隅田川向島絵図を徹底解説|向島・三囲神社・百花園を古地図で読む

尾張屋版江戸切絵図「隅田川向島絵図」

安政3年(1856)の「隅田川向島絵図」は、隅田川東岸の向島から押上・小梅・寺島・小村井、さらに橋場・木母寺・堀切方面までを収めた尾張屋版江戸切絵図です。寺社や村名だけでなく、「吾妻橋七十六間」「中ノ郷瓦焼場」「名物梅飯茶屋」「長命寺名物桜餅」「新梅屋敷」「料理家」「渡シ場橋場エ渡ス」「花菖蒲ノ名所ナリ」といった実用的な注記が地図上に書き込まれています。1856年の一枚を細部まで読むと、向島が信仰と花見の土地であると同時に、飲食、園芸、生産、渡船、近郊農村が重なった江戸東郊の生活圏だったことが具体的に分かります。

ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)の「江戸マップ」では、この図から141地点が抽出されています。以下では国立国会図書館の原図とCODHの翻刻・位置情報を基礎に、原図に直接記された名称と、公的資料から確認できる歴史的背景を分けて読み進めます。

隅田川向島絵図の基本情報

国立国会図書館所蔵本は、金鱗堂・尾張屋清七が刊行した安政3年(1856)の「隅田川向島絵図」です。別所蔵本の書誌では、景山致恭著、刊記は「安政三丙辰春新刻」、板元は江戸麹町六丁目の尾張屋清七と確認できます。国立国会図書館の尾張屋版江戸切絵図の一括書誌は28舗を収め、法量を50×54センチ(折りたたみ17×9.0センチ)ほかと記録しています。「隅田川向島絵図」も折り畳んで携行・閲覧する切絵図という媒体の性格を持ちます。国立国会図書館デジタルコレクションのPIDは1286678、DOIは10.11501/1286678です。CODH「江戸マップ」では尾張屋版27番として公開され、141地点の地名・寺社・橋・渡し・商店などが現代地図と照合できる形で整理されています。28番は「根岸谷中辺絵図」で、別の図です。

図の主軸は隅田川東岸ですが、描かれる世界は現在の「向島」という町名の範囲より広く、南は吾妻橋・中ノ郷、内陸側は押上・小梅・小村井、北は白鬚神社・木母寺・関屋、さらに堀切まで連続します。江戸市中の町割を読む切絵図と比べ、村落、田畑、水路、寺社、園芸名所、料理家や茶屋などが同じ紙面に共存する点が特徴です。

尾張屋版の中での位置づけ――安政3年に新刻された郊外図

国立国会図書館の尾張屋版江戸切絵図の書誌解題では、嘉永年間の26図揃を中心とする一群に、安政3年(1856)新刻の「根岸谷中辺絵図」と「隅田川向島絵図」が加わったことが説明されています。「隅田川向島絵図」は、幕末の安政3年(1856)に新たに加えられた郊外図の一つです。江戸の市街地外縁で名所、村落、生産地、渡しが発達し、地図需要の対象になっていた状況を考えるうえで、この刊行時期自体が重要な情報になります。

CODHの141地点は何を意味するか

CODHの「江戸マップ」は、国立国会図書館が公開する江戸切絵図29枚から8,788か所の地名を抽出し、現代地図と統合した歴史GISです。サイトの地図一覧自体は32図ですが、CODHは重複する地域を扱う3図を地名抽出の作業対象から外し、29図をデータベース化しています。「隅田川向島絵図」では141地点が整理され、内訳は施設3、屋敷地13、寺社46、商店5、地名12、町村字55、海川池1、名所4、その他2です。寺社と町村字だけで101件、全体の約72%を占めます。各項目には現代語訳、翻刻、拡大図も付され、たとえば「名物梅飯茶屋中之郷村」は商店、「中ノ郷瓦焼場」は施設、「梅屋敷名主小山孫左衛門持年毎御成有」は名所として整理されています。この件数はCODHが抽出・分類した地名データの構成を示し、当時の土地利用面積や実在施設の総数を測る統計とは性格が異なります。CODH自身も、作業対象図には抽出漏れが残り、屋敷名などは重要なものへ対象を絞っていると説明しています。2025年7月23日版の地名データセットでは、8,788地名のうち870地名が複数の切絵図に重複し、ユニークな地名数は7,918と整理されました。141地点を「地図上の全注記数」とみなさず、抽出方針と重複処理を伴う公開データとして扱う必要があります。そのうえで分類を横断すると、同じ紙面に行政的な地名、信仰施設、生産施設、飲食店、名所情報が重なっていることを定量的にも確認できます。

