大正東京・四谷区を古地図で徹底解説|四谷見附・内藤新宿・新宿御苑

大正期の東京市四谷区を描いた番地界入東京市拾五区区分図

四谷区は、現在の新宿区南東部を中心に、四谷見附から荒木町・信濃町・内藤町を経て、内藤新宿と新宿御苑周辺まで広がっていました。大正11年(1922)の「番地界入東京市拾五区全図 四谷区図」には、江戸以来の街道・寺町・旧大名屋敷と、鉄道、市電、学校、病院、皇室用地、軍施設が同じ地図上に描かれています。内藤新宿町が四谷区へ編入された1920年から2年後、関東大震災の前年という時点の都市構造を細部まで確認できる地図です。

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大正11年の四谷区図で見る範囲

精細図では、新宿停車場・新宿二丁目三丁目、新宿御苑、内藤町・信濃町、慶應義塾大学医学部、明治神宮外苑、東宮御所、荒木町・舟町・愛住町、番衆町・花園町から四谷見附まで追えます。四谷区の西端から東端へ移動しながら、旧内藤新宿と旧四谷の市街地がどのようにつながっていたかを読むことができます。

内藤新宿・新宿御苑

新宿停車場と内藤新宿|宿場町から駅前都市へ

大正11年の四谷区新宿停車場・新宿二丁目三丁目・府立第六中学校周辺の古地図
新宿停車場、市電車庫、新宿二・三丁目、府立第六中学校、天龍寺、番衆町周辺。出典:公益財団法人特別区協議会/特別区自治デジタルアーカイブ『番地界入東京市拾五区全図 四谷区図 8』部分(CC BY 4.0)

西端の精細図には「新宿停車場」、市電車庫、新宿二丁目・三丁目、番衆町、府立第六中学校、天龍寺などが描かれています。新宿駅は1885年に開業し、甲州街道の旧宿場とは少し離れた位置から発展しました。1920年に内藤新宿町が四谷区へ編入されると、宿場を母体とする新宿通り沿いの市街地と、新宿駅を中心とする鉄道交通が同じ行政区の中で結びつきます。地図で大きな区画を占める市電車庫は、その後の新宿の商業化まで追える土地です。伊勢丹は1931年、東京市電気局が所有していた市電新宿車庫跡地の一部を落札し、新宿進出の店舗用地としました。大正期の交通施設用地が昭和初期には百貨店用地へ転じたことになります。

同じ図では、現在の花園神社にあたる場所が「華園神社はなぞのじんじゃ」と記され、近くには「華園學校」の表記も読めます。花園神社は内藤新宿の鎮守で、火災後の復興資金を集めるため境内に芝居小屋を設け、「三光院芝居」として賑わいました。近代の駅前・市電交通が広がる一方、宿場時代からの鎮守と興行の場も同じ市街地に残っていたことが分かります。「華園学校」という名称は旧四谷第五小学校関係の資料にも確認され、現在一般的な「花園」と異なる歴史的表記が地域名・学校名に残っていました。

地図の「府立第六中学校」は現在の東京都立新宿高等学校につながります。学校は1921年に内藤町への設置が決まり、1922年4月に第一回入学式を行いましたが、この年度は府立第四中学校の仮校舎で授業を行い、内藤町の新校舎が完成したのは1923年4月でした。つまり1922年図の「府立第六中学校」は、現地校舎で授業が始まる前から学校用地が名称付きで示されていた段階です。天龍寺は内藤新宿の宿場史を伝える寺で、宿場の旅人と深く結びついた時の鐘でも知られます。鉄道・市電・学校と、宿場時代の寺院が数百メートルの範囲に共存していました。

番衆町の濱野邸|巨大邸宅から「新宿園」へ

大正11年の四谷区番衆町・花園町・濱野邸・大島邸周辺の古地図
番衆町の濱野邸と池、花園町115番地の大島邸、成覚寺・正受院周辺。出典:公益財団法人特別区協議会/特別区自治デジタルアーカイブ『番地界入東京市拾五区全図 四谷区図 8』部分(CC BY 4.0)

