浅川地下壕とは?高尾の地下10kmに残る巨大軍需工場の歴史・現在・今後

浅川地下壕の素掘り坑道内部

JR高尾駅の南西側、八王子市高尾町・初沢町の山腹には、総延長約10kmに及ぶ浅川地下壕あさかわちかごうが残っています。八王子市の「戦跡マップ」は、陸軍浅川倉庫として掘られ、その後に中島飛行機の地下工場となった巨大な地下壕で、金比羅山下など3か所に広がると紹介しています。

1944年9月ごろに地下倉庫として始まった工事は、同年11月以降に中島飛行機武蔵製作所がB-29の攻撃を受けると、航空機エンジン生産設備の疎開計画へ組み込まれました。終戦までの約1年の間に、山の内部には格子状の坑道が掘られ、旋盤や研削盤など数百台の工作機械が運び込まれました。

米国戦略爆撃調査団(USSBS)が1945年10月24日に浅川を調査した記録には、31本の計画坑道、257,000平方フィートの掘削済み面積、330台の設置済み工作機械、坑道ごとの加工部品、床にたまった水、機械の腐食まで記されています。戦後の地域資料には、掘削を担った請負業者や朝鮮半島出身労働者、宅地開発と陥没、保存運動の経緯が残ります。2026年現在も見学会が続き、3D計測とVRによる記録も進んでいます。

八王子市初沢町に残る浅川地下壕の入口
浅川地下壕の入口の一つ。2010年3月27日撮影。多摩に暇人 / Wikimedia Commons / CC BY 3.0

浅川地下壕とは?高尾の山の下に約10km続く戦争遺跡

浅川地下壕は、東京都八王子市高尾町・初沢町に残る戦争遺跡です。現在のJR高尾駅南西側の山地に掘られ、八王子市公式「戦跡マップ」は総延長を約10km、地下壕を金比羅山下など3か所としています。一般にイ地区・ロ地区・ハ地区と呼ばれる3地区からなり、それぞれに複数の坑口と坑道網があります。

八王子市高尾・初沢の浅川地下壕イ・ロ・ハ地区と見学入口の地図
浅川地下壕の位置図。JR高尾駅南側のイ・ロ・ハ各地区、三和団地、高乗寺、見学時の入口などの位置関係を示す。赤線が地下壕の坑道。

「浅川」の名は、建設当時この一帯が南多摩郡浅川町だったことに由来します。八王子市中央図書館のレファレンス資料は、『フィールドワーク浅川地下壕』などを典拠として、旧浅川町の高尾・初沢に残る地下壕であることを紹介しています。浅川町は1959年に八王子市へ編入されましたが、地下壕には旧町名が残りました。

規模を具体的に見ると、地域の調査報告ではイ地区だけで坑道延長約4.2km、面積約12,000平方メートルとされています。保存会の説明をもとにした見学報告では、坑道の奥部は高さ約3m・幅約4mを標準とし、約20m間隔で縦横に通路をつないだ区画がありました。掘削土を運び出し、地下水を排出するため、坑道には勾配も設けられています。

USSBSの図面と現地記録も、3地区に格子状の坑道を新規に掘ったことを示しています。既存の鉱山や採石場を転用した地下工場も各地にありましたが、浅川は既存坑道の利用ではなく、工場のために山を掘削した施設でした。地上には掘削土の山と、事務所・倉庫として使われた建物がありました。

なぜ高尾に巨大地下壕が掘られたのか

工事は1944年9月ごろ、「陸軍浅川倉庫」として始まりました。山体内部に軍需物資を収容する地下倉庫を設ける計画で、トンネル工事を得意とした佐藤工業などが掘削を担いました。八王子市の公式説明も、浅川地下壕の出発点を陸軍浅川倉庫としています。