一方、地図への記載は版元・編者が選択した情報です。ある施設や生業が図上に見当たらないことだけで、その時点の地域に存在しなかったと判断するのは慎重であるべきです。この記事では、切絵図に直接確認できる事項を「地図には~と記される」と示し、銭鋳造、万古焼、百花園の開園史、梅若伝説の展開などは別の公的資料から補う、という二段階で史料を扱います。

尾張屋版江戸切絵図「隅田川向島絵図」
『隅田川向島絵図』国立国会図書館デジタルコレクション

地図の見方――隅田川沿岸から郊外名所へ

最初に隅田川を基準に置くと、図の構造がつかみやすくなります。川沿いには吾妻橋、三囲稲荷社、弘福寺、長命寺、白鬚神社、木母寺などが連なり、その内陸側へ押上村、小梅村、寺島村、小村井村などの村落が広がります。固定橋だけでなく「竹屋ノ渡」「渡場」「渡シ場橋場エ渡ス」といった渡船情報も書かれ、川を横断する移動経路まで地図の情報になっています。

巡礼路まで描く――六阿弥陀道と亀戸側の接続

図の東側には「六アミダ道」(27-126)があり、亀戸側にはCODHが「六阿弥陀六番 浄光寺」(27-001)と翻刻する地点があります。一方、江東区の文化財資料は、亀戸四丁目48番3号の常光寺を江戸六阿弥陀の六番札所として扱い、同寺には延宝7年(1679)銘の「自是右六阿弥陀道」道標と、元文2年(1737)銘の「六阿弥陀六番目標柱」が伝わります。さらに江東区報も、常光寺を「六阿弥陀めぐり」の6番目の霊場として紹介しています。CODHの翻刻「浄光寺」と、現在の公的文化財資料にある「常光寺」には表記の差があります。ここでは両者を自動的に同一表記へ直さず、切絵図翻刻と現地側資料の差異そのものを注記し、地点同定の根拠を複数資料で示します。

この六阿弥陀道は、向島周辺の行楽が隅田川沿いだけで閉じていなかったことも示します。江東区資料では、常光寺は春秋彼岸の六阿弥陀めぐりで栄えた六番札所でした。切絵図に巡礼路名が書かれていることから、寺社名所の配置だけでなく、参詣者が実際に移動したルートそのものが地図情報として意識されていたことが分かります。

方向案内まで書き込む――切絵図を「使う地図」として読む

『隅田川向島絵図』には、地点名だけでなく進路を示す文字もあります。CODHでは「右市川東松戸」(27-079)、「右木戸道」(27-084)、「六アミダ道」(27-126)を抽出しており、さらに「竹屋ノ渡」(27-133)や「渡シ場橋場エ渡ス」(27-099)も移動に直結する情報です。これらを合わせると、切絵図は名所を眺めるための図像であると同時に、道を選び、川を渡り、次の目的地へ進むための実用情報を備えていました。

とくに郊外図では、町割の密な中心部より「どの道を進むか」「どこで川を渡るか」「どの方向に次の土地があるか」という情報の比重が高まります。吾妻橋の長さ、橋場への渡し、六阿弥陀道、名物茶屋や桜餅、花菖蒲の名所が同じ紙面に載るため、交通案内と行楽案内を分けずに使える構成です。地図上の文字情報を分類して読むと、尾張屋版が単なる地形記録ではなく、江戸の行動圏を支える情報媒体だったことが具体的に分かります。

切絵図は現代の測量図のように方位と縮尺だけで位置を合わせるより、河川、主要道、橋、寺社、村名を複数組み合わせて読む方が安全です。CODH自身も、江戸中心部では方位・距離の歪みが比較的小さい一方、周辺部では有名地点を一枚の枠内へ収めるため歪みが大きくなると説明しています。さらに、ジオレファレンスを行っても隣接する切絵図を一枚の地図として継ぎ合わせるのが難しいほど、図ごとの歪みが異なります。「隅田川向島絵図」は江戸周縁を広く収めるため、現代地図との比較では距離や角度を実測値として扱わず、隅田川・綾瀬川などの水系、主要な橋、現在も残る寺社を複数の基準点として比定します。CODHの位置合わせ地図は強力な補助資料ですが、江戸後期の道筋や水路を現在の道路へ一対一で置き換える読み方は避けます。

