東京湾に突き出した埋立地に、高層住宅、オフィス、商業施設、中央卸売市場、広い公園が並ぶ――現在の豊洲は、最初から計画された新都市のように見えます。しかし約100年前、この場所の大部分は海面でした。
豊洲の歴史は、古い町並みを探す歴史ではありません。土地そのものが生まれ、東京が必要とする機能に合わせて、港湾・工場・住宅・商業・市場へ用途を変えてきた歴史です。本記事では、海だった場所は、なぜ工場の島となり、さらに市場とタワーマンションの街へ変わったのかを一本の流れでたどります。
30秒で分かる結論
豊洲が変化した理由は、東京の都市機能が変わるたび、都心に近い広大な水辺の土地が新しい受け皿になったからです。
- 関東大震災後、港湾整備と復興のなかで海面が段階的に埋め立てられました。
- 深い水面、岸壁、広い敷地を生かし、造船・都市ガス・港湾物流の工業地帯になりました。
- 産業構造の変化と工場移転後、地下鉄、道路、地区計画、大規模再開発により、業務・商業・住宅の街へ転換しました。
- 東京ガス工場跡地では土壌・地下水汚染が問題となり、調査、対策、追加工事、継続管理を経て、2018年に豊洲市場が開場しました。
- 現在も人口増加、防災、環境管理、交通、地域コミュニティの課題を抱えながら更新を続けています。
豊洲100年の流れ
| 時期 | 土地利用の変化 | 東京にとっての役割 |
|---|---|---|
| 1920~30年代 | 海面を段階的に埋立 | 港湾整備、都市拡張、工場用地 |
| 1937年 | 「豊洲」の町名成立 | 将来の発展を願う新しい土地の名称 |
| 1939~2002年 | 造船・重工業の拠点 | 船舶・機械生産、戦後復興と高度成長 |
| 1956~1988年 | 東京ガス豊洲工場が操業 | 都市ガス供給とエネルギー基盤 |
| 1988~2000年代 | 地下鉄開業、工場閉鎖、跡地再開発 | 都心通勤圏、業務・商業・住宅 |
| 2001~2018年 | 市場移転決定、汚染対策、移転延期 | 生鮮食料品流通の再編 |
| 2018年以降 | 市場、公園、住宅、業務地区が併存 | 食、暮らし、仕事、観光、防災 |
海から土地が生まれるまで
豊洲とはどのような街か
豊洲は、東京都江東区の一丁目から六丁目までです。一~五丁目には住宅、学校、オフィス、商業施設が多く、六丁目には豊洲市場、エネルギー関連施設、公園、住宅などがあります。東京メトロとゆりかもめの豊洲駅、ゆりかもめの新豊洲駅・市場前駅があり、住宅中心部と市場地区は同じ場所ではありません。
江東区の住民基本台帳を合計すると、2026年7月1日現在、豊洲一~六丁目は1万7,518世帯、4万218人です。市場や港湾施設のある土地と、高密度住宅地が同じ町名のなかに共存しています(江東区「世帯と人口」)。
豊洲は本当に「漁村」だったのか
「漁村がタワーマンション街になった」と説明されることがありますが、豊洲そのものについては正確ではありません。現在の区域の大部分は、近代に海面を埋め立てて成立した土地で、埋立前から一つの村落が地続きで存在したわけではありません。
ただし、周辺の深川、佃、月島、枝川などは漁業、水運、木材、倉庫と深く結び付いていました。豊洲は漁業と無関係ではありませんが、周辺の水辺文化と、豊洲という埋立地の形成は分けて考える必要があります。
関東大震災後、埋立が進んだ理由
東京港では明治期から隅田川河口の改良や航路整備が進められました。1923年の関東大震災後は、ふ頭建設、航路の浚渫、都市復興が急務になります。浚渫とは、水底の土砂を取り除いて航路や泊地を深くする工事です。取り除いた土砂は、護岸で囲んだ水面へ入れ、埋立材料として利用できました。