同年11月24日、東京を攻撃したB-29の主要目標となったのが、中島飛行機武蔵製作所でした。武蔵製作所は現在の武蔵野市・西東京市にまたがる地域に置かれ、陸海軍向け航空機エンジンの主要生産拠点でした。その後も空襲が続き、一か所に集中していた生産設備を各地へ分散し、山中や地下へ移す計画が加速します。武蔵製作所の空襲と工場跡については、中島飛行機武蔵製作所の戦争遺跡と引込み線跡|下野谷遺跡・田無を歩くで詳しく紹介しています。

中島飛行機は大宮製作所でも地下疎開を進め、埼玉県吉見町には吉見百穴の地下を含む巨大な吉松地下工場が造られました。

浅川では倉庫として始まった坑道が、中島飛行機のエンジン生産設備を受け入れる地下工場へ転用されました。1945年には第一軍需工廠だいいちぐんじゅこうしょう第一一製造廠の系統に組み込まれ、「浅川工場」として機械の搬入と生産準備が進められます。戦争末期の工場疎開は、建物を移すだけではなく、工作機械、電力、資材、運搬設備、工員を新しい場所へ移す大規模な再編でした。

地域調査では、イ地区の工事が先行し、1945年2月ごろまでに主要部分が完成したとされています。ロ・ハ地区は増設工事として掘削が続き、計画面積約25,000平方メートル、坑道延長約6kmに対して、終戦までの進捗は約6割とする報告があります。地区ごとに完成度が異なるのは、地下倉庫から地下工場へ用途が変わり、増設と設備搬入が同時に進んだためです。

中島飛行機の地下工場へ――何を作る計画だったのか

USSBS『Underground Production of Japanese Aircraft』のASAKAWA項は、浅川工場を中島飛行機武蔵製作所の疎開先として記録しています。個別報告では、工作機械1,200台を配置し、航空機用エンジンを月産300基生産する計画で、1945年7月15日までの操業開始を予定していたとされます。

ところが、生産計画数には資料差があります。日本側の地域資料には月産500基とする記載があり、USSBSの別報告『The Japanese Aircraft Industry』に掲載された地下工場の集計表も、浅川の計画生産を「500 engines per month」としています。同じUSSBS系資料でも、浅川個別報告は300基、全体集計表は500基です。浅川工場には月産300基と500基の二つの計画値が記録されています。

操業開始時期にも小さな食い違いがあります。ASAKAWA個別報告は330台の工作機械が「7月から」エンジン部品を生産していたと記す一方、『The Japanese Aircraft Industry』の地下工場一覧表は「Production began in June」としています。生産計画300基/500基、工作機械330台/329台と同様、USSBSの資料内部にも集計単位や記録時点の違いとみられる差が残っています。

計画床面積について、USSBS『The Japanese Aircraft Industry』の集計表は353,000平方フィート、実績を257,000平方フィートとしています。353,000平方フィートは約32,800平方メートル、257,000平方フィートは約23,900平方メートルです。終戦時には、計画した地下空間の約7割強まで掘削された計算になりますが、坑道の完成、機械据付、電力や搬送設備の整備、生産立ち上げは同じ割合では進んでいませんでした。

USSBSによれば、地下で行う中心工程はエンジン部品の機械加工でした。完成エンジンの最終組立は、山中に分散させた地上建物で行う計画でした。地下へすべてを収めるのではなく、空襲から守る必要が大きい工作機械と加工工程を山中に置き、組立工程を小規模な地上建物へ分散する構成です。

地下工場はどこまで完成していたのか

USSBSの個別報告では、終戦時点で計画された31本のトンネルのうち6本が完成し、257,000平方フィートが掘削済みでした。工作機械は330台が据え付けられ、さらに95台が現地まで搬入されながら未設置でした。設置済みの機械は7月からエンジン部品の加工を始めていました。

坑道はおおむね幅15フィート、高さ12フィートとUSSBSに記録されており、メートル換算では幅約4.6m、高さ約3.7mです。長さは100~1,200フィート、約30~366mと幅があります。雨によって少なくとも6か所で天井が崩れ、広範囲に木製の支保工を組んだことも報告されています。

