大正東京・麹町区を古地図で徹底解説|皇居・丸の内・霞が関・永田町

大正期の東京市麹町区を描いた番地界入東京市拾五区区分図

大正12年(1923)5月1日第三版の「番地界入東京市麹町区全図」を、全体図と19枚の精細拡大図で読みます。これは関東大震災の約4か月前の麹町区です。皇居、丸の内、大手町、日比谷、霞が関、永田町、九段、番町まで、現在の千代田区西部に相当する地域に、官庁、軍、宮家、学校、銀行、新聞社、鉄道、ホテル、劇場が高密度に集まっていました。

大正12年の東京市麹町区全図
大正12年(1923)5月1日第三版「東京市麹町区全図」。現在の千代田区西部にあたり、皇居を中心に官庁街、軍施設、丸の内の業務街、番町の住宅地が取り巻いています。公益財団法人特別区協議会所蔵。

この地図は「震災直前の首都中枢」を記録している

特別区協議会所蔵版は大正12年5月1日第三版、縮尺1:5000です。東京駅は開業済み、丸ビルも完成済みですが、関東大震災はまだ起きていません。したがって、震災復興の道路拡幅や区画整理が入る直前の姿を確認できます。とくに東京駅西側に「八重洲町」があること、永田町に参謀本部・陸地測量部があること、北の丸が軍用地であることなど、現在との違いが鮮明です。

なお、地図の凡例は15区共通です。官公署、郵便・電信・電話、警察、学校、銀行、病院、工場、道路、鉄道、軌道、河川、橋、崖、草地、林、田畑、宅地などを記号と色で読み分けます。詳しい凡例と「備考」の口語訳は大正東京15区の総合ガイドに掲載しています。

丸の内・大手町・日比谷・霞が関

1. 元衛町・大手町|中央気象台と東京外国語学校

大正期の麹町区元衛町・大手町周辺の詳細古地図
元衛町・大手町周辺。中央気象台、東京外国語学校、大蔵省・内務省など、首都中枢の官庁・教育施設が集中しています。

元衛町は現在の千代田区大手町一丁目に相当します。図中の「中央気象台」は現在の気象庁につながる機関です。気象庁資料では、元衛町の中央気象台は関東大震災で庁舎の大半を焼失し、火災の影響で観測記録にも異常が残りました。現在の気象庁本庁は虎ノ門へ移っていますが、東京の気象観測地点はその後も大手町・北の丸公園周辺へ引き継がれました。

同じ元衛町1番地の「東京外国語学校」は現在の東京外国語大学につながります。学校は1873年に神田一ツ橋通町、現在の学士会館付近で開校しました。いったん東京商業学校へ統合された後、1897年に高等商業学校附属外国語学校として復活し、1899年に神田錦町で再び独立します。1913年の神田大火で校舎を焼失したため仮校舎を経て、1921年4月10日に元衛町1番地の新校舎へ移りました。

元衛町校舎は5300坪余りの敷地に建つ3階建てで、1922年までに講堂、図書館、柔剣道場なども整えられました。しかし1923年9月1日の関東大震災で被災し、翌2日朝に焼失します。その後は市ヶ谷の陸軍士官学校施設を借用し、1924年に麹町区竹平町1番地の旧文部省跡へ仮校舎を建設、1944年には滝野川区西ヶ原へ移転しました。現在の東京外国語大学は府中市にあります。この地図に描かれた元衛町校舎は、約2年5か月しか使われなかった短命な本校舎です。

同じ図には大蔵省・内務省・会計検査院などと並んで「馬政局」も読めます。馬政局は馬匹の改良・繁殖を扱い、1910年以降は陸軍大臣の管理下で軍馬政策との結びつきを強めましたが、地図刊行直前の1923年3月に廃止されています。5月1日版に名称が残っていること自体が、行政組織の切り替わり直後を記録した痕跡です。

2. 大手町二丁目・道三町・銭瓶町|官庁と印刷・通信の街

大正期の麹町区永楽町・八重洲町周辺の詳細古地図
大手町二丁目・道三町・銭瓶町周辺。印刷、通信、銀行など近代国家と企業活動を支える施設が密集していました。

大手町二丁目では印刷局関係施設が大きな区画を占めます。現在も大手町二丁目一帯は大規模再開発地区ですが、UR都市機構もこの地区について、明治以降に大蔵省印刷局、逓信総合博物館、東京国際郵便局などが置かれた歴史を明記しています。大手町が単なるオフィス街ではなく、国家の情報・通信・印刷を担った場所だったことが分かります。

道三町、銭瓶町など現在は消えた町名も見えます。震災復興と昭和初期の町名整理によって大手町・丸ノ内へ統合されました。現在の大手町駅から常盤橋方面を歩くと、街路の方向は変わっていても、巨大街区が連続する「官庁・業務の街」という性格は大正期から続いています。

