大正東京・芝区を古地図で徹底解説|新橋・芝公園・高輪

大正期の東京市芝区を描いた番地界入東京市拾五区区分図

芝区は、現在の港区東部から南部にかけて広がり、新橋・汐留の鉄道拠点、愛宕の医療・放送、芝公園と増上寺、芝浦の工業地帯、三田・白金の学校と研究機関、高輪の宮邸群、品川台場までを含んでいました。ここで使う地図は、公益財団法人特別区協議会所蔵『番地界入東京市拾五区区分図 芝区図 5』大正10年(1921)9月15日第二版です。番地や町界だけでなく、駅、病院、学校、工場、宮邸、寺社、埋立地まで細かく記載されています。

1921年という年代にも意味があります。東京慈恵会医科大学が大学へ昇格し、皇太子裕仁親王がヨーロッパ訪問から帰国して摂政となり、芝浦では工業化と埋立が進んでいました。その2年後には関東大震災が起こり、愛宕、高輪、慈恵会など地図に描かれた施設の多くが被災します。以下では15枚の精細図を北から南へたどります。

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新橋・芝公園・浜松町・芝浦

1. 新橋駅・汐留駅|「新橋」の駅名が入れ替わった直後

大正10年の芝区新橋駅・汐留駅周辺を示す詳細古地図
新橋駅・汐留駅周辺。現在の新橋駅と旧新橋停車場を改称した汐留貨物駅が同時に描かれています。『番地界入東京市拾五区区分図 芝区図 5』(大正10年第二版)部分。

図の中心に「新橋駅」、東側の広大な鉄道用地に「汐留駅」があります。1872年に新橋―横浜間で日本最初の鉄道が開業したときの新橋停車場は、現在の汐留側にありました。1909年には現在の新橋駅の位置に烏森駅が開業し、1914年の東京駅開業に合わせて旧新橋駅は汐留駅、烏森駅は新橋駅へ改称されました。地図はこの名称変更から7年後の姿です。

汐留駅の多数の側線は、同駅が旅客駅から大規模な貨物駅へ転じたことを表します。汐留貨物駅は1986年に廃止され、跡地は汐留シオサイトなどへ再開発されました。現在の新橋駅と汐留の位置関係を理解するうえで、旧新橋停車場から貨物駅への変化が基準になります。

2. 愛宕山あたごやま・西久保|愛宕館、東京ホテル、慈恵会

大正10年の芝区愛宕山・西久保・東京慈恵会周辺を示す詳細古地図
愛宕山・西久保周辺。愛宕神社、愛宕公園、東京ホテル、愛宕塔、東京慈恵会の医療・教育施設などが読み取れます。

愛宕山周辺には「愛宕神社」「愛宕公園」「東京ホテル」などが記されます。明治期の愛宕山では、愛宕館と煉瓦造5階・高さ約30メートルの愛宕塔が行楽・展望・社交の場となりました。20世紀初頭にはホテル営業へ展開し、1906年には「東京ホテル」、営業所「東京市芝区愛宕公園三番地」として商号が登記されています。1920年には再び「愛宕館」の名称も使われました。1923年の関東大震災で施設は倒壊・焼失し、その跡地付近では1925年に東京放送局JOAKが本放送を開始しました。現在のNHK放送博物館へ続くこの土地は、行楽地、西洋式ホテル、放送拠点へと役割を変えてきました。

図の東側には東京慈恵会の施設がまとまります。高木兼寛が1881年に成医会講習所を開設し、医学校と病院は愛宕町へ移りました。東京慈恵会医院は貧困患者の施療と看護婦教育を担い、1921年10月には医学専門学校が東京慈恵会医科大学へ昇格します。地図は大学昇格の年にあたり、現在の東京慈恵会医科大学・附属病院につながる医療拠点を記録しています。

3. 芝公園北部|徳川霊屋から鉄道病院・紅葉館まで

大正10年の芝公園・増上寺・東京鉄道病院周辺を示す詳細古地図
芝公園北部。増上寺、徳川霊屋、紅葉館、芝給水所、鉄道院病院・被服工場、芝郵便局などが集中しています。

