2024年9月30日、駐日ローマ法王庁大使館の所在地は、東京都千代田区三番町9-2から四番町7-3へ移りました。外務省の駐日外国公館一覧にも、移転日と現在の住所が記録されています。
三番町にあった旧庁舎は、昭和初期に建てられた実業家の邸宅を受け継いだ建物でした。設計者は宮内省の建築に携わった木子幸三郎、施主は味の素の工業生産を技術面から支えた鈴木忠治です。
現在、旧所在地の三番町9-2では新しい大使館が計画されています。四番町への移転、失われた邸宅建築、1919年から続く教皇庁外交の歴史は、番町の二つの住所でつながっています。
駐日ローマ教皇庁大使館は四番町へ移転した
外務省による現在の所在地は、東京都千代田区四番町7-3です。移転日は2024年9月30日と明記されています。

| 時期 | 所在地 |
|---|---|
| 2024年9月29日まで | 東京都千代田区三番町9-2 |
| 2024年9月30日から | 東京都千代田区四番町7-3 |

外務省の公館一覧は「駐日ローマ法王庁大使館」、カトリック中央協議会は「駐日ローマ教皇庁大使館」と表記しています。英語名はいずれも「Apostolic Nunciature in Japan」です。
現在の四番町7-3は、皇居の西側に広がる番町地区にあります。旧所在地の三番町9-2からも近く、同じ番町の中での移転でした。
三番町9-2では新しい大使館が計画されている
千代田区が公開する令和7年度の建築物環境計画書には、「(仮称)駐日ローマ法王庁大使館新築工事」が掲載されています。所在地は、旧庁舎と同じ三番町9-2です。
計画上の敷地面積は646.60平方メートル、建築面積は440.92平方メートル、延べ面積は1,659.55平方メートルです。鉄筋コンクリート造で、地上5階・地下1階。完成予定日は2026年11月30日とされています。
新庁舎は、設計一次エネルギー消費量を基準値より40%削減する計画で、千代田区の「特別優良環境建築」に位置付けられています。昭和初期の邸宅を転用した旧庁舎から、現代の外交・環境性能を備えた施設へ更新される計画です。
同じ三番町9-2に大使館の新築計画があるため、四番町への移転は建て替えに伴うものと考えるのが自然です。完成後の再移転日は公表されていません。
旧庁舎の正体は鈴木忠治邸だった
旧庁舎の前身は、実業家の鈴木忠治が番町に構えた邸宅です。国立国会図書館のレファレンス記録と東京都立図書館の木子文庫目録には、旧ローマ法王庁大使館と鈴木忠治邸を結ぶ資料が残っています。

鈴木忠治は1875年生まれで、二代鈴木三郎助の弟にあたります。味の素株式会社の社史では、1908年に始まった「味の素」の工業生産で技術面の中心を担い、製法の試験と工場化を支えた人物として紹介されています。
東京都立図書館のデジタルアーカイブには、1934年12月頃に撮影された「鈴木忠治邸正門」の写真があります。石造風の門柱、塀、植栽を備えた邸宅の入口は、のちに外交施設となった建物の出発点を伝えています。
民間企業の技術者・経営者が築いた邸宅が、国境を越えた外交の場へ転じました。番町の旧庁舎には、日本の近代産業と教皇庁外交という二つの歴史が重なっていました。
設計者・木子幸三郎と木子文庫
鈴木忠治邸の設計者は、木子幸三郎です。国立国会図書館のレファレンス記録は、東京都立図書館所蔵の木子文庫を根拠に、旧庁舎が鈴木忠治邸であり、木子幸三郎の設計だったことを示しています。
木子幸三郎は1874年生まれで、宮内省内匠寮の技師を務めました。内匠寮は、宮殿や御用邸をはじめとする皇室関係施設の造営・修繕を担った組織です。
東京都立図書館の木子文庫には、木子家に伝わった建築図面や写真など約2万9,000点が収められています。目録には「番町鈴木邸」が独立した項目として掲載され、正門写真を含む建築資料が保存されています。
建物が姿を消した後も、門、外観、設計の記録から旧庁舎の成り立ちをたどれます。東京の近代建築を街歩きで見る視点は、東京都選定歴史的建造物のガイドにもつながります。
「バチカン大使館」と教皇庁大使館の違い
日常的には「バチカン大使館」と呼ばれますが、外交の主体はローマ教皇庁です。外務省は「バチカン」を、教皇とローマ教皇庁から成る「教皇聖座」と、領域国家である「バチカン市国」を合わせた総称として説明しています。

