気候そのものが産地形成の条件になった地域もあります。都市の製麺所では、限られた敷地を立体的に使い、工場の上階を干し場にする工夫が行われました。
江戸玉川屋も、下階で作った麺をベルトコンベアで上階へ送り、干し場で乾燥させます。地方の大規模工場のような広い平面の作業場を持てないため、機械、粉袋、製造ライン、乾燥室を一つの建物へ密集させています。
1935年、関根元吉が王子で製麺所を開いた
創業者は関根元吉です。1935年、現在と同じ北区豊島の地で製麺業を始めました。当時の王子周辺は石神井川や隅田川に近く、工場が多い地域でした。製紙、化学、機械などの工業が集まり、住宅と工場が混在する街へ発展していきます。
屋号の「玉川屋」は、創業時に使っていた「玉川麺機」というメーカーの製麺機に由来します。dancyuの取材によると、周囲から「玉川さん」と呼ばれるようになり、それが屋号になったとされています。
元吉が始めた工場は第二次世界大戦の戦災で焼失しました。それでも同じ場所で再開し、1950年に玉川食品株式会社として法人化します。兄弟が役員に入り、家族で製麺所を再建しました。
戦後の学校給食が、製麺業の新しい市場になった
戦後の学校給食は、子どもの栄養不足を改善する政策として再出発しました。1954年には学校給食法が制定され、アメリカから供給された小麦粉などを使ったパン給食が広がります。米飯給食が本格化する前、主食の選択肢を増やすため、学校給食向けの麺が開発されました。
全国製麺協同組合連合会の業界年表では、1963年に学校給食用小麦粉の取扱要領が改訂され、従来のパンに加えてマカロニ、スパゲッティ、めん類などへの小麦粉使用が認められました。1965年には東京都で学校給食麺の導入が始まっています。
江戸玉川屋の2019年の聞き取り記事は、関根元吉が給食用麺の開発を進め、1963年に東京の学校給食へ採用されたと伝えています。一方、全国製麺協同組合連合会の年表は、東京都で学校給食麺の導入が始まった年を1965年と記録しており、年次には資料差があります。元吉が学校給食麺の普及に深く関わったことは、1969年に設けられた「学校給食麺部会」の初代部会長を務めた記録からも確認できます。
ソフト麺は正式には「ソフトスパゲッティ式めん」と呼ばれます。袋ごと温めやすく、一人分ずつ配りやすいため、パン以外の主食を学校給食へ導入する手段になりました。カレー、ミートソース、けんちん汁など複数の献立に合わせられ、昭和40年代以降、関東を中心に広まりました。
1960年、食糧庁のモデル工場になった
玉川食品の会社沿革では、1960年(昭和35年)に食糧庁のモデル工場となり、その後、学校給食の食糧政策へ協力したと記されています。現在も学校給食指定工場で、会社公式サイトでは都内6区175校へ麺を供給しています。
宮内庁との取引も続いています。会社公式サイトによると、宮内庁食堂用の麺のほか、宮中祭祀である新嘗祭の奉納用うどんも受注しています。戦前に街の製麺所として始まった工場が、戦後の学校給食と宮内庁という二つの安定した需要を持つようになりました。
東京には乾麺工場が点在していた
関根康弘さんの証言では、以前の東京では商店街の一角にも製麺所がありました。敷地が狭いため、製麺所の上を乾麺の干し場にした工場もあったといいます。
乾麺は冷蔵設備が家庭へ普及する前、常温で保存できる食品として大きな利点がありました。ところが高度経済成長期には、即席麺、ゆで麺、生麺など短時間で食べられる商品の選択肢が増えます。スーパーマーケットの増加も、小規模な地域製麺所の商売を変えました。
都市化は製造条件そのものも変えました。乾麺には長時間の乾燥と保管の空間が必要ですが、東京では土地価格が上がり、工場用地を広げにくくなります。大手メーカーの大量生産にも、地方産地の広い工場にも対抗しにくい中、23区内の乾麺製造業者は減っていきました。