芝公園には「増上寺」「徳川霊屋」「紅葉館」「東京府知事官舎」「芝給水所」などが混在し、東側には「鉄道院病院」「鉄道院経理局被服工場」があります。増上寺は徳川将軍家の菩提寺で、明治以降に旧境内の一部が芝公園となりました。1909年に焼失した大殿は、地図刊行年と同じ1921年に再建されています。江戸の巨大寺院空間が公園、行政、交通、医療の施設へ細分化される一方、増上寺では大殿復興が進んでいた時期でした。

紅葉館は芝公園内の料亭・社交施設として政財界人や外国人も利用しました。公園内には東京府知事官舎もあり、造園家の長岡安平が官舎近くに居住して芝公園整備に関わっています。鉄道院病院と被服工場からは、鉄道院が線路と駅に加えて、職員医療や制服・被服まで担う巨大組織だったことが分かります。地図の「佐渡丸遭難記念碑」は、日露戦争中の1904年にロシア艦隊の攻撃を受けた陸軍運送船「佐渡丸」の遭難者を追悼する碑です。初代碑は1913年に建立され、高さ約15.5メートル、上部に弟橘媛を表した像を載せていました。1923年の関東大震災で崩壊し、のちに二代目が建てられましたが、1948年に撤去されました。

芝公園二十四号地には「正則中学校」もありました。1889年に正則予備校として創立し、1899年に正則中学校と改称した学校で、現在の正則高等学校につながります。現在も芝公園三丁目に校地があり、学校の所在が一世紀以上続く例です。

図の「栄町」周辺には華族の邸宅もありました。大正10年3月の『大正名器鑑』実見記には「東京市芝区栄町久松定謨伯邸」と記録されています。久松定謨は旧伊予松山藩主家の当主で、陸軍中将を務めた伯爵です。1922年には松山にフランス風洋館の別邸「萬翠荘」を完成させました。川越市の資料には、後に移築された久松家の建物を「東京の三田にあった久松定謨伯爵邸」とする記録もあります。芝栄町の記録と三田の記録が同じ建物・敷地を指す可能性がありますが、両記録を直接結び付ける資料は確認できません。

4. 浜松町・新銭座町|鉄道・市電と学校の町

大正10年の浜松町・新銭座町・汐留町周辺を示す詳細古地図
浜松町・新銭座町周辺。神明町、汐留町、鉄道、市電関係施設と海岸沿いの土地利用が見えます。

新銭座町、神明町、浜松町、汐留町が鉄道沿いに並び、神明小学校や東京市電気局関係施設が記されています。東京市電気局工場は芝区浜松町二丁目に置かれ、電車と付属品を製造する職工約1000人規模の工場でした。浜松町は市電が走る交通拠点であると同時に、市電車両そのものを造る工業地でもありました。新銭座は近代教育史とも関係が深い地域です。慶應義塾は築地鉄砲洲から新銭座を経て1871年に三田へ移り、その新銭座校地には攻玉社が入りました。攻玉社は航海術・測量術などを教え、港湾・海運に関わる実業教育を担いました。関東大震災後の1925年に現在の品川区西五反田へ移転します。

浜松町の海側には鉄道線路が走り、そのさらに東には埋立前後の広い空間が残ります。後の港湾・業務地区となる場所が、鉄道、市電、住宅地と接しながら形成されている途中でした。

5. 金杉かなすぎ・芝浦|芝浦製作所、東京瓦斯、日本電気

大正10年の金杉・芝浦製作所・東京瓦斯工場周辺を示す詳細古地図
金杉・芝浦の工業地帯。東京瓦斯会社工場、芝浦製作所、日本電気会社関係施設など、大正東京を支えた工場群が並びます。

海岸側に「東京瓦斯会社工場」「芝浦製作所」、内陸側に「日本電気株式会社工場」などが見えます。芝浦製作所の源流は田中久重が1875年に始めた田中製造所で、のちに芝浦製作所となり、1939年に東京電気と合併して東京芝浦電気、現在の東芝へつながりました。「東芝」の社名に残る「芝」は芝浦製作所に由来します。

