大正東京・京橋区を古地図で徹底解説|銀座・築地・八丁堀

大正期の東京市京橋区を描いた番地界入東京市拾五区区分図

基礎資料は、東京市逓信局が刊行した「番地界入東京市拾五区区分図」のうち「東京市京橋区全図」です。特別区協議会の目録では、大正8年(1919)12月15日第二版、86×78.5センチとされています。関東大震災の約3年9か月前にあたり、銀座・京橋の商業地、築地・明石町の教育・宗教・海軍施設、八丁堀・新川の掘割、佃島・石川島、造成が進む月島までを同じ時点で確認できます。

地図の強みは、町名だけでなく番地、橋、河岸、官庁、学校、病院、会社、倉庫まで書き込まれている点です。以下では添付された16枚の高精細部分図を順に読み、1919年の名称が何を示すのか、その場所が前の時代からどう変わり、その後の震災・復興・埋め立てを経て現在へどうつながったのかを追います。

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京橋区図では都心と湾岸を一緒に見る

大正8年の東京市京橋区・南伝馬町や南鍛冶町周辺を示す詳細古地図
南伝馬町・南鍛冶町・五郎兵衛町など、現在の京橋周辺に残っていた細かな旧町名と町割り。

京橋の北側では、南伝馬町、南鍛冶町、南槙町、五郎兵衛町、具足町、鈴木町、柳町など、現在の住所表示から消えた町名が細かく並びます。江戸以来の商人・職人町の区画が大正8年にも残っており、一つの街区の中に細い地割と番地が連続しています。現在の「京橋一~三丁目」だけを見ていると失われる、町ごとの細かな単位を復元できる部分です。

大正8年の東京市京橋区・本材木町、亀島町、八丁堀北部を示す詳細古地図
本材木町・亀島町・八丁堀北部。細分された町と掘割が組み合わさった大正8年の市街地です。

本材木町、亀島町、松屋町、高代町などの旧町名と、掘割・橋・河岸が組み合わさっています。北側の斜線部分は隣接区で、行政境界も地図上に明示されています。図中には「寳田学校」も見えます。1873年に開校した小学校で、校名を変えながら現在の中央区立城東小学校へ系譜が続きます。京橋区は銀座だけを中心とする区域ではなく、日本橋側の商業地から学校、水運・物流の町までを含む、性格の異なる町の集合体でした。

銀座は明治の都市改造から大正の繁華街へ

大正8年の東京市京橋区・銀座、三十間堀川、大倉組周辺を示す詳細古地図
銀座と三十間堀川周辺。大倉組の表示や、銀座を南北に貫く水路と橋を確認できます。

銀座の地図で現在との違いが最も大きいのは水路です。三十間堀川は京橋川から分かれて銀座一丁目から八丁目を南北に流れ、汐留川へつながっていました。水谷橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、賑橋、出雲橋、八通八橋などが架かり、現在の銀座中心部に「川を渡る」という日常動線がありました。戦後復興で三十間堀川は1952年に埋め立てられ、現在は道路と街区の形にその痕跡が残ります。

図中の「大倉組」は、実業家・大倉喜八郎が築いた企業集団の拠点です。大倉は1873年に銀座で大倉組商会を設立し、貿易・用達事業から土木、鉱業などへ事業を広げました。1882年には大倉組の建物前でアーク灯が点灯しており、銀座の電気照明史とも結び付きます。1919年の地図に「大倉組」とあることから、文明開化期の企業拠点が大正期にも銀座の一角を占めていたことが分かります。

大正8年の東京市京橋区・銀座西部、弥左衛門町、山城町周辺を示す詳細古地図
銀座西部と周辺の旧町名。現在の銀座一~八丁目へ整理される前の細かな町割りが残っています。

銀座西側には弥左衛門町、山城町、加賀町、元数寄屋町、南金六町、尾張町など、後の町名整理で「銀座」に統合されていく町が並びます。現在の銀座一~八丁目という規則的な名称から大正8年へ戻ると、銀座は周辺の旧町を吸収しながら拡大した地域だったことが分かります。道路の位置が残る場所も多いため、旧町名と現在の交差点を対応させると街の成長過程を追えます。

