明治五千分一東京図を徹底解説④|本郷・小石川・駿河台を読む

第4回は、本郷、小石川、駿河台、飯田町周辺の4図を読みます。現在の文京区・千代田区北部にあたるこの地域では、江戸の武家地・寺社地が、明治期に学校、病院、官公署、住宅地へ組み替えられていく過程が重要です。

文京区は、明治11年(1878)に本郷区と小石川区が成立し、その後、多くの官立・私立学校が置かれたことで文教地区として発展したと説明しています。五千分一東京図は、その初期段階の土地利用を細かく追える史料です。

五千分一東京図測量原図とは

本シリーズ全9地域の位置関係、資料番号1001〜1038の対応、地図の読み方は「明治五千分一東京図を読む|9地域・38資料 完全ガイド」にまとめています。

国土地理院「古地図コレクション」では、五千分一東京図測量原図を明治16〜17年に作成された東京市中の地図として整理しています。資料番号は国土地理院における資料整理番号です。

包括図で見る本郷・小石川・駿河台

国土地理院 資料番号1038「東京 第2号」

五千分一東京図測量原図1038 東京 第2号 4面包括図
国土地理院所蔵「東京 第2号」を加工(周囲の余白をトリミング)

包括図「東京 第2号」は、1012・1013・1014・1015の4面を一続きで見られる図です。台地と谷、武家地の大区画、寺社、近代学校・公共施設の位置関係を、個別図の境界に分断されず把握できます。明治東京の文教地区は、江戸の土地利用を引き継ぎながら形成されました。

東京府武蔵国本郷区本郷元富士町近傍

国土地理院 資料番号1012

高精細原図では、東京大学と第一医院を中心に、観象台・気象台、音楽取調関係施設、外国人教師館、さらに東京府・警視庁の医療・射撃施設が密集しています。江戸期の加賀藩邸をはじめとする大規模屋敷地が、明治政府の教育・医学・科学・衛生施設へ組み替えられていた時期の本郷です。

東京大学と第一医院―旧加賀藩邸が医学の拠点へ

原図には「東京大学」と「第一医院」が大きく記されています。加賀藩前田家の広大な上屋敷は明治4年(1871)に収公されて文部省用地となり、明治9年(1876)に東京医学校と病院が本郷へ移転しました。翌明治10年に東京大学が成立すると東京医学校は医学部となり、本郷の病院も大学の附属病院となります。明治11年(1878)に神田側へ第二医院が置かれたため、本郷の病院は「第一医院」と呼ばれました。現在の東京大学医学部・東京大学医学部附属病院へ続く施設が、この時点ですでに本郷の中心を占めています。

明治五千分一東京図1038 東京大学と第一医院周辺の拡大図
資料番号1038のうち東京大学・第一医院周辺。左に第一医院、右に東京大学の建物群が描かれています。国土地理院所蔵原図から該当範囲を切り出し。

観象台・気象台・音楽取調所・外国人教師館

大学北側には「観象台」「気象台」、音楽取調関係施設、十棟ほどの外国人教師館が並びます。東京大学理学部の観象台は明治11年(1878)に本郷へ設けられ、近代天文学教育の拠点となりました。地図上の大学関係の気象施設は、内務省系統の東京気象台とは別の施設です。

高精細原図では「音楽取調所」と読めますが、明治16年(1883)当時の正式な組織名は「音楽取調掛」でした。文部省は明治12年(1879)に音楽取調掛を設け、伊澤修二いさわ・しゅうじを御用掛に任命します。翌年には本郷の文部省用地へ官署を置き、明治15年から4年制の専門教育を実施しました。「音楽取調所」への正式改称は明治18年2月で、同年12月に再び音楽取調掛となり、明治20年(1887)に東京音楽学校へ発展します。原図の文字と当時の正式名称は分けて扱う必要があります。

外国人教師館は文部省のお雇い外国人教師の居住施設と考えられています。各棟に誰が住んでいたか、詳細は不明です。

明治五千分一東京図1038 観象台・音楽取調所・射撃場周辺の拡大図
画像左下に音楽取調所、左寄りに気象台・観象台、右側に東京共同射的会社の長い射撃場が描かれています。国土地理院所蔵「東京 第2号」原図から該当範囲を切り出し。

