上野駅の広小路口を出て、線路沿いへ曲がります。
高架の下と脇には、魚、乾物、衣料、靴、化粧品、菓子、輸入食品、飲食店が並びます。 店頭から声が飛び、狭い通りを買い物客がすれ違います。
これがアメ横です。
さらに南へ歩けば御徒町。 高架の外側には、宝石、時計、貴金属、工具、部品を扱う店が集まります。
西へ進めば上野広小路。 中央通りと春日通りの周辺に百貨店、飲食店、雑居ビルが並びます。
坂を上れば湯島天満宮。 その下には、かつて料亭、待合、置屋、芸妓が集まった湯島花街の記憶と、現在の夜間飲食街があります。
反対に北へ戻れば、上野公園です。 博物館、美術館、動物園、音楽ホール、寛永寺、不忍池が広がります。
市場。 宝飾問屋。 歓楽街。 花街。 寺社。 博物館。 巨大駅。
これほど異なる街が、徒歩十数分の範囲に重なっています。
なぜ、上野・御徒町は闇市と歓楽街になったのでしょうか。
よくある説明は、こうです。
「空襲で焼け野原になり、駅前に闇市ができた」 「アメ横では進駐軍の放出品が売られた」 「闇市がそのまま現在の歓楽街になった」
いずれも一部は重要です。 しかし、それだけでは足りません。
上野には、江戸時代から寛永寺、参詣、花見、不忍池、広小路がありました。 明治以降は、上野公園の博覧会・博物館と、東北・北関東を結ぶ上野駅が大量の人を集めました。 御徒町には職人と問屋の蓄積がありました。 湯島には寺社門前と宴席文化がありました。
戦後の闇市は、何もない場所に突然現れたのではありません。
すでに人が集まり、乗り換え、買い物をし、飲食し、宿泊する地域へ、空襲と物資不足が重なったのです。
この記事では、アメ横を戦後の珍しい市場として見物するだけではなく、上野駅、御徒町、上野広小路、湯島、上野公園が、どのように異なる役割を分担してきたのかをたどります。
この記事で分かること
- 上野・御徒町が戦前から人を集めていた理由
- 1883年に上野駅が開業した意味
- 上野の山と低地で街の機能が違う理由
- 1945年以後、駅前に闇市が生まれた条件
- 近藤産業マーケットとアメ横の形成
- 「飴屋横丁」と「アメリカ横丁」という名称由来
- 進駐軍の放出物資をどう理解すべきか
- 満州からの復員兵と商店街組織の関係
- 高架下と線路脇が市場へ向いていた理由
- 御徒町が宝飾問屋街になった背景
- 湯島花街と駅前闇市が別の系譜である理由
- 上野公園の文化施設と歓楽街が隣り合う理由
- 現在の多文化商業と街歩きの注意点
- まず結論―六つの都市機能が重なった
- 上野の山と低地―文化の街と市場はなぜ隣り合うのか
- 闇市の前から上野広小路は商業と娯楽の街だった
- 1883年、上野駅が北の玄関口になった
- 1945年、上野駅前に闇市が生まれた
- 近藤産業マーケットとアメ横の始まり
- 「アメ」は飴か、アメリカか
- 進駐軍物資とは何だったのか
- 復員兵の組織は何をしたのか
- 高架と線路脇が市場を支えた
- アメ横はどう商店街へ変わったのか
- 御徒町はなぜ宝飾問屋街になったのか
- 上野広小路・仲町通りはなぜ夜の街になったのか
- 湯島はなぜ花街と歓楽街になったのか
- 駅前闇市と湯島花街は何が違うのか
- 高度成長期―上野駅から若者と音楽が流れ込んだ
- 文化の山と歓楽の低地は対立しているのか
- 現在の多文化商業は闇市の続きなのか
- 再整備と防災―市場の魅力をどう残すのか
- 古地図で見る―上野の山、池、広小路、高架
- 地図で歩く上野・御徒町
- 歩くときの注意点
- よくある疑問
- まとめ―上野・御徒町は「闇市の街」だけではない
- 参考文献・資料
まず結論―六つの都市機能が重なった
上野・御徒町の現在は、次の六つの都市機能が重なった結果です。
| 地域 | 主な役割 | 形成を支えた条件 |
|---|---|---|
| 上野の山・上野公園 | 寺社、行楽、博覧会、博物館、美術館、教育文化 | 寛永寺、台地、広い境内地、公園化 |
| 上野駅 | 北の玄関口、通勤、上京、旅行、物流 | 東北・北関東へ延びる鉄道 |
| アメ横 | 戦後市場、小売、食料、衣料、輸入品、多文化商業 | 闇市、高架・線路脇、駅間人流 |
| 御徒町 | 問屋、職人、宝飾、時計、修理、仲買 | 錺職、戦後の時計・アクセサリー市場、卸売 |
| 上野広小路 | 交通、買い物、飲食、娯楽 | 寛永寺参道、広小路、路面交通、百貨店 |