この図で特に目を引くのが、「東京銀行集会所」「横浜正金銀行」「臺灣銀行」「日本興業銀行(建築中)」などの金融機関です。東京銀行集会所は1880年設立の銀行業界団体で、現在の全国銀行協会につながります。横浜正金銀行は1880年開業の貿易金融銀行、臺灣銀行たいわんぎんこうは1899年設立の特殊銀行で、東京駅前に国内銀行だけでなく対外金融・植民地金融の拠点まで集まっていました。日本興業銀行は産業向け長期金融を担った特殊銀行で、地図に「建築中」とある新本店はこの翌月の1923年6月に竣工します。構造設計を担当した内藤多仲ないとう・たちゅうの耐震設計は同年9月の関東大震災に耐え、後の日本の耐震建築史で重要な建物となりました。

さらに「東京瓦斯電氣工業とうきょうガスでんきこうぎょう」と「高田商會たかたしょうかい」も確認できます。東京瓦斯電氣工業は1910年創業で、1917年に純国産トラック「TGE」の試作に成功した、現在の日野自動車につながる企業です。高田商會は実業家・高田慎蔵たかた・しんぞうが1888年に再編した機械・貿易商社で、鉱山機械や軍需品などを扱いました。官庁と銀行だけでなく、近代工業を支えるメーカーと商社まで大手町周辺に事務所を構えていたことが分かります。

3. 永楽町・八重洲町・東京駅|「八重洲」は当時、駅の西側だった

大正期の麹町区丸の内・東京駅周辺の詳細古地図
東京駅西側の永楽町・八重洲町周辺。現在の丸の内にあたります。駅の東側ではなく西側に「八重洲町」がある点に注目です。

東京駅は1914年12月20日に開業しました。図では駅舎と線路群が大きく描かれ、西側に永楽町・八重洲町があります。現在の感覚では「八重洲=東京駅東側」ですが、大正12年には麹町区八重洲町は駅西側、現在の丸の内二丁目付近にありました。1929年の町名整理で西側の八重洲町が丸ノ内となり、その後「八重洲」の名称が駅東側へ定着しました。

この周辺は三菱が1890年に旧陸軍用地の払い下げを受け、近代的な業務街として開発した場所です。1894年の三菱一号館を皮切りに煉瓦造の事務所が並び、「一丁倫敦」と呼ばれました。1923年2月には丸ノ内ビルヂング、いわゆる旧丸ビルも竣工しています。現在の丸ビル、丸の内パークビル、三菱一号館美術館周辺が、この時代の開発の中心です。

図には「日本郵船会社 建築中」も見えます。日本郵船は1885年、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併で成立し、明治後半には欧州・北米・豪州などへ航路を広げた日本を代表する海運会社でした。この丸の内の新社屋は1923年5月26日に竣工しており、地図は完成直前の状態を記録しています。東京駅前で海運会社の本社ビルが建設されていたことは、丸の内が国内業務だけでなく国際物流と貿易を統括する街へ成長していたことを示します。

「久原商事」は、久原房之助くはら・ふさのすけの企業集団に属した商社です。久原は日立鉱山を経営し、その鉱山の修理工場から1910年に日立製作所が生まれました。地図上の「久原」の名は、鉱山・機械・商社を結び付けた久原財閥が大正期の東京経済界で存在感を持っていた時代を伝えています。

さらに「三菱本社」「三菱銀行」「三菱鑛業」「三菱造船」が別々に記されている点も重要です。三菱では第一次世界大戦前後に事業の分社化が進み、1917年に三菱造船、1918年に三菱鉱業、1919年に三菱銀行が独立会社となりました。つまりこの地図は、三菱が単一の企業体から銀行・鉱業・造船などの企業群へ再編された直後の丸の内を描いています。

4. 有楽町|東京府庁・東京市役所・帝国劇場・新聞社

大正12年の有楽町・東京府庁・東京市役所周辺の詳細古地図
有楽町・日比谷北側。東京府庁、東京市役所、帝国劇場、新聞社などが近接し、行政・文化・報道が集まる東京の中心でした。

図の有楽町側には「東京府庁」「東京市役所」が大きく記されています。現在の東京都庁は新宿にありますが、大正期の府政・市政の中心は有楽町・日比谷でした。現在の有楽町駅から東京国際フォーラム周辺を含む一帯は、戦後の再開発以前には行政機関と新聞社、劇場などが近接する地区でした。

帝国劇場は1911年に開場した西洋式劇場で、現在も丸の内三丁目のほぼ同じ一帯に帝国劇場があります。地図では官庁、新聞社、劇場が徒歩圏に並び、政治・行政の情報が報道と文化へ直結する首都中心部の密度を読み取れます。

新聞社では「東京日日新聞社」と「報知社」が確認できます。東京日日新聞は1872年創刊で、現在の毎日新聞につながる新聞です。報知社も同じ1872年創刊の『郵便報知新聞』を源流とし、犬養毅や原敬らが記者として関わりました。府庁・市役所の近くに有力新聞社が並ぶ配置は、政治・行政の中心と報道機関が近接した明治・大正期の有楽町の性格をよく表しています。