番衆町の大きな池を含む区画には「濱野邸」と記されています。これは米相場師として財を成した浜野茂はまの・しげるの邸宅です。浜野は堂島の米相場で失敗した後に東京へ出て、蛎殻町の米相場で大きな財を築き、「新宿将軍」と呼ばれました。1894年には衆議院議員にも当選しています。新宿区の文化財資料では、浜野がこの地に屋敷を構え、関東大震災後に箱根土地株式会社が邸宅部分を除く約1万坪を取得し、庭園を生かして1924年9月に遊園地「新宿園」を開いたことが確認できます。

地図に描かれた池は、新宿園でも景観資源として利用された旧邸庭園の重要な要素でした。新宿園は長く続きませんでしたが、浜野邸の大区画が遊園地を経て市街地へ細分化された流れは、番衆町が現在の新宿五丁目へ変わる過程を具体的に示します。隣接する花園町115番地には「大島邸」と読める大きな区画があります。居住者の姓名を確定できなくても、周囲の細かな番地区画と比べれば、一軒の私邸が大きな土地を占めていたことは明瞭です。大正期の新宿では、高密度化する市街地の中になお大規模私邸が残っていました。同じ図には成覚寺と正受院も描かれ、宿場の飯盛女めしもりおんなの共同墓や奪衣婆だつえば信仰など、内藤新宿の生活と死を伝える寺院も大邸宅の近くに存在していました。

新宿御苑|内藤家屋敷から皇室庭園へ

大正11年の新宿御苑西側・千駄ヶ谷周辺の古地図
皇室庭園時代の新宿御苑西側と鉄道官舎、千駄ヶ谷方面。出典:公益財団法人特別区協議会/特別区自治デジタルアーカイブ『番地界入東京市拾五区全図 四谷区図 8』部分(CC BY 4.0)

大正11年の地図で新宿御苑は周囲の密集した市街地と対照的な巨大空間として描かれます。ここは江戸時代の高遠藩内藤家屋敷を基礎とし、1872年に内藤新宿試験場、1879年に新宿植物御苑となりました。近代園芸を学んだ福羽逸人ふくば・はやとが御苑の責任者となり、1900年にフランスの園芸家アンリ・マルチネへ改修設計を依頼。1902~1906年の大改修で、現在の新宿御苑につながる庭園配置が完成しました。1917年には皇室の観桜会もここへ移されています。1922年の時点では現在のような国民公園ではなく皇室庭園で、一般に開放されるのは1949年です。

御苑西側の図には千駄ヶ谷方面の鉄道と、地図表記で「鐵道官舍てつどうかんしゃ」と記された職員住宅も描かれています。官舎は鉄道を運営する職員のための住宅で、鉄道が駅と線路だけでなく、働く人の居住施設まで伴う大きな都市インフラだったことが分かります。一般公開前の皇室庭園と鉄道職員の生活空間が隣接している点も、現在の新宿御苑周辺とは異なる大正期の土地利用です。

信濃町・外苑・四谷元町

内藤町と信濃町|内藤子爵邸・柳原邸・慶應義塾

大正11年の四谷区内藤町・信濃町・慶應義塾大学医学部周辺の古地図
内藤子爵邸、柳原邸、慶應義塾大学医学部・附属病院、信濃町停車場周辺。出典:公益財団法人特別区協議会/特別区自治デジタルアーカイブ『番地界入東京市拾五区全図 四谷区図 8』部分(CC BY 4.0)

新宿御苑東側には「内藤子爵邸」が見えます。旧高遠藩主内藤家は明治以降も子爵家として続き、大正期の当主は内藤頼輔でした。研究資料でも内藤頼輔の住所は四谷区内藤町と確認できます。江戸時代の内藤家屋敷の土地がすべて御苑になったわけではなく、御苑の隣に内藤家の邸宅が残っていたことが地図から分かります。

近くの「柳原邸」は、大正天皇の生母・柳原愛子やなぎわら・なるこの邸宅です。東京都立図書館の木子文庫には、1915年作成の「柳原二位局邸 建設用地(四谷区北信濃町)実測図」をはじめ、邸宅に関する設計図が残っています。皇室関係者の邸宅と、開設間もない慶應義塾大学医学部・病院が近接していたことも、当時の信濃町周辺の土地利用を示しています。