| 湯島 | 寺社門前、花街、宴席、夜間飲食 | 湯島天満宮、不忍池、上野広小路、大学・文化人 |
重要なのは、六つを同じ歴史として扱わないことです。
上野駅の利用者が、そのまま全員アメ横の客になったわけではありません。 アメ横の露店が、そのまま現在の飲食店になったわけでもありません。 御徒町の宝飾商が、すべて進駐軍物資から始まったわけではありません。 湯島花街が、そのまま現在の仲町通りの店へ変わったわけでもありません。
それぞれ異なる時代と制度で成立しました。
それでも、徒歩圏内にあり、同じ駅・道路・高架・池・坂を利用するため、人と商品が相互に流れました。
上野・御徒町は、一つの起源から生まれた街ではありません。
寺社都市、鉄道都市、市場、問屋街、歓楽街、文化都市が重なった複合都市です。
上野の山と低地―文化の街と市場はなぜ隣り合うのか
上野を歩くと、短い距離で大きな高低差があります。
上野公園、東京国立博物館、東京藝術大学、寛永寺は「上野の山」と呼ばれる台地側にあります。
その南西には不忍池が広がり、東・南側の低地には駅、広小路、商店街が続きます。
江戸時代、寛永寺は江戸城の鬼門を守る徳川家の菩提寺として大きな寺域を持ちました。 参詣、花見、寺社行事は、人を上野へ呼びました。
現在の上野公園は、明治以降に博覧会、博物館、動物園、美術教育などが集積した文化地区です。
一方、山の下には、参詣者や行楽客を受け入れる飲食・商業の需要が生まれます。
文化施設と市場は、正反対の存在ではありません。
博物館を訪れた人が食事をする。 地方から上野駅へ着いた人が上野公園へ向かう。 不忍池を歩いた人が広小路へ下る。 公演や展覧会の後に飲食店へ行く。
台地上の文化・宗教空間と、低地側の交通・商業空間は、人の移動によって結ばれています。
「上野公園は文化的、アメ横は雑然として低俗」という分け方をしないでください。
両方が、上野へ人を集める力をつくってきました。
寛永寺から博物館の森まで上野公園を歩く大型ガイドでは、上野の山の地形・寺院・文化施設を詳しくたどっています。あわせて、東叡山寛永寺の成立と上野の山の歴史もご覧ください。
闇市の前から上野広小路は商業と娯楽の街だった
上野広小路は、戦後に突然生まれた繁華街ではありません。
広小路とは、火災の延焼を防ぐ空間や、人が集まる広い道として設けられた場所です。
上野広小路は、寛永寺参道へ続く下谷広小路にあたり、不忍池から流れる忍川と橋があったことを、台東区の遺跡調査が示しています。
寺社参詣。 池と橋。 街道と商店。 見世物と飲食。 後には路面電車、地下鉄、百貨店。
人が通過するだけでなく、立ち止まり、買い物をし、楽しむ場所になりました。

織田一磨が1916年に描いた『上野廣小路』には、戦前の都市的なにぎわいが表現されています。
これは写真ではありません。 画面の建物や人物を、そのまま正確な店舗配置として読んではいけません。
しかし、1916年の時点で、上野広小路が人、交通、広告、商業のイメージを持つ都市空間だったことを示す美術資料です。
1927年12月30日には、東京地下鉄道の浅草―上野間が開業しました。 現在の銀座線につながる、日本初の本格的な地下鉄営業です。
上野は鉄道の終着・乗換駅であるだけでなく、地上と地下、寺社と百貨店、文化施設と歓楽を結ぶ交通拠点になります。
戦後の闇市は、この既存の人流と商業地の上へ形成されました。
1883年、上野駅が北の玄関口になった
1883年7月28日、上野駅が開業しました。
日本鉄道が上野―熊谷間で営業を始め、上野は北関東・東北方面へ向かう鉄道の起点になります。
後に路線が延び、上野駅は「北の玄関口」と呼ばれるようになりました。
駅が街へ与えた影響は、乗客数だけではありません。
- 地方の農産物や商品が届く
- 商人と行商人が移動する
- 学生、軍人、労働者、旅行者が乗り降りする
- 駅前に旅館、食堂、荷物運搬、日用品の需要が生まれる
- 地方出身者が東京で最初に目にする場所になる
1923年の関東大震災では駅舎が焼失します。
現在につながる上野駅舎は、震災復興を経て1932年に完成しました。

写真は1932年、新駅舎完成直後の上野駅です。
開業時の駅ではありません。 戦後の上野駅でもありません。
それでも、空襲・敗戦前に、上野がすでに大規模な鉄道都市として整備されていたことが分かります。
1945年以後、上野駅に復員兵、引揚者、地方から食料を運ぶ人、仕事を探す人が集まったのは、戦争が駅をつくったからではありません。