南金六町には、現在の博品館TOY PARKにつながる帝国博品館勧工場もありました。1899年に創業した大型商業施設で、時計塔を備え、多種の商品を一堂に陳列販売しました。木挽町こびきちょうの農商務省商品陳列館が産業振興のために商品を展示する官の施設だったのに対し、帝国博品館勧工場は商品を集めて販売する民間の都市型商業施設でした。大正期の銀座周辺では、商品を一堂に集めて見せる新しい仕組みが官民双方で展開していました。

大正8年の東京市京橋区木挽町・逓信省、為替貯金局、逓信大臣官舎を示す詳細古地図
木挽町八丁目の逓信省一帯。構内郵便局、為替貯金局、逓信大臣官舎まで描かれています。

木挽町八丁目には「逓信省」「構内郵便局」「為替貯金局」「逓信大臣官舎」がまとまって描かれています。逓信省は郵便・電信・電話など近代国家の通信行政を所管した官庁です。官舎は大臣という職に付属する公的住居で、個人の私邸とは区別して読む必要があります。地図刊行日の1919年12月15日は原敬内閣の時期で、逓信大臣は野田卯太郎でした。

同じ図には「農商務省商品陳列所」も記されています。公文書などでは農商務省商品陳列館と呼ばれた施設で、国内外の商品や工芸品、見本を集め、実業家や製造業者の比較研究、商工業調査、輸出振興などに利用されました。通信行政の中枢と産業振興の展示施設が近接していたことから、木挽町一帯には商業都市・銀座を支える国家機関も集中していました。

築地には外国人居留地の記憶が残った

大正8年の東京市京橋区築地・歌舞伎座、府立工芸学校、築地本願寺周辺を示す詳細古地図
築地北部。歌舞伎座、東京府立工芸学校、築地本願寺、盲人技術学校などが近接していました。

この図には、歌舞伎座、東京府立工芸学校、西本願寺、盲人技術学校、複数の病院などが読み取れます。1919年の歌舞伎座は1911年に大改築された第二期歌舞伎座です。1921年10月に漏電火災で焼失し、再建工事中の1923年9月に関東大震災を受けました。第三期歌舞伎座は1924年末に竣工し、1925年に開場します。この地図は、第二期歌舞伎座が失われる約2年前の姿を記録しています。

東京府立工芸学校は現在の東京都立工芸高等学校につながります。1907年に京橋区築地三丁目15番地で開校し、地図刊行年の1919年4月には金属工芸科、精密機械科、木材工芸科、製版印刷科へ科名を改めました。1923年の震災で校舎が全焼し、仮校舎を経て本郷へ移転します。地図の「15」という番地表示と学校史の所在地が一致するため、学校が置かれた街区を具体的に確認できます。

地図の「西本願寺」は現在の築地本願寺につながる寺院です。その境内には「盲人技術学校」がありました。1908年に設立され、1916年には日本最初の点字図書館とされる聖恩記念図書館を開設しました。1923年の震災で校舎を失った後、1929年に南小田原町へ移転し、戦後の東京都立築地盲学校を経て現在の東京都立文京盲学校につながります。

細字では「林病院」「池田病院」と読める医療施設もあります。林病院は同時代の医学資料にみえる「外科林病院」と対応し、築地で外科診療を行った病院でした。院長として林暉の名が記録され、林曄の名でも外科・整形外科史に登場します。1890年代末には築地で開業しており、1919年の地図は民間の専門病院が築地に置かれていた時期を示しています。

池田病院も京橋の病院として同時代資料に確認できます。池田清という医師との関係を示す資料がありますが、地図上の病院の診療科や開院・廃院時期は特定できません。林病院と池田病院が近接して描かれていることから、築地北部には官立・市立施設だけでなく民間病院も存在していたことが分かります。