「東京商工奨励館」は1921年に開設された府立の産業振興施設です。商品展示だけでなく、工業試験や調査、製品改良などを行い、東京の商工業を技術面から支えました。設立運動には渋沢栄一しぶさわ・えいいちも関わっており、現在の東京都立産業技術研究センターへつながる系譜に位置付けられます。官庁や新聞社だけでなく、産業技術を支援する施設まで有楽町周辺に置かれていたことが分かります。

5. 日比谷公園・内山下町|帝国ホテルと近代東京の社交空間

大正12年の日比谷公園・帝国ホテル周辺の詳細古地図
日比谷公園・内山下町周辺。東京府庁、東京市役所、新聞社、劇場、ホテルが近接し、行政とメディア、娯楽が同じ地区に集まっています。

日比谷公園は1903年に開園した本格的な洋風都市公園です。江戸時代の大名屋敷地や明治初期の軍用地を経て、市民が利用する公共空間へ転換しました。地図では園路や池が細かく描かれ、周囲の官庁街・業務街とは明らかに異なる大きな緑地として確認できます。

公園東側の帝国ホテルは1890年に開業しました。この地図が刊行された1923年にはフランク・ロイド・ライト設計の新館が完成直前で、9月1日の開業予定日に関東大震災が発生します。ライト館は大きな倒壊を免れ、被災直後には各国大使館や企業へ一時的なスペースも提供しました。現在の帝国ホテル東京も同じ日比谷の一帯にあります。

図には「森村ビルディング」も記されています。森村家の事業は、森村市左衛門もりむら・いちざえもんと弟の豊が1876年に始めた森村組を源流とし、輸出陶磁器から近代セラミックス産業へ発展しました。そこからノリタケ、日本ガイシ、TOTO、日本特殊陶業、大倉陶園などにつながる企業群が生まれます。日比谷の一角にあった「森村」の名から、東京の業務街が地方の工場や輸出産業を統括する本社機能を担っていたことまで読み取れます。

6. 霞が関・裏霞が関|外務省・行政裁判所・宮邸

大正期の麹町区霞が関・虎ノ門周辺の詳細古地図
霞が関・裏霞が関周辺。外務省、行政裁判所、宮邸などが大区画で配置され、現在の官庁街へつながる土地利用が見えます。

外務省は1871年に霞が関へ移り、1881年には新庁舎が完成しました。大正12年の地図でも現在とほぼ同じ霞が関一丁目に大きな官庁区画として描かれています。周辺には行政裁判所や宮邸などもあり、江戸の大名屋敷地を明治政府が官庁・公的施設へ転用した結果がよく分かります。

「行政裁判所」は行政事件を扱った明治憲法下の特別裁判所で、戦後の裁判制度には引き継がれていません。図中の宮邸や大規模官有地も、現在は中央官庁や国会周辺施設などへ用途が変わりました。建物はほとんど入れ替わりましたが、霞が関に国家機関を集中させる都市構造は現在まで続いています。

三年町には「宮内省図書寮」もありました。図書寮は皇室関係の図書・記録を扱う宮内省の機関で、1899年に三年町御料地へ移転しています。宮内公文書館には、この地図の前年にあたる1922年作成の「三年町御料地総図」も残ります。図書寮庁舎は関東大震災で大きな被害を受け、1928年に現在の皇居東御苑内へ移転しました。現在の宮内庁書陵部につながる施設が、震災直前には霞が関に置かれていたことになります。

同じ三年町には「東京女学館」も確認できます。東京女学館は1888年に永田町御用邸で開校し、1890年に虎ノ門の旧工部大学校生徒館へ移転しました。伊藤博文が創立委員長を務め、女子教育奨励会会長には北白川宮能久親王が就いています。1923年の関東大震災で虎ノ門校舎が全焼したため、その後は渋谷羽沢へ移りました。現在の霞が関官庁街に、皇室関係機関と女子教育機関が並んでいた時代を伝える施設です。

7. 裏霞ヶ関・永田町|閑院宮邸・有栖川宮邸・外国公館

大正12年の裏霞ヶ関・永田町周辺の詳細古地図
裏霞ヶ関・永田町周辺。閑院宮邸、有栖川宮邸、外国公館、官邸などが大区画で並び、皇族・外交・行政の施設が集中していました。

この図では「閑院宮邸」「有栖川宮邸」などの宮邸が大きな区画を占めます。閑院宮家は江戸時代に創設された世襲親王家の一つで、大正12年当時の当主は陸軍軍人としても知られる載仁親王でした。有栖川宮家も世襲親王家の一つで、幕末・明治には熾仁親王が戊辰戦争の東征大総督、のち参謀本部長などを務めました。宮家は威仁親王の薨去により1913年に断絶しましたが、地図には「有栖川宮邸」や附属地の名称が残っています。明治以降、旧大名屋敷の広い敷地が宮家や公的施設へ転用されたため、永田町・霞が関周辺には大区画が多く残りました。