東京府癲狂院とうきょうふ・てんきょういん・東京府避病院・黴毒検査所ばいどくけんさしょ

本郷・弥生側には、東京府の医療・衛生施設も集中しています。東京府癲狂院とうきょうふ・てんきょういんは明治12年(1879)に上野公園で開設され、明治14年8月に本郷区駒込東片町へ移転しました。明治19年(1886)には巣鴨へ移り、明治22年に東京府巣鴨病院、さらに大正8年(1919)に松沢へ移転して東京府立松沢病院となります。1883年図は、癲狂院が本郷に置かれていた短い時期を記録しています。

同じ一帯には「東京府避病院」と「黴毒検査所」ばいどくけんさしょの表記も確認できます。避病院はコレラなど急性伝染病への対応施設、黴毒検査所は梅毒対策に関わる施設で、東京府が感染症や性病を行政上の衛生問題として扱っていたことを示す配置です。

明治五千分一東京図1038 東京府癲狂院・避病院周辺の拡大図
画像左上に避病院、左寄りに東京府癲狂院、右上に黴毒検査所が描かれています。公立の医療・衛生施設が近接していたことが分かります。国土地理院所蔵原図から該当範囲を切り出し。

東京共同射的会社と弥生舎やよいしゃ

弥生方面には「東京共同射的会社」と長大な射撃場、監的場が明瞭に描かれています。東京大学埋蔵文化財調査室の調査では、この射撃施設は警察の射撃訓練場として明治9年(1876)から工事が進められ、翌年には使用が始まりました。明治16年図では「東京共同射的会社」と記され、射場はおよそ長さ150メートル、幅50メートル、周囲には高い土塁が築かれていました。発掘調査でも射撃に関係する弾丸が確認されています。

近くの警視庁用地には「弥生舎」やよいしゃも記されています。大学・東京府の医療施設・警察施設・射撃場が隣り合う土地利用は、現在の本郷・弥生からは想像しにくい明治初期の景観です。

明治五千分一東京図1038 東京共同射的会社の射撃場周辺の拡大図
画像右側に「東京共同射的會社」と長い射撃場が描かれています。射撃場は斜めに長く延び、周囲を土塁で囲まれています。国土地理院所蔵「東京 第2号」原図から該当範囲を切り出し。

岩崎弥太郎いわさき・やたろうの「岩崎邸」

湯島側には「岩崎邸」が記されています。これは三菱の創業者岩崎弥太郎いわさき・やたろうが明治11年(1878)に取得した茅町本邸です。弥太郎は周辺地を買い増し、明治15年(1882)に庭園と母屋を整えて本邸としました。したがって1883年図は、本邸化した直後の敷地を描いています。現在の旧岩崎邸庭園に残るジョサイア・コンドル設計の洋館などは、弥太郎の長男岩崎久彌いわさき・ひさやの時代、明治29年(1896)に完成した後世の建物です。

誠之小學せいししょうがく神道修成派しんとうしゅうせいは事務所

高精細原図には「誠之小學」せいししょうがくが記されています。現在の文京区立誠之小学校につながる学校で、明治8年(1875)に開校しました。前身となる福山藩の藩校誠之館せいしかんは廃藩置県で閉校しましたが、旧藩主阿部家は新しい小学校のために校舎・備品を寄贈し、所有地の一部も校地として貸与しました。「誠之」という校名も藩校から受け継がれています。1883年図の学校は、旧大名家の教育資産が近代の小学校制度へ接続した姿です。

近くには「神道修成派事務所」しんとうしゅうせいは・じむしょもあります。神道修成派しんとうしゅうせいはは、新田邦光にった・くにてるが明治6年(1873)に結成した修成講社を母体とし、明治9年に一派独立を認められた教派神道の一派です。明治10年には本部を本郷駒込へ移し、翌年には埼玉へ移転しました。1883年図にある本郷の「事務所」がどのような役割を持っていたか、詳細は不明です。同じ1883年12月には独立7周年の祭典も行われています。