大正8年の東京市京橋区明石町・立教中学校や学校、教会周辺を示す詳細古地図
明石町周辺。外国人居留地廃止後も、立教中学校をはじめ学校・教会・医療施設が集まっていました。

明石町は築地外国人居留地の中心部でした。居留地制度は1899年に廃止されましたが、1919年の地図にも京橋高等小学校、明石尋常小学校、立教中学校のほか、「天主教会」「三一教会」などが記されています。天主教会は築地外国人居留地に置かれたカトリック教会で、1878年には聖ヨゼフ天主堂が建てられ、現在のカトリック築地教会へ続きます。三一教会は聖公会系の教会で、立教とともに居留地に形成されたキリスト教教育・宗教活動の一角を担いました。

立教は1874年にウィリアムズ主教が築地で私塾を開いたことに始まり、1899年に築地明石町へ立教中学校の新校舎を建てました。大学部門は1918年に池袋へ移りましたが、中学校は明石町に残り、1923年の震災で校舎を焼失して池袋へ移転しました。1919年図は大学と中学校の拠点が分かれた短い時期を記録しています。

明石町では医療も居留地の系譜を引き継ぎました。米国聖公会の宣教医師ルドルフ・B・トイスラーは1901年に明石町で聖路加病院を開き、1917年には聖路加国際病院と改称しました。1919年は改称後にあたり、教育・教会・医療が近接した明石町の性格が続いていた時期です。

明石町の「邸」をさかのぼると、江戸時代には赤穂藩主浅野家の上屋敷がありました。中央区が指定する浅野内匠頭邸跡は現在の明石町10・11番および1番街区の南半分に相当し、屋敷は8,974坪余りの規模でした。1681年には屋敷地の東側が収公され、その後は奥平家、中津藩松平家、榊原家などの拝領地となります。1919年の地図に「浅野邸」と表示されているわけではなく、現在の史跡と江戸期資料から確認できる前史です。武家屋敷地が外国人居留地を経て学校・教会・病院の町へ変わった流れを同じ場所で追えます。

大正8年の東京市京橋区築地・海軍大学校、海軍軍医学校、海軍造兵廠を示す詳細古地図
築地南部。海軍大学校、海軍軍医学校、海軍造兵廠、東京市施療院などが集中していました。

築地南部では、海軍大学校、海軍軍医学校、海軍経理学校、海軍造兵廠、東京市施療院などの大区画が目立ちます。海軍大学校は1888年に築地で開設された海軍士官の高等教育機関で、1923年の震災後も応急校舎で続き、1932年に上大崎へ移転しました。海軍軍医学校では軍医教育が行われ、地図刊行年の1919年3月には増築工事の公文書も残ります。海軍経理学校は主計・会計など海軍経理を担う人材を教育した学校で、作戦指揮、軍医、経理という異なる専門教育機関が築地に集まっていました。

海軍造兵廠は兵器の製造・修理・研究を担いました。大正8年3月に海軍造兵廠令が公布され、製造部・研究部・会計部などの制度が定められています。東京都埋蔵文化財センターの築地市場跡遺跡調査では、第一次世界大戦中の輸入難を受けて、この築地の海軍造兵廠が1917年に光学ガラス溶解炉を設置し、1918年に光学ガラスの製造に成功したことも紹介されています。地図刊行の前年に起きた技術的成果です。

地図の「東京市施療院」は、1911年4月に京橋区築地四丁目で開院した東京市施療病院に対応します。治療費を負担できない東京市民を無料で診療する市立病院で、東京市が担った救療事業の拠点でした。1923年の関東大震災で焼失した後に再建され、1928年には築地病院と改称し、後の都立築地病院へつながりました。

大正8年の東京市京橋区築地・水路部、海軍参考館、海軍大学校周辺を示す詳細古地図
築地の海軍施設群。水路部、海軍参考館、海軍大学校、軍医学校などが広い敷地を占めています。