地図には外国公館も多く、「支那公使館」は中華民国公使館、「白耳義公使館」はベルギー公使館、「墨西哥公使館」はメキシコ公使館、「暹羅公使館」はシャム、現在のタイの公使館です。「独逸大使館」はドイツ大使館を指します。また「澳洪国大使館」と読める表記はオーストリア=ハンガリー帝国の旧公館名です。同帝国は1918年に消滅しているため、1923年時点の活動中の公館という意味ではなく、旧敷地名が地図に残ったものと考えられます。永田町・霞が関が外交施設の集中地だったことが分かります。

「岩倉邸」は岩倉公爵家の邸宅です。岩倉家は明治維新の中心人物の一人・岩倉具視の家系で、1923年当時の公爵家当主は具視の曾孫にあたる岩倉具榮でした。華族邸宅と宮邸、外国公館、官庁が同じ範囲に並ぶことから、裏霞ヶ関が政治・外交・華族社会の接点だったことが分かります。

8. 永田町|村井吉兵衛邸・建設中の議院

大正12年の永田町・村井吉兵衛邸・議院建設地周辺の詳細古地図
永田町周辺。村井邸、山縣公邸、宮邸、軍関係施設と「議院建設中」の区画が並び、現在の政治中枢が形成される途中の姿を記録しています。

図中の「村井邸」は、煙草製造で巨富を築き「煙草王」と呼ばれた実業家・村井吉兵衛の本邸「山王荘」です。永田町二丁目に5000坪を超える敷地を持ち、和館・洋館・茶室・美術品倉庫などを備えていました。村井は1926年にこの本宅で死去し、翌1927年の金融恐慌で村井銀行が破綻します。邸地は東京府へ売却され、1929年に府立一中が移転しました。現在は東京都立日比谷高校で、旧村井邸の美術品倉庫が記念資料館として残っています。

この図には「議院建設中」の大区画もあります。現在の国会議事堂は1936年完成なので、1923年は仮議事堂の時代から恒久議事堂へ移る長い建設期間の途中でした。現在の永田町は国会議事堂、議員会館、首相官邸などが集まりますが、この地図では華族・実業家の邸宅、宮邸、軍施設と議会施設が同じ地域に並んでいます。

永田町には「臨時帝室編修局」もありました。宮内省が1914年に設けた臨時編修局を前身とし、1916年に臨時帝室編修局へ改称、1919年に永田町の旧学習院女学部幼稚舎跡へ移転しました。主要事業は『明治天皇紀』の編纂で、政治中枢の近くに皇室史編纂の拠点も置かれていたことが分かります。

この周辺の宮邸では、紀尾井町側に「伏見宮邸」と「北白川宮邸」がありました。伏見宮家の邸地は旧井伊家屋敷地を受け継いだ広大な敷地で、戦後はホテルニューオータニの敷地へ転用されます。北白川宮邸は北白川宮能久親王きたしらかわのみや・よしひさしんのうの邸宅で、1884年にはジョサイア・コンドル設計の洋館が完成しました。宮邸が並ぶ紀尾井町は、江戸の大名屋敷地が明治以降に皇族邸へ転用された典型的な地域でした。

番町・富士見・九段・飯田町

9. 番町南部|旧武家地から邸宅・学校の町へ

大正期の麹町区番町周辺の詳細古地図
番町南部。旧武家地を受け継ぐ比較的大きな宅地の中に、学校、病院、邸宅が入り、山の手住宅地へ移行した姿が分かります。

この拡大図では、番町の「誰が住んでいたか」まで読み取れます。「松平伯邸」は旧前橋藩主家の伯爵・松平直之の邸宅で、1912年の史料に「麹町区下二番町48」と住所まで確認できます。松平直之は最後の前橋藩主・松平直克の長男で、1907年に家督を継ぎ、貴族院議員も務めました。

「山本邸」は、日本銀行総裁や農商務大臣・大蔵大臣を歴任した山本達雄の邸宅とみられます。山本達雄が「麹町区上二番町」に居住していたことは史料で確認できますが、地図上の39番地と直接結び付ける資料は確認できません。「珍田伯邸」と読める邸宅は、外交官・珍田捨巳伯爵の邸宅とみられます。珍田は駐米・駐英大使、パリ講和会議全権を務め、1920年に伯爵となっています。

地図の「加藤子爵」は、位置と爵位から加藤高明かとう・たかあきの邸宅と考えられます。加藤は外交官・外務大臣を歴任し、1924年に内閣総理大臣となった政党政治期の中心人物です。千代田区の資料でも、加藤邸が現在のベルギー大使館の地にあったことが確認できます。首相になる前年の加藤が番町に邸宅を構えていたことは、この地域に外交官・華族・高級官僚が集中していたことをよく示しています。