戦前から全国と東京を結ぶ交通基盤があったからです。
1945年、上野駅前に闇市が生まれた
東京大空襲と終戦後、上野駅周辺には闇市が形成されました。
なぜ駅前だったのでしょうか。
第一に、人が集まったからです。 地方と東京を結ぶ列車が発着し、食料、衣料、生活用品を求める人がいました。
第二に、正規の流通が機能しなかったからです。 配給だけでは生活を支えきれず、公定価格と実際の市場価格に大きな差が生まれます。
第三に、売る人も集まったからです。 家や職を失った人、復員兵、引揚者、農村から商品を運ぶ人、小商いを始める人など、背景の異なる人々が露店を出しました。
第四に、駅脇・高架下・焼け跡という空間があったからです。 大規模な店舗を建てる資金がなくても、露店や小屋で商売を始められました。
闇市という言葉から、すべてが犯罪組織の市場だったと考えないでください。
無許可の露店。 統制品の取引。 公定価格を超える売買。 合法品と非合法品。 行政・警察による取り締まり。 土地所有者との交渉。 露店商の自治組織。
さまざまな営業が混在しました。
的屋の組織が関わった市場もありましたが、上野・アメ横の形成をそれだけで説明することはできません。
台東区公式観光情報は、多くの闇市が的屋の仕切りだったのに対し、アメ横では満州からの復員兵が共同体となって連合会を組織し、出店を統制したと説明しています。
東京各地との違いは、新宿・上野・池袋・渋谷の闇市を写真と資料で比較した記事で詳しく整理しています。
近藤産業マーケットとアメ横の始まり
台東区立中央図書館のレファレンス資料によれば、1946年5月頃、アメ横の基礎となる近藤産業マーケットが発足しました。
1947年頃には、菓子や飴を売る店が増え、一帯が「アメ屋横丁」と呼ばれるようになったとされます。
砂糖や甘味が不足する時代に、飴や代用甘味は強い需要がありました。
ただし、現在のアメ横全域が、最初から一つの組織・名称で統一されていたと考えないでください。
上野側、御徒町側、高架下、線路脇では、店の種類、土地、管理組織、呼び名が異なる場合がありました。
市場は、完成した商店街として計画されたのではありません。
露店、小屋、市場組織、高架下店舗が、整理と建て替えを重ねながら一帯の商業地になりました。
「1946年5月にアメ横が完成した」とは書かないでください。 この時期は、後のアメ横につながる市場が組織化され始めた段階です。
「アメ」は飴か、アメリカか
アメ横の名称には、二つの有名な説明があります。
一つは「飴屋横丁」です。 上野駅側に飴や菓子を売る店が多かったため、アメヤ横丁と呼ばれたという説明です。
もう一つは「アメリカ横丁」です。 御徒町側で進駐軍・米軍に関連する商品が売られ、アメリカ横丁と呼ばれたという説明です。
台東区公式観光情報は、上野側の飴屋横丁と、御徒町側のアメリカ横丁という二つのエリアが統合され、現在のアメ横になったと紹介しています。
台東区立中央図書館のレファレンスでは、1947年頃に飴屋横丁、1950年頃にアメリカ横丁という呼び方が広がったとされています。
ここで、どちらかを「本当の由来」、もう一方を「後付け」と断定しないでください。
呼び名は、店、利用者、時代、資料によって変わります。
アメ横という短い名前には、物資不足時代の甘味と、占領期の米国商品という二つの戦後経験が重なっています。
進駐軍物資とは何だったのか
「進駐軍物資」「放出物資」という言葉は、慎重に使う必要があります。
戦後の市場には、次のような商品が混在しました。
- 占領軍・米軍から正式に払い下げられた余剰品
- 軍関係者が個人的に持ち込んだ時計、衣料、アクセサリー、日用品
- 軍施設や関係者の周囲から非公式に市場へ流れた商品
- 外国製品に似せた国産品
- 貿易再開後の輸入品
- 中古品、修理品、部品を組み合わせた商品
これらをすべて正式な「米軍放出品」と呼んではいけません。 逆に、すべてを盗品・横流し品と決めつけることもできません。
当時の商品流通は、正規・非正規の境界が複雑でした。
米国製の時計、衣料、靴、缶詰、化粧品などは、物資不足の日本で強い魅力を持ちました。
商品そのものだけでなく、「アメリカ」という豊かさのイメージも売られました。
アメ横は、必要な物を買う市場であると同時に、戦後日本が海外の商品・服装・消費文化へ触れる窓口の一つになったのです。
ただし、アメ横の全店舗が米軍物資を扱ったわけではありません。 食料、飴、衣料、日用品など、需要は多様でした。
