木の高さを測りたい。けれど、長い物差しも測量機器もありません。江戸初期の算書『塵劫記』には、そんな場面で鼻紙を折り、小石を重りにして木の高さを測る方法が載っています。
油を二つに分ける、盗んだ絹の量から人数を当てる、割った余りだけで元の数を探す。こうした問題を追っていくと、江戸の数学が暮らしの計算から知的な遊びへ、さらに高度な研究へ育っていく過程がそのまま現れます。数学はやがて測量、地図、暦、天文学へ伸び、神社や寺には問題を記した算額まで掲げられました。
現在「和算」と呼ぶ数学には、一次方程式、合同式、円周率、数値計算など現代数学と共通する本質が数多くあります。違いが際立つのは、何を問題にし、どう計算し、誰と競い、どこで成果を見せたのかという数学のあり方です。実際の問題を解きながら、その世界をたどります。
鼻紙一枚で木の高さを測る
寛永4年(1627)、吉田光由が刊行した『塵劫記』には、そろばんによる計算だけでなく、商売、土地、材木、工事、測量に関わる問題が収められました。初版にある「木のなかさをはなかミにてつもる事」は、江戸の算術がどんな場所で役立ったのかをよく伝えています。
木に登らず高さを求める
正方形の紙を対角線で折ると、45度の角を持つ直角三角形ができます。紙の一辺に小石を吊るして垂直を取り、斜め45度の線の先に木の頂上が見える位置まで移動します。
問題
木から7間離れた場所で、45度の視線の先に木の頂上が見えました。目の高さは半間です。木全体の高さは何間でしょうか。
答え 7間半
解き方
視線が45度なので、目の高さから木の頂上までの高さは、木までの水平距離と同じ7間です。そこに目の高さ半間を足すと、7間半になります。
現代の言葉なら直角二等辺三角形の性質です。『塵劫記』での問題の姿は「手元の紙で立木を測れ」。同じ幾何でも、数学が生まれる場面が違うと見え方が変わります。
江戸初期には幕府や諸藩による国絵図作成、検地、河川工事、城下町の整備が続きました。距離、高さ、面積、土量を扱う計算は、土地を把握する実用技術でもありました。
『塵劫記』は計算書から「考えて遊ぶ本」へ変わった
吉田光由の『塵劫記』は人気を集め、何度も改訂されました。現在『塵劫記』の代表として知られる油分け、継子立て、絹盗人算、百五減算などの遊戯的な問題の多くは、1627年の初版より後の改訂で加わったものです。
この変化は大きな意味を持ちます。売買や測量のために計算を学ぶ本が、「この問題を解けるか」と読者の知恵を試す本にもなっていったからです。
絹盗人算――方程式を書かずに人数を当てる
問題
盗人たちが盗んだ絹を分けています。1人8反ずつ取ると7反足りず、1人7反ずつ取ると8反余ります。盗人は何人で、絹は何反でしょうか。
答え 盗人15人、絹113反
解き方
7反ずつ配る状態から8反ずつ配る状態へ変えるには、1人につき1反余計に必要です。一方、全体では「8反余る」状態から「7反足りない」状態へ動くので、必要になる絹の差は8+7=15反です。1人につき1反増え、全体で15反増えるので、盗人は15人。絹は15×8-7=113反です。
現代なら x を使って 8x-7=7x+8 と書けます。『塵劫記』の世界では、未知数を文字に置かなくても「一人あたりの差」と「全体の差」を見抜いて答えに届きました。後の和算が記号表現を発達させる前にも、数量の関係を捉える数学は十分に働いていました。
油を枡だけで半分にする――数式を書かない数学
改訂された『塵劫記』に加わった有名な問題の一つが油分けです。
問題
1斗、つまり10升の油があります。使えるのは7升枡と3升枡だけで、どちらにも目盛りはありません。この二つの枡だけを使って、油を5升ずつに分けてください。
7升枡と3升枡で5升を作る
- 3升枡を満杯にして7升枡へ入れます。7升枡には3升。
- もう一度3升を入れます。7升枡には6升。
- さらに3升枡を満杯にして7升枡へ注ぐと、7升枡には1升しか入りません。3升枡には2升残ります。