浅川は既存の洞窟を使った工場ではなかったため、掘削と機械搬入を一から進める必要がありました。岩盤への穿孔、発破、換気、崩した岩石の搬出、支保、排水を繰り返し、その後に機械の基礎や電源、搬送設備を整えます。坑道が掘り上がっても、すぐ生産できる状態にはなりません。

保存会の説明をもとにした地域報告では、先行したイ地区は延長約4.2km、掘削量約35,000立方メートルとされ、東側と西側に複数の坑道が配置されました。ロ・ハ地区は工事途中の区画を多く残しました。現在見学できるイ地区にも、削岩機の穿孔跡、発破孔、崩落箇所、搬送設備の痕跡が残っています。

浅川地下壕の素掘り坑道に残る荒い岩盤と石材
素掘りの坑道。荒い岩盤面と石材が残り、削岩と発破で掘り進めた地下壕の構造が見える。ゆる歴史散歩会撮影

USSBSの配置図に残るA・B・C三地区

USSBS報告書には、浅川だけを対象にしたFigure 4「GENERAL ARRANGEMENT OF ASAKAWA (UNDERGROUND) PLANT」が収録されています。1945年7月13日修正版の図面で、山の等高線の中に三つの地下工場区画を描き、鉄道、甲州街道、浅川駅、地上建物との位置関係まで記しています。現在使われるイ・ロ・ハ地区という呼称とは別に、米軍資料ではA・B・Cの三地区として整理されています。

USSBSが1945年に作成した浅川地下工場の全体配置図 Figure 4
USSBS「GENERAL ARRANGEMENT OF ASAKAWA (UNDERGROUND) PLANT」Figure 4。1945年7月13日修正版。報告書掲載図版を高解像度で掲載。U.S. Strategic Bombing Survey / NARA RG243 / National Diet Library(Public Domain)
USSBS図面の地区トンネル面積連絡坑等合計図面記載の完成度
A131,116平方フィート57,178平方フィート188,294平方フィート80%
B80,429平方フィート29,837平方フィート110,266平方フィート80%
C30,408平方フィート10,463平方フィート40,871平方フィート65%
合計241,953平方フィート97,478平方フィート339,431平方フィート75%
USSBS Figure 4に記載された浅川地下工場の地区別面積と完成度。図面上の集計値。

このFigure 4の「75%」は、個別報告本文にある「31本中6本が完成」という数字と同じ尺度ではありません。図面は地区別の地下空間を面積で集計し、報告本文は操業可能な完成坑道を数えています。浅川では、山を掘った空間そのものは広く形成されていた一方、生産設備まで整った坑道は一部だった状況が、二種類の数字から確認できます。

同じ報告書には1945年10月24日の現地調査写真Photo 21~25も収録されています。坑道内に並ぶ工作機械、加工待ちのエンジン部品、部品置場として使われた横坑などが写り、終戦直後の浅川が空の地下壕ではなく、機械と部品を残した生産施設だったことを視覚的に記録しています。

地下で航空機エンジンを作る難しさ

USSBSの記録は、浅川地下工場の内部を「どの部品をどの坑道で加工していたか」まで書き残しています。稼働していた6本は、第1坑道がシリンダーヘッド、第2坑道がシリンダーバレル、第3坑道がクランクシャフト、第4・第5坑道がプロペラシャフト、第6坑道がエンジン付属品の加工に使われていました。

据え付けられた機械には、普通旋盤、タレット旋盤、ボール盤、形削り盤、平削り盤、研削盤などがありました。330台のうち約80%は米国製だったとUSSBSは記録し、Brown & Sharpe、Cincinnati、Warner & Swasey、American Machine Tool、Bullardなどのメーカー名を挙げています。戦前に輸入された米国製工作機械が、日本の航空機エンジン生産の現場で使われ続けていた状況が確認できます。

1945年10月24日にUSSBSが撮影した浅川地下工場内の大型工作機械
USSBS Photo No.21「Asakawa underground plant」。1945年10月24日調査。報告書掲載写真から写真部分のみ切り出し。U.S. Strategic Bombing Survey / NARA RG243 / National Diet Library(Public Domain)