獨乙學校どいつがっこう―医学を志す学生がドイツ語を学んだ私塾

本郷台町には「獨乙學校」どいつがっこうの表記があります。明治11年(1878)に開設された私立のドイツ語学校で、東京大学医学部予科の教員が授業を担当し、医学部予科への進学を志す学生がドイツ語を学ぶ場として利用されました。当時の日本の医学教育ではドイツ医学の影響が強く、ドイツ語の習得が医学修学への実務的な入口となっていました。1883年にこの学校へ入学してドイツ語と数学を学んだ学生の履歴も残っており、地図作成年に実際に活動していた学校であることが確認できます。後の獨逸学協会学校とは別の学校です。

明治五千分一東京図1038 本郷台町の獨乙學校・長泉寺周辺の拡大図
本郷台町・真砂町周辺。画像左寄りの長泉寺の北側一帯(本郷台町36~40番地)が獨乙學校の所在地です。本妙寺・長泉寺など周辺寺院との位置関係を確認できます。国土地理院所蔵原図から該当範囲を切り出し。

福田會育兒院ふくでんかい・いくじいん―明治初期の民間児童救済

龍岡町には「福田會育兒院」ふくでんかい・いくじいんが記されています。福田会は明治9年(1876)、仏教者らの発議で創立され、寺院を中心に児童救済を始めた団体です。「福田」は、善い行いを積むことで福徳が実るという仏教の福田ふくでん思想に由来します。東京都公文書館には、明治13年(1880)12月に「本郷区竜岡町福田会育児院」へ子どもを入院させることを扱った東京府文書が残っており、1883年図の施設が実際に児童を受け入れていたことを確認できます。現在の社会福祉法人福田会へ続く、日本の民間児童福祉の早い段階を示す施設です。

麟祥院りんしょういん―春日局の菩提寺

湯島の麟祥院りんしょういんは、三代将軍徳川家光の乳母として知られる春日局が建立した寺院です。家光から本郷湯島の土地を寺地として与えられ、寛永7年(1630)に寺院が整えられました。のちに春日局自身の法号から「麟祥院」と称するようになり、春日局の墓所も置かれています。一般の寺院名としてではなく、江戸幕府中枢の人物と結びつく寺社地が明治16年の都市の中にも大きく残っていた例として読むことができます。

姓を記した邸宅区画

このほか高精細原図には「津田邸」など、姓を付した大きな邸宅区画もあります。詳細は不明です。旧武家地や大区画が明治期にも私邸として利用されていたことは地図から分かります。

東京府武蔵国神田区駿河台及本郷区湯嶋近傍

国土地理院 資料番号1013

1013では、湯島聖堂の周辺に東京師範学校、東京女子師範学校、附属学校園、東京図書館が集まり、駿河台には私立医療・女子教育の施設も確認できます。1883年の御茶ノ水・湯島は、教員養成、幼児教育、図書館、病院が近接する教育・文化拠点でした。

東京師範学校―旧昌平黌しょうへいこうから始まる教員養成

「東京師範学校」は、明治5年(1872)に神田昌平黌しょうへいこう跡へ創設された師範学校を前身とします。明治6年に東京師範学校となり、附属小学校も置かれました。明治19年(1886)の師範学校令で高等師範学校となり、その系譜は東京高等師範学校、東京教育大学を経て現在の筑波大学へ続きます。江戸幕府の学問所跡が、明治政府の近代的な教員養成の拠点へ転用された例です。

明治五千分一東京図1038 東京師範学校・附属学校園周辺の拡大図
画像左側に東京女子師範学校と附属幼稚園、中央右に東京師範学校と附属小学校、右下に東京図書館が描かれています。国土地理院所蔵「東京 第2号」原図から該当範囲を切り出し。

東京女子師範学校と日本最初の幼稚園

東京女子師範学校は明治8年(1875)、現在の文京区湯島一丁目に開校しました。翌明治9年11月には附属幼稚園が開園し、日本の幼稚園教育の出発点となります。明治10年には附属小学校、明治15年(1882)には附属高等女学校も設置されました。1883年図は、女子師範教育だけでなく、幼稚園・小学校・高等女学校を含む学校園が整った直後の姿を記録しています。これらは現在のお茶の水女子大学と附属学校園につながります。