復員兵の組織は何をしたのか
台東区公式観光情報では、満州からの復員兵が共同体となり、連合会を結成して出店を統制したと説明されています。
闇市は、無秩序な露店の集合だけでは維持できません。
- 誰がどこに店を出すか
- 通路をどう確保するか
- 火災や盗難へどう対応するか
- 土地や高架の管理者とどう交渉するか
- 警察・行政の露店整理へどう対応するか
- 商品や客をめぐる争いをどう調整するか
市場が続くには、何らかのルールと組織が必要でした。
復員兵の共同体は、その管理・交渉に関わったと考えられます。
ただし、「復員兵がアメ横を単独で創設した」「すべての店主が満州帰りだった」と一般化しないでください。
市場には、以前から地域にいた商人、戦災者、引揚者、新規参入者など、多様な人々が関わりました。
また、満州からの復員・引揚げという経験を、商売成功の英雄物語に単純化しないでください。 敗戦、移動、財産喪失、生活再建という厳しい背景がありました。
高架と線路脇が市場を支えた
アメ横は、上野駅と御徒町駅の間、鉄道高架と線路脇に沿って細長く続きます。
この形は偶然ではありません。
駅間を歩く人がいる。 列車から見える。 雨を避けられる高架下がある。 大通りより小さな区画をつくりやすい。 物流・搬入に使える道が近い。 駅前の高い地価の中心から少し外れている。
こうした条件が、小規模な店を密集させました。
一方、高架下と細街路には課題もあります。
- 避難経路が限られる
- 木造・小規模建物が密集する
- 火災が広がりやすい
- 搬入、歩行者、自転車が競合する
- 所有・賃貸・管理関係が複雑になる
1981年5月30日には、アメ横の三角地帯で火災があり、木造建物と多数の店舗が焼失しました。 後の建物整備を考える一つの契機になります。
火災を「闇市らしい危険さ」と煽らず、密集商業地の防災問題として扱ってください。
アメ横はどう商店街へ変わったのか
闇市は、非常時の市場です。
そのままでは、恒久的な商店街になれません。
上野・御徒町では、露店整理、店舗化、高架下利用、組合形成、道路・建物整備、商品転換が進みました。
飴や食料。 時計や衣料。 海産物、乾物、菓子。 靴、化粧品、スポーツ用品。 輸入食品、多国籍な飲食。
時代ごとに、売れる商品は変わります。

写真は2024年のアメ横上野側入口です。 左に山手線、右に商店街入口があります。
この写真から分かるのは、現在地と鉄道の近さです。 戦後商品の内容や闇市の店舗構成ではありません。
アメ横の強さは、「昔の闇市を保存したこと」だけにありません。
小さな店が、時代ごとの不足品、流行品、輸入品、観光需要へ柔軟に対応してきたことです。
現在のアメ横には、国内外の観光客、多様な食文化、外国人事業者も見られます。
これを「アジア化」「異国化」と一語で説明しないでください。
上野が長く、地方・海外から来る人を受け入れる交通・商業拠点だったことの新しい形として捉えます。
現在の店舗数や業種比率は変動するため、古い案内の数値を2026年の現在値として断定しないでください。
御徒町はなぜ宝飾問屋街になったのか
御徒町は、アメ横の南端だけではありません。
駅の東側を中心に、宝石、貴金属、時計、工具、部品、加工、修理、卸売の店が集まります。
宝飾街の成立には、二つの歴史的な層があります。
江戸・近代の職人集積
上野・浅草周辺には寺社が多く、仏具、金属細工、銀器などをつくる職人がいました。
浅草、柳橋、湯島、根津などの花街・宴席文化は、かんざし、帯留め、装身具の需要を生みました。
台東区周辺には、金属を加工して装飾品をつくる錺職の技術が蓄積しました。
ただし、「江戸の御徒が内職で宝石を作り、そのまま現在の宝飾街になった」と一本につながないでください。
台東区立中央図書館のレファレンスでも、御徒町の宝飾集積には複数の説明があり、江戸の下級武士の内職との直接関係は慎重に扱われています。
戦後の時計・アクセサリー市場
敗戦後、上野で米軍関係者が時計やアクセサリーを売買し、御徒町周辺には修理、部品、仲買、卸売を担う業者が集まったと説明されています。
焼け残った同業者の場所へ在庫を持ち寄り、交換・販売する「市」が始まったという業界史もあります。
小売市場のアメ横に対し、御徒町は裏方の修理・加工・卸売機能を担いました。
1956年には時計関連卸業者の組織が生まれ、1960年代には業者間の取引市場が整えられます。
