岡山県倉敷市の水島は、現在では石油化学、鉄鋼、自動車などの工場が集まる大規模な工業地帯です。その前史には、太平洋戦争中に建設された航空機工場があります。
1941年、海軍の要請を受けて三菱重工業が高梁川の廃川地に航空機製作所の建設を始め、1943年に水島航空機製作所が操業を開始しました。一式陸上攻撃機などの軍用機を生産した工場です。
1945年に空襲が激しくなると、重要機械や生産設備を山中へ移す工事が進みました。亀島山の地下には網の目状の坑道が掘られ、総延長は2,055mに達します。一部は未完成でしたが、6月22日の水島大空襲で地上工場が壊滅的な被害を受けた後も、亀島山をはじめとする地下・分散工場では終戦まで航空機生産が続けられました。
現在の水島工業地帯は戦時中の航空機工場から始まった
倉敷市の沿革によると、1941年、海軍の要請を受けた三菱重工業が高梁川廃川地で航空機製作所の建設に着手しました。このころから一帯が「水島」と呼ばれるようになり、1943年に水島航空機製作所が操業を始めました。
航空機工場の建設に伴い、工場だけでなく社宅、道路、防空施設なども整備されました。水島西栄町に残る旧吉田彦七家住宅は、1943年に操業を始めた水島航空機製作所の工員用社宅で、現在は国登録有形文化財です。
戦後の水島臨海工業地帯は、戦時中に形成された土地利用や交通・都市基盤の上で発展していきました。
水島航空機製作所では何を造っていた?
水島航空機製作所では海軍の軍用機が生産されました。倉敷市が公開する1945年6月22日の空襲後の写真には、破壊された工場内に一式陸上攻撃機の残骸が写っています。

掲載写真は一式陸上攻撃機の同型機で、水島で撮影されたものではありません。国立国会図書館が公開する米国戦略爆撃調査団(USSBS)資料の索引には、三菱重工業水島第7航空機機体工場について、生産実績、雇用、原材料、空襲被害、疎開、工場配置図まで調査した一式の工場資料が残されています。
このUSSBS資料をもとに地域でまとめられた「水島航空機製作所Q&A」では、1944年1月以降に水島で生産された機体を一式陸上攻撃機513機、紫電改9機としています。倉敷市の市民対話記録などには523機とする説明もあり、後世の集計には差があります。そのため機数は一つの数字だけを確定値として扱わず、USSBSを根拠とする513機・9機という集計があることと、地域資料に別集計が存在することを分けて見る必要があります。
水島航空機製作所では戦争末期に約2万5千人が働いていました。工場本体だけでなく、飛行場、鉄道、病院、学校、寄宿舎・社宅群まで整備され、航空機生産を中心に一つの工業都市が形成されていました。米軍にとって水島は単独の工場建屋ではなく、日本海軍の航空機生産能力を支える重要な産業拠点でした。
水島は1945年に8回の空襲を受けた
倉敷市によると、水島への空襲は1945年3月19日を最初に合計8回行われました。米軍の主目的は航空機工業の破壊で、水島航空機製作所を狙った攻撃が繰り返されました。
水島航空機製作所は海軍管理工場で、航空機工業は国家の最高機密とされていました。倉敷市は、この事情が大規模な空襲の実態が長く広く知られにくかった背景にあると説明しています。
4月12日の空襲後、重要機械の地下疎開が始まる
1945年4月12日の空襲で水島航空機製作所が被爆すると、重要機械の疎開が始まりました。工作機械や生産設備を地上工場から山中の地下施設や周辺の分散工場へ移す計画です。
疎開先には、亀島山の「亀」地下工場、竜の口の「鶴」地下工場、「松」などの分散工場がありました。その中で最大規模だったのが亀島山地下工場です。
亀島山地下工場は総延長2,055m
亀島山の地下には、複数の坑道が接続する巨大なトンネル群が残っています。倉敷市が示す総延長は2,055mで、一部は未完成のまま終戦を迎えました。
亀島山地下工場は、航空機生産を地下で続けるための工場でした。工作機械を搬入し、人員と生産工程を収容するため、大規模な坑道網が掘られました。
倉敷市の歴史文化保存活用計画では、亀島山を水島地区入口にある標高78mの小山とし、その地下に東西方向の主トンネル5本(1~5号)と、これらを結ぶ南北方向の連結トンネル28本が残ると整理しています。単純な一本坑ではなく、工作機械・材料・人員を複数の作業区画へ配置できる格子状の地下工場です。
最大級の1号トンネルは幅約7m、高さ約4mで、部分的にコンクリート被覆が残ります。人員避難だけを目的とする防空壕よりはるかに大きく、工作機械や部品を運び込み、生産工程を収容するための寸法です。坑道は北側ほど狭くなり、掘削途中の区画も多く残ります。完成した作業空間と未完成部分が同じ坑道網の中に併存するため、終戦時の工事進捗を遺構そのものから読み取れます。