部品搬送にも坑道ごとの差がありました。2本の坑道には狭軌レールが敷かれ、別の1本には坑道全長にわたるローラーコンベヤーが設けられていました。それ以外の区画では人力搬送が中心でした。USSBS写真には、加工待ちのシリンダーヘッドとローラーコンベヤー、エンジン部品を保管した横坑が写っています。

浅川地下工場で加工待ちのシリンダーヘッドとローラーコンベヤーを写したUSSBS写真
USSBS Photo No.22。加工待ちのシリンダーヘッドとローラーコンベヤー。1945年10月24日調査。報告書掲載写真から写真部分のみ切り出し。U.S. Strategic Bombing Survey / NARA RG243 / National Diet Library(Public Domain)
エンジン部品が大量に保管された浅川地下工場の横坑を写したUSSBS写真
USSBS Photo No.23。エンジン部品の保管に使われた横坑。1945年10月24日調査。報告書掲載写真から写真部分のみ切り出し。U.S. Strategic Bombing Survey / NARA RG243 / National Diet Library(Public Domain)

生産上の最大の問題は水と湿気でした。USSBSが調べた第1~第6坑道はすべて床が濡れ、場所によっては数インチの水がたまっていました。報告書は、湿った環境が工員の体調不良と工作機械の深刻な腐食を引き起こしたとしています。調査時には機械をグリースとワックス紙で覆っていましたが、それでも多くに強い腐食が見られました。

浅川地下工場の坑道内に並ぶ工作機械群を写したUSSBS写真
USSBS Photo No.24「Asakawa underground plant」。1945年10月24日調査。報告書掲載写真から写真部分のみ切り出し。U.S. Strategic Bombing Survey / NARA RG243 / National Diet Library(Public Domain)

部品不足も生産を制約しました。浅川工場長はUSSBSに、新品シリンダーが不足し、エンジン製造に中古シリンダーを使う必要があったと説明しています。調査団が組立工場を確認すると、中古シリンダーの在庫は新品をわずかに上回っていました。空襲を避ける地下化だけでなく、部品供給そのものが戦争末期には逼迫していました。

誰が浅川地下壕を掘ったのか

地下壕の掘削には、請負業者の作業員、軍関係者、教育・訓練機関から動員された人々など複数の集団が関わりました。1991年の『第2回朝鮮人・中国人 強制連行・強制労働を考える全国交流集会《資料集》』に収録された斉藤勉「浅川地下壕の掘削と朝鮮人労働者について」は、佐藤工業と大倉土木を主要な請負業者として挙げ、朝鮮半島出身労働者の配置を具体的に記しています。

同資料によると、佐藤工業の工事には、富山県黒部川第三発電所の「高熱隧道」工事に従事していた約500名の朝鮮人労働者が移り、家族を含めると約1,500名でした。飯場は2か所に設けられ、合わせて約30棟の「住宅」が建てられたとされています。作業集団は8名の親方に率いられ、その内訳を日本人2名、朝鮮人6名と記しています。

掘削には削岩機と発破が使われました。同資料は、佐藤工業の集団が3地区のうち2地区の大部分を掘削し、別の部分を熱海にあった通称「トンネル学校」の生徒が掘ったとしています。親方ごとに担当をまとめ、佐藤工業では親方1人につき、おおむね1本の坑道を受け持ったという整理もあります。

大倉土木が工事へ加わったのは1945年4月からと同資料は記します。下請けの池田組などを含み、約100名の単身の朝鮮人労働者が静岡県の日本坂トンネル作業所から送られ、2名の親方のもとで残る地区の掘削に従事したとされています。地下壕外では、引込線など周辺工事に青木組配下の朝鮮人「約500名」が加わったという記載もあります。

人数についても、同じ資料の中で整理が分かれます。個別記述では佐藤工業約500名、大倉土木約100名、周辺工事の青木組約500名が挙げられる一方、別項では「この工事に従事した朝鮮人労働者は約1,000名(家族を含めて約2,000名)ほど」と整理されています。

