赤坂は、TBSや赤坂サカス、飲食店が集まる都心の街として知られています。その足元には、江戸城の外堀を支えた溜池、大名屋敷に由来する坂名、幕末の勝海舟ゆかりの地など、江戸から明治へ続く歴史が密集しています。
ゆる歴史散歩会で使用した赤坂縦断ナイトウォークのコースをもとに、溜池発祥の碑、南部坂、赤坂氷川神社、勝海舟・坂本龍馬の師弟像、本氷川坂、三分坂、円通寺坂公園、弾正坂、志の門、丹後坂、赤坂見附までをたどります。現在の街並みと江戸の地形・武家地の記憶を重ねながら歩けるコースです。
今回の赤坂歴史散歩で巡る主なスポット
- 溜池発祥の碑
- 南部坂
- 赤坂氷川神社
- 勝海舟・坂本龍馬の師弟像
- 本氷川坂
- 勝海舟邸跡
- 三分坂
- 円通寺坂公園
- 弾正坂
- 志の門(旧三河岡崎藩上屋敷表門)
- 丹後坂
- 赤坂見附駅前
赤坂2丁目から6丁目、4丁目周辺へと史跡を拾いながら歩くと、低地の溜池から台地へ上がる地形の変化がよく分かります。坂そのものが、かつての大名屋敷や寺社の位置を伝える道標になっています。
赤坂はなぜ坂が多い? 台地と谷がつくった街
港区によると、赤坂には赤坂台地と青山台地があり、その間に谷が入り込んでいます。北から東には溜池の谷、南には笄川の谷があり、起伏の多い地形が数多くの坂を生みました。
徳川家康が江戸に入る以前、この一帯は山林や畑が多い土地でした。江戸時代になると地域の大半が武家地となり、大名や旗本の屋敷が並びます。赤坂の地名には、見附から四谷へ上る紀伊国坂や、坂上に生えていた茜草に由来する説があります。
現在の赤坂を歩くと、ビル街の中に「南部」「弾正」「丹後」といった江戸時代の人名・役職に由来する坂名が残っています。坂名を追うと、武家地だった時代の土地利用をたどれます。
溜池発祥の碑|「溜池山王」の名を残す巨大な人工池
溜池は、慶長11年(1606)ごろに築かれた大規模な人工池です。江戸城を守る外堀の一部であると同時に、江戸の飲み水を支える水源としても使われました。港区の資料では、現在の不忍池を上回るほどの規模だったとされています。
江戸後期には景勝地としても知られ、歌川広重の「名所江戸百景 赤坂桐畑」に水辺の風景が描かれました。池はその後、少しずつ埋め立てられ、明治期には市街地へ変わります。水面が消えた現在も「溜池」「溜池山王」という地名が残り、街の成り立ちを伝えています。

南部坂|盛岡藩南部家の屋敷が残した坂名
南部坂は、江戸時代前期に盛岡藩南部家の中屋敷があったことから名付けられました。勾配が険しかったため「難歩坂」と書かれたこともあります。
講談や歌舞伎の「忠臣蔵」では「南部坂雪の別れ」の舞台として広く知られました。赤坂の坂道は、実際の大名屋敷の記憶と、後世に広がった物語の両方を抱えています。
赤坂氷川神社|徳川吉宗が造営した江戸の社殿
赤坂氷川神社の現在の社殿は、享保15年(1730)、8代将軍徳川吉宗の命によって建立されました。関東大震災や東京大空襲を免れ、建立当時の姿を伝える建物として東京都有形文化財に指定されています。

境内には四合稲荷があります。明治31年(1898)に周辺の4社を合祀した際、勝海舟が「四社を合祀」「幸福」「志を合わせる」を掛けて名付けました。社名の扁額にも海舟の書が使われています。
境内では、江戸の社殿と幕末・明治の人物史が重なります。
勝海舟・坂本龍馬の師弟像|赤坂で交わった幕末の二人
赤坂6丁目には、勝海舟と坂本龍馬が並ぶ師弟像があります。港区観光協会は、海舟が安政6年(1859)から明治元年(1868)まで暮らした赤坂の邸宅跡に、この像が立つと紹介しています。


龍馬は海舟から海軍や国防の構想を学び、神戸海軍操練所の設立にも関わりました。二人の像が赤坂に置かれているのは、幕末政治の中心人物だった海舟の生活拠点がこの街にあったためです。

