上野駅の広小路口を出て、線路沿いへ曲がります。
高架の下と脇には、魚、乾物、衣料、靴、化粧品、菓子、輸入食品、飲食店が並びます。店頭から声が飛び、狭い通りを買い物客がすれ違います。
これがアメ横です。
さらに南へ歩けば御徒町。高架の外側には、宝石、時計、貴金属、工具、部品を扱う店が集まります。
西へ進めば上野広小路。中央通りと春日通りの周辺に百貨店、飲食店、雑居ビルが並びます。
坂を上れば湯島天満宮。その下には、かつて料亭、待合、置屋、芸妓が集まった湯島花街の記憶と、現在の夜間飲食街があります。
北へ戻れば上野公園です。博物館、美術館、動物園、音楽ホール、寛永寺、不忍池が広がります。
なぜ、上野・御徒町は闇市と歓楽街になったのでしょうか。
上野には江戸時代から寛永寺、参詣、花見、不忍池、広小路があり、明治以降は上野公園の博覧会・博物館と、東北・北関東を結ぶ上野駅が大量の人を集めました。御徒町には職人と問屋の蓄積があり、湯島には寺社門前と宴席文化がありました。
こうした人流と商業の基盤に、空襲と物資不足が重なり、戦後の闇市が形成されました。
- まず結論―六つの都市機能が重なった
- 上野の山と低地―文化の街と市場はなぜ隣り合うのか
- 闇市の前から上野広小路は商業と娯楽の街だった
- 1883年、上野駅が北の玄関口になった
- 1945年、上野駅前に闇市が生まれた
- 近藤産業マーケットとアメ横の始まり
- 「アメ」は飴か、アメリカか
- 進駐軍物資とは何だったのか
- 復員兵の組織は何をしたのか
- 高架と線路脇が市場を支えた
- アメ横はどう商店街へ変わったのか
- 御徒町はなぜ宝飾問屋街になったのか
- 上野広小路・仲町通りはなぜ夜の街になったのか
- 湯島はなぜ花街と歓楽街になったのか
- 駅前闇市と湯島花街は何が違うのか
- 高度成長期―上野駅から若者と音楽が流れ込んだ
- 文化の山と歓楽の低地は対立しているのか
- 現在の多文化商業は闇市の続きなのか
- 再整備と防災―市場の魅力をどう残すのか
- 古地図で見る―上野の山、池、広小路、高架
- 地図で歩く上野・御徒町
- 歩くときの注意点
- よくある疑問
- まとめ―上野・御徒町は「闇市の街」だけではない
- 参考文献・資料
まず結論―六つの都市機能が重なった
上野・御徒町の現在は、次の六つの都市機能が重なった結果です。
| 地域 | 主な役割 | 形成を支えた条件 |
|---|---|---|
| 上野の山・上野公園 | 寺社、行楽、博覧会、博物館、美術館、教育文化 | 寛永寺、台地、広い境内地、公園化 |
| 上野駅 | 北の玄関口、通勤、上京、旅行、物流 | 東北・北関東へ延びる鉄道 |
| アメ横 | 戦後市場、小売、食料、衣料、輸入品、多文化商業 | 闇市、高架・線路脇、駅間人流 |
| 御徒町 | 問屋、職人、宝飾、時計、修理、仲買 | 錺職、戦後の時計・アクセサリー市場、卸売 |
| 上野広小路 | 交通、買い物、飲食、娯楽 | 寛永寺参道、広小路、路面交通、百貨店 |
| 湯島 | 寺社門前、花街、宴席、夜間飲食 | 湯島天満宮、不忍池、上野広小路、大学・文化人 |
六つの機能は異なる時代と制度で成立し、徒歩圏内の駅・道路・高架・池・坂を介して人と商品が行き交いました。
上野・御徒町は、寺社都市、鉄道都市、市場、問屋街、歓楽街、文化都市が重なった複合都市です。
上野の山と低地―文化の街と市場はなぜ隣り合うのか
上野を歩くと、短い距離で大きな高低差があります。
上野公園、東京国立博物館、東京藝術大学、寛永寺は「上野の山」と呼ばれる台地側にあります。
その南西には不忍池が広がり、東・南側の低地には駅、広小路、商店街が続きます。
江戸時代、寛永寺は江戸城の鬼門を守る徳川家の菩提寺として大きな寺域を持ちました。参詣、花見、寺社行事は、人を上野へ呼びました。