動員経路の表現にも資料差があります。1991年資料は、当時の調査で「朝鮮から強制的に直接この現場に連行されたと思われる朝鮮人」は確認されていないと記す一方、資料集全体では「強制連行」「強制労働」という用語を使用しています。旧浅川町役場文書にはこの工事に関わった朝鮮人労働者関係の文書が見つからず、1945年8月5日の空襲で役場が焼失したことも理由の一つとして挙げられています。

工事中の死亡者について、同資料は聞き書きから「数人程度」と考えられるとし、斉藤が確認できた工事中死亡者は1名としています。また、近くの寺の過去帳には成人男性6名と乳幼児の死者名が記されていたと報告しています。人数や死亡との関係は資料に書かれた範囲を区別して扱う必要があります。

終戦時、浅川工場には何が残っていたのか

1945年8月の終戦時、浅川工場は本格稼働へ移る途中でした。USSBS個別報告では、8月15日までに約10基のエンジンが完成していました。坑道内には、完成品だけでなく加工前・加工途中の部品が大量に残っていました。

報告書は、クランクケース鋳物約300個、シリンダーヘッドの大量在庫、そのほか加工待ちのエンジン部品を記録しています。さらに、山中に分散した小型の格納庫型建物2棟では、18基のエンジンが組立途中でした。地下坑道で加工した部品を地上の分散建物へ運び、最終組立する計画が実際に動き始めていたことがわかります。

浅川地下工場の坑道内に並ぶ工作機械と部品を写したUSSBS写真
USSBS Photo No.25「Asakawa underground plant」。1945年10月24日調査。報告書掲載写真から写真部分のみ切り出し。U.S. Strategic Bombing Survey / NARA RG243 / National Diet Library(Public Domain)

設備面では330台の工作機械が設置済み、95台が未設置でした。USSBSの全体集計表では実績台数を329台とする箇所もあり、個別報告の330台と1台の差があります。浅川に関する数値は、同じ調査団の報告でも表と本文でわずかな違いが残っています。

月産300基または500基という計画に対して、完成エンジンは約10基でした。7月に部品生産が始まったばかりで、坑道掘削、機械据付、腐食対策、部品輸送、地上組立の各工程が安定する前に終戦を迎えています。USSBSは1945年10月24日に浅川を現地調査し、終戦直後の坑道と設備を写真・図面・数量で記録しました。

戦後、地下壕はどうなったのか

終戦後、工作機械や軍需工場の設備は地下壕から搬出されました。イ地区の一部は、その後にキノコ栽培やワイン貯蔵などへ利用された時期があったと地域資料に記されています。軍需工場として使われた期間は短くても、坑道そのものは地域の地下に残り続けました。

1980年代末以降、ロ地区周辺で宅地開発が進むと、地下壕と地上の住宅地が安全面で直接結びつきます。三和団地周辺では陥没が問題となり、地下に未処理の空洞が残ることが改めて認識されました。ロ地区の一部では陥没対策として坑道の埋め戻しが行われています。

八王子市初沢町の三和団地と浅川地下壕周辺の地形
八王子市初沢町の三和団地。Wikimedia Commonsの説明では、埋め戻された地下壕の上に建つ。2010年3月27日撮影。多摩に暇人 / Wikimedia Commons / CC BY 3.0

1999年にはイ地区で大量のダイナマイトが見つかりました。後年の見学記録や東都生協の報告では、撤去作業に備えて鉄骨の足場・補強が組まれたことが紹介されています。現在の見学で目にする鉄骨部分には、戦時中の構造物ではなく、戦後の安全対策として設置されたものも含まれます。

浅川地下壕の坑道内に連続して組まれた鉄骨支保
坑道内に連続して組まれた鉄骨支保。奥まで続く坑道の規模と現在の安全対策がわかる。ゆる歴史散歩会撮影

ロ地区の土地所有も保存と安全対策に関わります。保存会などの資料では、2014年3月にロ地区の大部分が八王子市有地になったとされています。一方、地区によって私有地や管理条件が異なるため、3地区を一括して同じ方法で公開する状態にはなっていません。