日本電気も三田・芝周辺に工場を展開し、電話機や交換機を中心とする通信機器産業を育てました。NECの社史では1922年に第九・第十一工場が完成し、創業以来の工場建設計画が一段落したとされます。翌1923年の関東大震災では三田工場の半ばが倒壊し、105人が犠牲になりました。

芝区の工業集積はこの三社だけではありません。本芝入横町では池貝庄太郎の池貝鉄工場が旋盤・穿孔機・石油発動機などを製造し、田町では沖牙太郎が創業した沖商会・沖電気が電話機や電信機を生産しました。浜松町の東京市電気局工場、田町の専売局第二煙草製造所、東洋印刷などもあり、大正期の芝区は東京15区でも有数の工場地帯でした。電気機械、通信、工作機械、都市交通車両、煙草、印刷が近接する工業地区だったことが、個々の工場名から分かります。

6. 赤羽町・三田|済生会芝病院と慶應義塾

大正10年の赤羽町・済生会病院・慶應義塾運動場周辺を示す詳細古地図
赤羽町・三田周辺。済生会病院、専売局倉庫、慶應義塾運動場などが大きな区画を占めています。

「済生会病院」は1915年12月に本部直営の「恩賜財団済生会芝病院」として開設され、現在の東京都済生会中央病院へ続きます。済生会は1911年、生活困窮者へ医療を届けることを目的に創立され、医務主管には北里柴三郎が就きました。1923年の関東大震災後には、被災した妊産婦と乳幼児のため病院内に応急診療施設が設けられました。

地図には専売局倉庫もあります。田町には専売局第二煙草製造所も置かれ、大正初期には約1600人が働き、両切煙草・口付煙草・葉巻などを生産する大規模官営工場でした。倉庫を含む専売局施設は、三田・田町が政府の煙草専売制度を支える製造・物流拠点でもあったことを示しています。

南側には「慶應義塾運動場」が広がります。慶應義塾は築地鉄砲洲、新銭座を経て1871年に三田へ移転しました。現在も慶應義塾大学三田キャンパスが同じ地域にあります。三田では教育機関、病院、官営施設、住宅地が隣接していました。1921年当時の三田四国町には、1894年建設のユニテリアン教会「惟一館」があり、すでに1912年8月1日に鈴木文治らが友愛会を創立した場所となっていました。1921年は友愛会が日本労働総同盟へ発展する時期にあたり、大正期の三田には学校・病院だけでなく、社会主義・労働運動の拠点も存在しました。惟一館から日本労働会館、現在の友愛会館へ続く現地史は、三田・芝の歴史散歩記事で紹介しています。

7. 芝浦の第二号・第三号|埋立地が町になる途中

大正10年の芝浦埋立地第二号・第三号と運河を示す詳細古地図
芝浦の埋立地。第二号・第三号と記された造成地を運河が区切り、鹿島橋などの橋で結んでいます。

現在なら町名で呼ばれる場所が、地図では「第二号」「第三号」と号地で示されています。運河と橋を先に整え、その内側を埋め立てて道路・工場・倉庫用地へ変えていく東京湾岸造成の途中です。鹿島橋などの橋名も、埋立地が水路で分節されていたことを伝えます。

芝浦では号地ごとに埋立と利用が進み、海岸線が段階的に東へ移りました。大正10年の図は、造成地にまだ町名が定着していない段階を記録しています。

三田・高輪たかなわ・白金

8. 三田の寺町|普連土ふれんど女学校と学校・寺院の集積

大正10年の三田・普連土女学校・寺町周辺を示す詳細古地図
三田の寺町・学校群。普連土女学校、御田小学校、多数の寺院と住宅地が入り組んでいます。

図には「普連土女学校」「御田小学校」と、多数の寺院名が密集しています。普連土女学校は1887年に創立されたキリスト教系女学校で、現在の普連土学園へ続きます。周囲の三田寺町は江戸以来の寺院群を基盤とし、その間に近代学校や住宅が入りました。