材料は一種類ではありません。港湾工事で生じる浚渫土、陸上から運ばれた土砂、震災復興で発生した瓦礫などが、場所と時期に応じて使われました。「震災瓦礫だけで一度に造られた島」ではなく、港湾整備と都市の廃棄物処理を兼ねながら段階的に造成された土地です(東京都港湾局「埋立地をつくる」)。
目的は土地不足の解消だけではありません。大型船が接岸できる岸壁、原料や製品を置く広い敷地、工場を市街地から離して配置できる空間が必要でした。豊洲は当初から住宅地ではなく、東京港と工業化を支える都市基盤として期待されたのです。
1937年、「豊かな洲」という名前が付いた
江東区によれば、1937年(昭和12年)7月、この埋立地に町名が設定され、将来の発展を願って「豊かな洲」となるよう豊洲と名付けられたといわれます(江東区「江東区の地名由来」)。地名の成立と現在の一~六丁目の完成は同時ではなく、埋立、住居表示、土地区画整理に伴って町域も変わりました。
造船所とガス工場の島――東京を支えた工業地帯
1939年、石川島の造船所が豊洲へ
1939年、東京石川島造船所は豊洲に第二工場を開きました。会社の源流は1853年に石川島で始まった造船所です。豊洲には岸壁、ドック、組立工場、資材置場をまとめられる広い敷地がありました。
造船は、設計、鋼材加工、溶接、エンジン、ボイラー、クレーン、電気機器、検査、修理、港湾輸送が結び付く総合産業です。技術者、職人、下請企業、物流事業者が集まり、戦時期を経て、戦後復興と高度経済成長を支える船舶や機械を送り出しました。詳しい産業史は、当サイトの「日本の産業技術史」でも解説しています。
1960年に石川島重工業と播磨造船所が合併し、石川島播磨重工業となりました。現在のIHIです。豊洲工場は2002年3月に閉鎖されましたが、IHIは再開発後も本社を豊洲に置いています(IHI「豊洲二丁目駅前地区再開発」)。
東京ガス豊洲工場は何をしていたのか
豊洲ふ頭では、東京ガス豊洲工場が1956年から1988年まで32年間、都市ガスを製造・供給しました。1956~1976年には石炭ガスを製造し、石炭を高温で蒸し焼きにしてガスを取り出しました。工程ではコークスやタールが生じ、ベンゼンやシアン化合物が生成されることもありました(東京都専門家会議報告資料)。
都市ガス工場は家庭だけでなく、商店、工場、都市生活全体を支えるインフラでした。造船所、ガス工場、倉庫、岸壁が集まった豊洲は、東京の成長を裏側から支える「機能の島」だったのです。

現在の「がすてなーに ガスの科学館」は旧工場の保存建物ではありません。同じ豊洲でエネルギーと暮らしを学ぶ施設として2006年に開館しました。東京ガスは2026年9月23日の閉館予定を公表しているため、訪問前に公式サイトで確認してください。
工業地帯で働き、暮らした人々
工場では交替勤務が行われ、周辺には社宅、商店、食堂、通勤路が必要でした。原料と製品を運ぶ船、貨物車、トラックが行き交い、騒音、煙、臭気、交通量も日常の一部でした。工業地帯を「汚れた過去」とだけ見るのも、経済成長の美談にするのも不十分です。雇用、エネルギー、製品を生み出す一方、操業時の環境負荷を将来の土地利用へ残しました。
鉄道・再開発・タワーマンション――工場跡地はなぜ住宅地になったのか
地下鉄とゆりかもめが土地の意味を変えた
1988年6月、有楽町線が新木場まで延伸し、豊洲駅が開業しました。都心へ直接通える鉄道により、工業用地は「港に近い土地」だけでなく「都心勤務者が住める土地」になります。ただし、地下鉄だけで住宅地化したわけではありません。工場の移転、1990年策定の豊洲・晴海開発整備計画、区画整理、道路・橋梁、公園、民間開発が重なって土地利用転換が進みました。