学校では女子学院に加え、「女子英学塾」も確認できます。女子学院は桜井女学校と新栄女学校の流れを受けて1890年に成立し、現在も千代田区一番町にあります。女子英学塾は津田梅子が1900年に創設した学校で、現在の津田塾大学につながります。五番町校舎は英国大使館に隣接し、1923年の関東大震災で全焼しました。番町には女子教育機関と華族・官僚・外交官の邸宅が近接し、山の手の文教住宅地を形成していました。

「明治薬学校」は現在の明治薬科大学につながる学校で、1919年に中六番町へ新築移転しています。

10. 番町|華族・軍人・実業家と女子教育が集まる山の手

大正期の麹町区番町・九段周辺の詳細古地図
番町周辺。細かな番地の中に学校、病院、邸宅が入り、旧武家地から近代住宅地へ移行した姿が分かります。

この図の番町側には学校・病院・邸宅が細かな街区の中に並びます。愛生病院は麹町区一番町に所在した病院で、当時の資料では院長を中村重治と確認できます。旧武家地を基盤とする番町に、華族や官僚の邸宅だけでなく教育・医療施設も入り込んでいました。なお、大正期の「一番町」「上六番町」などは現在の町名・範囲と一致しません。昭和初期の町名整理で旧番町の区域は再編されているため、地図上の番地を現在の同名住所へそのまま当てはめると位置を誤ります。

「東郷邸」は、連合艦隊司令長官として日本海海戦を指揮した東郷平八郎とうごう・へいはちろうの邸宅です。東郷は1881年から1934年まで三番町周辺に住み続け、旧邸地は現在の東郷元帥記念公園につながります。東郷坂・東郷邸・東郷坂教会・東郷元帥記念公園の変遷は、東郷坂の歴史で詳しく解説しています。日露戦争の英雄という印象が強い人物ですが、大正期の地図では「歴史上の人物」ではなく、実際に番町で暮らす住民として名前が記されている点が興味深いところです。

「大妻女学校」は、大妻コタカおおつま・こたかが1908年に始めた裁縫・手芸の私塾を母体とする学校です。1917年に上六番町の現在地へ移り、1919年には大妻実科高等女学校を併設しました。地図に描かれた校地は、現在の大妻女子大学へ続く教育拠点がこの場所に定着して間もない時期の姿です。

「井伊伯爵邸」は、幕末の大老・井伊直弼本人ではなく、その孫にあたる伯爵・井伊直忠いい・なおただの邸宅です。『人事興信録』には直忠の住所が「東京市麹町区一番町二一」と記され、地図の大きな邸地と一致します。直忠は1902年に父・井伊直憲の死去を受けて彦根井伊家の家督と伯爵位を継ぎました。号を「琴堂」といい、能楽や古典資料の収集にも熱心で、旧蔵書1万9,877冊はのちに「琴堂文庫」として彦根へ伝わりました。桜田門外の変で知られる井伊直弼の家が、華族となった後も番町に東京本邸を構えていたことが分かります。

この一番町の伯爵邸は、江戸時代の彦根藩井伊家上屋敷・中屋敷とは別の邸宅です。上屋敷は現在の国会前庭周辺、中屋敷は現在のホテルニューオータニ周辺にありました。紀尾井町の「井」は井伊家に由来します。大正期の地図に描かれた井伊邸は、旧大名家が華族制度のもとで東京に構えた近代の本邸として見る必要があります。

「大橋図書館」は、博文館創業者・大橋佐平の構想を息子の大橋新太郎が引き継ぎ、1902年に大橋家本邸内へ開館した私立公開図書館です。開館時の蔵書は約4万4,000冊で、夜間開館や館外利用も取り入れ、1917年には1日平均400人以上が利用していました。弁護士や医師を目指す受験生も多く、番町の文教地区を支えた学習拠点でした。しかし、この地図が刊行された1923年の関東大震災で建物は焼失し、約8万8,000冊の蔵書を失います。地図は、その震災直前の大橋図書館を記録しています。

「日本女子商業学校」は、現在の嘉悦学園・嘉悦大学につながる学校です。創立者の嘉悦孝かえつ・たかは1903年、日本で初めて女子を対象とする商業学校として私立女子商業学校を創立しました。1907年に麹町区土手三番町、現在のJR市ケ谷駅前へ移転し、1919年に日本女子商業学校へ改称しています。女子教育が裁縫や教養中心になりやすかった時代に、簿記や商業実務を職業教育として教えた点に大きな特徴があります。

地図には「清水邸」も大きく記されています。清水組、現在の清水建設が残した明治末から大正期の住宅図面には「番町清水満之助邸」「番町清水揚之助邸」があり、地図の清水邸も清水家の邸宅である可能性があります。ただし、清水満之助しみず・みつのすけ家と清水揚之助しみず・ようのすけ家のどちらを指すかは、現時点では確定できません。揚之助は清水組の副社長を務めた人物で、清水家が番町に複数の邸宅を構えていたこと自体が、実業家層の住宅地としての番町をよく表しています。

