赤坂区は、現在の港区北西部にあたり、赤坂、元赤坂、乃木坂、青山一帯を含んでいました。公益財団法人特別区協議会所蔵『番地界入東京市拾五区全図 赤坂区図 7』は、大正11年(1922)12月20日第二版です。関東大震災の約9か月前で、赤坂御所、青山御所、青山墓地、軍用地、華族・実業家の邸宅、学校、寺院、町家が同じ地図上に記録されています。
この地図の特徴は、町名や道路だけでなく「誰の邸宅か」「何の施設か」まで読み取れることです。大きな敷地の名称を追うと、江戸の大名屋敷から明治・大正の宮邸、華族邸、軍用地、学校、そして現在の公園・ホテル・大学・再開発地へ続く土地の履歴が見えてきます。
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赤坂区図の年代と見方
赤坂区図は大正11年12月20日第二版です。地図には番地界、町界、道路、鉄道、学校、社寺、官公署、軍施設、宮邸、個人邸などが細かく記されています。現在地と照合する際は、赤坂見附、赤坂御所、青山墓地、乃木坂、青山通りなど、現在も位置を追いやすい大きな要素を基準にすると理解しやすくなります。

赤坂見附・新坂町・乃木坂
1. 赤坂見附・青山墓地・青山射的場|町場と巨大施設が接する場所
赤坂見附は江戸城外郭の門を起点とする交通の要所です。大正期には門としての機能を失っていましたが、赤坂田町方面、青山方面、麹町方面へ道路が分かれる結節点として機能していました。現在の赤坂見附駅周辺の道路構成にも、この骨格が残ります。
地図中央の「青山墓地」は現在の青山霊園です。1874年に開園し、地図には一般墓域のほか「外人墓地」「警視庁墓地」などの区画が読み取れます。現在の青山霊園にも外国人墓地や警視庁墓地の歴史が引き継がれています。大久保利通、乃木希典、後藤新平、犬養毅など、近代日本の政治・軍事・文化に関わる多くの人物が眠る場所です。
墓地の北側に描かれる大きなU字形施設は「青山射的場」です。軍の射撃訓練に使われた施設で、土塁によって射線を囲い、弾丸が外へ出ないようにした構造が地図上でもはっきり分かります。現在の青山一帯が住宅地・墓地・軍用地の境界だったことを示す重要な施設です。

2. 福吉町・新坂町|一條邸・黒田邸・東伏見宮邸
赤坂田町の細かな町割りから西へ進むと、福吉町・新坂町では街区が急に大きくなります。江戸時代の大名屋敷や武家地を引き継いだ大規模宅地が、明治・大正期に華族・宮家の邸宅へ転用されたためです。
「一條邸」は、公爵・一条実輝の東京邸です。一条家は五摂家の一つで、明治以降は公爵家となりました。赤坂福吉町の一条公爵邸には松井百太郎の尚武館道場が置かれていた記録もあり、一条実輝家の大規模邸宅がこの一帯にあったことを確認できます。一条実輝は1920年から明治神宮初代宮司も務めており、赤坂には皇室と近い公家華族の生活拠点が置かれていました。
「黒田邸」は旧福岡藩主黒田家の東京本邸です。大正期の当主は侯爵・黒田長成で、長く貴族院副議長を務めました。黒田家東京本邸は赤坂区福吉町にあり、広大な旧福岡藩邸地を引き継いでいました。長男の黒田長礼は1889年に福吉町で生まれ、後に鳥類・哺乳類研究で知られる動物学者となります。大名家の広い屋敷地が、そのまま近代華族の邸宅へ移った例です。
「東伏見宮邸」は東伏見宮家の邸宅です。大正11年当時の宮家は、海軍軍人としても活動した東伏見宮依仁親王の系統です。依仁親王は同年6月に薨去しており、この地図はその年末に刊行されています。1923年の関東大震災後、東伏見宮家には常盤松御用地の一部が貸与され、新しい宮邸が建設されました。地図は震災前の赤坂側宮邸を記録する資料になります。

