大正東京・麻布区を古地図で徹底解説|麻布・六本木・広尾

大正期の東京市麻布区を描いた番地界入東京市拾五区区分図

麻布区は現在の港区西部にあたり、六本木、麻布台、東麻布、麻布十番、元麻布、南麻布、西麻布、広尾周辺を含みます。『番地界入東京市拾五区全図 麻布区図』は大正13年(1924)9月20日第三版です。関東大震災から約1年後の麻布を記録しており、江戸の武家地を引き継いだ大邸宅、宮邸、軍施設、学校、病院、外国公館、寺院、工場が同じ区内に並びます。

精細図をつなぐと、北は赤坂区境、西は青山墓地と渋谷町境、南は広尾・本村町、東は芝区境まで麻布区の主要地域を一通り確認できます。台地には大規模邸宅や公館、谷底低地には細かな街区や商店・工場が集まり、現在の麻布の坂と町並みにつながる土地利用が読み取れます。

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六本木・青山墓地・広尾

今井町・市兵衛町|三井家、住友家、東久邇宮家が並ぶ大邸宅街

大正13年麻布区 今井町・市兵衛町周辺の古地図 三井邸・住友邸・東久邇宮邸
今井町・市兵衛町周辺。三井家今井町邸、住友家麻布別邸、東久邇宮邸など大規模邸宅が集中しています。

今井町の大区画に「三井邸」と記されています。これは三井総領家・北家第10代当主の三井高棟が構えた今井町邸です。三井高棟は1906年に麹町から麻布区今井町へ移り、約1万3500坪の本邸を整えました。邸内には能舞台、庭園、テニスコートがあり、後に国宝となる茶室「如庵」も移築されました。三井財閥の本拠を担った総領家の生活空間が、現在の六本木二丁目付近に広がっていたことになります。

市兵衛町の「住友邸」は住友家15代家長・住友吉左衞門友純の麻布別邸です。現在の泉ガーデン、泉屋博古館東京周辺にあたり、洋館と和館を備えた邸宅でした。友純は近代住友の基礎を築いた人物で、美術品収集にも力を注ぎました。現在の泉屋博古館東京がこの土地に置かれているのは、住友家がこの地に築いた邸宅とコレクションの歴史を受け継ぐためです。

さらに大きな「東久邇宮邸」は、もともと八戸藩南部家の邸宅を宮内省が1874年に購入し、静寛院宮和宮の邸宅とした土地です。和宮薨去後は梨本宮家が使用し、隣接する旧長府藩毛利家の邸地も加えられて「麻布御殿」となり、大正・昭和期には東久邇宮邸として使われました。1924年当時の当主は東久邇宮稔彦王ひがしくにのみや・なるひこおうです。1906年に東久邇宮家を創設し、陸軍軍人として歩んだ人物で、のち1945年8月には皇族として初めて内閣総理大臣となり、終戦直後の降伏文書調印や陸海軍解体などの処理にあたりました。地図上の宮邸は、後に敗戦処理を担う首相となる人物の大正期の生活拠点でもありました。現在は六本木一丁目の再開発地区に重なります。

同じ図の「田中邸」は実業家・田中銀之助の邸宅です。大正13年(1924)9月の史料には「市兵衛町田中銀之助宛」とあり、1929年の日英協会名簿では住所が麻布区市兵衛町一丁目5番地と記されています。田中はケンブリッジ大学留学経験を持ち、1899年にE・B・クラークとともに慶應義塾の学生へラグビーを指導した、日本ラグビー草創期の人物です。続く「北里邸」は北里柴三郎の邸宅です。港区資料では麻布中ノ町19に北里邸があったことが確認できます。北里は1914年に北里研究所を創設し、1931年に麻布の自宅で死去しました。

新龍土町・北日ヶ窪町|歩兵第三連隊、第三高等女学校、李王世子邸

大正13年麻布区 新龍土町・北日ヶ窪町周辺の古地図 歩兵第三連隊・第三高等女学校
新龍土町・北日ヶ窪町周辺。歩兵第三連隊、府立第三高等女学校、李王世子邸、外国公使館などが見えます。

