




今回行くところ
リンクはGoogleマップです。
- 若松河田駅
- 国立国際医療センター石垣(地下通路跡)
- 国立国際医療研究センター病院
- 起源は1871年(明治4年)に創設された軍医寮附属の本病院で、当初は麹町区隼町にあったが1929年に現在地に移転。現在の病院の敷地は旧徳川家尾張藩下屋敷の一部であり、陸軍戸山学校の所在地でもあった。東側には同じ1929年に陸軍軍医学校や牛込恩賜財団済生会病院が移転し、隣接していた。
- 人骨騒動(Wikipedia)
- 戸山教会附属戸山幼稚園
- 陸軍戸山学校跡記念碑
- 陸軍境界石
- 新宿・戸山プレイパーク
- 竹内明太郎之像
- 玄國寺庫裡(旧岩倉具視邸)※上記画像参照
- 明治天皇射的砲術天覧所阯(東京都指定史跡)
- 諏訪の森公園(HP)
- 「かくれんぼ」詩碑
- 経由地
- 高田馬場駅


東京都内に残る軍需工場、引き込み線、高射砲陣地などの戦争遺跡を比較して歩くなら、中島飛行機武蔵製作所や引き込み線など、武蔵野・西東京の戦争遺跡を巡るコースも参考になります。

あわせて、戸山ハイツの歴史|尾張徳川家の庭園・陸軍学校から都心の高齢団地までも読むと、この地域や関連テーマを別の角度から理解できます。
開催レポート|2025年7月12日 戸山〜高田馬場の戦争遺跡を歩く
2025年7月12日(土)14時30分から、18名で戸山から高田馬場へ歩く歴史散歩を開催しました。今回の中心テーマは、現在の住宅地・公園・医療施設・大学の周辺にわずかに残る戦争遺跡です。大きな建物がそのまま残っている場所ばかりではなく、石垣の一部、石造の基礎、境界石など、小さな痕跡を一つずつ確かめていくコースでした。
参加者の皆さんにとっても、普段なら通り過ぎてしまうような遺構に新しい発見がありました。現代の街並みと過去の土地利用を重ねて見ることで、戸山・西早稲田・高田馬場一帯が「江戸の大名庭園」「近代の軍用地」「戦後の住宅・公園・教育・医療の街」へと大きく姿を変えてきたことが実感できる散歩になりました。
今回のコース概要
若松河田駅を出発し、国立国際医療センター周辺、戸山教会・戸山公園の箱根山、陸軍境界石、旧陸軍射撃場周辺、玄國寺などをたどり、高田馬場方面へ向かいました。もともとのイベント案内に掲載していた各立ち寄り地点は、このページ上部の「今回行くところ」からGoogleマップでも確認できます。
国立国際医療センター周辺|陸軍病院から続く医療の土地
最初に歩いたのは、現在の国立健康危機管理研究機構・国立国際医療センター周辺です。公式の沿革では、この医療機関の源流は明治元年(1868)に江戸城山下門内へ設けられた兵隊仮病院にさかのぼります。その後、陸軍の病院として組織や名称を変え、昭和4年(1929)に戸山の現在地へ移転しました。終戦後は国立東京第一病院として再出発し、長い時間をかけて現在の医療機関へつながっています。
なお、2025年4月には国立国際医療研究センターと国立感染症研究所が統合し、国立健康危機管理研究機構(JIHS)が発足しました。今回の開催はその後の2025年7月なので、当日の施設名称は「国立国際医療センター」です。大規模な医療施設だけを見ていると軍用地だった時代は想像しにくいのですが、周辺の石垣や地形を意識して歩くと、この土地の連続性が見えてきます。

陸軍戸山学校と将校集会所遺構
戸山公園の箱根山地区には、明治6年(1873)から終戦まで陸軍の学校が置かれました。東京都公園協会の案内にも「陸軍戸山学校跡記念碑」が紹介されており、現在の緑豊かな公園が、かつて軍事教育の場だったことを伝えています。
今回確認したのが、戸山教会・戸山幼稚園付近に残る陸軍戸山学校の将校集会所遺構とされる石造部分です。上部には戦後の建物があり、下部に重厚な石造の壁や窓まわりが残っています。巨大な軍事施設が丸ごと残っているわけではないからこそ、現在の建物の一部に取り込まれた古い構造を見分けることが、この地域の戦争遺跡を歩く面白さでもあります。

箱根山|尾張徳川家の庭園から陸軍用地へ
戸山公園の箱根山は、戦争遺跡だけでなく、さらに古い江戸時代の土地利用を知るうえでも重要です。東京都公園協会によると、この一帯には尾張徳川家の下屋敷「戸山荘」があり、寛文9年(1669)ごろから庭園の整備が進められました。園内の池を掘った土で築いた人工の山は、丸い玉を伏せたような形から玉円峰と呼ばれ、明治以降に箱根山と呼ばれるようになったとされています。
標高は44.6メートルで、東京都公園協会は「山手線内で一番高い山」と案内しています。今回は階段の登山道を上り、山頂まで歩きました。軍用地になる以前の大名庭園の地形が、その後の陸軍戸山学校の時代を経ても残り、現在は公園の見どころになっているという、戸山らしい歴史の重なりを体感できる場所です。