3. 乃木坂・新坂町|木戸邸・山本邸・九條邸と「乃木神社敷地」
この図で特に重要なのが「乃木神社敷地」です。乃木希典と静子夫妻は1912年に亡くなり、1919年に乃木神社創立が許可されました。乃木神社公式沿革によると、乃木邸に隣接する木戸侯爵邸の一部と民有地を購入して鎮座地としました。鎮座祭は1923年11月1日なので、大正11年12月の地図は社殿完成前の「建設予定地」を記録しています。
隣接する「木戸邸」は木戸侯爵家の邸宅です。木戸幸一は1889年、赤坂区新坂町62番地で木戸孝正の長男として生まれました。乃木神社の用地取得記録と地図上の木戸邸が隣接することも一致します。後に木戸幸一は昭和天皇側近として内大臣を務めますが、この地域では明治元勲木戸孝允につながる木戸家の東京邸宅として存在していました。
「山本邸」は山本条太郎邸と確認できます。九州歴史資料館の史料目録には、1915年の差出人として「東京都赤坂区新坂町四十三番地 山本条太郎」と記されています。山本条太郎は三井物産で活動し、のちに南満州鉄道総裁、衆議院議員などを務めました。孫文が1914年に赤坂区新坂町の山本条太郎を訪問した記録も残り、この邸宅が政財界・対中国関係の人脈が交差する場所だったことが分かります。
「九條邸」は摂家九条家の東京本邸です。九条家は公爵家となり、大正期の当主は九条道実でした。九条道実の妹・節子は大正天皇の皇后、貞明皇后です。九条家の東京本邸が赤坂区福吉町にあったことは華族関係資料で確認できます。地図上の九條邸は、皇室と近い公家華族が赤坂に大規模邸宅を構えていたことを示します。

4. 赤坂田町・表町|町場と高橋是清邸
赤坂田町は小さな宅地が密集し、福吉町や新坂町の大邸宅地とは対照的です。赤坂見附から青山方面へ延びる道路沿いには商業・住宅が集中し、料亭街として発展する後の赤坂の基盤が形成されていました。
表町三丁目にある大規模邸宅の一つが高橋是清邸です。現在の港区立高橋是清翁記念公園はその邸宅跡で、青山通りを挟んで赤坂御用地と向かい合います。高橋是清は大正10年11月から大正11年6月まで内閣総理大臣を務め、この地図が作られた年の前半まで首相でした。その後も大蔵大臣を繰り返し務め、1936年の二・二六事件ではこの赤坂の私邸で襲撃され死亡しました。邸宅建物の一部は現在、江戸東京たてもの園に移築保存されています。

青山・檜町ひのきちょう・高樹町
5. 青山御所・明治神宮外苑|青山練兵場から外苑へ
地図西部の大規模空間には「青山御所」と明治神宮外苑関係の表示があります。青山御所は、1873年に赤坂離宮に隣接する土地が徳川家から献上され、英照皇太后の御所として整えられたことに始まります。赤坂御所とは別の御用地で、青山一帯に皇室関係施設が広がっていたことが分かります。
明治神宮外苑の前身は青山練兵場です。1912年9月、明治天皇の大葬がこの練兵場で行われました。その後、1918年に外苑地鎮祭が行われ、造成が進みます。大正11年12月は外苑完成前で、現在の神宮球場や外苑の完成形はまだありません。1923年の関東大震災では工事を中断して敷地が避難者に開放され、1924年に明治神宮競技場が完成、1926年に外苑全体が竣功奉献されました。地図は練兵場から記念公園・スポーツ施設へ移る途中を写しています。
「女子学習院」は1918年に旧青山練兵場跡の新校舎へ移転したばかりでした。現在の秩父宮ラグビー場付近です。1912年に永田町校舎を火災で失い、青山移転後に学習院から再び分離して女子学習院となりました。1923年の関東大震災でも校舎の被害は小さく、戦後は戸山へ移転して現在の学習院女子中・高等科へつながります。
外苑周辺には「憲法記念館」もあります。現在の明治記念館につながる建物で、赤坂仮皇居の御会食所に由来し、その後伊藤博文邸へ移築され、1918年に現在地へ移されました。大日本帝国憲法制定に関わる記憶を保存する施設として外苑整備に組み込まれました。

6. 青山北町・南町|寺院、学校、都市インフラが並ぶ生活の青山
青山北町・南町では、赤坂中心部より細かな住宅地が広がります。地図には梅窓院や善光寺など江戸以来の寺院、学校、郵便・電話関係施設が読み取れ、華族邸や軍施設とは異なる「生活する青山」の姿が見えます。
梅窓院は現在も南青山に所在し、江戸初期から続く寺院です。善光寺も現在の北青山に残ります。道路や寺院の位置を現在地と照合すると、表参道・青山通り周辺で大正期の街路骨格を追うことができます。
元の高画質図を拡大すると、青山北町には東京府青山師範学校の大きな敷地が確認できます。師範学校は小学校教員を養成する学校で、東京府の教員養成機関は明治6年(1873)の小学教則講習所に始まり、明治33年(1900)に青山北町へ移転しました。青山師範学校は現在の東京学芸大学につながる前身校の一つで、昭和11年(1936)に世田谷へ移るまで、この地で多数の教員を送り出しました。
同じ図には「中央電話局料金課」と読める区画もあります。料金課は電話加入者の市内・市外通話度数や料金徴収などを扱う部署でした。大正期の電話は現在のような家庭の標準設備ではなく、官公署・企業・商店を結ぶ重要な都市インフラでした。1922年8月には青山に東京中央電話局青山分局の局舎も完成しており、この地図は青山が電話行政・交換設備の拠点へ変わりつつあった時期を記録しています。