2006年3月には、ゆりかもめが有明から豊洲まで延伸し、市場前、新豊洲、豊洲など4駅が開業しました。市場予定地や新しい住宅・業務地区が鉄道で結ばれ、開発の骨格が整いました(ゆりかもめ30周年記念誌)。
IHI跡地が「アーバンドック」へ
IHIは工場閉鎖後、豊洲二・三丁目の再開発に着手しました。大規模な工場跡地は、道路、公園、オフィス、住宅、商業施設を一体的に配置しやすい土地です。2006年10月5日にはアーバンドック ららぽーと豊洲が開業しました。

写真は再開発後の景観で、旧造船所そのものではありません。現地には造船ドックを生かした水辺空間やクレーンのモニュメントが残り、工場全体を保存するのではなく、景観の一部として産業の記憶を継承しています。産業施設を残す意味は、当サイトの「近代化産業遺産とは?」でも紹介しています。
タワーマンションの街になった理由
- 都心への近さ――有楽町線で都心業務地へ通いやすい。
- 大規模な工場跡地――超高層住宅、公開空地、学校、道路をまとめて計画しやすい。
- 水辺の景観――運河や東京湾を住宅地の環境として取り込める。
- 生活施設の同時整備――商業施設、公園、学校、医療、歩行者空間が増えた。
2000年代以降、高層住宅が相次いで完成しました。人口増加は街の活力を生む一方、学校・保育、通勤混雑、医療、地域コミュニティ、防災備蓄の需要を増やします。高層住宅では建物が倒壊しなくても、停電、断水、エレベーター停止、長周期地震動で生活継続が難しくなることがあります。「タワマンだから危険」「新しいから安心」と単純化せず、建物と地域の備えを分けて見る必要があります。
土壌汚染と豊洲市場移転――「安全」と「安心」はなぜ揺れたのか
ガス工場跡地で見つかったもの
旧東京ガス豊洲工場用地では、ベンゼン、シアン化合物、ヒ素などが土壌・地下水から検出されました。ベンゼンは石炭ガス製造の副生成物などに関係し、シアン化合物も工程で生成され得ます。操業終了後に見つかった汚染は、過去の産業活動が土地に残す「時間差のある負担」でした。
ここで区別したいのは、土壌、地下水、地下空間や建物内の空気、市場で扱う食品です。地下水から環境基準を超える物質が検出されたことと、食品が汚染されたことは同じではありません。一方、食品への直接影響が確認されていないからといって、土壌・地下水管理や行政手続の問題が小さくなるわけでもありません。
東京都は汚染土壌の掘削・処理、地下水対策、遮水、地下水管理システムなどを実施しました。現在も地下水位、地下水質、空気環境の結果を公開しています。2026年にも定期公表が続いており、対策は工事一回で終わらず、監視と維持管理を含む仕組みです(東京都中央卸売市場「豊洲市場に関する環境データ」)。
なぜ築地市場を移転したのか
築地市場は1935年に開場し、首都圏の生鮮食料品流通を支えました。しかし老朽化、敷地の狭さ、車両動線の混雑、流通環境の変化への対応が課題となります。営業を続けながら行う現地再整備は難航し、1999年に移転整備へ方向転換しました。
2001年、東京都は豊洲移転を正式決定し、2003年に基本構想、2004年に基本計画をまとめました。豊洲は広い敷地、幹線道路、岸壁、将来の鉄道アクセスを確保できる一方、ガス工場跡地であることへの懸念を抱えていました(東京都中央卸売市場「旧築地市場のご紹介」)。
2016年の移転延期と盛土問題
豊洲市場は2016年11月の開場が予定されていましたが、東京都は同年8月、土壌汚染対策や安全性の確認を理由に延期しました。9月には、建物下に都が説明してきた厚さ4.5メートルの盛土がなく、地下空間が設けられていたことが判明します。