明治五千分一東京図1038 東京女子師範学校と附属幼稚園周辺の拡大図
画像左側の大きな区画が東京女子師範学校で、その上側に附属幼稚園が描かれています。中央右には東京師範学校もあり、両校の近さを確認できます。国土地理院所蔵「東京 第2号」原図から該当範囲を切り出し。

東京図書館―湯島から国立図書館へ続く系譜

湯島聖堂には明治5年(1872)に文部省博物局の書籍館が開かれました。明治8年には東京書籍館として湯島へ戻り、東京府書籍館を経て明治13年(1880)に文部省所管の「東京図書館」となります。明治18年(1885)には東京教育博物館と合併して上野へ移転しました。原図の「東京図書館」は、湯島に置かれていた末期の姿で、後の帝国図書館、さらに国立国会図書館へつながる図書館史の一段階です。

明治五千分一東京図1038 東京図書館周辺の拡大図
画像右下の湯島聖堂側に「東京圖書館」と記された区画があります。中央右の東京師範学校、左側の東京女子師範学校との位置関係も確認できます。国土地理院所蔵「東京 第2号」原図から該当範囲を切り出し。

順天堂醫院じゅんてんどういいん―湯島に根付いた私立病院

駿河台には「順天堂醫院」じゅんてんどういいんが記されています。順天堂は明治8年(1875)に湯島へ新病院を開き、この時から「順天堂醫院」の名称を用いました。第3代堂主の佐藤進さとう・すすむはドイツ留学から帰国後、明治9年(1876)に東京府の許可を得て病理解剖を実施し、順天堂では私立病院における病理解剖の先例として伝えています。1883年の地図に描かれた醫院は、現在まで同じ湯島・本郷界隈で続く順天堂の近代医学史の初期段階です。

跡見花蹊あとみ・かけいの跡見学校

神田側には「跡見学校」があります。跡見花蹊あとみ・かけいが明治8年(1875)に神田中猿楽町で開いた私立女子校で、国語・漢文・算術に加え、習字、絵画、裁縫、琴曲などを教えました。校地を薔薇の生け垣で囲んだことから「薔薇学校」とも呼ばれ、多くの寄宿生を受け入れました。

跡見学校が小石川柳町へ移転するのは明治21年(1888)です。1883年当時は、まだ神田中猿楽町にありました。

魯國公使館附属地ろこくこうしかん・ふぞくち―ニコライ堂着工前年の駿河台

駿河台には「魯國公使館附属地」ろこくこうしかん・ふぞくちと記された区画があります。「魯國」は当時ロシアを表した漢字表記です。外務省の外交史料によると、ロシア公使館本館は麹町区裏霞ヶ関にありましたが、神田区駿河台東紅梅町にも明治5年(1872)から約2,015坪の附属地を借りていました。

この附属地は、のちの東京復活大聖堂、通称ニコライ堂の敷地です。宣教師ニコライは明治5年に東京へ来た際、この高台を大聖堂建設地に定めました。大聖堂の工事が始まるのは明治17年(1884)、完成は明治24年(1891)です。したがって1883年図は、現在のニコライ堂が建つ直前の土地を、まだ「魯國公使館附属地」として記録しています。

明治五千分一東京図1038 魯國公使館附属地周辺の拡大図
画像中央に「魯國公使館附属地」と記された区画があり、のちにニコライ堂が建つ土地を1883年時点の表記で確認できます。国土地理院所蔵原図から該当範囲を切り出し。

東京府武蔵国小石川区小石川表町近傍

国土地理院 資料番号1014

1014では、小石川植物園の広大な園地、傳通院でんづういんを中心とする寺社地、旧武家地を引き継ぐ大きな邸宅が目立ちます。学校・工場が密集する本郷や飯田町とは異なり、江戸期の土地利用が明治初期にも強く残る区域です。

小石川植物園―御薬園から東京大学の研究施設へ

小石川植物園の土地は、江戸初期に館林藩主だった徳川綱吉の別邸に用いられ、貞享元年(1684)に幕府の小石川御薬園が移されました。享保年間には園地が拡張され、園内に小石川養生所が置かれます。明治になると植物学の研究施設へ性格を変え、明治10年(1877)の東京大学成立後は大学の附属施設となりました。