さらに海側には「水路部」「海軍参考館」「水交社」などが見えます。水路部は海図作製や海洋測量を担った組織で、1910年に築地海軍用地の新庁舎へ移りました。1923年の関東大震災で庁舎・測器・資料を焼失し、その後再建されます。現在の海上保安庁海洋情報部へつながる組織史を、この場所から追うことができます。

水交社は海軍士官を中心とする親睦・研究・福利の組織で、築地の海軍用地に施設を置いていました。海軍大学校、軍医学校、経理学校、造兵廠、水路部、水交社が近接する配置からは、築地が作戦教育、医学、経理、兵器技術、海洋測量、士官の交流までを集めた海軍の中枢地区だったことが分かります。

現在この一帯から連想される築地市場は、1919年にはまだ開場していません。関東大震災で日本橋魚市場と京橋の青物市場が被災した後、築地に臨時市場が置かれ、中央卸売市場としての築地市場は1935年に開場しました。1919年図で海軍・医療・研究施設が占める土地と、後の「食の築地」を比較すると、震災が土地利用を大きく変える契機になったことが分かります。

八丁堀と運河のネットワーク

大正8年の東京市京橋区・霊岸島、新川、永代橋周辺を示す詳細古地図
霊岸島れいがんじま・新川・永代橋周辺。水運と河岸によって形成された町の構造が分かります。

八丁堀から隅田川側へ進むと、霊岸島れいがんじま、新川、永代橋周辺が現れます。霊岸島は1624年、僧・霊巌が埋め立てて霊巌寺を建立したことに由来します。新川は江戸前期に開かれた水路に由来し、周辺には河岸・倉庫・商業機能が集まりました。図中には「中央商業学校」も見えます。1902年に京橋区霊岸島銀町で開校した商業学校で、現在の中央学院の系譜にあたります。

湊河岸には「磐城炭礦いわきたんこう」も記されています。渋沢栄一記念財団の会社資料では所在地が「東京市京橋区湊河岸二十号地」とされ、地図の場所と一致します。磐城炭礦は1884年、浅野総一郎あさの・そういちろう、渋沢栄一らが設立した炭鉱会社です。西南戦争で九州炭の輸送が滞り、東京周辺の工場が燃料不足に陥った経験から、より近い磐城地方の石炭を東京へ供給することが事業化されました。のちに入山採炭と合併して常磐炭礦となり、現在の常磐興産へつながります。炭鉱会社の東京拠点が湊河岸にあったことからも、石炭の販売と水運が密接に結び付いていたことが分かります。

同じ周辺には「浅野商會」と読める表記もあります。浅野総一郎は磐城炭礦の創立に加え、セメント、海運、港湾など多くの事業を展開していたため、位置関係から浅野系事業の営業・物流拠点だった可能性があります。ただし、地図の「浅野商會」を浅野総一郎の特定の会社と直接結び付ける同時代の住所資料は確認できていないため、ここでは可能性にとどめます。

霊岸島は日本の測量史でも重要な場所です。1873年から1879年まで霊岸島量水標で観測された東京湾の潮位から平均海面が求められ、日本の標高を測る基準になりました。1919年の地図が描く霊岸島は、水運の町であると同時に、近代日本の高さの基準を定めた観測地点を抱える地域でもありました。

大正8年の東京市京橋区・越前堀、住友倉庫、石川島造船所周辺を示す詳細古地図
越前堀えちぜんぼり周辺。住友倉庫の表示と、対岸の東京石川島造船所が同じ画面に収まります。

「越前堀」は福井藩松平家の屋敷を囲んだ堀に由来する地名です。江戸期の松平家屋敷とその堀の記憶が、町名として大正期まで受け継がれていました。1919年には周辺の土地利用は倉庫・物流地帯へ変化しており、江戸の大名屋敷地が近代都市の物流拠点へ組み替えられた過程を追えます。