信濃町には慶應義塾大学医学部と附属病院が大きく描かれています。慶應義塾は1917年に医学科を開設し、1920年に信濃町で病院を開院しました。地図は開院からわずか2年後です。さらに同じ図には「慶應義塾體育會運動場」と読める大きな区画があり、信濃町が病院だけでなく、医学教育・診療・運動施設をまとめた大学用地として形成されつつあったことが分かります。

新宿御苑寄りには「多武峯神社とうのみねじんじゃ」も見えます。現在の多武峯内藤神社です。この周辺は三菱鉛筆の前身である眞崎鉛筆製造所の創業地で、1887年に水車を動力とする鉛筆工場が置かれました。工場は1916年に移転していますが、地図には神社周辺の水路が残っています。1922年の地図から、内藤町の水系が近代工業の動力にも利用された土地条件を読み取れます。

明治神宮外苑と近衛歩兵第四連隊|完成前の外苑

大正11年の明治神宮外苑・近衛歩兵第四連隊・渋谷川周辺の古地図
造成中の明治神宮外苑、近衛歩兵第四連隊、渋谷川周辺。出典:公益財団法人特別区協議会/特別区自治デジタルアーカイブ『番地界入東京市拾五区全図 四谷区図 8』部分(CC BY 4.0)

南側の精細図には「明治神宮外苑」と「近衛四聯隊」が大きく記されています。「近衛四聯隊」は近衛歩兵第四聯隊このえほへいだいしれんたいを指す表記です。1922年は明治神宮外苑の造成途中で、現在の外苑景観はまだ完成していません。同年11月9日に外苑競技場の定礎式が行われ、現在の銀杏並木にあたる146本が植えられたのは翌1923年3月でした。地図の外苑内部に空白が多いのは省略だけではなく、施設や並木が整備される途中だったためです。

外苑と軍用地が隣接していることも大正期の特徴です。現在のスポーツ・文化空間からは想像しにくい配置ですが、明治神宮外苑の形成と陸軍施設が同じ時期の地図上に並んでいます。渋谷川の流路も描かれており、現在は見えにくくなった谷地形を確認できます。

東宮御所と四谷元町|松平直亮伯爵邸

大正11年の東宮御所・学習院初等科・四谷元町松平伯爵邸周辺の古地図
東宮御所、宮内省用地、学習院初等科、松平直亮伯爵邸、日本紙器製造会社工場周辺。出典:公益財団法人特別区協議会/特別区自治デジタルアーカイブ『番地界入東京市拾五区全図 四谷区図 8』部分(CC BY 4.0)

赤坂側の図には「東宮御所」、宮内省用地、学習院初等科など、皇室関係の施設がまとまって描かれます。地図の「東宮御所」は1909年に皇太子嘉仁親王、のちの大正天皇のために完成した現在の迎賓館赤坂離宮です。ただし嘉仁親王は1912年に即位しており、1922年当時の皇太子裕仁親王は1914年から高輪の東宮御所に居住していました。したがって、この図には赤坂の宮殿の創建時名称が残っていることになります。学習院も1919年に「初等学科」から「初等科」へ改称しており、地図は皇室施設の名称が制度変更の途中で重なっていた時期を記録しています。

同じ図の鮫河橋さめがはし周辺には「鮫ケ橋小學校」と「雙葉保育園ふたばほいくえん」の表示もあります。地図の「雙葉保育園」は、所在地と年代から現在の社会福祉法人二葉保育園につながる施設と考えられます。同園は1906年に四谷鮫河橋へ移転し、1916年に二葉保育園へ改称しました。地図と同じ1922年には学童保育、夜間診療所、廉売部を置き、本園に「母の家」も設けています。鮫河橋小学校も、貧困児童の就学を支えるため1903年に設けられた特殊尋常小学校で、授業料免除や学用品貸与などの援助を行いました。東宮御所・宮内省用地・学習院・伯爵邸の近くに、困窮家庭の教育と生活を支える学校・保育施設が存在したことは、この一枚の重要な特徴です。

四谷元町の大区画には「松平伯邸」とあります。これは旧松江藩主家の伯爵・松平直亮の邸宅です。大正7年(1918)には「東京市四谷区元町松平直亮伯邸」で松平家伝来の茶道具が実見された記録が残ります。さらに松江市の史料では、昭和3年(1928)に茶室「明々庵」が東京四谷区元町の松平直亮邸から松江へ移築されたことが確認できます。地図上の伯爵邸は、松平不昧以来の茶文化を東京で継承した場所でもありました。