現在の上野公園は、明治以降に博覧会、博物館、動物園、美術教育などが集積した文化地区です。
山の下には、参詣者や行楽客を受け入れる飲食・商業の需要が生まれました。
博物館や公園を訪れた人が低地で食事や買い物をし、駅から来た人が公園や不忍池へ向かいました。台地上の文化・宗教空間と、低地側の交通・商業空間は、人の移動によって結ばれています。
寛永寺から博物館の森まで上野公園を歩く大型ガイドでは、上野の山の地形・寺院・文化施設を詳しくたどっています。あわせて、東叡山寛永寺の成立と上野の山の歴史もご覧ください。
闇市の前から上野広小路は商業と娯楽の街だった
上野広小路は、戦前から繁華街として発展していました。
広小路とは、火災の延焼を防ぐ空間や、人が集まる広い道として設けられた場所です。
上野広小路は、寛永寺参道へ続く下谷広小路にあたり、不忍池から流れる忍川と橋があったことを、台東区の遺跡調査が示しています。
寺社参詣、池と橋、街道と商店、見世物と飲食に、路面電車、地下鉄、百貨店が加わり、人が立ち止まって買い物や娯楽を楽しむ場所になりました。

織田一磨が1916年に描いた『上野廣小路』は、正確な店舗配置を示す写真ではありませんが、当時の上野広小路が人、交通、広告、商業のにぎわいを持つ都市空間として描かれています。
1927年12月30日には、東京地下鉄道の浅草―上野間が開業しました。現在の銀座線につながる、日本初の本格的な地下鉄営業です。
上野は、鉄道の終着・乗換駅に加え、地上と地下、寺社と百貨店、文化施設と娯楽を結ぶ交通拠点になりました。
戦後の闇市は、この既存の人流と商業地の上へ形成されました。
1883年、上野駅が北の玄関口になった
1883年7月28日、上野駅が開業しました。
日本鉄道が上野―熊谷間で営業を始め、上野は北関東・東北方面へ向かう鉄道の起点になります。
後に路線が延び、上野駅は「北の玄関口」と呼ばれるようになりました。
駅は物流、人の移動、宿泊・飲食・日用品需要を生みました。
- 地方の農産物や商品が届く
- 商人と行商人が移動する
- 学生、軍人、労働者、旅行者が乗り降りする
- 駅前に旅館、食堂、荷物運搬、日用品の需要が生まれる
- 地方出身者が東京で最初に目にする場所になる
1923年の関東大震災では駅舎が焼失します。
現在につながる上野駅舎は、震災復興を経て1932年に完成しました。

写真は1932年、新駅舎完成直後の上野駅です。空襲・敗戦前に、上野が大規模な鉄道都市として整備されていたことが分かります。
1945年以後に上野駅へ復員兵、引揚者、地方から食料を運ぶ人、仕事を探す人が集まった背景には、戦前から全国と東京を結んでいた交通基盤がありました。
1945年、上野駅前に闇市が生まれた
東京大空襲と終戦後、上野駅周辺には闇市が形成されました。
第一に、人が集まったからです。地方と東京を結ぶ列車が発着し、食料、衣料、生活用品を求める人がいました。
第二に、正規の流通が機能しなかったからです。配給だけでは生活を支えきれず、公定価格と実際の市場価格に大きな差が生まれます。
第三に、売る人も集まったからです。家や職を失った人、復員兵、引揚者、農村から商品を運ぶ人、小商いを始める人など、背景の異なる人々が露店を出しました。
第四に、駅脇・高架下・焼け跡という空間があったからです。大規模な店舗を建てる資金がなくても、露店や小屋で商売を始められました。
無許可の露店、統制品や公定価格を超える取引、合法品と非合法品、行政・警察の取り締まり、土地所有者との交渉、露店商の自治組織が混在していました。
的屋の組織が関わった市場もありました。台東区公式観光情報は、アメ横では満州からの復員兵が共同体と連合会を組織し、出店を統制したと説明しています。
東京各地との違いは、新宿・上野・池袋・渋谷の闇市を写真と資料で比較した記事で詳しく整理しています。
近藤産業マーケットとアメ横の始まり
