東京・田端を歩いていたとき、上田端八幡神社の境内で小さな祠を偶然見つけました。扁額には「大山祇神社」とあります。
そのときは、大山祇神社がどのような神社なのか、なぜ東京の田端にあるのかも知りませんでした。調べてみると、愛媛県今治市の大三島には「日本総鎮守」を称する大山祇神社があり、全国に広がる大山祇信仰の中心とされています。
さらに上田端八幡神社へ直接電話で確認すると、境内の大山祇神社はもともとこの地域の別の場所に祀られていたもので、区画整理の際に上田端八幡神社の境内へ移されたと伝わっていることが分かりました。総本社は愛媛県大三島の大山祇神社とのことでした。
勧請された時期、元の鎮座地、具体的な移設年を記した文書は残っておらず、移設の経緯は口伝で伝えられています。これは2026年9月14日に筆者が上田端八幡神社へ電話で確認した内容です。
東京の住宅地に残る小さな祠から史料をたどると、瀬戸内海の大三島、古代の有力氏族、国家祭祀、海上交通、武士、神仏習合へと歴史がつながっていきます。
上田端八幡神社の大山祇神社は、もともと別の場所にあった
東京都北区の公式観光案内にも、上田端八幡神社の境内社として白髭神社、稲荷神社、大山祇神社が記されています。
神社への直接取材では、大山祇神社は当初、八幡神社境内ではなく地域の別の場所にあり、区画整理をきっかけに現在地へ移されたと伝えられているとのことでした。
田端では戦後、1946年(昭和21)4月に「土地区画整理事業を必要とする区域」が都市計画決定され、1948年(昭和23)3月に田端復興土地区画整理組合が設立されました。東京都の記録では、その後も長期間にわたって区域整理が続いています。
神社に伝わる「区画整理の際に移した」という口伝は、この戦後の田端復興土地区画整理事業と時期が合います。ただし、大山祇神社そのものの移設年を示す記録は残っていません。現在分かるのは、地域に祀られていた祠が都市整備の過程で八幡神社境内へ移されたという伝承までです。上田端八幡神社を含む田端周辺の散歩ルートは、千駄木から田端・駒込へ|谷田川暗渠・赤紙仁王・第二中里踏切を歩く予習ガイドでも紹介しています。
日本総鎮守・大山祇神社とは
その信仰の中心が、愛媛県今治市大三島町宮浦の大山祇神社です。瀬戸内海の芸予諸島最大の島・大三島に鎮座し、御祭神は大山積大神です。

大山祇神社の公式由緒は「日本総鎮守 大山祇神社」と掲げ、伊予国一の宮、旧国幣大社としての歴史を紹介しています。上田端八幡神社への今回の取材でも、田端の大山祇神社の総本社は大三島の大山祇神社と説明されました。
全国には、祭神や信仰を共有する神社が各地に分布し、その中心となる神社を総本社と呼ぶ例があります。こうした神社の種類と総本社の関係を知ると、大山祇神社が各地の大山祇・三島信仰と結びついていることが分かります。
「日本総鎮守」は、律令国家の神階や『延喜式』の式内社のような官的等級名とは性格が異なります。國學院大學が公開する大山祇神社史料には、宝暦12年(1762)の「日本総鎮守三島宮御宝物改帳」が収録されており、近世には「日本総鎮守」の呼称が史料上確認できます。
また、藤原佐理の筆と伝えられる扁額には「日本総鎮守大山積大明神」と記されています。平安時代の由緒を伝える伝承と、近世に確認できる文字史料を分けて見ると、「日本総鎮守」という称号が重ねて受け継がれてきた過程を追うことができます。
大山積神は「山の神」なのに、なぜ海の神なのか
『古事記』『日本書紀』では、大山津見神・大山祇神は山を司る神として登場します。木花開耶姫命の父で、天孫瓊瓊杵尊と姻戚関係を結ぶ神として神話の系譜に組み込まれています。
