大正東京・浅草区を古地図で徹底解説|浅草寺・浅草六区・蔵前

大正期の東京市浅草区を描いた番地界入東京市拾五区区分図

浅草区は現在の台東区東部にあたり、浅草、蔵前、浅草橋、鳥越などを含みました。大正期の浅草は、浅草寺を中心とする信仰の街であると同時に、浅草六区の映画・演芸、商店、問屋、職人の町が重なる東京有数の大衆文化の中心でした。

浅草区図では浅草寺と周囲の町場を見る

地図では浅草寺境内が大きな空間として目立ち、その周囲を細かな市街地が取り囲みます。江戸時代から続く門前町に、近代の娯楽施設と交通が加わったことが浅草の特徴です。

浅草六区は大正のエンターテインメント街

明治期に浅草公園が区画され、その一角の六区には見世物、演芸場、映画館が集まりました。日本の映画興行の初期から重要な場所で、大正期には若者や家族が集まる大衆娯楽の中心になります。現在の浅草の観光地イメージとは少し異なる「最先端の盛り場」でした。

蔵前には物流と商業の歴史がある

蔵前の名は江戸幕府の米蔵に由来します。明治以降も隅田川の水運と陸上交通を利用する問屋・商工業が集まりました。浅草橋・鳥越方面まで細かな町割りが続き、浅草区は娯楽だけでなく働く街でもありました。

隅田川が浅草区の東縁をつくった

隅田川は物資輸送、舟運、信仰、行楽を支える大動脈でした。橋の位置と河岸を追うと、本所・向島方面との結びつきも見えてきます。現在は観光船や遊歩道の印象が強い川ですが、大正期には生活と物流に密着していました。

関東大震災で浅草の景観は変わった

1923年の震災では浅草区も大きな火災被害を受けました。復興区画整理と道路整備が進み、六区や商店街も再建されます。一方、昭和に入ると娯楽の中心は銀座や新宿などへ分散し、浅草の役割も変わっていきます。

現在につながる浅草区の魅力

浅草寺、六区、隅田川、蔵前という主要な地域軸は現在も残っています。古地図を見ると、観光地として知られる浅草が、信仰・娯楽・商業・物流の複合都市として発達したことが分かります。

参考資料