台東区立中央図書館のレファレンス資料によれば、1946年5月頃、アメ横の基礎となる近藤産業マーケットが発足しました。
1947年頃には、菓子や飴を売る店が増え、一帯が「アメ屋横丁」と呼ばれるようになったとされます。
砂糖や甘味が不足する時代に、飴や代用甘味は強い需要がありました。
上野側、御徒町側、高架下、線路脇では、店の種類、土地、管理組織、呼び名が異なりました。露店、小屋、市場組織、高架下店舗が整理と建て替えを重ね、一帯の商業地になりました。
1946年5月頃は、後のアメ横につながる市場が組織化され始めた段階です。
「アメ」は飴か、アメリカか
アメ横の名称には、二つの有名な説明があります。
一つは「飴屋横丁」です。上野駅側に飴や菓子を売る店が多かったため、アメヤ横丁と呼ばれたという説明です。
もう一つは「アメリカ横丁」です。御徒町側で進駐軍・米軍に関連する商品が売られ、アメリカ横丁と呼ばれたという説明です。
台東区公式観光情報は、上野側の飴屋横丁と、御徒町側のアメリカ横丁という二つのエリアが統合され、現在のアメ横になったと紹介しています。
台東区立中央図書館のレファレンスでは、1947年頃に飴屋横丁、1950年頃にアメリカ横丁という呼び方が広がったとされています。
呼び名は店、利用者、時代、資料によって変わり、物資不足期の甘味と占領期の米国商品という二つの戦後経験が「アメ横」という名称に重なっています。
進駐軍物資とは何だったのか
「進駐軍物資」「放出物資」という呼称には、異なる流通経路の商品が含まれます。
戦後の市場には、次のような商品が混在しました。
- 占領軍・米軍から正式に払い下げられた余剰品
- 軍関係者が個人的に持ち込んだ時計、衣料、アクセサリー、日用品
- 軍施設や関係者の周囲から非公式に市場へ流れた商品
- 外国製品に似せた国産品
- 貿易再開後の輸入品
- 中古品、修理品、部品を組み合わせた商品
当時の市場では、正式な米軍放出品、個人売買品、非公式に流れた商品などが混在し、正規・非正規の境界は複雑でした。
米国製の時計、衣料、靴、缶詰、化粧品などは、物資不足の日本で強い魅力を持ちました。
米国製品は豊かさのイメージを帯び、アメ横は海外の商品・服装・消費文化に触れる窓口の一つになりました。
一方、食料、飴、衣料、日用品など需要は多様で、全店舗が米軍物資を扱ったわけではありません。
復員兵の組織は何をしたのか
台東区公式観光情報では、満州からの復員兵が共同体となり、連合会を結成して出店を統制したと説明されています。
市場の運営には、出店場所、通路、防火・防犯、土地・高架管理者や行政との交渉、商人間の調整が必要でした。
復員兵の共同体は、その管理・交渉に関わったと考えられます。
市場には、以前から地域にいた商人、戦災者、引揚者、新規参入者なども関わりました。満州からの復員・引揚げの背景には、敗戦、移動、財産喪失、生活再建がありました。
高架と線路脇が市場を支えた
アメ横は、上野駅と御徒町駅の間、鉄道高架と線路脇に沿って細長く続きます。
駅間を歩く人がいる、列車から見える、雨を避けられる高架下がある、小さな区画をつくりやすい、物流・搬入路が近い、駅前中心部より地価が低いという条件が、小規模な店を密集させました。
一方、高架下と細街路には課題もあります。
- 避難経路が限られる
- 木造・小規模建物が密集する
- 火災が広がりやすい
- 搬入、歩行者、自転車が競合する
- 所有・賃貸・管理関係が複雑になる
1981年5月30日には、アメ横の三角地帯で火災があり、木造建物と多数の店舗が焼失しました。後の建物整備を考える一つの契機になります。
アメ横はどう商店街へ変わったのか
闇市は、露店整理、店舗化、高架下利用、組合形成、道路・建物整備、商品転換を経て恒久的な商店街へ変わりました。