地図には越前堀の大きな区画に「住友倉庫」とあります。新川・越前堀一帯は水運を利用する倉庫・物流機能が集積した地域で、対岸には東京石川島造船所が広がっていました。大阪を基盤とする住友倉庫も1919年に東京へ進出しており、この配置は大手企業の物流拠点と石川島の重工業が水路を挟んで近接していた大正期の東京湾岸を具体的に示しています。

同じ越前堀には「田宮神社」も記されています。現在の新川二丁目にある於岩稲荷田宮神社で、四谷左門町の田宮家に祀られていた稲荷が、1879年の火災後に越前堀へ移されたものです。『東海道四谷怪談』で知られる「お岩」の信仰が、明治以降の越前堀にも根付いていたことを地図から確認できます。

対岸には東京石川島造船所が描かれます。現在のIHIの系譜にあたり、1853年の石川島造船所創設、1876年の石川島平野造船所、1889年の有限責任石川島造船所を経て、1893年に株式会社東京石川島造船所となりました。1919年の京橋区図では、新川・越前堀の倉庫街と石川島の重工業が水路を挟んで向き合っています。

大正8年の東京市京橋区・八丁堀、新富町、新栄町と掘割を示す詳細古地図
八丁堀・新富町・新栄町周辺。現在は失われた掘割と橋が街区を形づくっていました。

八丁堀、新富町、新栄町、入船町方面では、掘割が街区の間へ入り込み、多数の橋が道路を接続しています。舟運は商工業の輸送路であると同時に、町境をつくる都市インフラでした。

新富町は劇場の町でもありました。1872年に守田座がこの地へ移り、のちに新富座と改称して、明治東京を代表する劇場の一つとなりました。歌舞伎座が開場する以前には新しい演劇興行の中心地となり、京橋区には銀座・木挽町だけでなく、新富町にも大勢の観客を集める娯楽空間がありました。

戦後の中央区では灰じん処理と復興区画整理に伴って掘割の埋め立てが進み、1949年には新川、1952年には三十間堀川などが姿を消します。現在の不自然に曲がる道路や高速道路沿いの細長い空間には、水路の形が残る場所があります。

月島方面は新しい東京だった

大正8年の東京市京橋区・佃町、石川島貯炭所周辺を示す詳細古地図
佃町・石川島周辺。江戸以来の佃島と近代造船業・貯炭施設が隣り合います。

佃町・石川島では、古い集落の細かな地割の横に「石川島貯炭所」など大規模な工業施設が置かれています。江戸以来の佃島の生活空間と、造船所を中心に形成された近代工業地帯が同じ島内で接しています。石炭は蒸気船や工場を支える重要な燃料であり、貯炭所の存在は石川島が生産だけでなく燃料・物流の拠点でもあったことを示します。

大正8年の東京市京橋区月島・月島通、西仲通、東仲通、河岸通を示す詳細古地図
月島の街路網。月島通、西仲通・東仲通、河岸通を軸に整然と町がつくられています。

月島は明治20年(1887)から始まった埋め立てで形成されました。完成した土地には月島通を中心に、月島西仲通・西河岸通・東仲通・東河岸通という規則的な町名が付けられています。現在の「月島」「勝どき」という町名体系になる前の姿で、人工島として計画的に造成された街路の骨格がよく分かります。

大正8年の東京市京橋区月島・工場と労働者住宅地域を示す詳細古地図
月島の市街地。工場地帯を支えた住宅・商店が細かな街区に密集していました。

月島には石川島造船所に関連する鉄工所・機械工場が進出し、隅田川沿いにも工場・倉庫が増えました。具体的には、石井鐵工所が1900年に月島で創業し、地図刊行年の1919年に株式会社となっています。野澤一郎が創業した巴組鐵工所は1917年に月島工場を開き、送配電用鉄塔・鉄柱の国産化を進めました。新潟鐵工所も1913年に月島へ東京工場を設け、1919年には国産の舶用ディーゼルエンジン開発を進めていました。月島は造船所の周辺に関連工場が集まっただけでなく、新しい機械・鉄構技術が実用化される工業地帯でした。