明治11年(1878)には、東京大学のお雇い外国人教師エドワード・S・モースエドワード・エス・モースが園内の貝塚を調査し、土器などを採集しています。大森貝塚の発掘で知られるモースが小石川でも考古学的調査を行っていたことは、この植物園が明治初期の大学研究と結びついた場所だったことを示す具体的な出来事です。

「小石川植物園」という名称は明治初期から用いられ、明治17年(1884)には東京大学附属植物園へ改称されました。1883年図はその改称直前の姿を記録しています。

明治五千分一東京図1038 小石川植物園周辺の拡大図
画像上部が小石川植物園で、その南側に寺院や畑地が広がっています。江戸期の御薬園から東京大学の研究施設へ移った土地と周辺の位置関係を確認できます。国土地理院所蔵原図から該当範囲を切り出し。

傳通院でんづういん―徳川家の菩提寺が残る小石川

傳通院でんづういんは徳川家康の生母於大の方おだいのかたの菩提寺で、寺名も於大の方の法名に由来します。境内には於大の方や千姫など徳川家ゆかりの墓所がありました。明治維新後、周囲の武家地が官有地・学校・住宅へ転換していくなかでも、広い寺社地が小石川の地割の核として残っていることが原図から確認できます。

明治五千分一東京図1038 傳通院周辺の拡大図
画像中央に傳通院が描かれ、その周囲に寺社地・旧屋敷地が広がっています。起伏の大きい小石川の地形と大区画の土地利用を確認できます。国土地理院所蔵原図から該当範囲を切り出し。

「松平邸」と播磨坂はりまざか周辺の旧武家地

高精細原図には「松平邸」と読める大きな邸宅表記があります。小石川の現在の播磨坂はりまざか周辺は、江戸時代に松平播磨守の上屋敷があったことからこの名で呼ばれるようになりました。原図の「松平邸」について、詳細は不明です。

同様に「安部邸」と読める邸宅も確認できます。詳細は不明です。姓を付して記された大きな私邸区画から、旧武家地の大区画が明治期にも邸宅地として使われていたことが分かります。

「製紙場」―水辺に立地した明治の製紙業

高精細原図には「製紙場」と記された施設も確認できます。文京区史の事項索引にも「小石川製紙場」が立項されており、小石川周辺で製紙業が営まれていたことが分かります。江戸後期から関口・音羽付近の江戸川沿いでは和紙生産が行われ、明治16~17年の地図では江戸川・千川沿いに複数の製紙場が確認されています。紙漉きや製紙には多量の水が必要だったため、川や用水に近い立地には実用上の理由がありました。

この地図の「製紙場」について、経営者や企業名などの詳細は不明です。地図からは製紙場の区画を確認できます。小石川には寺社や邸宅だけでなく、水系を利用する製造業もありました。

明治五千分一東京図1038 小石川の製紙場周辺の拡大図
画像中央付近に「製紙場」と記された区画があります。周囲の水路や市街地との位置関係から、水系に近い場所へ製造施設が立地していた様子を確認できます。国土地理院所蔵原図から該当範囲を切り出し。

東京府武蔵国麹町区飯田町及小石川区小石川町

国土地理院 資料番号1015

1015では、東京砲兵工廠と後楽園、陸軍練兵場、近衛部隊の兵営、大隈邸などが大きな面積を占めます。教育・医療施設が集中する本郷・湯島とは対照的に、飯田町から小石川南部は軍事施設と政府要人の邸宅が近接する地域でした。

東京砲兵工廠とうきょうほうへいこうしょう―水戸徳川家上屋敷から兵器工場へ

後楽園の周囲には「東京砲兵工廠」とうきょうほうへいこうしょうの大規模な工場群が広がります。この一帯は江戸時代の水戸徳川家上屋敷で、明治維新後に陸軍用地となり、明治4年(1871)から兵器工場として使用されました。明治期から昭和初期にかけて東京の主要な兵器生産拠点となり、現在の東京ドーム、東京ドームシティ周辺の大部分がその跡地に当たります。