「最後の一軒」を支えたのは、自社ブランドだった
三代目の関根康弘さんは、23区内で最後まで残れた理由として、自社ブランド「満さくうどん」と工場直売所の二つを挙げています。
製麺業では、他社ブランドの商品を作るOEM生産が少なくありません。注文がなくなれば、その商品を作っていた工場の売上も消えます。自社ブランドを持てば、商品の設計、価格、販路を自分たちで組み立てられます。
「満さくうどん」が生まれたのは1981年です。業務用の麺だけでなく、工場の名前を付けて消費者へ直接売る商品を作りました。同じ時期に一階の直売所で自家製麺の販売を始め、近隣客との接点を持つようになります。
直売所で食べた客が贈答用に使い、東京以外の送り先から注文が入る。地域の工場と消費者が直接つながる販路が、大量生産工場とは異なる生き残り方になりました。
92度以上の湯で捏ね、24時間かけて乾かす
満さくうどんの特徴は「湯捏」と「熟成乾燥」です。東京都地域特産品の認証情報では、92度以上の熱湯を使って生地を捏ね、24時間かけて熟成乾燥させます。
会社公式サイトでは、乾燥時間は一般的な工程の約4倍と説明しています。圧延後の麺を上階でゆっくり乾かし、創業時から使っている裁断機で手動裁断します。職人が目視検査しながら計量し、袋詰めします。
都市の工場が大量生産で地方や大手メーカーと競うのは難しくても、長い時間をかける製法なら、小規模工場の手作業を商品の価値にできます。2013年、満さくうどんは東京都地域特産品認証食品となりました。
三代目・関根康弘は「東京を生産地として見せる」
現在の社長・関根康弘さんは1975年生まれです。祖父と父が麺を作る姿を見て育ち、家業を継ぐことを自然に決めたと話しています。弟の清元さんは製造部門を統括し、配合や製造工程を担います。
康弘さんが社長を継いだ後、江戸玉川屋は企業との共同開発を増やしました。カレーラーメンの復刻、観光施設との商品開発、プロテイン入りうどん、植物を練り込んだ色付き麺など、既存の製麺技術を別の商品へ展開しています。
2019年にはサンリオと組み、訪日客向けのピンク色の豚骨ラーメンも商品化しました。昔ながらの乾麺だけを売るのではなく、乾燥させた麺の保存性と加工技術を、土産品や企業向け商品へ転用しています。
康弘さんが繰り返し語るのは、東京は巨大な消費地であると同時に生産地でもあるという考えです。工場の周囲が住宅街になっても、そこで麺を作り続けること自体が「東京産」の意味を持つようになりました。
捨てていた麺を豚の餌にし、豚肉を焼うどんへ戻す
現在の玉川食品は、乾麺製造で出る端材も使っています。北区のSDGs事例集では、曲がった「クズ麺」を神奈川県厚木市の養豚場へ送り、豚の餌として再利用する取り組みが紹介されています。
その豚肉は、江戸玉川屋の店頭イベントで焼うどんにも使われます。麺の製造端材を飼料にし、育った豚を麺料理へ戻す循環です。
乾麺を切り出す際に生じる「ふし麺」は、北区の小中学校へ提供し、「ふし汁」という給食にも利用されています。北区の教材では工場そのものが地域のものづくり学習に使われ、小学生の工場見学や中学生の職業体験も受け入れています。
戦災で焼けた工場が、東京23区最後の一軒になった
江戸玉川屋の90年には、製法の継承と事業の転換が重なっています。初代・元吉は戦災で焼けた工場を建て直し、学校給食という新しい市場へ入りました。次の世代は自社ブランドと直売所を育て、三代目は企業との共同開発や地域ブランドへ仕事を広げました。
東京の乾麺工場が消えた理由には、土地、乾燥工程、流通、食生活の変化があります。江戸玉川屋は、それらの条件を逆転させました。狭い建物は立体的な製造ラインにし、時間のかかる乾燥は品質の特徴にし、東京という立地はブランドに変えました。
工場の上階につるされた白い麺は、東京から製造業が消えていった歴史と、その中で小さな工場が残るために行った選択を同時に伝えています。