新龍土町には「歩兵第三聯隊兵営」が大きく描かれます。現在の国立新美術館、政策研究大学院大学周辺は陸軍用地でした。明治以降の六本木は軍施設が集中する地域でもあり、戦後に米軍施設を経て文化・教育施設へ転換しました。現在保存されている旧歩兵第三連隊兵舎の一部は1928年竣工なので、この1924年図に描かれた兵舎と同一建物として扱わず、同じ軍用地の後継施設として読む必要があります。

北日ヶ窪町の「第三高等女学校」は東京府立第三高等女学校です。1902年に麻布日ヶ窪で開校し、現在の港区立六本木中学校付近に校地を持ちました。1946年に駒場へ移転し、学制改革を経て現在の東京都立駒場高等学校につながります。大正期の麻布が女子教育の重要な拠点だったことを示す施設です。

鳥居坂寄りには「李王世子邸」があります。ここでいう世子は、旧大韓帝国皇帝・高宗の皇子である李垠です。李垠は幼少期から日本で教育を受け、陸軍士官学校を経て日本陸軍軍人となり、1920年には梨本宮方子女王と結婚しました。鳥居坂の邸宅は、日韓併合後の旧韓国皇室の処遇と、日本の宮家との婚姻関係を具体的に示す場所です。港区の地域史料では、この周辺に三條家の邸地、その後の李王世子邸、日本銀行施設などが置かれた変遷も確認できます。

ボリビヤ公使館、アルゼンチン公使館も近接しています。現在も麻布には各国大使館が集中しており、大規模邸宅地を外国公館が利用する流れは明治・大正期から続いています。地図の「真田邸」は、旧松代藩主家の伯爵・真田幸治の邸宅です。国文学研究資料館所蔵の真田家文書には、大正13年(1924)8月4日付の宮内省宗秩寮からの封筒が残り、宛先は「麻布区材木町五六 伯爵真田幸治殿」と記されています。地図刊行時の麻布に真田伯爵家の邸宅があったことを、同時代史料から確認できます。

青山墓地・笄町こうがいちょう|谷筋と邸宅、寺院が交わる西端部

大正13年麻布区 青山墓地・笄町周辺の古地図 寺内邸・長谷寺
青山墓地・笄町周辺。台地と谷筋の境に邸宅、寺院、住宅地が広がっています。

麻布区西端では青山墓地、青山南町、笄町が接します。笄町を流れた笄川は現在暗渠化され、谷筋は道路や市街地の中に取り込まれています。地図では台地と谷底の高低差に沿って街区が変化し、現在の西麻布の坂道や細い道にその骨格が残ります。

「寺内邸」は、第18代内閣総理大臣・寺内正毅の笄町邸です。港区資料では所在地は麻布区笄町172番地で、1911年にドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデ設計の煉瓦造洋館が竣工したことが確認できます。正毅は1919年に死去しているため、この地図はその後も寺内家の邸宅として残っていた時期を記録しています。「長谷寺大観音」など寺院の広い敷地も確認でき、住宅地の中に寺院境内がまとまった緑地を形成していました。

広尾・笄町|黒田清輝邸、赤十字社病院、順心女学校

大正13年麻布区 広尾・笄町周辺の古地図 黒田清輝邸・赤十字社病院・順心女学校
広尾・笄町周辺。黒田清輝邸、日本赤十字社病院、順心女学校などが確認できます。

笄町177番地を中心とする「黒田邸」は、洋画家・黒田清輝の養父である黒田清綱が構えた黒田家の笄町別邸です。清輝も晩年はこの邸宅で生活しました。清輝はフランス留学後、日本の近代洋画を牽引し、東京美術学校教授や帝国美術院長を務めました。1919年に陶芸家バーナード・リーチの窯が焼失すると、黒田家笄邸の敷地内で制作を続けることになりました。清輝はこの地図が刊行された1924年に死去しています。その後、黒田家の大邸宅地は昭和初期に三井信託による麻布霞町の宅地分譲地へ転換し、大規模邸宅が細分化されて都市住宅地へ変わる過程の一例となりました。