11. 富士見・九段坂|学校・病院・靖国神社への道

大正期の麹町区富士見・九段坂周辺の詳細古地図
富士見・九段坂周辺。学校、病院、邸宅と九段坂が密接し、靖国神社へ向かう都市軸が形成されています。

九段坂は低地の飯田町側から九段上へ上る大きな坂で、靖国神社の表参道に直結します。精細図には法政大学、日本歯科医学専門学校と附属病院、井上眼科病院などが確認できます。日本歯科医学専門学校は1909年に麹町区富士見町へ移転した学校で、現在の日本歯科大学につながります。井上眼科病院は震災前の富士見町にあり、1923年の関東大震災で焼失した後、神田駿河台へ再建されました。富士見・九段が高等教育と専門医療の集積地だったことが地図から具体的に分かります。

「東京神学社」は、植村正久うえむら・まさひさが1904年に創設したプロテスタント神学校です。植村は明治・大正期を代表するキリスト教指導者で、番町教会の設立や神学教育に力を注ぎました。東京神学社は後の東京神学大学につながる学校の一つで、九段・富士見が医学や法学だけでなく宗教教育の拠点でもあったことを示します。

暁星ぎょうせい小学校」「暁星中学校」も重要です。暁星は1888年に築地で始まったカトリック系学校で、1890年に現在の九段周辺へ移転し、1899年に中学校を設置しました。現在も同じ地域に学校が残っており、大正期の学校配置が現在の文教地区へ直接つながる例の一つです。

富士見町二丁目には旧琉球王家・尚家の邸宅がありました。1879年の琉球処分後、尚泰は東京居住を命じられ、この地に邸宅を構えました。大正期には侯爵・尚典の家となっており、住所は麹町区富士見町二丁目8番地です。現在の千代田区九段北二丁目にあたり、震災後に尚家は邸地を東京府へ売却しました。

同じ富士見町には山階宮邸もありました。山階宮家の東京邸は富士見町に広い敷地を構え、大正期の当主は山階宮武彦王です。1923年9月の関東大震災では、鎌倉別邸で妃の佐紀子女王が薨去しました。また、済生会病院麹町分院も富士見町に置かれ、1914年の設立後、結核患者の治療などを行いました。1922年には同建物へ通信博物館が移転しています。

地図の坂道と谷筋に注目すると、現在の靖国通りや早稲田通り周辺の高低差を理解しやすくなります。番町・富士見の住宅地と飯田町の鉄道・商業地をつなぐ斜面が、人の流れを集中させました。

細部には「通信博物館」「仏国大使館」「式部寮雅楽練習所」なども見えます。通信博物館は1922年3月に富士見町へ移転した逓信行政の博物館で、郵便、電信、電話、為替・貯金、船舶、電気事業などの資料を13室に分けて展示していました。「仏国大使館」はフランス大使館で、外交史料には麹町区飯田町一丁目2番地の敷地が確認できます。震災後に移転し、1933年に現在の港区南麻布へ移りました。

「式部寮雅楽練習所」は宮内省の雅楽関係施設です。宮内公文書館には「雅楽練習所沿革誌」「雅楽練習所日録」「雅楽練習所平面図 大正11年」などが残っており、この地図に描かれた施設が皇室儀礼を支える雅楽の教育・稽古拠点だったことが分かります。

12. 飯田町|鉄道ターミナルと國學院大学

大正期の麹町区飯田町・九段周辺の詳細古地図
飯田町周辺。鉄道線路と駅・貨物施設が大きな面積を占め、学校と住宅地がその周囲を取り囲んでいます。

飯田町駅は甲武鉄道以来の重要な鉄道拠点でした。のちに旅客機能が飯田橋駅へ移った後も貨物駅として長く残ります。現在は駅跡の大部分が再開発され、アイガーデンエアなどの街区になっています。

地図の飯田町五丁目8番地に記されているのは「國學院大学」です。皇典講究所・國學院はこの飯田町校地を拠点とし、1920年に大学令による大学へ昇格しました。1923年5月まで飯田町五丁目8番地にあり、その後渋谷へ移転しています。地図刊行時は、飯田町校地の最終期にあたります。

周辺には「和洋裁縫女学校」も確認できます。堀越千代が1897年に麹町区飯田町三丁目22番地で創立した学校で、現在の和洋女子大学・和洋九段女子につながります。鉄道施設の近くに大学や女子教育機関が並ぶ配置から、飯田町が交通拠点と文教地の両方の性格を持っていたことが分かります。

13. 九段・牛ヶ淵|濠と軍・警察施設

大正期の麹町区九段・牛ヶ淵周辺の詳細古地図
九段・牛ヶ淵周辺。皇居の濠、九段坂、警察・軍関係施設が近接し、城郭地形が近代施設の配置を規定しています。

牛ヶ淵、清水濠、千鳥ヶ淵など江戸城の濠は、大正期にも都市の強い境界でした。道路や施設は濠を避けて配置され、九段坂や竹橋など限られた通路へ交通が集中します。現在もこの地形はほぼ残り、皇居ランニングコースや内堀通りの形を決めています。

