銀座・有楽町から東京駅へ|江戸城外堀・数寄屋橋門〜常盤橋門を歩く歴史散歩

銀座〜東京ナイトウォーク

銀座駅から有楽町、丸の内、東京駅を経て常盤橋まで、かつて江戸城の東側を守った外濠そとぼりの跡をたどる歴史散歩です。数寄屋橋門、鍛冶橋門、呉服橋門、常盤橋門という外郭門に加え、南町奉行所跡・北町奉行所跡、明治大学発祥の地、一石橋迷子しらせ石標、ヤン・ヨーステンゆかりの八重洲まで、現在の街並みに残る江戸・明治の痕跡を歩いて確かめます。

銀座や東京駅周辺は再開発が続く都心ですが、道路の曲線、橋名、石垣、記念碑をつなぐと、失われた外堀の輪郭が見えてきます。江戸城の防御線と町の入口、奉行所による都市行政、明治以降の近代化が短い区間に重なっているのが、このコースの魅力です。

今回のコース概要

  • 銀座駅・数寄屋橋周辺
  • 明治大学発祥の地
  • 数寄屋橋門跡
  • 南町奉行所跡
  • 鍛冶橋門跡・東京府庁舎跡
  • ヤン・ヨーステン記念像
  • 北町奉行所跡
  • 呉服橋門跡
  • 一石橋迷子しらせ石標
  • 常盤橋門跡・常磐橋

江戸城の見附を全体像から知るには、江戸城三十六見附の全36か所一覧と巡り方も参考になります。

江戸城外堀を、銀座から常盤橋まで歩く

江戸城は本丸周辺の内堀に加え、その外側にも大きな堀と門を巡らせていました。外堀に設けられた門は、橋を渡って城内へ入る交通の要所であり、枡形と呼ばれる折れ曲がった空間や石垣によって防御性を高めていました。

江戸城三十六見附を示した図

数寄屋橋門、鍛冶橋門、呉服橋門は現在、門そのものの遺構がほとんど残っていません。千代田区の史跡資料でも、数寄屋橋門跡は数寄屋橋公園付近、鍛冶橋門跡は鍛冶橋交差点付近、呉服橋門跡は東京駅八重洲北口側の呉服橋交差点付近に位置したと整理されています。常盤橋門跡まで進むと石垣と歴史的な橋が残り、外堀の姿を立体的に感じられます。

数寄屋橋|消えた外堀を街路から読み解く

現在の数寄屋橋交差点周辺には、かつて江戸城外堀と数寄屋橋門がありました。JR有楽町駅と銀座駅の間にあたり、銀座側と城内側を結ぶ入口の一つでした。明治維新後に城門は失われ、外堀も戦後の埋め立てによって姿を消しました。中央区の資料では、現在の数寄屋橋交差点付近を通る東京高速道路は1959年に供用開始したとされています。

銀座の街そのものの変化を詳しく知りたい方は、銀座の歴史散歩|京橋から新橋へ、一丁目〜八丁目の12スポットで、銀座煉瓦街や数寄屋橋の変遷も紹介しています。

明治大学発祥の地|旧島原藩邸から近代法学の学び舎へ

数寄屋橋交差点近くには「明治大学発祥の地」の碑があります。この付近は1691年以降、肥前島原藩などを治めた深溝松平家の上屋敷でした。明治維新後、屋敷の一部が貸し出され、1881年1月17日、岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操の3人が明治法律学校を開校しました。学校は1886年に神田駿河台へ移転し、のちの明治大学へ発展します。

江戸の大名屋敷が、明治には自由民権運動の演説会や法律教育の場へ変わったことが、この一角の土地利用の変化をよく伝えています。

南町奉行所跡|有楽町駅前にあった江戸の行政拠点

JR有楽町駅前には南町奉行所跡があります。町奉行は、裁判、町方の行政、治安、消防など、江戸の都市運営を広く担いました。南町奉行として知られる大岡忠相おおおかただすけは、8代将軍徳川吉宗のもとで1717年に町奉行となり、町火消制度や小石川養生所の整備にも関わりました。

有楽町駅周辺の発掘調査では、奉行所に関係する井戸や下水溝などが確認され、現在も駅前広場や地下空間で遺構を意識できる展示があります。高層ビルと鉄道に囲まれた場所で、江戸の役所街が足元に重なっていることを実感できる地点です。