ところが、大三島の大山積神を伝える『伊予国風土記』逸文には別の性格が記されています。そこでは大山積神を「和多志大神」とも呼び、百済から渡ってきた神だとする伝承が載っています。
國學院大學の古典文化研究では、「和多志」を「渡し」と解して航海神としての信仰と結びつける解釈や、『古事記』の大山津見神と大三島の神が後に同一視されたとする説が紹介されています。
大三島には、瀬戸内海の渡航・海上交通に関わる在地神の信仰があり、それが歴史の中で記紀神話の大山津見神と重ねられていった可能性が研究されています。山神と海神という二つの性格は、こうした信仰の重なりから考えることができます。
大和王権と対立した地方神だったのか
出雲の大国主神には「国譲り」の神話があります。一方、大三島には、大和王権との戦争や出雲の国譲りに相当する征服を物語る伝承は確認されていません。
文献に現れる大山積神は、奈良時代から国家祭祀の中で高い位置を得ています。『続日本紀』によれば766年(天平神護2)、伊予国越智郡の大山積神に従四位下が授けられ、神戸5戸が充てられました。その後も神階は上昇し、837年に名神に預かり、866年に正三位、870年に従二位、875年には正二位に達します。
9世紀までに、大山積神は国家が重視する有力神となっていました。大三島を「王権に征服された国の祭祀中心」とみるより、地域の有力な祭祀が国家の神祇秩序へ組み込まれていく過程を考える方が、現存史料に沿っています。
越智氏と瀬戸内海の「海の道」
大山祇神社を考えるうえで外せないのが、伊予の有力氏族・越智氏です。
愛媛県史は、大山積神の山神・航海神という二面性を、大三島の地理だけでなく、同神を氏神として祀った越智氏の性格とも結びつけて論じています。越智氏は大和政権の対外活動との関係が論じられ、大三島周辺のクスなどの船材や造船技術とのつながりも指摘されています。
瀬戸内海は畿内と九州、さらに朝鮮半島方面を結ぶ重要な海上交通路でした。その中央付近に大三島があります。「和多志大神」という名と、海上交通を担った地域勢力の存在を重ねると、大山祇神社が山と海の双方を守る神として発展した背景が具体的になります。
中世には武士と海上勢力の神へ
中世になると、大山祇神社は武士からも厚く信仰されます。神社の第一の祭祀職である大祝職を担った三島氏は在地支配にも関わり、河野氏や村上氏など瀬戸内の武士・海上勢力も大山祇神社を崇敬しました。
大山祇神社には現在も多数の甲冑や刀剣が伝わっています。朝廷や武将から奉納された武具は、海上安全や武運の神として信仰が広がった歴史を伝える文化財です。
大山祇・三島信仰は各地へ広がり、大山祇神社、山祇神社、三島神社などの名称で祀られてきました。東京にも、大三島の大山祇神社と直接結びつく由緒を伝える神社が残っています。
東京に残る大三島の三島信仰――根岸・下谷・寿の三島神社
台東区には、根岸の元三島神社、下谷の三島神社、寿の本社三島神社という、大三島の大山祇神社につながる由緒を持つ三つの三島神社があります。三社の由緒をたどると、伊予の河野氏と東京が一本につながります。
各社に伝わる縁起では、弘安4年(1281)の元寇に際し、伊予の武将河野通有が氏神である大三島の大山祇神社に戦勝を祈願しました。帰国後、夢告を受けて大山祇神の分霊を武蔵国豊島郡へ迎え、上野山内にあった河野氏の館へ祀ったことが東京の三島信仰の始まりと伝えられています。
その後、三島社は慶安3年(1650)に幕府の命で金杉村、現在の根岸付近へ移されました。さらに宝永6~7年(1709~1710)ごろ、社地が再び幕府の御用地となり、浅草小揚町、現在の台東区寿へ遷座します。これが現在の本社三島神社です。
