高島平団地の歴史|徳丸ヶ原・高島秋帆から「東洋一」のマンモス団地、再生計画まで

日本ビクター蓄音器が製造したビクトローラVV J2-10 日本史・社会制度
高島平団地の全景(2009年)。撮影:Kamemaru2000/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

都営三田線の高島平駅を出ると、高架線の両側に大きな住棟が連なり、幅の広い道路、緑地、歩行者空間が視界に入ります。東京の郊外に計画的につくられた街だと、歩き始めてすぐに分かる景観です。

しかし、この場所は団地建設前まで広大な水田でした。さらに時間を巻き戻すと、幕末に西洋式の大砲が轟いた演習地でもあります。大砲が鳴り、水田が広がっていた土地は、なぜ約1万戸の巨大団地となり、半世紀後に再び造り替えられようとしているのでしょうか。

板橋区高島平に広がる高島平団地の住棟群の全景
高島平団地の全景(2009年)。撮影:Kamemaru2000/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

まず結論|高島平は「東京が土地を作り替えた歴史」の縮図

高島平の歴史は、五つの段階で見ると全体像がつかめます。第一は、荒川低地に広がる赤塚・徳丸たんぼ。第二は、1841年の西洋式砲術演習。第三は、戦後の住宅不足を背景にした土地区画整理と地下鉄建設。第四は、1972年から約1万世帯が暮らし始めた巨大団地の時代。第五は、高齢化や施設更新に対応する現在の都市再生です。

この記事で扱うのは住棟だけではありません。水田、道路、鉄道、学校、商店、緑地、住民活動を含む「高島平という地域」が、時代ごとの東京の課題に応じて何度も意味を変えてきた過程です。

団地ができる前、高島平は赤塚・徳丸たんぼだった

現在の高島平一帯は、荒川と新河岸しんがし川に近い低地です。かつては赤塚・徳丸たんぼと呼ばれる水田地帯が広がり、東京近郊の食料供給を支えていました。平坦で水を得やすい土地は稲作に向く一方、洪水や排水の問題を抱えやすい土地でもありました。

1948年、この一帯は緑地地域に指定されます。緑地地域は単純な自然保護制度ではありません。戦後の食料事情のもとで農地を保全し、無秩序な市街地拡大を抑える役割を担いました。建築が制限されたため、農業地として残される力が働いたのです。

ところが高度経済成長が始まると、周辺環境が変わります。新河岸川沿岸には工場が進出し、地下水不足、汚水、地盤沈下などが農業継続を難しくしました。農地を守る制度が存在しても、生産条件そのものが悪化すれば暮らしは成り立ちません。開発は農地が一方的に奪われた物語でも、当然の近代化でもなく、地権者が農業の将来を見通しにくくなった現実と、東京の住宅不足が重なって進みました。

1841年の砲声|高島秋帆と徳丸原の西洋式砲術演習

高島秋帆たかしま しゅうはんは、長崎町年寄の家に生まれ、海外情報が集まる長崎で西洋の兵学と砲術を学んだ砲術家です。オランダ語の知識や輸入兵器の研究をもとに、西洋流砲術を体系化しました。

高島平の地名の由来となった江戸時代の砲術家・高島秋帆の肖像
高島秋帆。作者不詳/東京大学史料編纂所/Wikimedia Commons/Public Domain。

天保12年(1841)5月9日、秋帆は幕命を受け、弟子99人と武州徳丸原とくまるがはらで西洋式砲術演習を行いました。当時の徳丸原は広く平らで、射撃訓練に適した場所でした。演習では大砲や小銃を用いた西洋式の動作が示され、幕府や諸藩が軍制と兵器を見直す際の重要な刺激となりました。ただし、一度の演習だけで幕府軍制が全面的に近代化したわけではありません。海防への危機感が高まるなか、西洋式軍事技術を実地に示した転換点の一つと見るのが適切です。

「高島平」という地名は、秋帆の姓「高島」と、平らな土地を表す「平」を組み合わせたものです。1968年10月20日付の「板橋区のお知らせ」で新しい町名として発表されました。現在の徳丸ヶ原公園には徳丸原遺跡碑があり、団地の街路の中で幕末の記憶を確かめられます。

水田を住宅地へ|緑地解除と土地区画整理

1958年、東京都は緑地地域を解除する方針を示しました。1962年には旧赤塚水田地帯開発協力会と住宅交渉委員会が組織され、地元で開発の枠組みを探る動きが本格化します。しかし、道路、下水、宅地造成を一体で進める規模は、地元だけで担えるものではありませんでした。

そこで日本住宅公団が加わります。1963年12月、公団は約36万坪の土地を購入し、団地建設が確定しました。1965年に土地区画整理の施行区域が決まった当初、住宅計画は4,890戸でした。ところが東京への人口集中に住宅供給が追いつかず、計画は拡大され、1969年には10,170戸となります。