鍛冶橋門跡から丸の内へ|外堀の門から近代東京の官庁街へ

鍛冶橋門は現在の鍛冶橋交差点付近にありました。門の建物や枡形は残っていませんが、説明板によって位置を確認できます。明治後期の市区改正では、呉服橋・鍛冶橋などの外郭門で石垣撤去と道路拡張が進み、江戸の防御施設は近代都市の道路網へ姿を変えていきました。

東京府庁舎跡|大名小路から近代首都の中心へ

丸の内一帯は江戸時代、大名屋敷が集中する「大名小路」でした。明治になると官庁や企業の集まる近代都市へ転換し、東京府庁は1894年に内幸町から現在の丸の内三丁目付近へ移転しました。江戸の武家地から首都行政の中心へ変わる過程を、外堀沿いの散歩で連続して見ることができます。

江戸時代の大手町・丸の内の大名屋敷配置は、正保年中江戸絵図で見る大手町・丸の内で詳しく紹介しています。

徳川将軍家の系図

八重洲の名の由来|ヤン・ヨーステンと徳川家康

東京駅八重洲側で出会うのがヤン・ヨーステンの記念像です。1600年、オランダ船リーフデ号で豊後国に漂着したヨーステンは、徳川家康に登用され、外交や通訳、貿易に携わりました。中央区の町名資料では、ヨーステンが内堀沿いに邸地を与えられたことから一帯が「やよす河岸」と呼ばれ、後の「八重洲」の地名につながったとされています。

北町奉行所跡|東京駅の足元に残る江戸の役所街

北町奉行所は移転を重ね、1805年以降は現在の東京駅日本橋口付近に置かれました。時代劇「遠山の金さん」のモデルとなった遠山景元とおやまかげもとも北町奉行を務めた人物です。東京駅周辺の再開発に伴う発掘では、奉行所に関係する井戸や上水施設などが確認されています。

南町奉行所跡から北町奉行所跡まで実際に歩くと、二つの奉行所が江戸城外堀の内側に置かれ、町人地に近い場所から都市行政を担っていた地理関係がつかみやすくなります。

呉服橋門跡と一石橋|外堀と日本橋川が交わる場所

呉服橋門跡は東京駅八重洲北口側、呉服橋交差点付近にありました。常盤橋門の南約200メートルに位置した門で、現在は地上で門の形を確認できる遺構はほとんどありません。ここから一石橋へ進むと、江戸城外堀と日本橋川の接点だった地形が見えてきます。

一石橋迷子しらせ石標|江戸の迷子情報を掲示した石柱

一石橋南西の橋詰には、東京都指定文化財「一石橋迷子しらせ石標」が残ります。安政4年(1857)、西河岸町の町人たちが南町奉行所の許可を得て建立したもので、片面には迷子を探す情報、反対側には保護した迷子の情報を貼る仕組みでした。

日本橋に近く人通りの多かった一石橋は、情報を集める場所として適していました。石標そのものだけでなく、町内が迷子を保護し、親へ引き渡すまで支えた江戸の地域運営まで伝える貴重な資料です。

常盤橋門跡・常磐橋|江戸城外郭正門の姿を今に伝える

ゴールの常盤橋門は、江戸城外堀の門の中でも重要な位置を占めました。奥州道中につながる江戸五口の一つで、浅草口・追手口とも呼ばれ、大手門へ続く大手筋に位置したことから外郭正門とされます。

明治以降に門の建物は失われましたが、枡形石垣が残り、1928年には国の史跡に指定されました。門前の木橋は1877年に洋式石橋の常磐橋ときわばしへ架け替えられています。2011年の東日本大震災で石橋と石垣が被災した後、修理が行われ、2020年に工事が完了、2021年に常磐橋の通行が再開しました。

数寄屋橋から歩いてきた区間では、門跡の多くが道路やビルの下に埋もれています。最後に常盤橋門跡の石垣と日本橋川を見ることで、銀座から東京駅まで追ってきた外堀の線が、現存する遺構としてつながります。

イベントの様子

銀座・東京駅周辺を自分でも歩いてみる

TimeWalkは、現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分で歴史散歩を楽しめるWebアプリです。イベント参加後の復習や、銀座・有楽町・東京駅周辺を別の日に歩くときにも使えます。

現在地から歩ける史跡を地図で探す

数寄屋橋では失われた外堀を街路から想像し、有楽町では町奉行所、丸の内では大名屋敷から近代官庁街への変化、八重洲では町名の由来、常盤橋では現存する石垣と石橋に出会います。銀座から東京駅までの都心散歩で、江戸城の外郭と東京の都市史を一続きにたどれるコースです。