飴や食料、時計や衣料、海産物、乾物、菓子、靴、化粧品、スポーツ用品、輸入食品、多国籍な飲食へと、売れる商品は時代ごとに変わりました。

写真は2024年のアメ横上野側入口です。左に山手線、右に商店街入口があり、鉄道と市場の近さが分かります。
小規模な店は、不足品、流行品、輸入品、観光需要へ柔軟に対応してきました。
現在は国内外の観光客、多様な食文化、外国人事業者が見られます。店舗数や業種比率は変動します。
御徒町はなぜ宝飾問屋街になったのか
御徒町はアメ横の南端に隣接し、駅の東側を中心に、宝石、貴金属、時計、工具、部品、加工、修理、卸売の店が集まります。
宝飾街の成立には、二つの歴史的な層があります。
江戸・近代の職人集積
上野・浅草周辺には寺社が多く、仏具、金属細工、銀器などをつくる職人がいました。
浅草、柳橋、湯島、根津などの花街・宴席文化は、かんざし、帯留め、装身具の需要を生みました。
台東区周辺には、金属を加工して装飾品をつくる錺職の技術が蓄積しました。
台東区立中央図書館のレファレンスでは、御徒町の宝飾集積には複数の説明があり、江戸の下級武士の内職との直接関係は慎重に扱われています。
戦後の時計・アクセサリー市場
敗戦後、上野で米軍関係者が時計やアクセサリーを売買し、御徒町周辺には修理、部品、仲買、卸売を担う業者が集まったと説明されています。
焼け残った同業者の場所へ在庫を持ち寄り、交換・販売する「市」が始まったという業界史もあります。
小売市場のアメ横に対し、御徒町は裏方の修理・加工・卸売機能を担いました。
1956年には時計関連卸業者の組織が生まれ、1960年代には業者間の取引市場が整えられます。
現在のジュエリータウンは、技術、部品、信用、業者間取引の蓄積によって成立しました。アメ横が一般消費者向け小売を中心とする一方、御徒町の宝飾街は業者向け卸売・加工・修理の性格を持ちます。
上野広小路・仲町通りはなぜ夜の街になったのか
上野広小路から湯島方面には、飲食店、バー、クラブ、スナック、宿泊施設などが集まります。
上野広小路には、戦前から次の条件がありました。
- 寛永寺・不忍池・上野公園への行楽
- 上野駅と御徒町駅の人流
- 百貨店と商店街
- 路面電車・地下鉄・バス
- 劇場、映画、寄席、飲食
- 湯島花街との近接
旅行者、博物館や動物園の来訪者、買い物客、会社員、学生、宴席客が夜まで滞在しました。
戦後は、闇市・市場・飲食店の増加と、企業・団体の宴会需要が加わります。
高度経済成長期には、バー、キャバレー、スナックなどの夜間業態が拡大しました。
現在の上野広小路・仲町通りは、飲食、宿泊、住宅、事務所、商業が混在する地域です。
湯島はなぜ花街と歓楽街になったのか
湯島は文京区です。
上野広小路・御徒町の台東区側と、春日通り・仲町通り・区境を挟んで隣り合います。
湯島天満宮は、江戸時代から参詣と富くじで人を集めました。
上野広小路、不忍池、寛永寺、神田・本郷の武家地・学問所にも近い場所です。

写真は2010年の湯島天満宮で、花街最盛期より後の姿です。
文京区のまちづくり資料は、湯島の花街の歴史が江戸中期に始まったと整理しています。
明治期には、外国人官舎、東京大学、文化人の活動などを背景に、宴席需要が広がりました。
花街では、料亭、待合、置屋、芸妓などが、料理と芸能を伴う宴席を支えました。公認遊郭や戦後の赤線とは異なる制度です。
戦後も湯島天満宮周辺に花街は続きましたが、文京区資料では、昭和50年代に花街を支える営業者が減り、終焉を迎えたと説明されています。
現在の湯島三丁目には夜間飲食店、宿泊・遊興施設、住宅、事務所が混在します。空襲、戦後復興、道路・区画整理、企業宴会、建物更新、料亭・芸妓の減少、新しい夜間業態の進出を経た土地利用です。
駅前闇市と湯島花街は何が違うのか
上野駅前の闇市と湯島花街は近接していますが、成立条件は異なります。
| 比較 | 駅前闇市・アメ横 | 湯島花街 |