高精細原図では、工廠の内部に火工場、鍛工場、鉄工場、小銃製造に関係する施設、材料庫・砲具庫などの表記が確認できます。巨大な一棟の工場ではなく、加工工程や用途ごとに建物群を分けた軍需工場だったことが地図から読み取れます。

地図作成年の明治16年(1883)8月29日には、小石川砲兵工廠内の村田銃製造所へ弧光灯ここうとう発電機が据え付けられました。東京電灯の社史では、同年4月の横須賀造船所に続く官業への電灯設備導入として記録されています。まだ東京で一般向けの電力供給が始まる前であり、砲兵工廠が兵器製造だけでなく、新しい動力・照明技術を早期に導入する工業拠点でもあったことが分かります。

明治五千分一東京図1038 東京砲兵工廠と後楽園周辺の拡大図
画像中央の池泉と園路を備えた区画が後楽園です。その周囲、とくに右側と下側に東京砲兵工廠の工場棟が多数並んでいます。国土地理院所蔵原図から該当範囲を切り出し。

後楽園―軍需工場の中に残された大名庭園

砲兵工廠の工場群の中には、池泉と園路を備えた「後楽園」が残されています。庭園は寛永6年(1629)に水戸徳川家初代藩主徳川頼房とくがわ・よりふさが築造を始め、2代徳川光圀とくがわ・みつくにの時代に整えられました。明治に旧上屋敷の大半が兵器工場へ転用された後も庭園部分は残され、軍需工場と江戸期の大名庭園が隣接する景観となりました。

現在の名称は「小石川後楽園」ですが、岡山の後楽園と区別するためこの名称が用いられるようになったのは大正期です。1883年図の時代は原図どおり「後楽園」として扱います。

明治五千分一東京図1038 後楽園周辺の拡大図
画像中央の池泉と園路を備えた大きな区画が後楽園です。周囲、とくに右側と下側には東京砲兵工廠の工場棟が並んでいます。国土地理院所蔵原図から該当範囲を切り出し。

陸軍練兵場と近衛部隊

南側には「陸軍練兵場」の広い空地があり、北の丸方面には近衛砲兵・近衛歩兵の兵営が配置されています。東京砲兵工廠と合わせると、現在の水道橋・飯田橋・九段下周辺に兵器生産、訓練、兵営が連続する大規模な軍事空間が形成されていたことが分かります。

明治五千分一東京図1038 陸軍練兵場周辺の拡大図
画像中央から右側を大きく占める区画が陸軍練兵場です。左側には兵営区画が隣接し、北側には東京砲兵工廠の施設が続いています。国土地理院所蔵原図から該当範囲を切り出し。

大隈重信おおくま・しげのぶの大隈邸と竹橋事件

雉子橋付近には「大隈邸」が明瞭に記されています。大隈重信おおくま・しげのぶの本邸で、近衛砲兵兵舎の道路向かいにありました。明治11年(1878)の竹橋事件では、軍事費削減の責任者とみなされた大蔵卿の大隈も反乱兵の攻撃対象となり、雉子橋邸が襲撃されています。邸宅と兵営が至近距離にあったことを、この地図は具体的な位置関係として示しています。

大隈は明治15年(1882)に早稲田で東京専門学校を開校しましたが、この時点では雉子橋邸が本邸でした。明治17年(1884)2月25日に本邸を早稲田へ移したことが確認されており、1883年図の「大隈邸」は雉子橋を本拠としていた最後期の姿です。原図では周辺に靖国神社附属地も記され、北の丸の軍施設とともに明治初期の国家施設・有力者邸宅の配置を伝えています。

明治五千分一東京図1038 雉子橋の大隈邸周辺の拡大図
画像上部中央寄り、飯田町六丁目の南側に右書きで「大隈邸」と記されています。邸内には建物群と庭園が描かれ、北の丸側の軍施設に近い位置関係も確認できます。国土地理院所蔵原図から該当範囲を切り出し。

同人社どうじんしゃ中村正直なかむら・まさなおの英学塾

小石川側には「同人社」どうじんしゃの表記もあります。幕末に昌平坂学問所で教え、英国留学後に『西国立志編』『自由之理』などを訳した中村正直なかむら・まさなおが、明治6年(1873)に小石川江戸川町の自邸内へ開いた私塾です。英学を中心に教え、慶應義塾などと並ぶ有力な私塾として全国から学生を集めました。