九段周辺には警察・軍関係施設が置かれました。現在は千代田区役所、九段合同庁舎、北の丸公園など公共施設が多く、用途は変わっても「大規模な公的施設が集まる場所」という性格が続いています。

靖国神社側には「大村益次郎銅像」が記されています。大村益次郎おおむら・ますじろうは維新政府の軍制改革に関わり、東京招魂社、のちの靖国神社の創建にも関係した人物です。銅像は1893年に完成した日本最初期の本格的な西洋式銅像で、作者は大熊氏廣おおくま・うじひろ。双眼鏡を手に上野方面を見据える姿で、九段の軍事・国家記憶の景観を象徴する存在でした。

地図の「平田子爵銅像」は平田東助ひらた・とうすけの像です。平田は岩倉使節団に随行してドイツへ留学し、農商務大臣・内務大臣・内大臣などを歴任しました。銅像は1921年に九段坂下へ建立され、彫刻は新海竹太郎、台座は平田の甥でもある建築家・伊東忠太いとう・ちゅうたが設計しました。建立からわずか2年後の地図にその名が載っていることになります。

北の丸・皇居・永田町の軍事中枢

14. 代官町・北の丸|近衛師団の軍事地区

大正期の麹町区代官町・北の丸周辺の詳細古地図
代官町・北の丸周辺。近衛師団関係施設や教育総監部などが置かれ、現在の北の丸公園とはまったく異なる軍事地区でした。

現在の北の丸公園一帯は大正期には代官町と呼ばれ、近衛師団関係施設が広がっていました。千代田区の町名由来板によれば、明治維新後に旧田安家・清水家屋敷が近衛歩兵営用地となり、1878年には竹橋事件も起きています。

地図に描かれる「北白川宮能久親王銅像」は1903年、近衛歩兵第一・第二連隊正門前に建立されたものです。1963年に現在地へ移され、現在も北の丸公園内、旧近衛師団司令部庁舎に近い場所で見ることができます。軍用地時代の北の丸を現在に伝える数少ない記念物です。

第二次世界大戦後、この軍用地は森林公園へ転換され、1969年に北の丸公園が開園しました。現在は日本武道館、国立公文書館、科学技術館、東京国立近代美術館など文化施設が集まります。大正期の軍事中枢から戦後の文化・公園空間への転換が非常に大きい場所です。

15. 宮城・竹橋|近衛師団司令部と皇居の門

大正期の麹町区宮城・竹橋周辺の詳細古地図
宮城・竹橋周辺。平川門、竹橋、近衛師団関係施設など、皇居と北の丸を結ぶ門と軍施設が描かれています。

地図の「宮城」は現在の皇居です。明治から戦前まで皇居は「宮城」と呼ばれました。竹橋・平川門・北桔橋門など江戸城以来の門が残り、その外側に近衛師団などの施設が置かれています。

現在の竹橋周辺には東京国立近代美術館、毎日新聞社、パレスサイドビルなどがあります。濠と門の位置はほぼ変わらず、建物だけが軍事施設から文化・業務施設へ交代したことが分かります。

16. 永田町|参謀本部・陸地測量部・陸軍東京経理部

大正期の麹町区永田町・参謀本部周辺の詳細古地図
永田町の軍事中枢。参謀本部、陸地測量部、陸軍東京経理部などが並び、現在の国会周辺が軍事・行政の中心だったことが分かります。

現在「政治の町」として知られる永田町ですが、大正12年の地図では陸軍関係施設が非常に目立ちます。参謀本部は陸軍の作戦・軍令を担う中枢、陸地測量部は全国の地形図作成を担う測量機関で、現在の国土地理院の前身の一つです。陸軍東京経理部は軍の会計・調達を担いました。

図中には「大山元帥銅像」「有栖川宮銅像」などの記念像も描かれます。大山巌は陸軍大将・元帥として近代陸軍の中枢にいた人物、有栖川宮熾仁親王は明治初期の軍事・政治に深く関わった皇族です。永田町・三宅坂周辺では、参謀本部や陸軍施設と顕彰像が同じ空間に配置され、道路景観そのものが国家と軍の権威を示す構成になっていました。

現在は国会議事堂、国立国会図書館、最高裁判所、憲政記念館周辺へ変わり、軍事中枢から議会・司法中枢へ役割が転換しています。銅像の一部は移設・撤去されていますが、三宅坂や内堀沿いの道路、皇居との位置関係は大正期の地図と重なります。

17. 隼町・半蔵門|衛戍病院と軍用地

大正期の麹町区隼町・半蔵門周辺の詳細古地図
隼町・半蔵門周辺。東京第一衛戍病院など軍関係施設と住宅地が並び、現在の国立劇場周辺とは大きく異なります。

「衛戍」は軍隊が一定地域に駐屯し警備することを意味します。東京第一衛戍病院は東京の駐屯部隊を支える陸軍病院でした。隼町から三宅坂一帯には軍関係機関が集まり、皇居西側の防衛・医療を支える区域でした。