|---|---|---|
| 主な形成時期 | 1945年以後 | 江戸中期以後、近代に組織化 |
| 主な需要 | 食料・衣料・日用品・不足品・小売 | 料理、宴席、芸能、接待 |
| 主な空間 | 駅脇、線路沿い、高架下、露店・小店舗 | 料亭、待合、置屋、細街路 |
| 主な利用者 | 生活物資を求める市民、通勤・旅行客など | 商人、官僚、文化人、企業・団体の宴席客など |
| 戦後の変化 | 店舗化、商品転換、観光商店街化 | 復興後に衰退し、新しい飲食・夜間商業へ土地利用が変化 |
両者は人の移動で結ばれていましたが、別々の営業制度と歴史を持ちました。
高度成長期―上野駅から若者と音楽が流れ込んだ
高度経済成長期、上野駅には東北・北関東から多くの若者が到着しました。
集団就職で上京した人々にとって、上野駅は東京生活の入口でした。
1964年に発表された「あゝ上野駅」は、地方から上京した若者の記憶と結びつきます。
この人流は、上野・御徒町の商業を支えました。
安い衣料、仕事道具、食事、下宿や宿泊、映画、音楽、飲酒、娯楽への需要が生まれました。
若者は働き、学び、生活用品を買い、故郷へ帰る列車を利用しました。多数の働く人が、商業や夜間飲食の需要を支えました。
上野駅が音楽教育・興行・流行歌の記憶と結びついた過程は、上野駅と東京の近代音楽文化をたどる記事でも紹介しています。
文化の山と歓楽の低地は対立しているのか
上野公園には、美術館、博物館、音楽ホール、動物園、大学があります。
そのすぐ下には、アメ横と上野広小路の飲食・歓楽街があります。
この近さは、しばしば「文化と猥雑」「高尚と低俗」の対比として語られます。
博覧会や博物館も多数の人を集める都市娯楽であり、動物園、花見、不忍池、祭り、百貨店、映画、飲食は同じ一日の行動に入りました。
画家、音楽家、学生、商人、労働者は、文化施設、商店街、飲食店を同じ生活圏で利用しました。上野は異なる目的で来た人が混ざる場所でした。
現在の多文化商業は闇市の続きなのか
現在のアメ横・上野・御徒町には、外国語の看板、多国籍な飲食、外国人事業者・観光客が見られます。
現在の多文化化には、戦後の闇市や進駐軍物資とは異なる条件があります。
- 国際観光の増加
- 在留外国人の生活需要
- 食品・衣料の輸入網
- 低層・小規模店舗へ新規事業者が入れること
- 上野駅、成田空港方面、複数地下鉄・JR路線の交通利便性
- 既存市場が新しい商品と客を受け入れてきた商業文化
既存市場の柔軟性は新規参入を受け入れる背景の一つですが、店主、民族、流通が戦後から連続したわけではありません。現在の商業活動は、合法性、衛生、防災、地域ルールに基づいて営まれています。
再整備と防災―市場の魅力をどう残すのか
上野・御徒町の魅力は、小さな店、狭い通り、商品密度、店員と客の距離にあります。
一方、それは防災・歩行環境上の課題にもなります。
- 高架下と細街路
- 古い建物と設備
- 搬入車両、自転車、歩行者の競合
- ごみ、看板、商品陳列
- 火災時の避難
- 客引きや路上滞留
- 多言語での防災情報
台東区の御徒町駅周辺地区計画は、小売・卸売・業務機能を強化しながら、歩行者に配慮した街並みを目指しています。
文京区の湯島三丁目まちづくり資料も、細街路、旧耐震建物、宿泊・遊興施設、歩行者空間、客引きなどを課題として扱っています。
再整備では、安全性を高めながら小規模商業、職人、問屋、飲食、多文化的な店を維持できるかが課題です。
古地図で見る―上野の山、池、広小路、高架
上野・御徒町の古地図では、時代を重ねて地形と土地利用の変化を確認します。
江戸切絵図
寛永寺、上野の山、不忍池、広小路、武家地・町人地、湯島天満宮を確認します。
明治の地形図・市街図
上野駅、鉄道路線、公園、博覧会施設、市街地の拡大を見ます。
大正・昭和初期の地図