地下空間には配管点検などの利点がありましたが、説明と実際の設計が一致しなかったことは行政への信頼を損ないました。問題は「地下空間があるだけで危険」という話ではなく、技術的安全性、設計変更、意思決定、説明責任が重なった問題です。専門家会議は地下水、地下空間の水と空気、地上部への影響を検証し、換気、床面対策、地下水管理の強化などを提言しました。「安全」は測定値や曝露経路に基づく評価、「安心」は説明の一貫性や手続への信頼を含む評価で、両者は関係しますが同じではありません。
2018年10月11日、豊洲市場が開場
追加対策と確認を経て、豊洲市場は2018年10月11日に開場しました。水産卸売場棟、水産仲卸売場棟、青果棟などからなり、閉鎖型施設で温度を管理しやすくし、商品を高温や風雨から守ります。車両動線、荷さばき、衛生管理を現代の物流に合わせたことが築地との大きな違いです(東京都中央卸売市場「豊洲市場の特徴」)。

写真は開場後の2018年11月に撮影された水産卸売場棟です。見学者通路や飲食店もありますが、第一の役割は、卸売業者、仲卸業者、買出人、運送事業者が生鮮食料品を取引・流通させる基幹市場です。
市場移転は成功だったのか
閉鎖型施設、温度管理、耐震性、物流空間は成果です。一方で、整備・維持費、業者の移転負担、築地ブランドとの関係、場内動線、アクセス、地下水管理は継続的な論点です。「成功」「失敗」と一語で決めるより、食品流通、業者経営、財政、環境、観光、地域開発のどの視点から評価するかを示す必要があります。
水際を市民へ開く――公園と防災がつくる現在の豊洲
豊洲ぐるり公園が示す用途の反転
工場と港湾の時代、水際は原料や製品を扱う作業空間で、誰もが自由に歩ける場所ではありませんでした。再開発後は運河や東京湾に沿って歩行者空間と公園が整備され、市場周辺を回り込む豊洲ぐるり公園から東京湾、晴海、レインボーブリッジを望めます。

豊洲ふ頭内公園は、豊洲公園、豊洲ぐるり公園、豊洲六丁目公園、豊洲六丁目第二公園の4公園、合計約19.8ヘクタールです(豊洲ぐるりパーク公式サイト)。景観と憩いだけでなく、避難、延焼防止、オープンスペース、護岸という防災・都市基盤の役割もあります。
完成後も続く三つの課題
第一は防災です。高潮、洪水、内水氾濫、液状化は災害ごとにハザードマップで確認する必要があります。護岸、防潮施設、建築性能が整う一方、停電・断水・交通途絶が高層住宅の生活に与える影響は大きくなります。
第二は環境管理です。旧工業用地の土壌・地下水は長期管理が必要で、再開発後にもエネルギー消費、廃棄物、交通など新しい環境負荷があります。
第三は人口と地域社会です。学校、保育、医療、公共交通を人口増に合わせるとともに、住民、就業者、市場関係者、来街者が同じ地域をどう使うか調整し続けなければなりません。
豊洲を歩いて100年の変化を読む
豊洲では建物の古さだけでなく、「土地の用途がどう置き換わったか」を観察すると歴史が見えてきます。
| 場所 | 見るポイント | 読み取れる変化 |
|---|---|---|
| アーバンドックの旧ドック | 水面、岸壁、商業施設 | 造船所から親水再開発へ |
| 保存クレーン | 工業設備が景観記号になった姿 | 産業の記憶の残し方 |
| IHI本社周辺 | 工場閉鎖後も企業が残る意味 | 製造拠点から業務拠点へ |
| がすてなーに | 旧工場建物ではない点、展示内容 | 都市ガス史の継承 |
| 豊洲市場 | 三棟、見学通路、車両動線 | 現代の食品物流 |
| 豊洲ぐるり公園 | 護岸、遊歩道、市場と住宅の距離 | 港湾水際の市民開放 |
| タワーマンション群 | 公開空地、学校、公園、駅への動線 | 2000年代以降の人口増加 |