住宅地の間にある浅川地下壕の坑口へ向かう見学者
住宅地の間を通って浅川地下壕の坑口へ向かう見学者。地下壕が現在の生活空間と接して残ることがわかる。ゆる歴史散歩会撮影

浅川地下壕を残す活動はどう始まったのか

「浅川地下壕の保存をすすめる会」は1997年11月1日に設立されました。高尾町・初沢町にある3地区の地下壕の保存と公開を目的に、坑道の調査・研究、見学案内、講座、行政への保存・公開要請を続けています。現在の団体紹介では、原則として月1回の見学会に加え、年4回、8ページの会報を発行しているとしています。

保存活動では、坑道に加えて周辺資料や地上環境も記録対象になっています。掘削跡、支保、排水、戦後の埋め戻し、地上の宅地、労働者の記録、工場配置図、戦後の写真や証言を組み合わせて、地下壕の変化を記録しています。2025年8月には齊藤勉『浅川地下壕―八王子に眠る東京都最大の地下壕』が浅川地下壕の保存をすすめる会から刊行され、関係年表と参考文献を含む新しい概説が加わりました。

八王子市側でも浅川地下壕は平和学習・地域史の対象になっています。市公式「はちおうじ平和サイト」の戦跡マップに掲載され、2025年夏には高尾駒木野庭園で「高尾山麓の昭和史」として浅川地下壕、湯の花トンネル列車空襲、旧浅川町の戦災を扱う展示が開催されました。

2018年の第169回八王子市都市計画審議会では、金比羅緑地の地下に浅川地下壕ロ地区が位置し、当時は立ち入りできない状態であることが議事録に記録されています。議員から文化財指定、調査、修繕と緑地保全制度との関係が質問され、市側は、緑地保全上の支障がないと整理できる行為や公共性の高い行為には制度上の対応余地があると説明しました。地下壕の保存は、戦跡保存だけでなく、上部の緑地保全と土地利用を重ねて検討する課題になっています。

2025年9月2日の八王子市議会第3回定例会では、「次世代へ平和を伝える浅川地下壕について」が一般質問の題目となり、「市の認識について」が問われました。保存・公開は市民団体だけの活動史にとどまらず、市議会でも継続して扱われる地域課題になっています。

2026年現在、浅川地下壕は見学できる?

公開範囲はイ地区の一部。操業区画には入れない

2026年現在、保存会の見学会で入れるのはイ地区の一部です。保存会資料をもとにした見学記録では、イ地区でも高乗寺が地権者となっている部分が見学対象で、戦時中に工作機械を据えて実際にエンジン部品を加工した操業区画は別の所有者の管理地となり、鉄格子の先は立入不可とされています。ロ地区・ハ地区は通常の見学会の公開対象ではありません。

浅川地下壕の見学会で坑口前に集まる参加者
浅川地下壕の見学会で坑口前に集まる参加者。見学時はヘルメットを着用して入壕する。ゆる歴史散歩会撮影
地区2026年の見学状況補足
イ地区一部を見学保存会の事前申込制見学会。操業区画には立ち入れない
ロ地区通常の見学対象外三和団地下など一部は安全対策で埋め戻し
ハ地区通常の見学対象外未完成区画を含む
現在の見学範囲。保存会の案内・見学記録に基づく。開催条件や公開範囲は変更される場合があります。

壕内へ入る機会は浅川地下壕の保存をすすめる会による見学会が中心です。同会の団体紹介は「壕内に入る機会は本会による見学会のみ」と案内しており、一般の自由入場は行われていません。

浅川地下壕の坑内に組まれた鉄骨支保と見学者
浅川地下壕の見学可能区画。坑内には天井・側壁を支える鉄骨が組まれている。ゆる歴史散歩会撮影

2026年5月16日の見学会は、高尾駅南口13時集合、16時ごろ終了、参加費500円、定員15名、小学生から75歳まで、事前申込制で開催されました。9月2日時点で案内されている9月19日の見学会も、13時から16時、参加費500円、定員15名の事前申込制です。開催日と条件は回ごとに更新されています。