「赤十字社病院」は現在の日本赤十字社医療センターにつながります。1886年に麹町区飯田町で博愛社病院として開設し、1887年に日本赤十字社病院と改称、1891年に広尾の現在地へ移転しました。1922年には日本赤十字社産院も開設され、医療と看護・助産教育の拠点になりました。

「順心女学校」は1918年、板垣退助・絹子夫妻らの尽力によって設立され、初代校長に下田歌子を迎えました。2007年に共学化し、現在の広尾学園中学校・高等学校となっています。大正期の学校所在地と現在の学園が同じ広尾地域で連続している例です。

地図の「成瀬邸」は実業家・成瀬正行の邸宅です。港区資料では麻布広尾町3番地、現在の南麻布5丁目2付近にあり、1919年にジョサイア・コンドル設計で竣工しました。国立科学博物館の産業技術史資料データベースによれば、コンドル作品では唯一の鉄筋コンクリート造住宅です。のちに敷地は堤康次郎の邸宅となり、建物は戦災で焼失しました。

本村町・宮村町・鳥居坂

盛岡町・本村町|高松宮家御用地、統計局、華族邸と工場

大正13年麻布区 盛岡町・本村町周辺の古地図 高松宮家御用地・統計局
盛岡町・本村町周辺。高松宮家御用地、統計局に加え、共立電機工場と竹村製紐せいちゅう工場が確認できます。宮家・官庁・邸宅と、通信機器や紐類の製造工場が近接していました。

盛岡町の大区画「高松宮家御用地」は、江戸時代には盛岡南部藩の下屋敷でした。明治期に有栖川宮家の御用地となり、1913年に高松宮家へ継承されます。この高松宮は、大正天皇の第三皇子・高松宮宣仁親王たかまつのみや・のぶひとしんのうです。有栖川宮威仁親王の死去により宮家が絶えた1913年、当時8歳の光宮宣仁親王が「高松宮」の称号を賜り、有栖川宮家の祭祀とゆかりの財産を受け継ぎました。1924年の地図は、まだ少年期の宣仁親王に属していた広大な御用地を記録しています。1934年に東京市へ下賜され、現在の有栖川宮記念公園となりました。江戸の大名屋敷から宮家の御用地、公園へと土地利用が連続した代表例です。

近くの「統計局」は、1909年に麻布富士見町の庁舎へ移った政府統計機関です。1920年に実施された第1回国勢調査の時代には、この麻布の庁舎が統計行政の拠点でした。現在の住宅地からは想像しにくい官庁機能が麻布南部に置かれていました。

地図の「鷹司邸」は、五摂家の一つ鷹司家の公爵邸です。鷹司煕通は1918年に麻布区本村町で死去し、長男の鷹司信輔が家督を継ぎました。貴族院議員名簿にも信輔の住所は「麻布区本村町三五」と記されており、大正期の本村町に鷹司公爵家の邸宅があったことを確認できます。

地図には「共立電機工場」も見えます。共立電機電線は1908年に成立し、麻布区富士見町の工場で電話機・交換機などの通信機器を製造しました。1931年には安中電機と合併して安立電気となり、現在のアンリツへつながります。麻布南部には大邸宅や官庁だけでなく、近代通信産業の工場も存在していました。

同じ高画質図には「竹村製紐せいちゅう工場」と読める区画もあります。製紐は、糸や繊維を組んで紐・コード類を作る加工です。会社の詳しい系譜までは確認できませんが、電機工場の近くにこうした繊維加工の工場もあり、古川沿いの低地に性格の異なる製造業が混在していたことが分かります。