枝川・塩浜から豊洲へ続く運河と埋立地の関係は、開催レポート「枝川・塩浜・豊洲の歴史散歩」でも紹介しています。施設の開館日、見学範囲、工事状況は変わるため、訪問前に公式情報を確認してください。
よくある質問
豊洲は昔、海だったのですか
はい。現在の区域の大部分は、近代の東京港整備で海面を埋め立てて造られました。ただし全域が同じ年に完成したのではなく、段階的に造成・拡張されています。
豊洲は漁村だったのですか
現在の豊洲区域が古くから一つの漁村だったとは言えません。周辺には漁業・水運の歴史がありますが、豊洲自体は主に近代の埋立地として成立しました。
豊洲という地名の由来は何ですか
1937年7月、将来の発展を願い「豊かな洲」となるよう名付けられたと江東区は説明しています。
豊洲にはどんな工場がありましたか
IHIの前身にあたる造船・重工業工場、東京ガス豊洲工場、周辺の港湾・倉庫施設などがありました。
IHIの造船所跡はどこで見られますか
ららぽーと豊洲周辺で、旧ドックを生かした水辺空間やクレーンのモニュメントを見られます。ただし工場全体が保存されているわけではありません。
東京ガス豊洲工場では何を作っていましたか
1956~1988年に都市ガスを製造・供給しました。1956~1976年には石炭を原料とするガス製造が行われました。
豊洲市場の土壌汚染は何が原因ですか
主に旧東京ガス豊洲工場の操業に関係する物質が、土壌・地下水から検出されました。土壌、地下水、空気、地上施設、食品は区別して評価する必要があります。
築地市場はなぜ豊洲へ移転したのですか
老朽化、狭隘化、車両動線、物流・衛生・耐震面への対応が背景です。現地再整備が難航し、広い敷地を確保できる豊洲への移転が2001年に決まりました。
豊洲市場はいつ開場しましたか
2018年10月11日です。2016年の予定から延期され、追加対策と確認を経て開場しました。
豊洲で歴史を感じられる場所はありますか
旧造船所ドック、保存クレーン、IHI本社周辺、がすてなーに、豊洲市場、豊洲ぐるり公園、運河と護岸がおすすめです。古さより用途転換の痕跡を読む街です。
まとめ――豊洲は「完成した街」ではない
豊洲は、海面から土地になり、造船所とガス工場の島として東京を支え、工場移転後は住宅・商業・業務の街へ変わりました。ガス工場跡地は土壌汚染問題と検証を経て、築地市場の機能を受け継ぐ豊洲市場になりました。
この歴史を一言で表すなら、豊洲は東京がその時代に必要とした機能を引き受け、用途を何度も更新してきた街です。工業地帯から新都市へ一直線に進んだ成功物語ではなく、産業の豊かさと環境負荷、再開発の利便性と人口増加、防災と水辺景観、市場の安全管理と行政への信頼が重なっています。
関連記事
参考文献・参考資料
- 江東区「江東区の地名由来」
- 江東区「世帯と人口 令和8年7月1日現在」
- 東京都港湾局「東京港の歴史」
- 東京都港湾局「埋立地をつくる」
- 東京都港湾局「豊洲・晴海開発整備計画」
- IHI「沿革・あゆみ」
- IHI「豊洲二丁目駅前地区第一種市街地再開発事業」
- 三井不動産「アーバンドック ららぽーと豊洲 グランドオープン」
- 東京都中央卸売市場「豊洲新市場予定地の概要」
- 東京都中央卸売市場「旧築地市場のご紹介」
- 東京都中央卸売市場「豊洲市場の特徴」
- 東京都中央卸売市場「専門家会議」
- 東京都中央卸売市場「豊洲市場に関する環境データ」
- ゆりかもめ「有明―豊洲間の延伸開業」
- 東京メトロ「沿革」
- 東京ガス「がすてなーに グランドオープン」
- 東京ガス「がすてなーに 閉館のお知らせ」
- 豊洲ぐるりパーク公式サイト
閲覧日:2026年7月19日。人口、施設公開状況、環境調査は更新されるため、最新情報は各公式サイトで確認してください。