9. 高輪の東宮御所|皇太子裕仁親王の学びの場

大正10年の高輪東宮御所周辺を示す詳細古地図
高輪の東宮御所。皇太子裕仁親王が学んだ東宮御学問所を含む広大な御所と、周辺の高輪西台町が描かれています。

高輪の巨大区画には「東宮御所」と記されています。高輪御殿は1914年2月に東宮御所となり、皇太子裕仁親王、後の昭和天皇が居住しました。同年5月に東宮御学問所が設置され、1921年2月まで約7年間、皇太子の教育の場となりました。

地図刊行年の1921年3月、皇太子裕仁親王はヨーロッパ訪問へ出発し、9月に帰国、11月25日に摂政となります。1923年の関東大震災では高輪東宮御所の御殿や旧御学問所が焼失し、1924年に赤坂離宮が東宮仮御所となりました。この地図は、高輪が皇太子の生活・教育拠点だった最後期を記録しています。

10. 白金・三光町|北里研究所と女子教育

大正10年の白金・北里研究所・聖心女子学院周辺を示す詳細古地図
白金・三光町周辺。北里研究所、聖心女子学院、香蘭女学校など、医学研究と女子教育の施設が集まっています。

「北里研究所」「聖心女子学院」「香蘭女学校」が近接して描かれます。北里柴三郎は伝染病研究所を率いていましたが、1914年の所管移管に反対して所長を辞し、同年に私立北里研究所を創設しました。現在の北里研究所・北里大学につながる施設です。

高画質図では、北里研究所の近くに「養生園」の名もはっきり確認できます。これは土筆ヶ岡養生園つくしがおかようじょうえんで、北里柴三郎きたさと・しばさぶろうが福澤諭吉らの援助を受けて1893年に開設した、日本最初の結核専門病院です。名称も福澤諭吉が付けたと伝わります。1914年に北里が私立北里研究所を創設した際には、この養生園の一角が研究所の基盤となりました。大正10年の地図に「北里研究所」と「養生園」が並んでいるのは、白金で細菌学の研究と結核患者の診療が隣り合って行われていたことを具体的に示しています。養生園は現在の北里大学北里研究所病院の前身でもあります。

聖心女子学院と香蘭女学校は、白金周辺に形成された女子教育の拠点です。香蘭女学校は1912年に白金へ移転し、1941年に現在の品川区旗の台へ移りました。聖心の学校群は現在も白金に続きます。

白金は政財界人の大邸宅地でもありました。久原鉱業を率いた実業家・久原房之助は1915年に渋沢喜作の旧邸地を取得し、白金今里町の土地を拡張して庭園と邸宅を整備しました。この土地は現在の八芳園につながります。医学研究所、女子教育施設、大規模邸宅が並ぶ景観は、大正期白金の性格をよく示しています。

11. 白金御料地|伝染病研究所と陸軍衛生材料廠

大正10年の白金御料地・伝染病研究所・陸軍衛生材料廠周辺を示す詳細古地図
白金御料地と伝染病研究所周辺。現在の自然教育園につながる大緑地と、近代医学・軍医療関係施設が隣接していました。

大きな緑地の周囲に「伝染病研究所」と「陸軍衛生材料廠」があります。伝染病研究所は北里柴三郎が創設に関わった研究機関で、北里退任後は東京帝国大学へ移管され、後の東京大学医科学研究所につながります。すぐ近くに北里研究所があるため、1914年の組織分裂後の二つの研究拠点を一枚の地図で比較できます。

白金の広大な緑地は、旧高松藩松平家下屋敷などを経て政府用地となり、1917年に白金御料地となりました。戦後は国立自然教育園、現在の国立科学博物館附属自然教育園へつながります。「陸軍衛生材料廠」は軍の衛生材料を扱う施設で、薬品や医療用資材の調達・保管・供給を担いました。白金の伝染病研究所と北里研究所に近接しており、この一帯には医学研究と軍の衛生行政に関わる施設が集中していました。