- 7升枡の7升を元の桶へ戻します。
- 3升枡に残った2升を7升枡へ移し、さらに3升枡一杯の3升を加えます。
答え 7升枡に5升、元の桶に5升を残せます。
この問題では、途中で「2升」という量を直接測っていません。7升の容器が満杯になる瞬間を利用して、3升枡の中に2升を作ります。計算式より先に、容器の状態を動かす操作があります。
一般化すると、作れる水量には二つの容器の容量の最大公約数が関係します。7と3の最大公約数は1なので、1升刻みの量を作れます。江戸のパズルを先へ進めると、整数論やアルゴリズムへつながります。
余りから元の数を当てる――中国数学から和算へ
和算の背景には中国数学があります。古代中国の『孫子算経』には、ある数を3で割ると2余り、5で割ると3余り、7で割ると2余るとき、その数を求める問題があります。日本ではこの系統の算法が「百五減算」として知られ、『塵劫記』の改訂版にも取り入れられました。
3・5・7の余りだけで数を探す
問題
ある数を3で割ると2余り、5で割ると3余り、7で割ると2余ります。この条件を満たす最小の正の整数はいくつでしょうか。
答え 23
解き方
まず140は5でも7でも割り切れ、3で割ると2余ります。63は3でも7でも割り切れ、5で割ると3余ります。30は3でも5でも割り切れ、7で割ると2余ります。
140+63+30=233。これも三つの条件を同時に満たします。3×5×7=105を引いても余りの条件は変わらないので、233-105-105=23になります。
現代数学では中国剰余定理につながる考え方です。和算は、中国から伝わった数学書や算法を学び、日本の問題文化の中で展開しました。17世紀には中国の朱世傑『算学啓蒙』に記された天元術が注目され、高次方程式を扱う道具になっていきます。
難問を出し合ううちに、関孝和の数学が必要になった
寛永18年(1641)、吉田光由は『新篇塵劫記』の巻末に、答えを書かない12問の「遺題」を載せました。解けた人に公表を促す挑戦状です。承応2年(1653)には榎並和澄が解答を公表し、さらに新しい問題を出しました。こうして、前の難問を解き、次の難問を残す遺題継承が続きます。
四則演算だけでは扱いにくい問題が増えると、解法そのものを整備する必要が生まれました。そこで大きな役割を果たしたのが関孝和です。

中国から伝わった天元術は、もともと一つの未知数を扱う方法でした。関は独自の傍書法を整え、数字と文字を一つの式の中で表現し、複数の未知数を扱いやすくしました。現代の用語でいえば、連立方程式で未知数を消去するような処理の見通しが大きく良くなりました。
継子立て――一つの答えから「どんな場合でも解ける方法」へ
『塵劫記』で広く知られた「継子立て」は、30人を輪に並べ、10番目ごとに一人を除き、最後に残る一人を決める数学遊戯です。『徒然草』にも同名の遊びが現れ、江戸以前から知られていました。
一つの並び方の答えを見つけるだけなら、試して確かめることもできます。人数や数える間隔が変わったときにも使える方法を求めると、問題は一般化へ進みます。関孝和編『算脱之法』には、この継子立てを一般的に扱う方法が収められました。一方、建部賢弘の『綴術算経』は「算脱の術」を兄の建部賢明が見いだしたと記しています。
誰が一問を解いたかより、個別のパズルを一般的な方法へ変えていく姿が、17世紀後半の和算の変化をよく表しています。
円周率を41桁まで――建部賢弘が考えた「速く近づく」計算
円周率を知らないところから考えてみます。円に正六角形を内接させると、その周の長さは直径の3倍です。円周は正六角形より少し長いので、円周率が3より大きいことが分かります。正12角形、24角形、48角形と辺を増やせば、周の長さは円周へ近づいていきます。
関孝和も内接多角形を使って円周率を計算しました。その研究をさらに進めたのが建部賢弘です。
