板橋区赤塚五丁目の乗蓮寺(じょうれんじ)は、かつて中山道板橋宿にあった浄土宗寺院です。江戸時代には将軍の鷹狩の休息所となり、天保の飢饉で亡くなった人々を弔う供養塔も建立されました。昭和46年(1971)から赤塚への移転が始まり、昭和52年(1977)には高さ約13メートルの「東京大仏」が造られました。
室町時代の創建と板橋宿への移転
乗蓮寺は応永年間(1394~1428)に下板橋山中、現在の板橋区仲町付近で開かれたと伝わります。のちに中山道沿いの下板橋宿へ移り、街道の宿場町と関わる寺院になりました。江戸時代初期の天正19年(1591)には徳川家康から10石の朱印地を与えられ、幕府の保護を受けました。
八代将軍徳川吉宗の時代には、将軍が鷹狩へ出かけた際の休息所「御膳所」に指定されました。寺に伝わる乗蓮寺文書には、将軍の御成や寺院の運営に関する記録が含まれています。境内には地域の武士・板橋氏の一族である板橋信濃守忠康の墓と石灯籠も保存されています。
天保8年(1837)の飢饉と423人の供養
天保年間には凶作と疫病が続き、江戸の街道筋にも食料を求めて移動する人々が現れました。天保8年(1837)、幕府は板橋宿などに救助小屋を設けましたが、旅の途中で病死する人も相次ぎました。
当時、板橋宿の仲宿にあった乗蓮寺では、住職が亡くなった人々を埋葬して供養塔を建てました。台座には同年3月から11月までに亡くなった423人の戒名が刻まれています。内訳は男性333人、女性49人、子ども41人です。供養塔は寺が赤塚へ移った後も受け継がれ、飢饉が宿場にもたらした被害を具体的な人数で伝えています。
板橋信濃守忠康の墓と藤堂家の石造物
境内の板橋信濃守忠康墓は、中世に板橋周辺と関わった武士の系譜を伝える文化財です。乗蓮寺文書には、忠康の200回忌法要をめぐる記録も残ります。また、説経浄瑠璃の五代目若太夫の墓も保存されており、寺には武士だけでなく芸能者の記憶も残っています。
境内には津藩藤堂家の染井屋敷から移された石造物があります。染井屋敷は現在の豊島区駒込付近にあった江戸下屋敷で、庭園に置かれた仙人や鬼などの石像が乗蓮寺に伝わりました。こうした石像は江戸時代の大名庭園の意匠を知る資料です。
赤塚への移転と昭和52年の東京大仏
昭和46年(1971)、都市整備の影響で乗蓮寺は板橋宿から赤塚への移転を始め、約7年かけて境内を整えました。古い墓や供養塔なども新しい境内へ移されました。江戸時代からの寺院が現在の赤塚にあるのは、この昭和期の移転によるものです。
東京大仏は昭和52年(1977)に建立されました。阿弥陀如来の青銅製坐像で、高さ約13メートル、重さ約32トンです。関東大震災や戦災の被害を繰り返さないようにとの願いが込められ、昭和57年(1982)には「新東京百景」に選ばれました。大仏は寺の創建当初からある仏像ではなく、赤塚への移転後に生まれた新たな信仰の象徴です。
所在地と周辺の史跡
乗蓮寺は板橋区赤塚5-28-3にあります。周辺の松月院や赤塚城跡、赤塚諏訪神社も中世から近代にかけての歴史を伝えています。地域の史跡は赤塚・成増周辺の歴史と文化財で紹介しています。境内の開門時間や公開範囲は訪問前にご確認ください。