高架化、御徒町駅、地下鉄、百貨店、上野広小路の商業化を確認します。
戦災地図・戦後空中写真
焼失区域、駅前空地、高架、露店・市場が形成された空間を見ます。
火災保険特殊地図・住宅地図
市場、商店、旅館、飲食店、料亭、待合、組合の位置を年代別に確認します。
露店、市場組織、店舗の範囲は時代ごとに変化しています。
地図資料の読み方は、東京の古地図を現在地と重ねて読む方法で詳しく解説しています。
地図で歩く上野・御徒町
山・駅・市場・問屋・花街を順にたどると、都市機能の重なりを確認できます。
1.上野駅広小路口
1883年開業の北の玄関口です。現在の駅舎が1932年に完成したこと、広小路口から市場・商業地へ人が流れることを確認します。
2.アメ横上野側入口
線路と商店街が接する場所で、飴屋横丁の記憶が残ります。
3.高架下とアメ横通り
高架、狭い通路、小規模店舗、搬入の関係を見ます。
4.御徒町駅周辺
アメ横の小売と、宝飾・時計・加工・卸売の街が隣り合います。
5.上野広小路
中央通り、春日通り、百貨店、地下鉄駅、飲食街が重なります。1916年の版画と現在を比べ、闇市以前からの商業軸を確認します。
6.湯島仲町通り・湯島天満宮
上野広小路の低地から湯島の台地へ上がります。花街、現在の夜間飲食、寺社門前は別の歴史を持ちますが、地形と近接性で結ばれています。
7.不忍池
湯島・上野広小路と上野の山を結ぶ水辺です。 上野公園・不忍池から本郷台地へ歩いた記事では、水辺から台地へ上がる地形を実際の散歩ルートで確認できます。
8.上野公園
最後に博物館・美術館・寛永寺のある上野の山へ上がります。市場から文化施設まで短距離で移動できることが、上野の複合性です。
御徒町から秋葉原方面へ進む場合は、上野・御徒町から秋葉原まで歩いたナイトウォークも参考になります。
別の地域も歩きたい方は、東京の歴史散歩コース集をご覧ください。
歩くときの注意点
住民、商人、職人、観光客、通勤者、夜間労働者が利用する現役の街です。
- 買い物客、店員、露店、飲食店利用者を無断撮影しない
- 進駐軍物資、横流し品、偽物を現在の店に結びつけない
- 宝飾店の防犯設備、搬入、商品を撮影しない
- 客引き、酔客、路上滞留に注意する
- 高架下・細街路では搬入車両、自転車、避難経路を妨げない
よくある疑問
アメ横は闇市から始まったのですか?
戦後の闇市・露店市場を起源とする商店街です。
台東区立中央図書館のレファレンスでは、1946年5月頃に近藤産業マーケットが発足したとされます。 ただし、現在の全区域・全店舗がそのまま継続したわけではなく、整理、店舗化、建て替え、商品転換を経ています。
アメ横の「アメ」は飴ですか、アメリカですか?
二つの説明があります。
上野側の飴屋横丁と、御徒町側のアメリカ横丁が結びついたという説明が、台東区公式観光情報で紹介されています。 一つだけを唯一の正解として固定しないでください。
アメ横の商品は、すべて進駐軍の放出物資だったのですか?
違います。
飴、食料、衣料、日用品など多様な商品がありました。 米軍関係商品にも、正式な余剰品、個人売買、非公式に市場へ流れた物、輸入品などが混在した可能性があります。 すべてを正式放出品または横流し品と断定できません。
上野の闇市は的屋が支配していたのですか?
闇市ごとに組織形態は異なります。
台東区公式観光情報では、アメ横について、満州からの復員兵が共同体と連合会をつくり、出店を統制したと説明しています。 他の商人・組織も関わったため、単一集団だけで説明しないでください。
御徒町はなぜ宝石の街なのですか?
江戸・近代の錺職や金属加工の蓄積に加え、戦後、上野の時計・アクセサリー市場を支える修理、部品、仲買、卸売の業者が集積したためです。
江戸の下級武士の内職から現在まで一本につながったと断定せず、複数の歴史的要因として説明します。
湯島は上野の一部ですか?