本村町・新堀町|松方邸と現在の西町インターナショナルスクール

大正13年麻布区 本村町・新堀町周辺の古地図 松方邸・工場・学校
本村町・新堀町周辺。松方家邸宅と学校、工場、古川沿いの細かな街区が同居しています。

「松方邸」は松方正熊・美代夫妻の邸宅です。1921年にウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計し、竹中工務店が施工しました。夫妻は子どもたちに国際的な教育を受けさせるため、邸宅3階で家庭教育を始めました。この教育環境が娘・松方種子による西町インターナショナルスクール創設の背景となり、現在も元麻布の校内に「松方ハウス」として残っています。

宮村町・鳥居坂|赤星鉄馬邸、末延道成邸、東洋英和女学校

大正13年麻布区 宮村町・鳥居坂周辺の古地図 井上邸・赤星邸・東洋英和女学校
宮村町・鳥居坂周辺。井上家、赤星家などの邸宅と東洋英和女学校が集中しています。
大正13年麻布区 六本木・鳥居坂周辺の古地図 李王世子邸・第三高等女学校
六本木・鳥居坂周辺。李王世子邸、第三高等女学校、宮村町の邸宅地が近接していました。

鳥居坂周辺には大邸宅が密集します。現在の国際文化会館の土地は、江戸時代の多度津藩京極家屋敷から、明治初期に井上馨邸、久邇宮邸、赤星鉄馬邸へと移りました。井上馨の鳥居坂邸では1887年、明治天皇らを招いた天覧歌舞伎が催され、明治政府高官の社交・接遇空間としても使われました。1923年の関東大震災で赤星邸は半壊し、昭和初期に岩崎小彌太邸となり、戦後の1955年に国際文化会館が建設されます。政府高官の邸宅、宮家、実業家・財閥の邸宅、国際交流施設へと役割を変えた土地です。

地図の「赤星邸」は実業家・赤星鉄馬の鳥居坂邸です。現在の国際文化会館の敷地は、明治期の井上馨邸、久邇宮邸を経て、大正時代に赤星鉄馬の所有となりました。その後は三菱財閥の岩崎小彌太へ渡り、1930年に岩崎邸が完成しました。現在の国際文化会館の庭園には、この大邸宅地の歴史が受け継がれています。

「末延邸」は三菱財閥の幹部・末延道成の邸宅です。港区資料では現在のシンガポール共和国大使館の場所にあり、末延は東京海上火災の会長も務めました。1907年、末延はジョサイア・コンドルに依頼し、2階建てのハーフティンバー洋館を建てています。

「東洋英和女学校」は1884年、カナダ・メソジスト教会の宣教師マーサ・J・カートメルによって鳥居坂に創設されました。現在も東洋英和女学院中学部・高等部などが六本木の同地域にあり、140年以上にわたり教育拠点が継続しています。

地図の「高木邸」は男爵・高木兼寛の邸宅です。高木は海軍軍医として脚気対策に取り組み、東京慈恵会医科大学の前身となる医学校・病院の創設にも関わった人物です。1912年には麻布区東鳥居坂に邸宅を新築して移り住んでおり、この地図は晩年の居宅を記録しています。「穴水邸」は実業家・穴水熊雄の邸宅で、同時代資料に住所が麻布区宮村町71番地と記されています。穴水は電力事業を中心に活動し、のちに大日本電力社長や京王電気軌道社長を務めました。

飯倉・麻布十番・古川低地

飯倉狸穴町まみあなちょう|東京天文台と鍋島邸

大正13年麻布区 飯倉狸穴町周辺の古地図 東京天文台・鍋島邸
飯倉狸穴町まみあなちょう周辺。東京天文台と旧蓮池藩鍋島家の邸宅が大きな敷地を占めています。

飯倉狸穴町まみあなちょうの「東京天文臺」は、現在の国立天文台の前身です。1888年に麻布飯倉で発足し、恒星観測、経緯度の決定、暦の計算、時刻の決定を行いました。三鷹への移転は1909年の用地取得から段階的に進み、1924年に完了しています。