総延長2,055mという数字は、これら主坑道と連結坑道を合わせた長さです。地下に大空間を一室造る方式ではなく、山体を多数の細長い生産区画へ分割することで、爆撃による一括破壊を避けながら工程を分散する設計でした。
地下工場を掘り、働いた人々
倉敷市は、亀島山地下工場の工事について「朝鮮人を含む多くの労働者が動員され、突貫工事で掘り進められた」と説明しています。岡山県観光連盟の公式案内も、地下工場と水島航空機製作所で多くの少年少女や朝鮮人労働者が働いていたことを、平和・人権学習の重要な論点として紹介しています。
水島の航空機生産全体では、成人男性が兵役へ取られて労働力が不足するにつれ、養成工、学徒勤労動員の少年少女、女子挺身隊員が大きな比重を占めるようになりました。岡山県立記録資料館の資料目録には、岡山第一女子高等女学校の生徒が水島へ学徒動員された写真や、女子挺身隊が航空機製作所で働く様子を伝える資料が残っています。県立倉敷商業では1944年7月から男子生徒約75人が水島の飛行機組立工場へ動員された記録も確認できます。
一方、地下工場の掘削と航空機製造の労働は同じではありません。地域研究資料では、土木・坑道工事に朝鮮人労働者が多数投入され、航空機の製造工程では学徒・養成工・女子挺身隊が主力になったと整理されています。個々の労働者がどの工程に、どの法的・動員区分で配置されたかは資料によって確認できる範囲が異なるため、「地下工場で働いた人々」を一括して同じ動員形態だったと扱わないことが重要です。
亀島山の坑内には、トロッコ軌道の枕木痕、削岩機でダイナマイト孔を開けたロッド痕、測量杭とみられる穴、途中で折れたロッドなどが残ると報告されています。東西から掘り進めた坑道が中央で接続する区画もあり、短期間に複数方向から掘削を進めた突貫工事の痕跡を現地で確認できます。
6月22日の水島大空襲
1945年6月22日午前8時36分、水島航空機製作所はB-29の大編隊による大規模な空襲を受けました。倉敷市の戦後70周年記念誌はB-29を110機、投下された高性能爆弾を約603トンと記録しています。一方、玉島砲台を紹介する倉敷市公式ページは、米軍の「TACTICAL MISSION REPORT」を根拠に参加機を108機としています。同じ市の公的資料でも機数に差があるため、108~110機規模の大編隊による攻撃と捉えるのが安全です。
地上工場は1時間足らずの攻撃で施設の大部分を破壊されました。県警防課発表として倉敷市が紹介する人的被害は、死亡11人、重傷11人、軽傷35人です。当時の工場には約2万5千人が働いていましたが、この日は休日で出勤者が少なく、工場従業員の被害は死者2人、負傷者3人でした。産業道路を歩いていた住民や、工場の休日を利用して子守りに来ていた女性など、工場周辺でも犠牲者が出ています。
この規模の空襲が長く地域外で知られにくかった背景には、工場の性格があります。水島航空機製作所は海軍管理工場で、航空機工業は国家の最高機密とされていました。空襲当時の新聞報道はごく短く、戦後には関係書類の焼却や進駐軍による接収も行われたため、公的記録そのものが乏しくなりました。現在の空襲史は、市の調査、米軍作戦記録、体験記、残存写真を突き合わせて復元されています。
地上工場の壊滅後も航空機生産は続いた
6月22日の空襲後も、亀島山地下工場や「鶴」「松」などの分散工場では終戦まで航空機生産が続けられました。
戦争末期の地下工場には、掘削途中で終戦を迎え、機械の搬入や生産開始まで進まなかった施設もあります。亀島山では重要機械を疎開させ、地上工場が大規模な被害を受けた後も地下・分散施設を使って生産を継続しました。
「鶴」地下工場と分散生産
亀島山から離れた竜の口には「鶴」地下工場跡も残っています。倉敷市によると、山を東西に掘り抜く数本の坑道からなり、亀島山より小規模で坑道も狭い施設です。
当時は複数の入口がありましたが、現在はその多くが塞がれています。水島空襲後も「鶴」と周辺の分散工場で航空機生産が続けられました。亀島山は、水島周辺へ工場機能を分散させた生産体制の一部でした。
航空機工場を守る高射砲陣地
水島航空機製作所の周辺には、空襲に備えて高射砲陣地も配置されました。倉敷市は連島、亀島山、王島山、中畝、玉島などの陣地を紹介しています。
玉島の砲台は、壁と床をコンクリートで固めた直径約9m、深さ約2mの円形砲座で、12.7センチ高角砲が配備されていました。内壁には12か所の砲側弾薬函が設けられ、近くには敵機を捕捉する電波探信機(レーダー)と、施設へ電力を供給するディーゼル発電機も置かれていました。水島航空機製作所を取り巻く防空網は、単独の高射砲ではなく、探知・射撃・弾薬・電力を組み合わせた防空システムでした。