同じ図には「日本紙器製造会社工場」も見えます。田島志一たじま・しいちが1912年に日本橋で始めた日本紙器製造所を母体に、1913年に日本紙器製造株式会社が成立し、四谷元町に当時としては大規模な紙器工場を設けました。第一次世界大戦期の好況で急成長し、1921年までに増資を重ねて資本金1000万円に達しましたが、1920年恐慌後には経営が悪化し、1921年には社長・専務らが引責辞任しています。つまり1922年図は、紙箱・包装材の近代化を担った企業が大戦景気の反動に直面した直後の工場を記録しています。1925年には土佐紙と合併して日本紙業となりました。

荒木町・舟町・寺町・四谷見附

荒木町・塩町|松平子爵邸と個人邸を読む

大正11年の四谷区荒木町・塩町・松平子爵邸・個人邸周辺の古地図
荒木町の松平子爵邸と策の池、柳谷邸、藤崎邸、須田邸周辺。出典:公益財団法人特別区協議会/特別区自治デジタルアーカイブ『番地界入東京市拾五区全図 四谷区図 8』部分(CC BY 4.0)

荒木町の大きな庭園と池を伴う区画には「松平子邸」と記されています。ここは江戸時代の美濃高須藩松平家上屋敷の系譜を引く土地です。高須藩主松平義建まつだいら・よしたつの子で、のちに尾張藩主となった徳川慶勝、一橋家当主の一橋茂栄、会津藩主の松平容保、桑名藩主の松平定敬という「高須四兄弟」は、この荒木町屋敷で生まれました。屋敷庭園の池は「策の池むちのいけ」と呼ばれ、明治以降は周囲に茶屋や料亭が集まり、荒木町の花街形成にもつながりました。地図で重要なのは当主の姓名よりも、江戸の大名屋敷に由来する巨大な庭園と池が、大正11年にも周囲の細分化された市街地の中に大きな私邸区画として残っていたことです。策の池むちのいけを中心とする窪地の景観は、のちに料亭や茶屋が集まる荒木町の花街形成にも受け継がれました。

塩町には実業家・藤崎三郎助ふじさき・さぶろうすけの邸宅があり、住所は四谷区塩町一丁目29番地と確認できます。藤崎は仙台の老舗呉服商「藤崎」の四代目で、1906年にはサンパウロに藤崎商会を設け、日本人の本格的なブラジル移民が始まる前から南米貿易を開拓しました。東京の邸内には学生を受け入れる寄宿舎「金剛寮」も設けています。地図の「藤崎邸」はこの藤崎三郎助邸です。

同じ図には「柳谷邸」「藤崎邸」「須田邸」など、個人名を冠したまとまった私邸区画が並びます。周囲の住宅地が細かな番地に分かれているのに対し、これらは一軒で大きな土地を占めており、大正期の四谷に大規模私邸がなお点在していたことを示します。藤崎邸については、実業家・藤崎三郎助ふじさき・さぶろうすけの東京邸内に学生寄宿舎「金剛寮」が設けられていたことも確認できます。柳谷邸や須田邸は居住者を無理に特定しなくても、大きな私邸区画そのものが当時の土地利用を理解する手掛かりになります。

舟町・愛住町・寺町|江戸の寺院配置が残る市街地

大正11年の四谷区荒木町・愛住町・舟町・寺町と学校周辺の古地図
荒木町から愛住町・舟町・寺町にかけての寺院、学校、旧町名が密集する地域。出典:公益財団法人特別区協議会/特別区自治デジタルアーカイブ『番地界入東京市拾五区全図 四谷区図 8』部分(CC BY 4.0)

舟町・愛住町周辺では、金鶏寺、養国寺、全勝寺、正応寺、法恩寺など多数の寺院名が密集して読めます。この集中は偶然ではありません。1634年に始まる江戸城外濠の普請に伴い、麹町方面から立ち退いた寺社が四谷へ集団移転し、舟町・愛住町側の「四谷南寺町」と、須賀町・若葉側の寺町が形成されました。約300年後の1922年図にも、江戸初期の都市改造で決まった寺院配置がはっきり残っています。個々の寺では、養国寺ようこくじに幕末の遣欧使節を率いた竹内保徳たけうち・やすのりの墓があるなど、江戸から明治へ続く記憶も重なっています。