1856年の地図を時間軸で読む

図上の名所は18世紀から幕末まで、異なる時期に形成されました。墨田区の通史年表では、1737年に本所小梅村、1739年に本所押上村で寛永通宝銭の鋳造が始まり、1763年には小梅村で万古焼の陶器製造、1771年には長命寺門前の桜餅が有名になり、1774年には大川橋(現・吾妻橋)が架けられ、1804年には佐原鞠塢が向島百花園を開園したとされています。葛飾区郷土と天文の博物館は、堀切で小高伊左衛門の花菖蒲園が天保末年の1844年頃に開園したと説明しています。1856年の切絵図は、18世紀から幕末までに形成された橋、名物、庭園、園芸名所が成熟した段階を同時に記録しています。

墨堤の桜も、この時間軸へ入れると地図の見え方が変わります。すみだ郷土文化資料館は、本格的な植桜を享保2年(1717)の八代将軍吉宗の命による木母寺から隅田村境までの植樹とし、その後、安政元年(1854)までに約700本の桜が三囲神社まで植えられたと説明しています。『隅田川向島絵図』の刊行はその2年後です。長命寺の桜餅、三囲神社周辺の料理家、木母寺へ続く川岸を同じ図で読むと、1856年の向島では寺社参詣と花見、飲食、船遊びが一つの季節的な行楽圏を形成していた背景を具体的に置けます。

その時間軸はさらに江戸初期までさかのぼります。墨田区の通史年表には、慶長年間(1596~1615)に隅田川遊覧が盛んになり、慶長6年(1601)には徳川家康・秀忠が隅田川付近で鷹狩りを行って木母寺御膳所で休息し、慶長12年(1607)には近衛信尹によって梅若寺の寺号が「木母寺」とされたことが記されています。1856年の図に現れる木母寺や隅田川沿岸の行楽文化には、幕末直前に生まれたものだけでなく、数世紀にわたって形成された参詣・遊覧の蓄積が重なっています。

吾妻橋・中ノ郷――橋、瓦焼場、名物茶屋が並ぶ

図の南部、吾妻橋から中ノ郷にかけては、交通・生産・飲食・信仰が近接します。CODHの抽出では「名物梅飯茶屋中之郷村」(27-024)、「中ノ郷瓦町」(27-033ほか)、「中ノ郷瓦焼場」(27-046)、「吾妻橋七十六間」(27-050)、「吾妻大権現」(27-052)が確認できます。橋の名前だけを追うと交通史ですが、同じ範囲に瓦町、瓦焼場、名物茶屋が書かれているため、中ノ郷が江戸東郊の生産地であり、往来する人々を受け入れる場所でもあったことが分かります。

尾張屋版「隅田川向島絵図」の吾妻橋・中ノ郷瓦焼場・名物梅飯茶屋周辺
『隅田川向島絵図』(安政3年・1856年)より。吾妻橋、中ノ郷瓦焼場、中之郷村の名物梅飯茶屋が近接する隅田川東岸南部。

「吾妻橋七十六間」という表記は、橋の存在だけでなく長さまで読者に伝えています。一間を約1.82メートルとする概算では七十六間は約138メートルで、切絵図が経路案内に具体的な尺度情報を添えていた例です。墨田区の通史年表では、安永3年(1774)に隅田川へ大川橋が架けられ、後の吾妻橋につながったことが確認できます。1856年の原図ではすでに「吾妻橋」の名で記されているため、橋名の変化を追う資料にもなります。

橋名を考える際には、図中の「吾妻大権現」(27-052)と、その隣にCODHが「日本武尊橘姫令相生楠箸御神木」(27-053)と翻刻する注記も重要な手掛かりです。墨田区の橋史は、吾妻橋という呼称について、江戸の東を意味する「東(あづま)」に由来する説と、日本武尊の東征伝説に結び付けて吾嬬神社への道筋と江戸の東という意味が重なったとする説を併記しています。現在の吾嬬神社(立花一丁目1番15号)には区登録文化財「吾嬬神社の連理の楠」があります。原図の御神木注記と現在の登録文化財を同一個体とみなす根拠はここでは置かず、日本武尊・橘姫・楠を結ぶ伝承が地図情報と現在の文化財双方に残る点を確認できます。

瓦については、墨田区の産業史が、隅田川と支流の川底の土が瓦の材料に適し、水運によって運ばれたことを説明しています。原図の「中ノ郷瓦焼場」と複数の「中ノ郷瓦町」は、この地域に瓦生産が実在したことを地図上で直接示します。明暦の大火後に市街地化が進んだ本所と、その周辺で建築材料を生産する地域を結び付けて考えると、向島周辺を行楽地だけで捉えない都市史が見えてきます。

