大阪府高槻市成合の山中に、太平洋戦争末期に造られた大規模な地下軍事施設が残っています。通称「タチソ」です。
米国戦略爆撃調査団(USSBS)の戦後報告によると、坑道の建設は1944年11月、陸軍の中央倉庫として始まりました。1945年2月には川崎航空機の疎開地下工場へ用途が変更され、三式戦闘機「飛燕」後期型系統に使うHa-140直列エンジンの部品を生産する計画となりました。

計画された地下工場の床面積は合計30万平方フィート、約2万7,900㎡です。工事が進んでいた第1工場は16本の坑道を格子状に配置し、床面積10万平方フィート、工作機械550台を置く計画でした。
終戦時に搬入されていた工作機械は40台で、6本の坑道が生産開始に近い状態でした。USSBSは、本格生産を1945年8月20日前後に始める予定だったと記録しています。日本の降伏は8月15日で、タチソは本格稼働直前に役割を失いました。
タチソはどこにある?
タチソは大阪府高槻市成合地区の山中にあります。高槻市は大阪と京都の中間に位置し、成合地区は市街地の北東側に広がる丘陵地です。
USSBSも高槻地下工場を、大阪と京都の中間にある成合付近の地下施設として記録しています。
「タチソ」とは何の略?
「タチソ」は「高槻地下倉庫(たかつき・ちか・そうこ)」を縮めた呼び名として定着しています。高槻市史では「成合地下工場」として扱われています。
資料では「タチソ」「高槻地下倉庫」「成合地下工場」「高槻地下工場」など複数の名称が使われています。
最初は陸軍の地下倉庫だった
USSBSによると、坑道建設は1944年11月に政府によって始められました。当初の目的は陸軍の中央倉庫です。
1945年に入ると航空機工場への空襲が激しくなり、生産設備を地下へ分散させる計画が進みます。1945年2月、高槻の地下施設は川崎航空機が使用する疎開地下工場へ変更されました。
高槻で何を造る予定だった?
USSBSは、高槻地下工場の目的を「Tony II用Ha-140直列エンジンの部品製造」と記録しています。「Tony」は米軍が川崎キ61三式戦闘機「飛燕」に付けたコードネームです。

画像は高槻で撮影された機体ではありません。タチソで部品生産が計画されたエンジンと、使用予定だった戦闘機の関係を示す参考写真です。
高槻市立図書館のレファレンスでも、タチソは川崎航空機の三式戦闘機「飛燕」の「エンジン部分」の製造を目的として工事が進められたと整理されています。
完成した飛燕を地下で最終組立する工場ではなく、Ha-140エンジンの部品・関連工程を地下へ移す計画でした。
総計画床面積は30万平方フィート
USSBSの調査では、高槻地下工場は隣接する二つの丘に計画されていました。総計画床面積は30万平方フィート、約2万7,900㎡です。
配置図では第1工場が10万平方フィート、第2工場が20万平方フィートとされています。ただし、終戦までに計画全体が完成したわけではありません。
第1工場は16本の坑道を格子状に配置
比較的工事が進んでいた第1工場には、16本の坑道が格子状に配置されていました。床面積は10万平方フィート、約9,300㎡です。
USSBSの配置図では、坑道の平均寸法を幅16フィート、高さ14フィートとしています。メートル換算では幅約4.9m、高さ約4.3mです。
人員避難だけを目的とする小規模な防空壕より大きく、工作機械を設置して生産を行う地下工場として設計された坑道でした。
工作機械550台を置く計画
第1工場には工作機械550台を置く計画でした。終戦時に搬入済みだったのは40台で、電力設備も設置されていました。
USSBSは、6本の坑道が生産開始に近い状態だったと記録しています。工作機械を坑道へ搬入するため、崖の縁に機械を置き、鋼板の上を滑らせて地下へ下ろす準備も行われていました。
湿気・崩落への対策
1945年10月30日にUSSBSが調査した時点でも、坑道内はかなり湿っていました。一部はコンクリートで補強され、多くの場所で木製支保工が使われていました。
将来は電気暖房と換気設備を設置する予定でした。地下工場では湧水・湿気・換気・照明・工作機械の防錆が生産上の大きな課題でした。
生産開始予定は1945年8月20日前後
USSBS報告書では、生産開始を1945年8月20日前後としています。終戦は8月15日でした。
機械と電力設備の搬入は進んでいましたが、地下工場としての本格的な量産開始には至りませんでした。タチソは、戦争末期の工場疎開が生産直前まで進んでいたことを示す遺構です。
建設に従事した朝鮮人労働者
USSBS報告書は、「谷に居住する3,500人の朝鮮人がこの工場の建設に従事した」と記録しています。配置図にも「KOREAN WORKERS HOMES」として朝鮮人労働者の宿舎区域が記されており、米軍調査時点でも労働者居住区が地下工場の構成要素として認識されていました。