地図には東京第一衛戍病院のほか、「陸軍航空部」「陸軍兵器本廠」なども読めます。陸軍航空部は航空兵器の研究・試験・調達・補給を統括する組織で、1925年に改組されて陸軍航空本部となりました。つまりこの1923年図は、陸軍航空本部成立前の組織段階を記録しています。

さらに三宅坂側には「寺内元帥銅像」が記されています。寺内正毅てらうち・まさたけは陸軍大臣、初代朝鮮総督を経て1916年に内閣総理大臣となった軍人・政治家です。寺内内閣はシベリア出兵を行い、1918年の米騒動を受けて総辞職しました。三宅坂には寺内の騎馬像が建立されており、地図は軍関係施設だけでなく、明治・大正期の軍人を顕彰する記念景観まで記録しています。

現在の隼町には国立劇場、最高裁判所、国立国会図書館などがあり、軍事施設の面影は薄くなっています。ただし半蔵門、内堀、三宅坂の道路形状はほぼ同じで、地図を現在地に重ねると場所を特定しやすい地域です。

番町・皇居西側の住宅・教育地区

18. 五番町・一番町|英国大使館と山の手邸宅地

大正期の麹町区五番町・英国大使館周辺の詳細古地図
五番町・一番町方面。英国大使館、大規模邸宅、学校が並び、番町が外交・住宅・教育の地区だったことが分かります。

番町には外国公館も置かれました。地図の英国大使館は、当時の町名では麹町区五番町にあり、現在の千代田区一番町にあたります。英国公使館がこの地へ移ったのは1872年で、その後大使館となりました。現在も同じ一番町の大規模敷地に英国大使館があります。国立国会図書館の古写真資料でも、明治・大正期の「麹町区五番町」と現在の「千代田区一番町」が同じ英国大使館所在地として対応づけられています。

幕末から明治にかけて日本外交に深く関わったアーネスト・サトウも、この一番町の英国公使館で長く活動しました。周囲には華族・政治家の邸宅や学校が並び、番町は住宅地であると同時に外交の舞台でもありました。

五番町14番地には山縣公爵家の東京邸がありました。山縣有朋は1922年に死去し、家督は養嗣子の山縣伊三郎が継いでいました。山縣伊三郎の住所も「麹町区五番町14番地」と確認できるため、地図刊行時の山縣公邸は山縣伊三郎を当主とする公爵家の邸宅です。

現在は集合住宅が増えていますが、英国大使館や学校の大区画が残るため、街路のスケールは日本橋などの下町とは明らかに違います。大正地図を見ると、この差が土地の歴史から生まれたことが分かります。

19. 番町・皇居西側|邸宅・学校・病院が並ぶ山の手

大正期の麹町区一番町・番町周辺の詳細古地図
番町から皇居西側。邸宅、学校、病院と大きな番地が連なり、現在の麹町・番町住宅地の原型が見えます。

「賀陽宮邸」は賀陽宮家の邸宅です。賀陽宮家は久邇宮朝彦親王の第二王子・邦憲王を祖として1892年に創設された宮家で、1923年当時は恒憲王の代でした。恒憲王は陸軍軍人として歩み、同年には美智子女王が誕生しています。地図に宮邸名が残ることで、番町・皇居西側に複数の宮家が大規模な邸地を構えていたことが分かります。

図中の「農商務大臣官邸」などは個人邸ではなく、大臣職に付属する官邸です。地図刊行日の1923年5月1日は加藤友三郎内閣で、農商務大臣は荒井賢太郎でした。同様に大蔵大臣官邸は市来乙彦、文部大臣官邸は鎌田榮吉が在任していた時期にあたります。官邸名と居住者を区別して読むと、地図から当日の政府構成まで復元できます。

現在の一番町、三番町、五番町、六番町を歩くと、マンション化した場所でも街路の幅や曲がり方は大正期と重なるところが多くあります。「大正の建物を探す」のではなく、「大正の敷地割りと道路を探す」と、古地図散歩が格段に分かりやすくなります。

皇居を軸に官庁・軍・業務街へ再編された麹町区

麹町区の最大の特徴は、江戸城と武家地を土台にしながら、明治・大正の国家機関と近代企業が入り込んだことです。丸の内では大名屋敷・軍用地がオフィス街へ、霞が関では大名屋敷が官庁街へ、永田町では軍事中枢が議会・司法中枢へ、北の丸では軍用地が公園・文化施設へ変わりました。一方、皇居の濠、門、坂、主要道路、大規模敷地は現在まで強く残っています。

1923年5月の地図には、元衛町の東京外国語学校、中央気象台、帝国ホテル旧館と建設中のライト館など、数か月後の震災で被災・移転する施設も記録されています。復興後に街区や施設は変わりましたが、皇居を中心に霞が関の官庁街、永田町の政治中枢、丸の内・大手町の業務街、番町の住宅・教育地区が取り巻く構造は、現在の千代田区にも引き継がれています。

大正東京15区シリーズ:15区総合ガイド次の区:神田区 →

参考資料