7. 檜町・乃木坂|第一師団・歩兵第一聯隊と現在の東京ミッドタウン
檜町周辺には、第一師団、歩兵第一聯隊、旅団司令部、麻布聯隊区司令部、軍法会議など、複数の軍組織が同じ大区画に集中しています。師団は複数の旅団・連隊などを束ねる大きな編制で、聯隊区司令部は徴兵・召集・在郷軍人関係など地域の兵事行政を担いました。軍法会議は軍人に関する軍事司法を扱う機関です。1936年の二・二六事件では、赤坂檜町の歩兵第一連隊や隣接する麻布の歩兵第三連隊などから青年将校と兵士が参加し、同じ赤坂区内の高橋是清邸などを襲撃しました。1922年の地図には、後に事件の実行部隊が出る軍用地と、襲撃対象となった高橋邸が同じ区内に描かれています。
現在の東京ミッドタウン一帯は、江戸時代には長州毛利家の屋敷地、明治以降は陸軍用地となり、歩兵第一聯隊などが置かれました。戦後は米軍施設、返還後は防衛庁檜町庁舎となり、防衛庁の市ヶ谷移転後に再開発されて東京ミッドタウンとなりました。毛利家屋敷、陸軍、米軍、防衛庁、再開発という土地利用の連続が、この一帯の特徴です。
乃木坂の地名は乃木希典に由来し、旧乃木邸は現在も乃木公園内に残っています。地図には乃木神社敷地も記されるため、乃木の死後に形成された「乃木坂」という記憶の空間が、1920年代初頭にどのように整備されていたかを確認できます。

8. 青山高樹町|大邸宅と郊外住宅地の境界
青山高樹町から南町にかけては、大きな邸宅地と比較的細かな住宅地が入り交じります。市街地が麻布区・渋谷町方面へ広がる境界でもあり、中心部の赤坂田町とは街区の大きさが大きく異なります。
青山高樹町には大規模な華族邸宅があり、旧大名家の高木子爵家もこの地域に邸宅を構えていました。高樹町という町名は高木家との関係を持ち、大正期にもその土地の記憶が続いていました。高木正得の次女・百合子、後の三笠宮妃百合子は、この地図刊行の翌1923年に高樹町の高木子爵邸で生まれています。
赤星家の邸宅とみられる表示については、実業家・赤星鉄馬の赤坂台町邸が有力です。赤星鉄馬は1912年に赤坂台町にジョサイア・コンドル設計の邸宅を建て、1923年の関東大震災で半壊した記録があります。地図上の表示は赤星鉄馬邸とみられますが、公開資料では番地まで照合できません。
赤坂の大邸宅・皇室施設
大倉喜八郎邸と大倉商業学校|現在の東京経済大学へ
大倉喜八郎は大倉財閥を築いた実業家で、赤坂区葵町3番地に本邸を構えました。1912年頃の地籍台帳では、大倉本邸が約5,697坪、大倉商業学校が約4,785坪とされ、巨大な敷地が隣り合っていました。大倉商業学校は1900年に開校し、後の大倉高等商業学校、現在の東京経済大学へつながります。
大倉は美術品収集でも知られ、1917年に大倉集古館を設立しました。1923年の関東大震災では大倉邸や旧集古館も被害を受けます。学校は戦災後に国分寺へ移転し、葵町の教育機能は移りましたが、大倉集古館は現在も赤坂・虎ノ門側に残っています。
赤坂御所と現在の迎賓館赤坂離宮
赤坂御所の大区画は、江戸時代の紀州徳川家中屋敷に由来します。明治維新後に皇室用地となり、1873年の皇居火災後は赤坂離宮が仮皇居として使われました。1909年には東宮御所として現在の迎賓館赤坂離宮の建物が完成します。大正11年の地図には、現在も大規模な御用地として残る赤坂御用地の原型が描かれています。
御所・軍用地・大邸宅の転用が現在の赤坂を形づくった
大正11年の赤坂区には、江戸以来の寺院・坂道・町場と、御所・軍施設、華族邸、近代学校が重なっていました。その後、外苑の完成、戦災、軍用地の接収と返還、再開発によって建物や用途は大きく変わりましたが、赤坂御用地、青山霊園、乃木神社、青山通り、坂道、大規模街区の一部は現在まで続いています。関東大震災もその変化の一つでしたが、赤坂では大規模敷地の転用が長期的な景観変化をより強く左右しました。
地図上の固有名詞を一つずつ追うと、現在の東京ミッドタウンが毛利家屋敷から陸軍・米軍・防衛庁を経たこと、乃木神社が木戸侯爵邸の一部を取得して創建されたこと、東京経済大学が大倉喜八郎邸の隣で始まったこと、高橋是清翁記念公園が高橋邸そのものであることなど、現在の都市景観が大正期の土地利用と直接つながっていることが分かります。
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