現在のジュエリータウンは、戦後の一時的な露店だけではなく、技術、部品、信用、業者間取引の蓄積によって成立しました。
アメ横と宝飾街は隣り合いますが、同じ市場ではありません。
アメ横は一般消費者向けの小売が目立ち、御徒町の宝飾街には業者向け卸売・加工・修理の性格があります。
上野広小路・仲町通りはなぜ夜の街になったのか
上野広小路から湯島方面には、飲食店、バー、クラブ、スナック、宿泊施設などが集まります。
この夜間商業を、アメ横の闇市がそのまま拡大した結果と説明してはいけません。
上野広小路には、戦前から次の条件がありました。
- 寛永寺・不忍池・上野公園への行楽
- 上野駅と御徒町駅の人流
- 百貨店と商店街
- 路面電車・地下鉄・バス
- 劇場、映画、寄席、飲食
- 湯島花街との近接
駅へ着いた旅行者。 博物館や動物園を訪れた人。 買い物客。 会社員。 学生。 宴席へ向かう客。
異なる人々が夜まで滞在しました。
戦後は、闇市・市場・飲食店の増加と、企業・団体の宴会需要が加わります。
高度経済成長期には、バー、キャバレー、スナックなどの夜間業態が拡大しました。
ただし、個々の店の開業・閉店や現在の営業状況を確認せず、歓楽街全体を一つの系譜として描かないでください。
現在の上野広小路・仲町通りは、飲食、宿泊、住宅、事務所、商業が混在する地域です。
湯島はなぜ花街と歓楽街になったのか
湯島は文京区です。
上野広小路・御徒町の台東区側と、春日通り・仲町通り・区境を挟んで隣り合います。
湯島天満宮は、江戸時代から参詣と富くじで人を集めました。
上野広小路、不忍池、寛永寺、神田・本郷の武家地・学問所にも近い場所です。

写真は2010年の湯島天満宮です。 花街最盛期の写真ではありません。
文京区のまちづくり資料は、湯島の花街の歴史が江戸中期に始まったと整理しています。
明治期には、外国人官舎、東京大学、文化人の活動などを背景に、宴席需要が広がりました。
花街では、料亭、待合、置屋、芸妓などが、料理と芸能を伴う宴席を支えました。
これは、公認遊郭や戦後の赤線と同じ制度ではありません。
戦後も湯島天満宮周辺に花街は続きましたが、文京区資料では、昭和50年代に花街を支える営業者が減り、終焉を迎えたと説明されています。
一方、現在の湯島三丁目には夜間飲食店、宿泊・遊興施設、住宅、事務所が混在します。
これは「花街がそのまま現代の飲み屋街になった」という意味ではありません。
空襲、戦後復興、道路・区画整理、企業宴会、建物更新、料亭・芸妓の減少、新しい夜間業態の進出が重なりました。
駅前闇市と湯島花街は何が違うのか
上野駅前の闇市と湯島花街は、近接しています。
しかし、成立条件は異なります。
| 比較 | 駅前闇市・アメ横 | 湯島花街 |
|---|---|---|
| 主な形成時期 | 1945年以後 | 江戸中期以後、近代に組織化 |
| 主な需要 | 食料・衣料・日用品・不足品・小売 | 料理、宴席、芸能、接待 |
| 主な空間 | 駅脇、線路沿い、高架下、露店・小店舗 | 料亭、待合、置屋、細街路 |
| 主な利用者 | 生活物資を求める市民、通勤・旅行客など | 商人、官僚、文化人、企業・団体の宴席客など |
| 戦後の変化 | 店舗化、商品転換、観光商店街化 | 復興後に衰退し、新しい飲食・夜間商業へ土地利用が変化 |
両者を結びつけたのは、人と場所です。
アメ横で買い物をした人が広小路へ進む。 上野駅から宴席へ向かう。 湯島から不忍池・上野公園へ歩く。
人の移動は連続していても、営業制度と歴史は同じではありません。
「闇市から花街へ」「花街から風俗街へ」という順番をつくらないでください。
高度成長期―上野駅から若者と音楽が流れ込んだ
高度経済成長期、上野駅には東北・北関東から多くの若者が到着しました。
集団就職で上京した人々にとって、上野駅は東京生活の入口でした。
1964年に発表された「あゝ上野駅」は、地方から上京した若者の記憶と結びつきます。
この人流は、上野・御徒町の商業を支えました。
安い衣料。 仕事道具。 食事。 下宿や宿泊。 映画、音楽、飲酒、娯楽。
ただし、集団就職者を「歓楽街の客」と一括しないでください。
若者は、働き、学び、生活用品を買い、故郷へ帰る列車を利用しました。
上野の夜の街が発展した背景には、多数の働く人がいたことがありますが、その生活を消費者像だけへ縮小しないでください。