「名物梅飯茶屋中之郷村」のように商品・名物を伴う店名が載る点も重要です。尾張屋版切絵図は寺社・町名・道だけを記録する地図ではなく、利用者が実際に訪れたり立ち寄ったりする場所を選択するための情報も含んでいます。後述する「長命寺名物桜餅」や三囲神社周辺の「料理家」と合わせると、地図の中に飲食の地理が浮かびます。

押上・小梅――現在のスカイツリー周辺はどんな場所だったか

吾妻橋・中ノ郷の内陸側では、押上村、小梅村、業平橋、小梅代地町などが確認できます。CODHでは押上村が複数地点(27-009、011、013、015〜018、021、022)、小梅村が27-105・107、業平橋が27-128、竹屋ノ渡が27-133、小梅代地町が27-134として抽出されています。現在の東京スカイツリー周辺を1856年へ置き換えると、高層建築を中心とする景観ではなく、村落、寺社、道、水路、橋、渡しが組み合わさる東郊の景観です。

尾張屋版「隅田川向島絵図」の押上村・小梅村・業平橋周辺
『隅田川向島絵図』(安政3年・1856年)より。押上村、小梅村、業平橋周辺。現在の東京スカイツリー周辺にあたる江戸後期の郊外景観を読む。

墨田区の通史年表には、小梅村で1737年、押上村で1739年に寛永通宝銭の鋳造が始まったこと、小梅村で1763年に万古焼の陶器製造が行われたことが記されています。1856年の切絵図に直接描かれているのは村名や道・水路などで、銭鋳造や陶器製造の履歴は墨田区の年表から補います。地図上の村名と、別資料に記録された18世紀の生産史を重ねることで、押上・小梅が農村景観だけで構成された地域ではなく、江戸の需要を支える生産活動を経験した土地だったことが分かります。

墨田区の産業史も、小梅の新銭座や瓦生産を江戸期の地場産業として挙げています。隅田川・北十間川などの水系、江戸市中に近い立地、農村部の土地利用が、生産と輸送の条件をつくりました。押上・小梅を現在の駅名やランドマークから逆算するだけでなく、「水路と生産の郊外」として読むと、19世紀後半以降の工業化へつながる地域の性格を捉えやすくなります。

「水戸殿」――小梅の大名屋敷から現在の隅田公園へ

小梅側には、CODHが屋敷地として抽出する「●水戸殿」(27-109)もあります。すみだ郷土文化資料館は、現在の隅田公園の中心部に江戸時代の水戸徳川家下屋敷があり、明治維新後から関東大震災までは「小梅邸」と呼ばれる水戸徳川家の本邸になったと説明しています。切絵図の「水戸殿」は、現在の公園景観の下に大名屋敷の土地利用が重なることを直接示す重要な地点です。

小梅邸では、明治期に最後の水戸藩主・徳川昭武や徳川慶喜らが写真を残しました。墨田区によると、関東大震災で邸宅が焼失した後、帝都復興事業によって昭和6年(1931)に隅田公園が開園し、現在の園内の池にも旧水戸徳川家下屋敷の庭園の名残が残ります。1856年の「水戸殿」から明治の小梅邸、震災復興公園へという土地利用の連続性は、古地図と現代景観を結ぶ具体例です。

三囲神社周辺――其角の句と料理家が示す向島の行楽文化

三囲神社周辺は、この切絵図の情報密度が最も高い場所の一つです。原図には「三囲稲荷社」(27-118)だけでなく、「料理家大七」(27-113)、「料理家武蔵屋」(27-114)、「料理家衡石」(27-119)、弘福寺(27-122)、牛ノ御前(27-123)が近接して記されています。CODHは三つの「料理家」を商店として抽出しています。信仰の場所の周囲に飲食施設が並ぶ構成は、参詣と食事が同じ行楽動線に入っていたことを具体的に示します。

尾張屋版「隅田川向島絵図」の三囲稲荷社・其角の句・料理家・弘福寺周辺
『隅田川向島絵図』(安政3年・1856年)より。三囲稲荷社、其角の句、料理家、弘福寺、牛ノ御前が集まる向島の行楽地帯。

さらに原図には、其角の句「夕立や田を三囲りの神ならば其角」が記載されています。CODHの翻刻では「ゆふ立や田をミめくりの神ならハ其角」と読まれます。地図に俳句そのものが載るのは、三囲が単なる位置情報ではなく、文学的記憶を伴う名所だったことを物語ります。句意を一つに固定するより、切絵図が名所の文化的連想まで紙面へ取り込んでいる点を押さえる方が、史料の性格を正確に読めます。