この麻布区図の刊行日は1924年9月20日です。東京天文台は同年に三鷹へ移転しているため、地図に「東京天文臺」が残るのは、地図製作時点の情報と移転時期が重なった結果と考えられます。麻布で使われたレプソルド子午儀も三鷹へ移され、現在まで保存されています。麻布台には日本経緯度原点が残り、東京天文台の観測史を現在に伝えています。

隣接する「鍋島邸」は旧肥前国蓮池藩鍋島家の邸宅です。10代当主・鍋島直柔が明治維新後に飯倉狸穴町へ移り、1904年には子の直和の結婚に合わせて新しい和館を建てました。関東大震災では大きな被害を免れ、1927年に和館が世田谷の妙寿寺へ移築され、1928年に土地がソビエト大使館へ売却されました。現在のロシア大使館の敷地です。

飯倉町六丁目|紀州徳川家邸と南葵文庫なんきぶんこ

大正13年麻布区 飯倉町六丁目周辺の古地図 徳川邸・南葵文庫
飯倉町六丁目周辺。紀州徳川家の邸宅と私立図書館・南葵文庫なんきぶんこが描かれています。

飯倉町六丁目の「徳川邸」と「南葵文庫」は紀州徳川家に関係します。紀州徳川家の徳川頼倫は麻布飯倉に邸宅を構え、家蔵の書籍を整理して私立図書館・南葵文庫を設立しました。1908年には一般公開され、学術研究者や学生が利用できる近代的な図書館となりました。

1923年の関東大震災で東京帝国大学附属図書館が大きな被害を受けた後、南葵文庫の蔵書は東京帝国大学へ寄贈されました。南葵文庫に付属した南葵楽堂のパイプオルガンは後に東京藝術大学へ移され、松浦武四郎の一畳敷「高風居」は現在、国際基督教大学の泰山荘に保存されています。麻布の私邸に築かれた文化施設が、震災後に大学や文化機関へ分散して受け継がれました。

麻布十番・古川低地|高台の邸宅地と対照的な生活・商業空間

麻布十番、網代町、新網町、飯倉町の低地では地番が細かく、路地と小規模宅地が密集します。古川沿いには工場や商店が入り、台地上の宮邸・華族邸・財閥邸とは土地利用が大きく異なります。二の橋付近では1904年、鈴木三郎助が旧麻布沃硝合資会社の工場を取得して鈴木製薬所の工場・事務所とし、1908年には池田菊苗の特許を工業化するため、後の「味の素」となるグルタミン酸ナトリウムの試作が行われました。本格生産は後に逗子、川崎へ移ったため、1924年当時の現役工場としてではなく、日本の調味料工業化が始まった土地の履歴として重要です。坂を上がると大邸宅、谷底には商業・生活・工業空間という構成は、現在の麻布十番と元麻布・六本木の景観にも残っています。

鳥居坂、永坂、おたふく坂など、現在も名前が残る坂を地図でたどると、谷と台地の境界がそのまま道路になったことが分かります。麻布区を理解する鍵は、町名だけでなく高低差と旧邸宅の敷地境界を重ねて読むことです。

台地の大邸宅と谷底の生活・商業が同居した麻布区

この地図は関東大震災から約1年後に刊行されました。黒田清輝は刊行年の1924年に死去し、東京天文台は同年に三鷹への移転を完了しています。鍋島邸は震災を大きな被害なく乗り切り、赤星邸は震災で半壊しました。軍施設では歩兵第三連隊が残り、女子教育では第三高等女学校、順心女学校、東洋英和女学校が活動しています。

一枚の地図に、江戸の大名屋敷を引き継ぐ宮邸、明治の財閥邸、大正期の学校と病院、軍施設、外国公館、震災復興期の都市が同時に描かれています。現在の六本木・麻布台・元麻布・広尾を歩くと、建物は変わっていても、坂、道路、大規模敷地、公園、学校、大使館の配置に大正期の麻布区の骨格を追うことができます。

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参考資料