上野駅が音楽教育・興行・流行歌の記憶と結びついた過程は、上野駅と東京の近代音楽文化をたどる記事でも紹介しています。
文化の山と歓楽の低地は対立しているのか
上野公園には、美術館、博物館、音楽ホール、動物園、大学があります。
そのすぐ下には、アメ横と上野広小路の飲食・歓楽街があります。
この近さは、しばしば「文化と猥雑」「高尚と低俗」の対比として語られます。
しかし、都市の歴史を見るうえでは適切ではありません。
博覧会や博物館も、多数の人を集める都市娯楽でした。 動物園、花見、不忍池、祭り、百貨店、映画、飲食は、同じ一日の行動の中に入ります。
画家、音楽家、学生も食事をし、酒を飲み、買い物をします。 商人や労働者も美術館や動物園を訪れます。
文化施設と商店街は、異なる身分の人を完全に分ける装置ではありません。
むしろ、上野は異なる目的で来た人が混ざる場所でした。
この混在が、上野らしさです。
現在の多文化商業は闇市の続きなのか
現在のアメ横・上野・御徒町には、外国語の看板、多国籍な飲食、外国人事業者・観光客が見られます。
これを、戦後の闇市や進駐軍物資と直接つなげないでください。
現在の多文化化には、次のような別の条件があります。
- 国際観光の増加
- 在留外国人の生活需要
- 食品・衣料の輸入網
- 低層・小規模店舗へ新規事業者が入れること
- 上野駅、成田空港方面、複数地下鉄・JR路線の交通利便性
- 既存市場が新しい商品と客を受け入れてきた商業文化
戦後の市場が持った柔軟性は、現在の新規参入を受け入れる一つの背景かもしれません。
しかし、同じ店主・同じ民族・同じ流通が70年以上続いたと断定することはできません。
外国人の店を「闇市的」「無秩序」「本場アジア」と形容しないでください。
現在の商業活動を、合法性、衛生、防災、地域ルールという同じ基準で扱います。
国籍を問題の原因にしないでください。
再整備と防災―市場の魅力をどう残すのか
上野・御徒町の魅力は、小さな店、狭い通り、商品密度、店員と客の距離にあります。
一方、それは防災・歩行環境上の課題にもなります。
- 高架下と細街路
- 古い建物と設備
- 搬入車両、自転車、歩行者の競合
- ごみ、看板、商品陳列
- 火災時の避難
- 客引きや路上滞留
- 多言語での防災情報
台東区の御徒町駅周辺地区計画は、小売・卸売・業務機能を強化しながら、歩行者に配慮した街並みを目指しています。
文京区の湯島三丁目まちづくり資料も、細街路、旧耐震建物、宿泊・遊興施設、歩行者空間、客引きなどを課題として扱っています。
再整備を「闇市の名残を消す」「歓楽街を浄化する」と表現しないでください。
安全を高めながら、小規模商業、職人、問屋、飲食、多文化的な店が残れるかという問題です。
市場の魅力は、建物を古いまま放置することと同じではありません。
古地図で見る―上野の山、池、広小路、高架
上野・御徒町を古地図で見るときは、一つの時代だけで判断しないでください。
江戸切絵図
寛永寺、上野の山、不忍池、広小路、武家地・町人地、湯島天満宮を確認します。
明治の地形図・市街図
上野駅、鉄道路線、公園、博覧会施設、市街地の拡大を見ます。
大正・昭和初期の地図
高架化、御徒町駅、地下鉄、百貨店、上野広小路の商業化を確認します。
戦災地図・戦後空中写真
焼失区域、駅前空地、高架、露店・市場が形成された空間を見ます。
火災保険特殊地図・住宅地図
市場、商店、旅館、飲食店、料亭、待合、組合の位置を年代別に確認します。
現在のアメ横を古地図上の一点へ固定しないでください。 露店、市場組織、店舗の範囲は変化しています。
地図資料の読み方は、東京の古地図を現在地と重ねて読む方法で詳しく解説しています。
地図で歩く上野・御徒町
歴史散歩では、アメ横の買い物だけで終わらず、山・駅・市場・問屋・花街を順に歩いてください。
1.上野駅広小路口
1883年開業の北の玄関口です。 現在の駅舎が1932年に完成したこと、広小路口から市場・商業地へ人が流れることを確認します。
2.アメ横上野側入口
線路と商店街が接する場所です。 飴屋横丁の記憶を確認します。 現在の菓子店を、戦後の店の直接の後継と断定しないでください。
3.高架下とアメ横通り
高架、狭い通路、小規模店舗、搬入の関係を見ます。 人物と店内を無断撮影しないでください。
4.御徒町駅周辺
アメ横の小売と、宝飾・時計・加工・卸売の街が隣り合うことを見ます。 宝飾店へ歴史調査の目的を隠して質問しないでください。
5.上野広小路