墨田区の文化財一覧では、三囲神社本社や石造鳥居、弘福寺本堂(大雄寳殿)などが区の文化財として確認できます。現在の建造物や境内の文化財は後世の状態を含みますが、寺社の場所が現在まで継承されてきたことを確かめる基準になります。

原図で弘福寺の近くに記される「牛ノ御前」(27-123)も、現在地を読む手掛かりです。墨田区の通史年表では「牛島神社(牛御前社)」と表記され、創建伝承も記されています。切絵図の表記と現在の「牛嶋神社」という名称をつなぐときは、この旧称を介して対応させることができます。現在の牛嶋神社は向島一丁目4番5号に所在し、石造鳥居は墨田区登録文化財です。

三囲神社は後述する隅田川七福神では恵比寿・大国、弘福寺は布袋尊を担います。三囲稲荷、俳諧、料理家、弘福寺が近接する原図を、七福神めぐりという後代の回遊文化と重ねると、向島の行楽が「一地点を訪ねて帰る」形より、川沿いの複数の名所をつないで歩く形で発達したことが理解できます。

長命寺桜餅と新梅屋敷――食と花の名所

三囲神社からさらに北へ進むと、切絵図は長命寺と寺島村の間に、食と園芸の名所を並べます。原図には「長命寺名物桜餅」(27-083)、「新梅屋敷」(27-086)、「此辺松ノ名所ナリ」(27-087)と明記されています。「長命寺」だけでなく、名物の商品名まで地図に書かれている点は、この切絵図が行楽者の関心を反映した資料であることを端的に示します。

尾張屋版「隅田川向島絵図」の長命寺名物桜餅と新梅屋敷周辺
『隅田川向島絵図』(安政3年・1856年)より。長命寺名物桜餅と新梅屋敷(現在の向島百花園)を一枚で確認できる範囲。

墨田区の通史年表では、明和8年(1771)に長命寺門前の桜餅が有名になったとされています。1856年の地図に「長命寺名物桜餅」と商品名が入るまでには約85年が経過しており、名物が一過性の流行ではなく、場所と結び付いた呼称として定着していたことが分かります。花見、寺社参詣、飲食を一つの行程に組み込む向島行楽の代表例です。

「新梅屋敷」は現在の向島百花園につながる表記です。東京都公園協会によると、文化元年(1804)、骨董商の佐原鞠塢が文人墨客の協力を得て開園し、当初は約360本の梅を主体としたため、亀戸の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれました。その後、和漢の古典にちなむ草花が植えられ、四季を楽しむ文人趣味の庭園へ展開しました。庭園の歴史、御成座敷・福禄寿尊堂・萩のトンネル、四季の花と年間行事は、「向島百花園の歴史と見どころ」で詳しく紹介しています。

百花園の成立には大田南畝、亀田鵬斎、谷文晁、酒井抱一ら文人との交流が関わり、園は作品・詩歌・園芸・出版が交わる場となりました。国立国会図書館月報が紹介する『百花園学入門』では、鞠塢が梅の品種を紹介する「梅屋花品」や春秋の七草の考証書を刊行し、園内の梅干、萩の筆、隅田川焼などの土産物もあったことが紹介されています。庭園の鑑賞だけでなく、知識・商品・交遊を含む文化活動が名所を支えていました。

同じ画像内に「長命寺名物桜餅」と「新梅屋敷」が収まることは、向島の名所が個別に孤立していたのではなく、食と花を連続して楽しめる距離に集まっていたことを視覚的に示します。さらに「此辺松ノ名所ナリ」という面的な注記が加わり、切絵図は一点の施設名だけでなく、その周辺の景観評価まで伝えています。

寺島村――名所の背後に広がった近郊農村

この一帯を名所だけで読むと、寺島村のもう一つの性格を見落とします。原図には「寺島村」が複数地点(27-088、089、098)に現れます。墨田区の通史年表では、応永5年(1398)の「葛西御厨田数注文」に寺島の地名がすでに見え、永禄2年(1559)の「北条氏所領役帳」にも寺島が記録されています。1856年の切絵図に書かれた村名には、中世以来の地域名の継続が重なっています。

すみだ郷土文化資料館は、近世の寺島村が葛飾郡西葛西領に属し、「元禄郷帳」で村高621石余、のち幕府領として幕末を迎えたと説明しています。同時に、寺島村は消費都市・江戸へ生鮮野菜を供給する近郊農村で、享保期の地誌には「寺島茄子」の産地として名が載ったと紹介されています。長命寺の桜餅や新梅屋敷を訪れる行楽者の世界と、その周囲で野菜を生産する農村の世界は同じ寺島村の中に共存していました。