戸数を増やすため、3DKを減らし、2DKや1DKを増やす変更も行われました。これは設計上の数字遊びではありません。限られた土地と建設期間で、できるだけ多くの世帯に住まいを届けるという、当時の住宅政策の切迫感を映しています。

地下鉄と団地は一体でつくられた

都営地下鉄6号線は1968年12月27日、志村駅、現在の高島平駅から巣鴨駅まで開業しました。翌1969年8月1日に志村駅は高島平駅へ改称され、1976年5月6日には西高島平まで延伸します。1978年に路線名が三田線となりました。

高島平駅に到着する都営地下鉄三田線の列車
高島平駅に到着する都営三田線列車(2013年)。撮影:Missmikage/Wikimedia Commons/CC BY-SA 3.0。

鉄道が先に完成し、その後たまたま団地ができたのではありません。大量の住宅を供給するには、毎朝、多数の住民を都心へ運ぶ交通基盤が不可欠でした。団地と地下鉄は同じ都市問題への二つの回答だったのです。

東急などの私鉄会社が鉄道敷設と宅地開発を事業として組み合わせた沿線開発とは仕組みが異なります。高島平では、行政、日本住宅公団、都営地下鉄が役割を分担して都市を形づくりました。私鉄主導の街づくりとの違いは、五島慶太と東急の沿線開発でも詳しく紹介しています。

「東洋一」のマンモス団地が生まれた

高島平団地は、板橋区の公文書館資料などでも「東洋一のマンモス団地」と表現されてきました。この言葉の核心は、住棟の大きさだけではありません。短期間に人口、学校、保育、商業、行政需要が一斉に発生した都市規模の変化にあります。

1972年1月23日、高島平駅近くの14階建て2棟から入居が始まりました。翌1973年3月の第五次入居まで、約1年間におよそ1万世帯、2万9千人が入居します。計画戸数10,170戸の内訳は、賃貸住宅8,287戸、分譲住宅1,883戸でした。現在も高島平二丁目を中心とするUR賃貸と、高島平三丁目の分譲住宅は権利関係も管理の仕組みも異なり、同じものとして扱えません。

団地が提案した新しい暮らし

鉄筋コンクリート造、ダイニングキッチン、浴室、ベランダを備えた公団住宅は、木造住宅や間借りが多かった時代に、衛生的で合理的な暮らしの象徴でした。2DKや公団住宅の基礎は団地まるわかりガイドで詳しく解説しているため、ここでは高島平特有の社会形成に目を向けます。

高島平団地の中高層住棟と団地内の生活空間
高島平団地の住棟(2005年)。撮影:Kentin/Wikimedia Commons/CC BY-SA 2.1 Japan。

公団側は家賃水準から、比較的年齢が高く安定収入のある世帯を想定していました。しかし実際には、団塊世代を中心とする若い家族が多く入居しました。高い家賃を支えるため共働き世帯も多く、保育園の需要は予測を超えます。完成時の保育園は3園にとどまり、待機児童問題が大きくなりました。

この問題は単なる計画失敗ではなく、新しい住宅に若い家族が集中した結果でもあります。住民は行政に働きかけ、保育環境の拡充を求めました。1978年には住民運動を背景にこじか保育園が誕生します。学校、児童館、商店、自治会、団地まつりも整えられ、同じ時期に移り住んだ人々が新しい地域社会をつくっていきました。

高島平を歩くと、計画都市の設計が見える

現地では、高島平駅、巨大な住棟群、高島平緑地、けやき並木、徳丸ヶ原公園、徳丸原遺跡碑を結ぶと、異なる時代の層が見えてきます。住棟、車道、歩道、緑地、学校、商業施設を分けて配置する考え方は、歩くほど分かりやすくなります。

高島平の都道446号にある植栽で歩行者と自転車を分離した歩道
高島平の植栽分離型歩道(2016年)。撮影:7q3kjfehb/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0。

板橋十景に選ばれたけやき並木は、都立赤塚公園前から高島平駅前まで約600メートル続きます。高島平緑地は高島通りと三田線沿いに設けられた緩衝緑地で、交通の騒音や排気ガスから住宅地を守る役割も担ってきました。

高島平プロムナード基本構想は、高島通り・高島平緑地を中心とする東西約2,700メートルと、赤塚公園から徳丸ヶ原公園を結ぶ南北約1,000メートルを骨格として示しています。これは昭和の計画都市を否定して一から作り直す発想ではなく、既存の緑と歩行空間を次のまちづくりへつなぐ考え方です。板橋北部をさらに歩くなら、旧中山道や志村の史跡も続けて訪ねられます。

なぜ高島平は高齢化と老朽化の課題を抱えたのか

高島平の高齢化には、団地特有の時間構造があります。約1年間に同世代の家族が大量入居したため、数十年後には住民が同じ時期に高齢期を迎えました。子ども世代が進学や就職で転出し、世帯規模が縮小したことも人口構成を変えました。

一方、建物と設備は築後半世紀を超え、給排水、バリアフリー、断熱、共用部などの更新が必要になります。商業環境も大型店やインターネット通販の普及で変化しました。人口構成、家族の変化、建物、商業は別々の問題ですが、同時に進んだことで「街全体の課題」として見えるようになったのです。