『高槻市史』も「地下工場建設工事の朝鮮人労働者たち」を独立した項目として扱い、工事には地元村民、高槻医専・北野中学・関西工業学校などの勤労学生とともに朝鮮人労働者が投入されたと記しています。とくに危険な坑口の開削や発破を伴う掘削作業では、朝鮮人労働者が大きな比重を占め、人数を約3,500人とする記述があります。
施工体制も市史から具体的に分かります。軍が計画・監督し、技術面では国鉄岐阜地方施設部が中心となり、間組と関連下請業者が工事を請け負いました。地下工場は一つの軍部隊だけで掘った施設ではなく、軍、鉄道技術部門、建設会社、地元行政、動員労働力を組み合わせた国家的な軍需工事でした。
市史が収録する元関係者の回想では、山腹に多数の坑口を開け、昼夜を問わず発破を続けたため、周囲には爆音が響き、掘削中の落盤や機銃掃射による被害もあったとされています。朝鮮人労働者の宿舎は簡易な飯場で、数棟から十数棟規模の宿舎群が谷沿いに設けられていました。地下工場の建設史を考える際は、坑道寸法や工作機械数だけでなく、周辺に形成された労働者居住区まで含める必要があります。
ただし、個々の労働者が募集、官斡旋、徴用など、どの経路で高槻へ来たのかを一律に確定することはできません。3,500人という数字もUSSBSと高槻市史に記録された規模として示し、個人単位の動員経路とは分けて扱う必要があります。
地下工場の外にも広がった建設区域
USSBSの配置図には第1・第2工場だけでなく、朝鮮人労働者宿舎や周辺の地形も記録されています。『高槻市史』を読むと、地下工場建設は山体内部だけで完結せず、農地・山林、宿舎、倉庫、資材置場、道路など周辺一帯を軍用地へ組み替える事業だったことが分かります。
市史によると、1944年9月末、陸軍憲兵曹長や行政官らが高槻市役所へ関係地主を集め、成合地区での地下軍需工場建設、労務者宿舎・倉庫用地としての農地と山林の収用方針を説明しました。農地は坪当たり3銭の一時賃貸契約とされ、収用期間は1944年10月から「陸軍省が不要と認める時まで」とされました。
戦後には軍用地として使われた土地を現況復帰のうえ地主へ返還することが課題となりました。しかし、山腹には多数の坑道が掘られ、農地や山林の地形そのものが変わっています。『高槻市史』は成合地区の戦後史で土地返還問題を扱っており、地下工場建設が敗戦と同時に地域社会から消えたわけではないことを示しています。
タチソは地下工場の遺構であると同時に、軍需疎開のため土地・労働力・行政が短期間に動員された地域史の痕跡です。坑道だけを見ても、なぜこの谷に大勢の労働者が暮らし、周辺の土地利用が大きく変わったのかは分かりません。地上の飯場跡や旧道、農地との関係を合わせて読む必要があります。
戦後のUSSBS調査が残した記録
米国戦略爆撃調査団は1945年10月30日に高槻地下工場を調査しました。報告書『Underground Production of Japanese Aircraft』には、建設開始時期、用途変更、床面積、坑道数、工作機械数、電力設備、生産開始予定、製造予定部品、労働者宿舎まで具体的に記録されています。
現在の坑道だけでは確認できない「何を、どの規模で造る予定だったのか」を知る重要な一次資料です。
現在のタチソは見学できる?
2026年9月現在、タチソは高槻市が常設公開する観光施設ではありません。保存団体による調査・保存活動や見学会が行われています。
高槻「タチソ」戦跡保存の会による2026年10月31日の見学会も案内されていますが、高槻市公式イベントではありません。参加条件や開催状況は主催団体の最新案内を確認する必要があります。
坑道には崩落・落石・湿気などの危険があり、常設照明を備えた観光トンネルではありません。保存団体などの案内なしに坑道へ立ち入ることは避けてください。
関連する地下軍需工場
戦争末期には、航空機やエンジンの生産設備を地下へ移す工場疎開が各地で進められました。
- 日本の地下壕・地下軍事施設丸わかりガイド
- 亀島山地下工場:三菱重工業水島航空機製作所の生産機能を地下へ疎開した施設
- 浅川地下壕:中島飛行機の航空機エンジン生産を地下へ移した施設
- 吉見百穴地下軍需工場:中島飛行機関係の地下軍需工場
参考文献・確認先
- United States Strategic Bombing Survey, Underground Production of Japanese Aircraft, 1947
- 国立国会図書館「Records of the U.S. Strategic Bombing Survey」
- ジャパンサーチ/国立国会図書館デジタルコレクション『Underground Production of Japanese Aircraft』
- 高槻市立図書館『高槻市史』「戦時体制下の高槻」
- レファレンス協同データベース「タチソ(高槻地下倉庫)で作ろうとしていたという『飛燕』とは、どんなものか。」
- Chong-ae Yu, “The Heritage of Resentment and Shame in Postwar Japan,” The Asia-Pacific Journal: Japan Focus, 2017