白鬚神社・橋場の渡し・木母寺――隅田川北部の信仰と物語

隅田川沿いを北へ進むと、白鬚神社(27-090)、橋場への渡し(27-099)、木母寺梅若塚(27-102)、関屋ノ里(27-103)、綾瀬川(27-104)が連続して現れます。ここは「神社」「渡し」「寺」「伝説」を別々に読むより、川の移動と物語が結び付いた文化圏として見る方が地図の構造をつかめます。

尾張屋版「隅田川向島絵図」の白鬚神社・橋場への渡し・木母寺梅若塚・関屋ノ里周辺
『隅田川向島絵図』(安政3年・1856年)より。白鬚神社、橋場への渡し、木母寺梅若塚、関屋ノ里が連なる隅田川沿岸北部。

原図の「渡シ場橋場エ渡ス」という表記は、対岸の橋場へ渡る交通機能をそのまま説明しています。吾妻橋のような固定橋と、竹屋ノ渡・橋場への渡しが同じ図に併記されるため、江戸東郊では橋と渡船が補完し合っていたことを読み取れます。現在の橋や道路へ単純に置換せず、当時の川岸で「どこから対岸へ移るか」を示した案内情報として扱うのが適切です。

木母寺は梅若伝説の舞台です。墨田区の資料では、梅若伝説は室町期の謡曲「隅田川」に始まり、江戸時代には浄瑠璃・歌舞伎へ展開して「隅田川物」と呼ばれる一群を形成し、合巻・黄表紙・読本・浮世絵にも広がったと説明されています。木母寺には公家・将軍家から庶民まで幅広い参詣者が訪れ、文学・芸能で繰り返し語られた物語が実際の参詣地と結び付いていました。

すみだ郷土文化資料館の2008年特別展は、梅若伝説の成立環境をさらに中世までさかのぼって検討しています。近年の研究成果として、隅田川河岸には中世の鎌倉街道が通り、その沿道に「隅田宿」と呼ばれる都市的な集落が存在したことを紹介し、梅若伝説も人の往来がある環境の中で育まれた可能性を示しています。1856年の切絵図に見える「木母寺梅若塚」と橋場への渡しを読むときも、物寂しい川辺だけを想定するより、古くから交通・宿・参詣が重なる場所だったという長い時間軸を置くと、木母寺の名所性を立体的に捉えられます。

「木母寺梅若塚」という地図上の記載は、寺院名に物語の核心となる梅若塚を付している点に価値があります。橋場への渡し、関屋ノ里、綾瀬川と並べて読むと、物語の舞台を訪ねる移動と隅田川沿いの名所巡りが同じ地理の中に重なります。名所の形成には景観に加え、能・歌舞伎・出版物で共有された物語も作用し、場所への関心を増幅させました。

小村井梅屋敷――「年毎御成有」と記された別の梅名所

向島百花園の「新梅屋敷」と区別して読む必要があるのが、小村井村の梅屋敷です。原図には小村井村(27-054・056)に挟まれて、「梅屋敷名主小山孫左衛門持年毎御成有」(27-055)という長い注記があります。地図は単に「梅屋敷」とだけ書かず、名主小山孫左衛門の持地であること、さらに「年毎御成有」と記しています。

小村井という地名自体も古く、墨田区の通史年表では応永5年(1398)の「葛西御厨田数注文」に「小村江」、永禄2年(1559)の「北条氏所領役帳」に「小村井」が見えます。墨田区の地域別構想も、小村井を中世までさかのぼる地名として紹介し、江戸時代後期には田地の広がる地域に吾嬬神社や小村井梅園が存在したと説明しています。1856年の「小村井村」と梅屋敷は、幕末に突然現れた名所ではなく、中世以来続く村落の中に形成された行楽地として位置づけられます。

尾張屋版「隅田川向島絵図」の小村井梅屋敷周辺
『隅田川向島絵図』(安政3年・1856年)より。『梅屋敷 名主小山孫左衛門持 年毎御成有』と記された小村井の梅屋敷周辺。

この「御成有」は、梅屋敷に特別な来訪があったことを示す注記として読めます。原図が直接示すのは「年毎御成有」までで、具体的な将軍名、厳密な頻度、訪問年は別史料による確認が必要です。専門的に読む価値は、まさに原図が所有関係と「御成」の情報を一続きで記録している点にあります。別史料で主体や時期を特定するまでは、地図の文言をそのまま提示するのが安全です。