ただし、高島平を「高齢者ばかりの衰退した街」と一括りにするのは正確ではありません。外国人住民、多世代交流、大学や地域団体との協働、住戸リノベーションなど、新しい動きも続いています。分譲住宅とUR賃貸では合意形成や改修の方法も異なるため、再生策は一種類ではありません。

高島平はこれからどう変わるのか

高島平の都市再生は、一つの建替え計画ではなく、複数の計画と制度が段階的に積み重なる取り組みです。2015年10月に高島平地域グランドデザイン、2022年2月に都市再生実施計画が策定されました。2024年3月26日には交流核形成まちづくりプランが策定され、同年3月28日、板橋区とUR都市機構が基本協定・実施協定を締結しました。

2025年6月23日には高島平二・三丁目周辺地区の地区計画が都市計画決定されました。地区計画の内容を建築確認などで担保する建築物制限条例は、2026年3月12日に公布され、5月31日に施行されています。ここまでは決定・施行済みです。

一方、2026年6月に公表されたのは高島平地域グランドデザイン「改定の基本方針」であり、改定版そのものではありません。板橋区は今後検討を進め、2028年3月の策定・公表を予定しています。したがって、「2026年にグランドデザイン改定済み」「タワーマンションが必ず建つ」「団地全体がすぐ建て替えられる」と断定することはできません。

今後の焦点は、既存住民の移転と生活継続、若い世代を含む住宅供給、商業・公共施設の更新、緑地や広場の継承、防災性とバリアフリー、家賃や居住負担、高島平らしい景観とコミュニティの維持です。都市再生は建物の新しさだけでなく、住み続けられる条件をどう設計するかで評価されるべきでしょう。

高島平団地の歴史年表

出来事
1841年5月9日徳丸原で高島秋帆が西洋式砲術演習
1948年一帯が緑地地域に指定
1958年東京都が緑地地域解除の方針を示す
1962年旧赤塚水田地帯開発協力会、住宅交渉委員会が発足
1963年日本住宅公団が約36万坪を購入
1965年土地区画整理の施行区域決定
1968年10月20日「高島平」の名称を発表
1968年12月27日都営地下鉄6号線・志村―巣鴨間開業
1969年8月1日志村駅を高島平駅へ改称
1969年団地計画を10,170戸へ変更
1972年1月23日14階建て2棟から第一次入居開始
1973年3月第五次入居完了
1976年5月6日高島平―西高島平間延伸
2015年高島平地域グランドデザイン策定
2022年高島平地域都市再生実施計画策定
2024年交流核形成まちづくりプラン策定、区とURが協定締結
2025年高島平二・三丁目周辺地区の地区計画決定
2026年建築物制限条例施行、グランドデザイン改定の基本方針公表

よくある質問

高島平団地はいつ完成しましたか

入居は1972年1月23日に始まり、1973年3月の第五次入居で一連の入居が完了しました。

高島平という地名は高島秋帆と関係がありますか

はい。高島秋帆の「高島」と、平らな地形を示す「平」を組み合わせた地名です。

高島平団地は本当に「東洋一」だったのですか

板橋区の公式資料でも「東洋一のマンモス団地」と表現されています。厳密な国際順位というより、10,170戸という当時の圧倒的規模を示す呼称です。

高島平団地はすべてUR賃貸住宅ですか

いいえ。計画戸数10,170戸のうち、賃貸8,287戸、分譲1,883戸です。

高島平団地は建て替えられるのですか

地区計画や交流核形成の取り組みは進んでいますが、団地全体が直ちに一括建替えされると決まったわけではありません。決定済みの制度と今後の検討を分けて見る必要があります。

高島秋帆の砲術演習の跡は現在も見られますか

徳丸ヶ原公園に徳丸原遺跡碑があり、演習地の記憶を伝えています。

高島平を歴史散歩するならどこを見るべきですか

高島平駅、団地住棟、けやき並木、高島平緑地、徳丸ヶ原公園、徳丸原遺跡碑を結ぶと、計画都市と幕末史を一度にたどれます。

まとめ|高島平は、完成した街ではなく作り替え続けられる街

高島平では、幕末の砲術演習地が水田として使われ、戦後には住宅地へ変わり、巨大団地と地下鉄を核とする街が生まれました。いま進む都市再生も、古い団地を新しくするだけの話ではありません。東京が人口、交通、住宅、保育、福祉、防災にどう対応してきたかを、次の時代へ引き継ぐ作業です。

現地を歩けば、徳丸原の記憶、昭和の計画都市、成熟した緑、現在の暮らしが同時に見えます。制度の違いは都営住宅の桐ケ丘団地、規模の違いは広域都市である多摩ニュータウンと比べると明確です。東京23区の高齢化統計は都市型限界集落の統計ハブ、住宅地を含む再生の位置付けは東京再開発の横断記事で確認できます。

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参考文献