12. 白金・高輪境界|明治学院、海軍墓地、泉岳寺

大正10年の明治学院・海軍墓地・泉岳寺・高輪中学校周辺を示す詳細古地図
白金・高輪境界周辺。明治学院、海軍墓地、泉岳寺、高輪中学校などが近接し、教育・宗教・軍事の施設が並びます。

「明治学院」「高輪中学校」「泉岳寺」「海軍墓地」が近い範囲に描かれます。明治学院は1887年に白金へ校地を定め、現在も明治学院大学白金キャンパスがあります。高輪中学校も明治末から高輪に校地を置き、現在の高輪中学高等学校へ続きます。

泉岳寺は赤穂浪士の墓所で知られる寺院で、周辺の寺町は大正期にも残っていました。「海軍墓地」は、明治期に海軍関係の戦没者や殉職者を葬る墓地として整備された場所です。日清・日露戦争を経て慰霊碑や墓碑が集まり、高輪の軍事史を伝える空間となりました。宗教施設、近代学校、軍関係墓地が接している点に、高輪の土地利用の重層性があります。

13. 高輪海岸|鉄道院埋立地と高輪築堤

大正10年の高輪・鉄道院埋立地・高輪築堤周辺を示す詳細古地図
高輪海岸沿い。東海道線と「鉄道院埋立地」が描かれ、高輪築堤の周囲が埋め立てられていく途中の景観を確認できます。

海岸沿いに東海道線が走り、その東側に大きく「鉄道院埋立地」とあります。1872年の新橋―横浜間鉄道建設では、高輪海岸で用地確保が難しかったため海上に築堤を造って線路を通しました。これが高輪築堤です。

大正10年には築堤周辺の埋立が進み、鉄道が海上を走っていた姿が次第に見えなくなっていました。2019年以降、品川駅周辺の再開発に伴って高輪築堤の遺構が確認され、明治初期の鉄道土木を示す遺構として注目されました。地図の「鉄道院埋立地」は、築堤が地中へ取り込まれていく途中を示します。

14. 高輪南町の宮邸群|北白川宮邸・竹田宮邸・朝香宮邸

大正10年の高輪南町・北白川宮邸・竹田宮邸・朝香宮邸を示す詳細古地図
高輪南町の宮邸群。北白川宮邸、竹田宮邸、朝香宮邸が大区画で並び、東側には品川駅が描かれています。

この図で最も重要なのが、高輪南町に並ぶ「北白川宮邸」「竹田宮邸」「朝香宮邸」です。この一帯には政治家・後藤象二郎の邸宅地があり、宮内省が1898年に「後藤邸」を購入して高輪南町御用邸としました。その後、朝香宮家、北白川宮家、竹田宮家の邸宅が隣接して建てられました。1921年の地図は、宮家の大区画が品川駅の西側に連なる時期を記録しています。

北白川宮邸は北白川宮成久王の邸宅です。1909年の房子内親王との結婚を契機に高輪で新邸建設が進み、1912年に完成しました。現在のグランドプリンスホテル新高輪付近にあたり、門と塀が旧邸の痕跡として残っています。成久王は1923年、フランス滞在中の自動車事故で薨去し、同乗していた朝香宮鳩彦王も重傷を負いました。地図は成久王が当主だった時期の北白川宮邸を記録しています。

竹田宮邸は竹田宮恒久王と昌子内親王の新居として1911年に完成しました。設計は赤坂離宮などを手がけた宮廷建築家・片山東熊です。恒久王は1919年に薨去し、その後は長男・恒徳王が宮家を継ぎました。1921年の地図に描かれる洋館は現存し、現在のグランドプリンスホテル高輪「貴賓館」として使われています。

朝香宮邸は朝香宮鳩彦王・允子内親王の高輪の邸宅です。1921年には白金御料地の一部が朝香宮賜邸地として割譲されましたが、現在の東京都庭園美術館本館となる新しい朝香宮邸が完成するのは1933年です。この地図の「朝香宮邸」は高輪にあった旧邸を示します。現在の東京都庭園美術館本館は、1933年に白金で完成した新しい朝香宮邸です。1923年の関東大震災で高輪南町御用邸と各宮邸は被害を受け、朝香宮家はのちに白金へ新邸を建てました。