高画質図では「東京築地活版所工場」と読める表記も確認できます。東京築地活版製造所は、平野富二ひらの・とみじらが近代活字・印刷機械の国産化を進めた企業で、日本の近代印刷史を語るうえで重要な存在です。築地の本拠から発展した同社が月島側にも工場を置いていたことは、京橋区の工業化が造船や鉄工だけでなく、印刷機械・活字製造にも及んでいたことを示します。

また、地図には「東京瓦斯」の工場も見えます。東京瓦斯の社史では、月島にマントル工場が置かれていたことが確認できます。マントルはガス灯の光を強くする発光体で、電灯が急速に普及する以前の都市照明を支えた重要な消耗品でした。月島の東京瓦斯工場は、家庭や街路を照らすガス事業の製造拠点でもあったことになります。

工場の増加は労働者人口を増やし、街区内部には路地を通して敷地を細分した長屋が建てられました。その生活環境を同時代に調べたのが、内務省衛生局による「月島調査」です。調査は1918年から1920年にかけて行われ、統括した高野岩三郎のもと、権田保之助、山名義鶴、星野鉄男らが実務を担当しました。調査事務所は月島東仲通九丁目3番地の借家に置かれ、工場・仕事場、住宅、家計、健康、商店、医療、浴場、井戸や共同栓などが現地で調べられました。

1919年の地図は、この月島調査がまさに進行していた時期の街を描いています。地図の細い路地や密集した地割は、工業化で集まった労働者と家族の生活空間であり、その実態を調査員が同じ時期に現地で記録していました。

大正8年の東京市京橋区月島南部・埋立地を示す詳細古地図
月島南部の埋立地。東京が海側へ拡張していた大正期の都市形成を読み取れます。

月島南部では、市街地の外側に広い水面と造成地が残っています。現在の勝どき・晴海方面へ続く東京湾岸は、この後も埋め立てと橋梁整備を重ねて拡張しました。1919年図は完成後の都市を描く資料というより、造成・工業化・住宅化が同時進行していた都市の途中経過を記録しています。

関東大震災で街の骨格が再編された

1919年12月の京橋区図から1923年9月の関東大震災までは約3年9か月です。この短期間に、1921年の歌舞伎座火災があり、1923年の震災では銀座・京橋・築地一帯が大きな被害を受けました。東京府立工芸学校、盲人技術学校、立教中学校、水路部など、この地図で確認できる施設にも焼失・被災の記録があります。

復興では道路拡幅、橋梁架け替え、土地区画整理が進み、築地の土地利用も変化しました。震災後、日本橋魚市場と京橋の青物市場の機能が築地へ移り、1935年に中央卸売市場として築地市場が開場します。この地図で海軍・医療・教育施設が広がる場所が、昭和期には巨大市場へ変わります。

戦後には掘割の埋め立ても進みました。中央区では空襲後の灰じん処理と区画整理の一環として、1949年に新川、1952年に三十間堀川などが埋め立てられています。銀座・八丁堀・新川で現在見える道路や高速道路の形には、1919年の地図に描かれた水路の輪郭が残っています。

銀座・築地・八丁堀・月島で異なる都市機能が並んだ京橋区

1919年の京橋区を16枚の部分図で追うと、京橋には江戸以来の細かな町割り、銀座には商業・企業・通信行政、築地・明石町には劇場・学校・宗教・医療・海軍施設、八丁堀・新川には水運と倉庫、佃・石川島には造船、月島には工場と労働者住宅が並んでいました。同じ区内でも、都心の商業地と湾岸の工業地では土地利用が大きく異なります。

震災と復興、その後の掘割埋め立てで街路や施設は変わりましたが、銀座の商業、築地の大規模施設、新川・八丁堀の物流、佃・月島の湾岸開発という地域ごとの性格は形を変えながら続きました。三十間堀川の跡、橋跡、細長い街区、旧町名などをたどると、1919年の地図に描かれた水路と土地利用の違いを現在の街の中にも確認できます。

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参考資料