国立国会図書館には、同人社が明治6年に刊行した中村訳『共和政治』などが現存しています。官立の師範学校や東京大学だけでなく、個人が開いた英学塾が同じ地域に存在していたことは、明治初期の東京で近代教育が官学と私学の両方から広がったことを示しています。

麹町區治安裁判所こうじまちく・ちあんさいばんしょ―制度改編直後の裁判所名

原図には「麹町區治安裁判所」こうじまちく・ちあんさいばんしょも記されています。明治14年(1881)の裁判所制度改編では、それまでの区裁判所が「治安裁判所」と改称され、治罪法のもとで違警罪などを扱う下級裁判所として位置づけられました。1883年図の表記は、この新しい裁判所名称が使われ始めて間もない時期のものです。

現在の裁判所制度とは名称も管轄の仕組みも異なりますが、地図上の「治安裁判所」は、明治政府が近代的な刑事・司法制度を整備していた過程をそのまま反映した官署名です。

明治五千分一東京図1038 飯田町・麹町區治安裁判所周辺の拡大図
飯田町・富士見町周辺。画像中央下寄りに麹町區治安裁判所が描かれています。国土地理院所蔵原図から該当範囲を切り出し。

4図を通して見る本郷・小石川・駿河台

1038の包括図では、旧大名屋敷を受け継いだ東京大学と第一医院、湯島の師範学校・女子師範学校、幕府の御薬園から大学研究施設となった小石川植物園、水戸徳川家上屋敷を転用した東京砲兵工廠が一続きの都市空間に並びます。さらに誠之小學せいししょうがく獨乙學校どいつがっこう福田會育兒院ふくでんかい・いくじいん魯國公使館附属地ろこくこうしかん・ふぞくち、製紙場、同人社どうじんしゃ、治安裁判所まで描かれています。1883年の本郷・小石川・駿河台一帯では、教育・医学・科学・衛生・福祉・宗教・外交・軍事・司法・産業が、江戸時代の屋敷地や寺社地、水系の上へ重なりながら近代都市の機能へ組み替えられていました。

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主な参考資料

  • 国土地理院「古地図コレクション 五千分一東京図測量原図」
  • 東京大学総合研究博物館「東京大学本郷キャンパスの歴史と建築」
  • 東京大学埋蔵文化財調査室『東京大学本郷構内の遺跡 発掘調査報告書12』
  • 東京大学医学部附属病院「沿革」/国立天文台「東京天文台100年史」
  • 東京藝術大学「沿革・歴史」
  • 東京都立病院機構 松沢病院「病院の沿革」
  • 筑波大学附属中学校・高等学校「沿革」/お茶の水女子大学「お茶大の歩み」
  • 国立国会図書館「本の玉手箱―年表」
  • 学校法人順天堂「順天堂醫院の名称と由来」「順天堂醫院での病理解剖」
  • 跡見学園「学園沿革」
  • 東京都公園協会「岩崎家茅町本邸・別邸」/文京区・文京ふるさと歴史館資料
  • 文京区教育委員会『文京区文化財年報 令和5年度』「誠之館と区立誠之小学校」
  • 國學院大學デジタル・ミュージアム「新田邦光」
  • 社会福祉法人福田会「沿革」「福田会について」/東京都公文書館「本郷区竜岡町福田会育児院」関係公文書
  • 上村直己「東京本郷台町の独逸学校入学」
  • 外務省『外務省調査月報』「明治時代の東京にあった外国公館(5)」/千代田区観光協会「ニコライ堂」
  • 文京区「麟祥院」/文京区立図書館「文京区史」事項索引
  • 『ランドスケープ研究』「小石川後楽園にみる庭園と都市との相互的関係に基づく歴史的庭園の歴史性に関する考察」
  • 国立国会図書館『共和政治』書誌・デジタル資料/日本法令索引〔明治前期編〕「区裁判所ハ治安裁判所ト心得シム」
  • 渋沢社史データベース『東京電灯株式会社開業五十年史』年表
  • 早稲田大学「雉子橋邸を知っていますか」
  • 千代田区「ふるさと文化の散歩道」