中央通り、春日通り、百貨店、地下鉄駅、飲食街が重なります。 1916年の版画と現在を比べ、闇市以前からの商業軸を確認します。
6.湯島仲町通り・湯島天満宮
上野広小路の低地から湯島の台地へ上がります。 花街、現在の夜間飲食、寺社門前を同じものとして扱わず、地形と近接性を見ます。
7.不忍池
湯島・上野広小路と上野の山を結ぶ水辺です。 上野公園・不忍池から本郷台地へ歩いた記事では、水辺から台地へ上がる地形を実際の散歩ルートで確認できます。
8.上野公園
最後に博物館・美術館・寛永寺のある上野の山へ上がります。 市場から文化施設まで短距離で移動できることが、上野の複合性です。
御徒町から秋葉原方面へ進む場合は、上野・御徒町から秋葉原まで歩いたナイトウォークも参考になります。
別の地域も歩きたい方は、東京の歴史散歩コース集をご覧ください。
歩くときの注意点
上野・御徒町・湯島は、歴史展示のためのテーマパークではありません。
住民、商人、職人、観光客、通勤者、夜間労働者が利用する現役の街です。
- 買い物客、店員、露店、飲食店利用者を無断撮影しない
- 商品価格や店頭の呼び込みを面白半分に撮影・拡散しない
- 外国語を話す人を「アメ横らしい被写体」として撮影しない
- 国籍、服装、言語から在留資格・職業を推測しない
- 「闇市の生き残り」と確認できない店を断定しない
- 進駐軍物資、横流し品、偽物を現在の店に結びつけない
- 宝飾店の防犯設備、搬入、商品を撮影しない
- 湯島の飲食店・ホテル・利用者を無断撮影しない
- 現在の女性従業員を芸妓・性産業従事者と決めつけない
- 客引き、酔客、路上滞留に注意する
- 高架下・細街路では搬入車両、自転車、避難経路を妨げない
- 上野公園と商店街を高尚・低俗に分けない
歴史散歩の目的は、怪しい店や人を見ることではありません。
寺社。 台地と池。 鉄道。 戦災。 市場。 高架。 職人と問屋。 花街と宴席。 文化施設。
異なる都市機能が、なぜ同じ場所へ集まったのかを理解することです。
よくある疑問
アメ横は闇市から始まったのですか?
戦後の闇市・露店市場を起源とする商店街です。
台東区立中央図書館のレファレンスでは、1946年5月頃に近藤産業マーケットが発足したとされます。 ただし、現在の全区域・全店舗がそのまま継続したわけではなく、整理、店舗化、建て替え、商品転換を経ています。
アメ横の「アメ」は飴ですか、アメリカですか?
二つの説明があります。
上野側の飴屋横丁と、御徒町側のアメリカ横丁が結びついたという説明が、台東区公式観光情報で紹介されています。 一つだけを唯一の正解として固定しないでください。
アメ横の商品は、すべて進駐軍の放出物資だったのですか?
違います。
飴、食料、衣料、日用品など多様な商品がありました。 米軍関係商品にも、正式な余剰品、個人売買、非公式に市場へ流れた物、輸入品などが混在した可能性があります。 すべてを正式放出品または横流し品と断定できません。
上野の闇市は的屋が支配していたのですか?
闇市ごとに組織形態は異なります。
台東区公式観光情報では、アメ横について、満州からの復員兵が共同体と連合会をつくり、出店を統制したと説明しています。 他の商人・組織も関わったため、単一集団だけで説明しないでください。
御徒町はなぜ宝石の街なのですか?
江戸・近代の錺職や金属加工の蓄積に加え、戦後、上野の時計・アクセサリー市場を支える修理、部品、仲買、卸売の業者が集積したためです。
江戸の下級武士の内職から現在まで一本につながったと断定せず、複数の歴史的要因として説明します。
湯島は上野の一部ですか?
現在の行政区では、湯島は文京区です。
上野広小路・御徒町の台東区側と隣接し、駅・道路・商業圏は連続しています。 行政区が違っても、歴史的な人流と宴席需要は結びついていました。
湯島は遊郭だったのですか?
湯島には花街がありましたが、公認遊郭と同じ制度ではありません。
花街は料亭、待合、置屋、芸妓などを中心とする宴席・芸能の地域です。 性愛や労働管理の問題がなかったと美化せず、遊郭・赤線とは制度を区別してください。
アメ横が、そのまま上野の歓楽街になったのですか?
直接の同一系譜とはいえません。
上野広小路の商業・娯楽、湯島花街、上野駅の旅客・宿泊需要は戦前から存在しました。 戦後の市場と飲食業はその人流へ重なりましたが、地域・業種ごとに形成過程が異なります。
現在のアメ横には何店舗ありますか?