品川台場

15. 品川台場別図|幕末の海防から現在のお台場へ

大正10年芝区図に付された品川台場第一・第二・第三・第五・第六・第七砲台の別図
芝区図に付された品川台場の別図。第一・第二・第三・第五・第六・第七砲台などの位置関係を、図郭の座標に対応させて示しています。

芝区図の余白には品川台場の別図があります。第一・第二・第三・第五・第六・第七砲台などが記され、旧第四砲台所在地も別に示されています。枠内には「此図ニ於ケル縦横線ノ交点(甲)(乙)ヲ本図ニ於ケル縦横線ノ交点(甲)(乙)ニ一致スル如ク東方ニ転移セバ此図ノ砲台ハ本図ニ於ケル正当ノ位置ニ在ルモノトス」という趣旨の注意書きがあります。口語にすると、別図の縦横線の交点「甲」「乙」を本図の同じ交点に合わせるよう東へ移せば、各砲台が本図上の正しい位置になる、という意味です。紙面の余白へ移して描いた台場を、本図の座標へ戻すための説明です。

旧第四砲台は緒明造船所になった

別図の左下には、小さく「旧第四砲台 緒明造船所」と記されています。この表記は、幕末の海防施設が明治の近代産業用地へ転用されたことを示す重要な手掛かりです。第四台場は品川沖の台場築造計画で着工されたものの未完成に終わり、のちに「崩れ台場」とも呼ばれました。1883年、造船家の緒明菊三郎が陸軍省から借り受け、ここに緒明造船所を開設しました。

緒明菊三郎は、ロシア軍艦ディアナ号の遭難後に戸田で建造された洋式帆船「ヘダ号」に関わった船大工・緒明嘉吉の子で、自身も洋式造船に進みました。緒明造船所は明治期の有力な民間造船所となり、1889年には職工180人を抱え、汽船の建造を続けています。菊三郎は海運業にも進出し、榎本武揚らとともに1897年の浦賀船渠設立にも参画しました。1905年には自社船として木造船「第27観音丸」を建造しており、日本海事史学会は全長85メートル、1,897トンで木造船として国内最大としています。

第四台場は1909年に陸軍省から内務省へ移管され、1912年には東京府から緒明圭造へ払い下げられました。東京都公文書館には1917年の「品海第四砲台緒明造船所平面図」が残っており、大正期にも旧砲台と造船所の関係が公文書上で確認できます。現在の第四台場跡は天王洲アイルにあたり、品川区の景観資料では、旧台場の石積みがシーフォートスクエア側のボードウォーク護岸に再利用されていることが紹介されています。幕末の砲台、明治の造船所、昭和の埋立地、現在の天王洲という土地利用の変化を、この小さな地図表記から連続して追うことができます。

品川台場は1853年のペリー来航後、江戸湾防衛のため築造が始まりました。計画と完成状況は各台場で異なり、明治以降は軍事・港湾政策の変化によって撤去、埋立、転用が進みます。現在は第三台場が台場公園として公開され、第六台場は保存区域として残ります。幕末の海防施設が、東京港の造成を経て現在の「お台場」という地名と景観へつながりました。

鉄道・工業・教育・皇室施設が南北に連なる芝区

芝区では、新橋・汐留の鉄道、愛宕の医療、芝公園の寺院と公共施設、芝浦の工業と埋立、三田・白金の教育と医学研究、高輪の皇室施設、品川台場までが南北に連続しています。江戸の寺社・大名屋敷・海防施設を引き継いだ土地に、鉄道、大学、病院、工場、宮邸が重なり、地域ごとに異なる都市機能が形成されました。現在の港区でも、新橋の交通、三田・白金の教育・医療、高輪の大規模敷地、芝浦・港湾部の開発という配置に、その違いをたどれます。

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参考資料