一方、氏神が遠くなることを惜しんだ金杉・根岸の住民は、地域の熊野社に三島神を祀り、現在の元三島神社へとつなげました。さらに金杉町、現在の下谷にも分霊が勧請され、現在の三島神社となったと伝えられています。
大三島から河野氏を介して上野へ渡り、江戸の都市整備による遷座を経て根岸・下谷・寿へ分かれた三島信仰の系譜は、愛媛の地方神が東京まで広がった具体例です。上田端八幡神社の大山祇神社については勧請の文書が残っていませんが、近隣の台東区には大三島との由緒を明確に伝える三島神社群が現在も残っています。
近年の研究で見えてきた神仏習合の大山祇神社
中世の大山祇神社では、神と仏を結びつける神仏習合が進みました。神社には法華経をはじめとする経典が奉納され、神宮寺や十六王子を含む宗教世界が形成されていました。
2025年、小林知美氏は大山祇神社所蔵の紺紙金字法華経と開結経を調査し、料紙に残る墨書などから制作過程を検討しました。愛媛県も同年、この紺紙金字法華経等14巻を県指定有形文化財に指定し、平安時代の大山祇神社における信仰形態を考える重要資料と評価しています。
また、脊古真哉氏は大山祇神社と三嶋大社を「収斂・統合されていった神」という視点から検討しています。各地の神や伝承が歴史の中で重なり、大山祇・三島信仰として形づくられていく過程を考える研究です。
「日本総鎮守」は、一つの時代だけでは説明できない
大山祇神社の権威は、複数の歴史が重なって形成されました。
- 瀬戸内海の要衝・大三島という立地
- 和多志大神と呼ばれる航海神としての性格
- 越智氏など地域有力氏族の祭祀
- 奈良・平安時代の国家祭祀への編入と神階上昇
- 中世の武士・海上勢力による崇敬
- 神仏習合による宗教世界の拡大
- 各地への大山祇・三島信仰の広がり
近世の史料に現れる「日本総鎮守」という呼称の背景には、古代から中世、近世へと積み重なった祭祀と信仰の歴史があります。
田端の小さな祠に戻る
大三島の歴史を調べたあと、もう一度上田端八幡神社の小さな大山祇神社を見ると、そこに重なる歴史の長さが分かります。
この祠がいつ田端に勧請されたのか、元の鎮座地がどこだったのかを記す文書は残っていません。神社に伝わるのは、「この地域に以前からあった」「区画整理の際に境内へ移した」「総本社は愛媛県大三島の大山祇神社」という口伝です。
地域で祀られ続けた神は、都市の区画整理を経て現在の境内に残りました。その小さな祠を偶然見つけたことから、瀬戸内海の島、古代の越智氏、国家祭祀、武士、神仏習合へと歴史がつながりました。
街角の小さな神社には、由緒を記した文書が失われても、祠と口伝によって地域の記憶が残ることがあります。上田端八幡神社の大山祇神社は、その記憶から全国へ広がった信仰の歴史をたどれる場所です。
参考資料・研究
- 大山祇神社公式「大山祇神社について」
- 東京都北区観光ホームページ「上田端八幡神社」
- 東京都第二市街地整備事務所「田端地区―事業の経緯」
- 國學院大學 古典文化学事業「大山津見神」
- 國學院大學デジタルミュージアム「大山積神社」
- 國學院大學『大山祇神社史料』由緒・縁起篇
- 愛媛県生涯学習センター「えひめの記憶」大山積神社と越智氏
- 愛媛県「紺紙金字法華経等」
- 小林知美「大山祇神社所蔵紺紙金字法華経并開結の料紙にみられる墨書」『人間文化研究所年報』36、2025年
- 脊古真哉「大山祇神社と三嶋大社―収斂・統合されていった神―」研究成果情報
- 元三島神社公式「ご由緒」
- 三島神社公式「三島神社御鎮座の起源」
※上田端八幡神社境内の大山祇神社については、2026年9月14日に筆者が同神社へ電話で確認した内容を併用しています。神社側によれば、勧請・移設に関する文字資料は残っておらず、本文中の移設経緯は口伝に基づきます。