台東区公式観光情報には約500メートル、約400店舗という案内がありますが、店舗数は時点と範囲で変動します。
公開時の案内値として紹介する場合は、参照日と出典を明記してください。 本記事の結論を店舗数に依存させないでください。
まとめ―上野・御徒町は「闇市の街」だけではない
上野・御徒町が闇市と歓楽街になった理由は、1945年の焼け跡だけでは説明できません。
江戸時代、上野の山には寛永寺がありました。 参詣、花見、不忍池、広小路が人を集めました。
明治以降、上野公園には博覧会、博物館、動物園、美術・音楽教育が集まりました。
1883年、上野駅が開業します。 東北・北関東と東京を結ぶ北の玄関口となり、旅行者、商人、学生、軍人、労働者、地方出身者を受け入れました。
1927年には地下鉄、1932年には新しい駅舎が完成します。
1945年、空襲と敗戦で正規の流通が崩れました。
駅前には生活物資を求める人と、商売を始める人が集まり、闇市が生まれます。
1946年頃には近藤産業マーケットが組織され、飴を売る店が増えました。 御徒町側では、米軍関係の時計、衣料、アクセサリーなどが売られました。
飴屋横丁。 アメリカ横丁。
二つの戦後経験が、「アメ横」という名前に重なります。
満州からの復員兵を中心とする組織は、出店と市場の秩序を調整したと説明されています。
高架下と線路脇の細長い空間は、小規模な店を密集させました。
アメ横は、食料・不足品の市場から、衣料、海産物、輸入品、多国籍な飲食を含む商店街へ変わります。
御徒町では、江戸・近代の金属加工と、戦後の時計・アクセサリー修理・卸売が結びつき、宝飾問屋街が形成されました。
上野広小路は、闇市以前から寺社参道、交通、百貨店、飲食、娯楽の軸でした。
湯島には、江戸中期から花街がありました。 戦後も続きましたが、昭和50年代に営業者が減り、現在の夜間商業へ土地利用が変わります。
上野公園の文化施設と、低地の市場・歓楽街は、対立する世界ではありません。
同じ駅から来た人が、博物館へ行き、買い物をし、食事をし、池を歩き、宴席へ向かいました。
上野・御徒町は、一つの街ではありません。
寺社都市。 文化都市。 鉄道都市。 闇市と商店街。 職人と問屋の街。 花街と夜間飲食。
異なる時代の都市機能が、台地、池、広小路、駅、高架、坂の周囲へ重なった場所です。
アメ横の看板だけを見るのではなく、上野駅の線路、御徒町の工具店、広小路の大通り、湯島の坂、上野の山まで歩くと、なぜこの一帯が長く人を受け入れ続けてきたのかが見えてきます。
参考文献・資料
- JR東日本「上野駅開業140周年」
- 台東区文化探訪「上野駅に想う」
- JR東日本「上野駅リニューアル・駅史」
- 東京メトロ「沿革」
- 東京メトロ「メトロアーカイブアルバム 銀座線」
- 台東区公式観光情報サイト「アメ横商店街」
- 台東区公式観光情報サイト「上野・御徒町特集」
- 台東区立中央図書館/レファレンス協同データベース「上野『アメ横』の由来について」
- 台東区立中央図書館/レファレンス協同データベース「アメ横のなりたちについてわかる資料」
- 台東区立中央図書館/レファレンス協同データベース「1981年のアメ横火災」
- 長田昭『アメ横の戦後史―カーバイトの灯る闇市から60年』ベストセラーズ、2006年
- 猪野健治編『東京闇市興亡史』草風社、1978年
- 台東区「上野広小路遺跡」
- 東京都建設局「上野恩賜公園」
- 文京区「江戸の発展とともに(近世の姿)」
- 文京区「湯島天満宮(湯島天神)」
- 文京区「湯島三丁目北東地区まちづくり基本方針検討資料」
- 台東区「御徒町駅周辺地区 地区計画」
- 台東区立中央図書館/レファレンス協同データベース「御徒町に貴金属店が多いのはなぜか」
- 台東区立中央図書館/レファレンス協同データベース「御徒町の貴金属店と職人町の歴史」
- ジュエリータウンおかちまち「御徒町を知る(歴史)」
- ジュエリータウンおかちまち「御徒町を知る(名前の由来)」
- 台東区伝統工芸振興会「東京銀器・貴金属加工等の工芸」
- 台東区発足60周年記念事業検討委員会記念誌部会編『絵と写真でたどる台東の文化と観光』台東区、2007年
- Wikimedia Commons「Nighttime Shoppers, Ameyoko Shopping District, Ueno」
- Wikimedia Commons「UenoStation 1932」
- Wikimedia Commons「Oda Hirokoji」
- Wikimedia Commons「Ueno 20241210 133139」
- Wikimedia Commons「Yushima tenmangu shrine」