同じ切絵図の「新梅屋敷」は佐原鞠塢の百花園につながり、小村井の梅屋敷は小山孫左衛門の名が書かれる別施設です。両者が一枚の地図に載ることは、幕末の東京東郊に複数の梅名所が存在し、園芸・観梅が地域の行楽資源として広がっていたことを示します。「梅屋敷」という一般名だけで同一視すると、地図が伝える土地所有と名所の多様性を失います。

堀切村――切絵図に明記された花菖蒲の名所

図の北東部、堀切村には「堀切村百姓伊右衛門花菖蒲ノ名所ナリ」(27-095)と明記されています。寺社名や村名ではなく、百姓の名と「花菖蒲ノ名所」という評価を一文で記すため、1856年時点で堀切の花菖蒲が地図利用者に知らせる価値のある行楽情報になっていたことが分かります。

尾張屋版「隅田川向島絵図」の堀切村花菖蒲の名所周辺
『隅田川向島絵図』(安政3年・1856年)より。『堀切村百姓伊右衛門 花菖蒲ノ名所ナリ』と記された堀切周辺。

葛飾区史では、嘉永7年(1854)に田安家家臣の蜂屋茂橘が花戸の伊左衛門と勘蔵を訪ねた記録が紹介され、伊左衛門は後の小高園、勘蔵は武蔵園につながるとされています。小高家には嘉永年間、徳川家慶・家定父子が鷹狩りの休憩時に立ち寄ったとされ、尾張藩主徳川斉荘による書や、歌川広重ら絵師による作品も名所化を支えました。

葛飾区郷土と天文の博物館は、堀切で草花を生産・販売していた小高伊左衛門の花菖蒲農園が評判となり、天保末年の1844年頃に花菖蒲園が開園したと説明しています。同館は、幕府が農地の食糧生産を維持しようとしたため、当初は観光専業ではなく農園としての体裁を保ち、園芸生産が近代堀切の地場産業へつながったとも述べています。

1844年頃の開園、1854年の訪問記録、1856年の「花菖蒲ノ名所ナリ」、1857年の歌川広重「名所江戸百景 堀切の花菖蒲」を時間軸で並べると、堀切が幕末の短期間に急速に名所化していく過程が見えます。『隅田川向島絵図』は、その名所化が同時代の地理情報へ組み込まれた瞬間を記録した史料です。

隅田川七福神と向島の行楽ネットワーク

個々の寺社や庭園を横断的につなぐ仕組みとして、隅田川七福神があります。墨田区資料では、向島百花園の福禄寿、多聞寺の毘沙門天、長命寺の弁財天、三囲神社の恵比寿・大国、弘福寺の布袋尊、白鬚神社の寿老神が一続きの巡拝先として挙げられています。三囲神社では享保頃から恵比寿・大国の二神像が商売繁盛の神として信仰され、弘福寺には黄檗禅と関係の深い布袋和尚像が伝わりました。

成立年代は、百花園の開園後に七神を一度に選んだという通説より複雑です。墨田区の2004年企画展は、大田南畝の天明元年(1781)の「かくれ里の記」をもとにした「隅田川七福語り」に弘福寺の布袋尊が登場し、天明4年(1784)の「返々目出鯛春参」では白鬚明神を寿老人に見立てる発想が確認できるとしています。どちらも文化元年(1804)の百花園開園より前です。同展は、弘福寺の布袋尊と白鬚神社の寿老神が先行して意識され、百花園成立後に南畝ら文人を中心として残る神々との組み合わせが整えられたとみるのが妥当だと再検討しています。

墨田区の別の展示資料には、文化年間に百花園へ集った文人たちが七福神めぐりを始めたという伝承的な説明も残ります。複数の区資料を合わせると、隅田川七福神は一度の「創始」で完成したというより、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、既存の寺社信仰と文人の名所遊覧が段階的に結び付いたと理解する方が史料に即しています。明治期に一時下火になった後、1898年に隅田川七福会が発足し、1908年には榎本武揚らの関与で各所に石碑が建てられ、人気が再興しました。

切絵図上では、三囲稲荷社の周辺に料理家と其角の句、北に弘福寺、長命寺と桜餅、新梅屋敷、白鬚神社が連なります。七福神めぐりの成立事情を別資料で補うと、この配置が単なる寺社の羅列ではなく、信仰、文学、飲食、園芸を組み合わせる回遊圏として機能し得たことが具体的になります。隅田川という水辺の軸が、その名所群を江戸市中から訪ねやすい一つの行楽地域としてまとめていました。