本氷川坂|姿を消した本氷川明神の記憶
本氷川坂の名は、坂の東側にあった本氷川明神に由来します。本氷川明神は明治16年(1883)に赤坂氷川神社へ合祀されました。神社そのものは移っても、旧地の記憶は坂名として残りました。
赤坂氷川神社の四合稲荷に合祀された「本氷川稲荷」の名も、この地域に氷川信仰が広がっていた歴史を伝えています。
勝海舟邸跡|赤坂で長く暮らした海舟の足跡
勝海舟は赤坂で複数回住居を移しています。赤坂6丁目には、安政6年(1859)から明治元年(1868)までの邸宅跡と、明治5年(1872)から明治32年(1899)の死去まで暮らした邸宅跡が残ります。
幕末の龍馬との交流から、明治政府での活動、晩年まで、海舟の人生の長い時間が赤坂と重なっています。赤坂氷川神社の四合稲荷を海舟が命名したことも、この土地との深い結びつきを物語ります。
三分坂|急勾配がそのまま名前になった坂
三分坂は、江戸時代に急坂を通る車の運賃へ銀三分を上乗せしたことが名の由来とされています。坂下の渡し賃一分に対して三分と呼んだという説もあります。
名前は「さんぷんざか」と読みます。港区は「さんぶ」と読むと貨幣価値が異なるため誤りと説明しています。現在もはっきりした高低差があり、赤坂台地の起伏を体感できる坂です。
円通寺坂公園|赤坂の旧町名をたどる休憩地点
円通寺坂公園は赤坂5丁目にある区立公園です。園内には赤坂地区の旧町名由来板が設置され、現在の住居表示に変わる前の町名と地域の歴史を確認できます。
赤坂では1966年の住居表示によって、赤坂溜池町、赤坂田町、赤坂新町、赤坂丹後町、赤坂氷川町など多くの旧町名が現在の「赤坂」にまとめられました。坂や公園に残る名前は、失われた町名を読み解く手掛かりです。
弾正坂・志の門・丹後坂|赤坂4丁目に残る武家地の記憶
弾正坂は、西側に吉井藩松平家の屋敷があり、同家が代々「弾正大弼」に任じられることが多かったために名付けられました。江戸時代の役職名が、そのまま現在の坂名に残っています。
山脇学園の「志の門」は、旧三河岡崎藩上屋敷の表門です。老中本多忠民の屋敷門で、文久2年(1862)の大火後に再建されました。もとは現在の東京中央郵便局付近にあり、移築を重ねたのち2016年に赤坂へ移されました。現存する大名屋敷門として貴重な重要文化財です。
丹後坂は元禄年間(1688~1704)に開かれたと推定され、坂の北東側にあった米倉丹後守の屋敷にちなむとされています。西尾丹後守の屋敷に由来する説も伝わります。弾正坂と丹後坂を続けて歩くと、赤坂4丁目が武家屋敷の集まる地域だったことを坂名から実感できます。
赤坂見附駅前|江戸城の門が現在の駅名に残る
「見附」は、江戸城の要所に置かれた見張りと防御のための施設です。一ツ木赤坂と呼ばれた古い集落は、江戸城拡張に伴って見附門が設けられた際に移転し、現在の元赤坂へつながりました。
赤坂見附駅前には港区の旧町名由来板も設置されています。地下鉄の駅名として日常的に使う「赤坂見附」は、江戸城外郭の歴史を今に伝える地名です。

赤坂周辺の歴史散歩をもっと楽しむ
赤坂4丁目から8丁目の史跡をさらに歩くなら、高橋是清邸跡などを巡る赤坂4丁目~8丁目の歴史散歩もあわせて楽しめます。
江戸城そのものの構造を知りたい方には、旧江戸城・皇居東御苑を巡る歴史散歩、外堀と見附を歩くなら江戸城三十六見附を巡る皇居半周ナイトウォークも関連しています。
TimeWalkで現在地から赤坂の史跡を探す
TimeWalkは、現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分で歴史散歩を楽しめるWebアプリです。赤坂を歩いていて気になる坂や史跡を見つけたときは、現在地から歩ける史跡を地図で探すことができます。
まとめ
溜池の低地から台地へ上がる坂道には大名屋敷の名が残り、その周辺に勝海舟の邸宅跡や赤坂氷川神社が集まっています。現代的な街並みの中で、江戸の水辺と武家地、幕末から明治へ続く人物の足跡を一度にたどれるエリアです。