6月22日の水島空襲ではこれらの砲台からB-29へ反撃し、倉敷市は米軍側資料をもとに十数機へ損害を与えた程度で撃墜には至らなかったとしています。高射砲陣地を増強しても大編隊による高高度爆撃を阻止できず、工場側は防空火器による防御と同時に、重要機械を地下・分散工場へ逃がす方法を採らざるを得ませんでした。亀島山地下工場は、この防御策の転換を物理的に残す遺構です。
終戦後、水島は巨大工業地帯へ変わった
1945年8月の終戦で軍用機生産は終わりましたが、水島に戦時中形成された工業基盤は消えませんでした。1943年には航空機製作所の操業と同時に、工員と物資を運ぶ専用鉄道が開通しており、工場と社宅へ給水する専用水道施設も1942年から使われていました。専用港湾として整備が始まった水島港、鉄道、道路、社宅、給水設備という都市インフラは、戦後の工業都市化へ引き継がれていきます。
1946年には農林省の干拓事業が始まり、同じ年には水島港の改修と旧軍需工場専用鉄道の活用を進める構想が地域側から動き始めました。1947年には水島港が運輸省指定港湾となり、1950年代には県と倉敷市が港湾整備と企業誘致を本格化させます。戦時の航空機工業のために形成された土地・輸送・港湾基盤が、石油精製、鉄鋼、自動車などを集積させる戦後の水島臨海工業地帯へ接続しました。

航空機製作所そのものも、戦後の民需転換によって系譜が切れませんでした。三菱自動車の公式沿革によると、1943年9月に設立された水島航空機製作所は、戦後に自動車生産へ転換し、1946年に小型三輪トラック「みずしま」、1959年に中型トラック「ジュピター」、1960年に軽商用車「三菱360」の生産へつながりました。現在の三菱自動車水島製作所は、戦時中の航空機製作所と同じ水島の製造拠点の系譜にあります。
社宅街も戦後社会へ組み込まれました。倉敷市歴史文化保存活用計画によると、空襲を比較的免れた旧三菱社宅には、海外からの引揚者や戦災被災者など住宅を必要とする人々が入り、その後払い下げが進みました。軍需工場の従業員住宅として計画された街区が、戦後の一般住宅地へ転換していったことになります。
現在の工業地帯の地下には戦時中の航空機工場が残り、工員用社宅、高射砲陣地、旧専用鉄道の系譜など地上にも戦時期の構造が重なっています。倉敷市は歴史文化保存活用計画で、亀島山地下工場などの戦跡について文化財指定等を検討し、平和教育へ活用する方針を示しています。水島の戦時工業化、空襲、戦後復興、臨海工業地帯化を一続きの地域史として読むと、亀島山地下工場は単独の地下壕ではなく、水島という工業都市が形成された過程を記録する産業遺産でもあります。
2026年9月現在、亀島山地下工場は見学できる?
亀島山地下工場の見学は、岡山県観光連盟の公式「岡山観光WEB」で、事前調整が必要なガイド付き学習・体験プログラムとして案内されています。
- 所在地:岡山県倉敷市亀島1-2-170
- 開始時間:10:00頃から、要相談
- 受入人数:10~40人
- 所要時間:DVD鑑賞・レクチャーなし約2時間、あり約3時間
- 料金:要問い合わせ
- 問い合わせ:公益財団法人 水島地域環境再生財団
- 集合場所:DVD鑑賞なしの場合は水島中央公園
見学条件や料金は変更される場合があります。訪問時は岡山観光WEBの最新案内と問い合わせ先で確認してください。無断での入坑は行わず、公式のガイド付き見学を利用します。
現地で確認できる5つのポイント
1.工場として造られた坑道
坑道は工作機械を置き、航空機生産を続ける空間として造られました。人員避難用の防空壕とは寸法と構造が異なります。
2.複数の坑道が接続する構造
亀島山地下工場は、主坑道と連結坑道からなる地下工場です。2,055mは坑道網全体の総延長です。
3.未完成区画
北側を中心に未完成の区画が残ります。生産に使われた部分と掘削途中の部分が同じ施設内にあります。
4.地下工場と現在の水島
見学プログラムでは地下工場の見学後に現在の水島を展望します。戦時中の航空機工場跡と戦後の臨海工業地帯を同じ地域の産業史として比較できます。
5.掘削と生産を担った人々
坑道の工事には朝鮮人を含む多くの労働者が動員され、地下工場では少年少女を含む人々が働きました。施設の規模とともに、短期間の工事と生産を支えた労働も遺構の歴史に含まれます。
浅川地下壕・人吉海軍航空基地・松代大本営との違い
日本各地の地下壕・地下軍事施設には、地下へ移された機能や実際の使用状況に違いがあります。東京都八王子市の浅川地下壕では中島飛行機の航空機エンジン生産設備が搬入され、亀島山では水島航空機製作所の重要機械を疎開させて航空機生産を続けました。
人吉海軍航空基地では魚雷調整、兵舎、作戦・無線など基地機能の地下化が進み、松代大本営地下壕では政府・軍中枢の移転が計画されました。同じ戦争末期の地下施設でも、地下へ移した機能と実際の使用段階は異なります。