生産・流通・行楽が同居する江戸東郊

この地図は、名所に加えて生産と流通の地理も記録しています。中ノ郷では瓦焼場と瓦町、小梅・押上では18世紀の銭鋳造や陶器製造の記録、堀切では園芸農家による花菖蒲生産、寺島・小村井周辺では農村景観が確認できます。一方、川沿いには吾妻橋と複数の渡し、寺社、料理家、名物茶屋、桜餅、庭園が並びます。生産地と消費地、農村と都市、日常交通と観光交通が紙面上で分離せず隣り合っています。

墨田区の産業史は、江戸期の瓦生産を川底の土と水運の条件に結び付けています。瓦は大消費地・江戸へ運ばれ、地域の大小河川が物流路になりました。これを原図の「中ノ郷瓦焼場」や水路網と重ねると、川は景観や行楽の舞台であると同時に、原料・製品・人を動かす産業基盤だったことが分かります。

向島を「江戸の郊外」と呼ぶとき、その郊外には田園とともに、生産、運送、飲食、園芸、参詣を支える機能が重なっていました。江戸の巨大な消費市場に近接する立地が、都市側の需要を受け止める周縁を形成しました。1856年の地図は、都市と農村を二分するより、両者の機能が連続する境界地域として向島周辺を読むための一次資料になります。

明治以降――郊外・農村から工業都市へ

明治以降、本所・向島の土地利用は急速に変わりました。墨田区の産業史によると、本所では武家地跡などを背景に早くから近代工業が導入され、向島では農家の家内工業から発達する流れと、地主による土地提供や輸送条件を利用して大工場が進出する流れが並行しました。明治10年代から本所・向島には多数の工場が建設され、鉄道整備も工業集積を促しました。

近代工業化には、江戸期から続く水運、江戸市中への近さ、村落部の土地、家内生産の蓄積といった条件も形を変えて作用しました。中ノ郷の瓦、小梅の銭座・陶器、堀切の園芸など、切絵図と関連資料に見える生産の地理は、近代工業化以前から東京東部が「ものをつくり、運ぶ」地域でもあったことを示します。

1923年の関東大震災では本所区の大部分が被災し、墨田区資料では5人以上の工場804か所が焼失したとされています。復興期には道路・鉄道などの基盤整備が進み、農地はさらに工業地・住宅地へ転換しました。1945年3月10日の東京大空襲では本所区96%、向島区57%が焼失したと墨田区の産業史は記しています。近代の災害と復興も、現在の街区と産業構成を形成する大きな転換点でした。

現在に残る向島の景観

1856年の地図と現在をつなぐ基準点として、三囲神社、弘福寺、長命寺、白鬚神社、向島百花園などの寺社・庭園が残っています。墨田区の文化財一覧では三囲神社本社・石造鳥居や弘福寺本堂などが確認でき、向島百花園は国の名勝・史跡として継承されています。木母寺も梅若伝説を伝える場として続きます。

一方で、地図に広がる田畑、村落の境界、多くの水路は近代の市街化・工業化・河川改修によって大きく姿を変えました。現在の東京スカイツリー周辺を歩くとき、押上村・小梅村という地名、業平橋、北十間川周辺の水系を手掛かりにすると、現代の都市構造の下に江戸後期の地域単位を重ねて考えられます。現在の道路を原図の道へ直接一致させるより、残存寺社と河川を固定点として比較する方が確実です。

堀切では花菖蒲が現在も地域を代表する景観として継承され、葛飾区郷土と天文の博物館は江戸期の園芸技術から近代の観光菖蒲園、海外輸出までを一続きの歴史として紹介しています。向島百花園の梅、堀切の花菖蒲、小村井の梅屋敷を一枚の地図から比較すると、東郊の園芸文化が鑑賞と生産、名所化を横断していたことがよく分かります。

関連する古地図

本所・浅草・谷中方面と続けて読む:本所絵図では隅田川東岸の市街地を、根岸谷中辺絵図では隅田川対岸の谷中・根岸方面を続けて読めます。尾張屋版江戸切絵図 全29図の案内から、江戸城周辺、日本橋、本所・深川、郊外各地の図へ移動できます。

隅田川向島絵図を本所絵図と並べると、武家地・町地・運河が密な本所から、寺社・村落・農地・行楽地が混在する向島への土地利用の勾配が見えます。根岸谷中辺絵図と比べると、寺町が密集する谷中側と、水辺の行楽・園芸・村落が広がる向島側という、江戸北東部の異なる郊外像を比較できます。

参考資料