現在の行政区では、湯島は文京区です。
上野広小路・御徒町の台東区側と隣接し、駅・道路・商業圏は連続しています。 行政区が違っても、歴史的な人流と宴席需要は結びついていました。
湯島は遊郭だったのですか?
湯島には花街がありましたが、公認遊郭と同じ制度ではありません。
花街は料亭、待合、置屋、芸妓などを中心とする宴席・芸能の地域です。 性愛や労働管理の問題がなかったと美化せず、遊郭・赤線とは制度を区別してください。
アメ横が、そのまま上野の歓楽街になったのですか?
直接の同一系譜とはいえません。
上野広小路の商業・娯楽、湯島花街、上野駅の旅客・宿泊需要は戦前から存在しました。 戦後の市場と飲食業はその人流へ重なりましたが、地域・業種ごとに形成過程が異なります。
現在のアメ横には何店舗ありますか?
台東区公式観光情報には約500メートル、約400店舗という案内がありますが、店舗数は時点と範囲で変動します。
公開時の案内値として紹介する場合は、参照日と出典を明記してください。 本記事の結論を店舗数に依存させないでください。
まとめ―上野・御徒町は「闇市の街」だけではない
上野・御徒町では、江戸以来の寺社・行楽・広小路、明治以降の公園文化と鉄道、戦後の物資不足と焼け跡が重なり、駅前に闇市が形成されました。
1946年頃に近藤産業マーケットが組織され、飴屋横丁とアメリカ横丁の呼び名が「アメ横」へつながりました。高架下と線路脇は小規模店舗の集積を支え、アメ横は多様な商品を扱う商店街へ変化しました。
御徒町では金属加工と戦後の時計・アクセサリー修理・卸売が宝飾問屋街を形づくり、上野広小路と湯島では戦前からの商業・行楽・花街・宴席文化に戦後の飲食と夜間業態が重なりました。
寺社、文化施設、鉄道、市場、問屋、花街、夜間飲食は異なる時代と制度で成立し、台地、池、広小路、駅、高架、坂を介した人の移動によって結ばれています。
参考文献・資料
- JR東日本「上野駅開業140周年」
- 台東区文化探訪「上野駅に想う」
- JR東日本「上野駅リニューアル・駅史」
- 東京メトロ「沿革」
- 東京メトロ「メトロアーカイブアルバム 銀座線」
- 台東区公式観光情報サイト「アメ横商店街」
- 台東区公式観光情報サイト「上野・御徒町特集」
- 台東区立中央図書館/レファレンス協同データベース「上野『アメ横』の由来について」
- 台東区立中央図書館/レファレンス協同データベース「アメ横のなりたちについてわかる資料」
- 台東区立中央図書館/レファレンス協同データベース「1981年のアメ横火災」
- 長田昭『アメ横の戦後史―カーバイトの灯る闇市から60年』ベストセラーズ、2006年
- 猪野健治編『東京闇市興亡史』草風社、1978年
- 台東区「上野広小路遺跡」
- 東京都建設局「上野恩賜公園」
- 文京区「江戸の発展とともに(近世の姿)」
- 文京区「湯島天満宮(湯島天神)」
- 文京区「湯島三丁目北東地区まちづくり基本方針検討資料」
- 台東区「御徒町駅周辺地区 地区計画」
- 台東区立中央図書館/レファレンス協同データベース「御徒町に貴金属店が多いのはなぜか」
- 台東区立中央図書館/レファレンス協同データベース「御徒町の貴金属店と職人町の歴史」
- ジュエリータウンおかちまち「御徒町を知る(歴史)」
- ジュエリータウンおかちまち「御徒町を知る(名前の由来)」
- 台東区伝統工芸振興会「東京銀器・貴金属加工等の工芸」
- 台東区発足60周年記念事業検討委員会記念誌部会編『絵と写真でたどる台東の文化と観光』台東区、2007年
- Wikimedia Commons「Nighttime Shoppers, Ameyoko Shopping District, Ueno」
- Wikimedia Commons「UenoStation 1932」
- Wikimedia Commons「Oda Hirokoji」
- Wikimedia Commons「Ueno 20241210 133139」
- Wikimedia Commons「Yushima tenmangu shrine」