正應寺しょうおうじは江戸城外濠の築造に伴って1634年に現在の愛住町へ移転し、地図の前年にあたる1921年には本堂増築と客殿・書院・庫裏の新築を行っています。全勝寺では1875年、現在の四谷小学校につながる「四ツ谷学校」が境内で開校しました。寺院が墓地や信仰の場にとどまらず、幕末外交の記憶や明治初期の地域教育を支える場所にもなっていたことが分かります。

寺院の間には四谷高等小学校、四谷第二小学校、四谷第四小学校、電話分局、警察署などの近代的な公共施設も描かれています。「高等小学校」は現在の高等学校ではなく、旧制小学校の高等科を担う学校です。四谷第四小学校では1919年に児童数の増加で二部授業が実施されており、学校群は人口増加への対応を示します。電話分局も重要で、1922年は全国の電話加入者が40万人を超え、東京だけで8万人に達した年でした。同年11月には逓信省構内で自動交換機の試用も始まっています。江戸以来の寺町の中へ、学校・警察・電話という近代都市の機能が重ねられていたことが、この図の特徴です。

内藤新宿の寺院|天龍寺・成覚寺・正受院

内藤新宿周辺には天龍寺、成覚寺、正受院などが描かれています。成覚寺には万延元年(1860)の「子供合埋碑」が残り、内藤新宿で働いた飯盛女の共同墓として知られます。正受院しょうじゅいんでは奪衣婆だつえば像が幕末に咳止めの霊験で大流行し、綿を奉納する信仰から「綿のおばば」と呼ばれました。天龍寺の時の鐘も宿場の生活時間を支えた存在で、内藤新宿の寺院は墓地・庶民信仰・時刻告知という異なる役割を担っていました。

四谷見附|江戸城外濠の門から鉄道・道路の結節点へ

大正11年の四谷見附・四谷見附橋・四ツ谷駅周辺の拡大古地図
四谷見附の拡大図。外濠、鉄道、旧見附の石垣・道路と大正期の四谷見附橋の位置関係。出典:公益財団法人特別区協議会/特別区自治デジタルアーカイブ『番地界入東京市拾五区全図 四谷区図 8』部分(CC BY 4.0)

追加した拡大図は、四谷見附を説明するのに適した範囲です。「四谷見附」の文字、外濠、濠底を通る鉄道、四ツ谷駅、橋、見附周辺の道路が一枚に収まっています。江戸時代の四谷見附は外濠に設けられた城門でした。明治以降、城門の役割を失った後も、外濠の地形と街道の交点は交通上の重要地点として残ります。

1894年に四ツ谷駅が開業し、東京市は1911年、屈曲していた甲州街道を直進させるため、外濠と甲武鉄道をまたぐ橋の建設に着手しました。1913年に完成したのが四谷見附橋です。1922年図では、江戸城外郭の濠底を近代鉄道が走り、その上を新しい道路橋が横断しています。江戸の防御地形をすべて平らに消したのではなく、濠という高低差を鉄道に利用し、その上に道路を重ねた都市改造でした。現在の四ツ谷駅周辺でも外濠の高低差と道路の方向を追うことができ、江戸の城門・濠、明治の鉄道、大正の道路橋が同じ場所に積み重なったことが分かります。

新宿駅周辺の都市化と大邸宅地の転用

1922年の地図の翌年に関東大震災が発生し、その後の人口移動と交通網の発展を背景に、新宿駅周辺の商業集積が急速に拡大しました。番衆町の浜野邸跡に1924年、新宿園が開園したことは、巨大私邸が都市型の娯楽・商業空間へ転用されていく動きの一例です。

宿場・御苑・寺町・外濠が重なる四谷区

四谷区では、内藤新宿の宿場町、新宿御苑、信濃町の医療拠点、荒木町や舟町の寺町、四谷見附と外濠が近接していました。浜野邸、内藤子爵邸、松平伯爵邸、軍用地などはその後に用途を変えましたが、甲州街道、外濠、坂や谷地形、寺院配置、大規模敷地の一部は現在まで残っています。四谷の変化は震災だけでなく、鉄道と道路の発展、大邸宅地の転用、外苑整備など複数の動きが重なって進みました。

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参考資料