教皇聖座は、各国との外交関係を結び、国際社会で教皇庁を代表します。バチカン市国は、教皇聖座の活動を支える領域国家です。東京に置かれている「Apostolic Nunciature」は、教皇聖座の外交使節団にあたります。
その長である教皇大使は、外交官であると同時にカトリック教会の大司教です。日本政府との外交を担い、日本のカトリック教会とローマ教皇庁を結ぶ役割も持っています。
「ローマ法王庁大使館」「ローマ教皇庁大使館」「バチカン大使館」という複数の呼び方は、同じ東京の公館を指しています。ただし、制度上の主体を正確に表す名称は教皇庁大使館です。
日本との関係は1919年の教皇庁使節館から始まった
日本と教皇庁の正式な外交関係は1942年に始まりました。一方、東京にはそれより23年前の1919年から教皇庁使節館が置かれていました。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1919年 | 東京に教皇庁使節館を設置 |
| 1942年 | 日本と教皇庁が正式な外交関係を樹立 |
| 1945年 | 終戦後、外交関係が一時中断 |
| 1952年 | 外交関係を再開し、教皇庁公使館を設置 |
| 1966年 | 教皇庁大使館へ昇格 |
1919年の使節館は、正式な国交樹立前から日本と教皇庁の連絡拠点が東京に存在したことを示します。1952年の国交再開後、公使館を経て1966年に大使館となりました。
東京の教皇庁代表部の歴史は、1919年から数えて100年を超えています。名称と外交上の地位を変えながら、日本政府と教皇庁、日本のカトリック教会を結ぶ拠点として続いてきました。
戦時下の国交とバチカンを介した和平接触
日本が教皇庁と正式な外交関係を結んだ1942年は、太平洋戦争の最中でした。終戦が近づいた1945年には、中立国や教皇庁の外交網を通じて和平の糸口を探る動きが生まれます。
外務省外交史料館の記録によると、1945年5月、バチカンで教皇庁のヴァニヨッチ司教が日本側関係者に接触し、米国人から持ち込まれた和平仲介の意向を伝えました。日本側は、この情報を本国へ報告しています。
この接触は具体的な和平交渉には進みませんでした。外務省の『日本外交文書』には、スイス、スウェーデン、ソ連などと並び、バチカンも和平打診に用いられた中立的な外交経路として記録されています。
三番町の大使館だけで交渉が進んだわけではなく、バチカン、日本の在外公館、東京を結ぶ外交網の中で情報が動きました。小さな領域国家を基盤とする教皇庁が、世界各地に持つ外交関係の広さが表れた事例です。
番町に重なる邸宅・外交・新庁舎の時間
三番町9-2には、昭和初期の実業家邸宅、教皇庁の外交施設、現代の新庁舎計画という三つの時間が重なっています。建物の用途が変わっても、木子文庫の図面や写真、外交記録、建築計画書が土地の履歴をつないでいます。
現在の所在地である四番町7-3も、旧所在地から近い番町の一角です。周辺の城門と町割りの成り立ちは、半蔵門から四谷門を歩く散策記事でたどれます。
四番町の現在の拠点と、三番町で計画される新庁舎。その間には、味の素の工業化を支えた実業家の邸宅から、100年を超える教皇庁外交へ受け継がれた番町の歴史があります。