見学案内には、坑内が真っ暗で、入口付近は排水状況が悪いこと、坑道はコンクリート巻きではない素掘り状態であることが明記されています。ヘルメットは主催者側が用意するとされています。現在の見学環境そのものが、戦後に観光施設として全面整備された地下空間とは異なる浅川地下壕の保存状態を示しています。

浅川地下壕の坑道壁面に見られる湿りと岩盤
坑道壁面の岩盤に湿りが見られる様子。浅川地下壕の坑内が湿潤な環境であることがわかる。ゆる歴史散歩会撮影

最新の開催情報は浅川地下壕の保存をすすめる会の「はちコミねっと」ページで更新されています。2026年には現地見学のほか、「映像でみる浅川地下壕」と題した映像・解説イベントも開催されています。

地下壕を3D・VRで残す取り組みも始まっている

浅川地下壕では、現地へ入る見学とは別に、坑道を三次元データとして残す研究が進んでいます。東京工業高等専門学校の研究グループは2023年に「浅川地下壕の三次元デジタルアーカイブと平和学習教材の開発」を発表し、3Dモデルと教育利用を研究テーマとしてきました。

2026年5月には、東京高専機械工学科の学生が可搬型3Dスキャナーを使って浅川地下壕を三次元計測しました。取得したデータを3Dモデル化し、同年6月21日、拓殖大学八王子国際キャンパスの「高尾祭」でヘッドマウントディスプレイによるVR体験として公開されました。タウンニュースは、この3Dモデルの一般公開をこの回が初めてと報じています。

高尾祭では6月20日に「映像で探る浅川地下壕」の上映、21日にVR体験会が組まれました。現地では暗さ、排水、崩落、安全管理などの条件から公開範囲を広げにくい一方、三次元計測では坑道形状を記録し、現地へ入らずに空間構造を体験できます。保存方法が、坑道そのものの維持、図面・写真・証言の保存、3Dデータの記録へ広がっています。

拓殖大学八王子国際キャンパスの地域には、戦時中、中島飛行機のエンジン運転場が置かれていました。浅川地下壕で部品加工と組立を進めた中島飛行機の歴史と、現在の大学キャンパスで行われたVR公開が同じ高尾地域でつながっています。

高尾に残る戦争の痕跡として浅川地下壕を見る

八王子市の戦跡マップには、浅川地下壕のほか、JR高尾駅の1・2番線ホームに残る米軍機の銃撃痕、裏高尾町の湯の花トンネルなどが掲載されています。高尾駅の柱番号31・33には銃弾が貫通した跡が残り、地下壕から駅周辺へ範囲を広げると、軍需生産、空襲、交通への攻撃が同じ地域に重なっていたことがわかります。

浅川地下壕は、1944年9月の陸軍倉庫建設から、中島飛行機武蔵製作所の疎開、エンジン部品の生産、1945年10月のUSSBS調査、戦後利用、宅地開発と陥没、1997年以降の保存活動へと用途と位置づけが変わってきました。坑道内に残る穿孔跡や湿気だけでなく、工作機械の配置、労働者の記録、地上の住宅地まで含めて一つの戦争遺跡を形づくっています。

2026年も見学会が続き、9月の開催予定が公開されています。現地公開と並行して、可搬型3Dスキャナーによる計測とVR公開も実施されました。終戦から80年以上が経った現在も、浅川地下壕は調査、保存、安全対策、公開方法、デジタル記録が同時に進む戦争遺跡です。

首都圏の大規模地下戦争遺跡には、東京湾口の館山海軍航空隊で基地機能を地下化した赤山地下壕もあります。浅川が中島飛行機の地下軍需工場だったのに対し、赤山では発電所・格納庫・応急治療所などが計画・使用されました。

横須賀・追浜には、旧日本海軍航空拠点の避難・防衛と機能地下化のために造られた総延長約2kmの貝山地下壕も残ります。航空機エンジンを生産した浅川地下壕とは用途が異なります。

参考文献・出典