辺の数を増やし続ければ精度は上がりますが、計算量も増えます。建部は、近似値がどのように真の値へ近づくかを利用して収束を速める「累遍増約術」を用い、円周率を小数点以下41桁まで求めました。さらに円周率に関わる無限級数も導いています。
ここで研究対象になったのは円周率という数字だけではありません。「正しい値へもっと速く近づくには、計算の仕方をどう改良するか」という方法そのものです。現代の数値解析に通じる発想が、和算の中でも育っていました。
数学は野外へ出る――測量、伊能忠敬、そして暦
最初に鼻紙で木を測ったところへ戻ります。江戸時代の数理文化では、数学と測量は近い場所にありました。国絵図、検地、土木、建築には測る技術が必要です。17世紀にはオランダ経由の測量術も取り込まれ、日本の町見術と結びつきました。
その延長に、伊能忠敬の全国測量があります。忠敬が大規模測量以前から強く関心を持っていたのは天文学で、日本付近の緯度1度の距離を実測することが大きな問題でした。地面を測ることと、空を観測することが一つにつながっています。

忠敬は50歳で江戸へ出て、幕府天文方の高橋至時に天文学・暦学・測量を学びました。二人の墓は東京・上野近くの源空寺に並びます。実際に歩ける場所から二人の関係をたどるなら、上野・稲荷町から浅草へ歴史散歩|源空寺の伊能忠敬と高橋至時でも詳しく紹介しています。
空を計算する仕事として、暦もあります。渋川春海は長年使われていた宣明暦と実際の天体運行のずれに向き合い、自らの観測をもとに中国元代の授時暦を日本向けに補正しました。貞享元年(1684)に改暦が決まり、翌1685年から貞享暦が施行され、春海は幕府初代天文方となりました。
木の高さ、土地、緯度、天体、暦。対象は変わっても、「測った値から見えない量を求める」という数学の働きは続いています。
数学を神社に掛ける――算額という発表文化
江戸後期になると、和算は各地の師弟集団や愛好者にも広がりました。その姿を最も鮮やかに伝えるのが「算額」です。数学の問題や答え、時には解法を絵馬のような額に記し、神社や寺へ奉納しました。

算額は祈願の奉納物であると同時に、数学者が成果を人目に触れさせる場にもなりました。遊歴する和算家・山口和は文化14年(1817)から文政7年(1824)にかけて各地を巡り、見た算額の問題を324題書き写しています。問題は一つの土地に閉じず、人とともに移動しました。
岩手県一関市舞川の菅原神社には、嘉永3年(1850)に千葉胤雪の門人20人が奉納した二枚一組の算額が残ります。各人が問題を持ち寄り、合計20問を掲げました。一関市博物館は、その図形問題を現在も「和算に挑戦」として現代の学習者向けに出題しています。
教科書、塾、学会誌が整う前の地域社会では、本に加えて、師弟、旅、寺社という人のつながりでも数学が共有されました。算額を見ると、和算が「解法の体系」であると同時に「数学を楽しむ文化」だったことが具体的に分かります。
洋算の時代へ――和算は何だったのか
幕末から明治に西洋数学が本格的に導入されると、日本の従来の数学と区別する必要が生まれ、「洋算」に対する言葉として「和算」が使われるようになりました。明治5年(1872)の学制では小学校算術に洋法を用いる方針が示され、高等教育も西洋数学を中心に組み替えられていきます。
明治初期には、和算を学んだ人々が新しい洋算を学び、学校で算術を教える側にも回りました。そろばんも教育の中に残り、担い手の一部は和算から洋算へ移っていきました。
鼻紙で木を測る問題は、現代なら直角二等辺三角形です。絹盗人算は一次方程式、百五減算は合同式、油分けは最大公約数、円周率の研究は数値計算へつながります。数学的な本質には、現在の算数・数学と連続する部分が数多くあります。
それでも、江戸の問題を実際に解くと、記号の違い以上のものが残ります。木や土地を測り、商売の量を分け、遊戯を一般化し、難問を出し合い、寺社へ成果を奉納する。中国数学を受け取り、オランダ系の測量術も取り込み、やがて洋算へ接続する。和算は、江戸社会の中で数学を使い、楽しみ、研究した長い営みの名前です。