陸軍境界石|小さな石柱から軍用地の広がりを読む
街路沿いでは「陸軍」の文字が刻まれた境界石も確認しました。新宿区の景観形成ガイドラインでも、戸山公園一帯は明治時代以降に軍用地として利用され、その時代を伝える遺構が点在する地域と説明されています。境界石は建物のような大きさはありませんが、かつて軍用地がどこまで広がっていたのかを考えるための具体的な手がかりになります。
今回の散歩では、こうした目立たない遺構こそ皆で立ち止まって観察しました。文字の刻まれ方や道路との位置関係を実際に見ると、古地図だけでは分からない「土地の境目」が現在の街に残っていることが分かります。

箱根山の登頂証明書もいただきました
箱根山に登った人は、戸山公園サービスセンターで登頂証明書を受け取れます。サービスセンターは箱根山のある地区から明治通りを越えた大久保地区側にあるため、散歩の途中で立ち寄る場合は位置を確認しておくと安心です。

陸軍射撃場|西早稲田に残った巨大軍事施設の記憶
高田馬場方面へ進む途中では、旧陸軍射撃場の歴史も確認しました。早稲田大学の大学史資料センターによる解説では、明治6年(1873)に旧尾張徳川家所有地が射的練兵場などのため兵学寮へ交付され、明治15年(1882)には近衛騎兵連隊の射撃場が設けられました。周辺の市街化が進むと流弾の危険が問題となり、昭和初期には射撃場を鉄筋コンクリートのトンネルで覆う対策が行われたとされています。
そのトンネルは7本あり、1本の全長が約300メートルに及ぶ大規模な施設でした。戦後は米軍接収を経て土地利用が変わり、現在の早稲田大学西早稲田キャンパスや周辺市街地へと姿を変えています。いま目の前にある大学や住宅地だけを見ると想像しにくい規模ですが、資料と現地の地形を重ねることで、戸山ヶ原一帯が広い軍事空間だったことが分かります。
玄國寺|旧岩倉具視邸の一部が残る庫裡
終盤に訪れた玄國寺は、高田馬場にある寺院です。新宿観光振興協会によると、慶長6年(1601)創建との伝承があり、かつては近くの諏訪神社の別当寺でした。境内の庫裡には、明治の政治家・岩倉具視の旧邸の一部が移築されています。
同協会の解説では、この庫裡はもともと洋風建築でしたが、移築後に和風へ改造されたとされます。鬼瓦には岩倉家ゆかりの笹りんどうの紋も見られます。今回のコースは軍事施設の痕跡が中心でしたが、玄國寺では幕末・明治の政治史につながる建築にも触れられ、戸山から高田馬場までの近代史を別の角度から見ることができました。

今回歩いて見えた戸山・高田馬場の歴史
今回の散歩で印象的だったのは、戦争遺跡が「史跡らしい姿」でまとまって残っているのではなく、現在使われている施設や道路、公園の一部に溶け込むように残っていることでした。石造の壁、境界石、地形など、わずかな痕跡を手がかりに歴史をたどることで、普段の街の見え方が変わります。
戸山一帯をさらに深く知りたい方は、戸山ハイツの歴史|尾張徳川家の庭園・陸軍学校から都心の高齢団地までもあわせてご覧ください。江戸の戸山荘、陸軍戸山学校、戦後住宅へと移り変わった土地の流れを整理しています。
東京都内の戦争遺跡を比較して歩くなら、中島飛行機武蔵製作所や引き込み線など、武蔵野・西東京の戦争遺跡を巡るコースも参考になります。また、高田馬場から先の街歩きは、高田馬場から池袋の歴史散歩|雑司が谷・鬼子母神・千登世橋を歩くへつなげて楽しめます。
現在地から歩ける史跡を地図で探す|TimeWalk
今回のように、街の中に点在する小さな史跡や歴史の痕跡を自分のペースで探したいときは、Webアプリ「TimeWalk」も利用できます。現在地や指定地点の近くにある歴史スポットを地図で探し、自分で歴史散歩を楽しめます。現在地から歩ける史跡を地図で探す。
参考資料
- 東京都公園協会「戸山公園」(箱根山、尾張戸山荘、陸軍戸山学校跡記念碑、登頂証明書)
- 東京都公園協会「戸山公園 フィールドミュージアムガイド」(戸山荘庭園、玉円峰・箱根山)
- 国立健康危機管理研究機構「沿革」、国立国際医療研究センター「歴史」(兵隊仮病院から戸山移転、戦後の病院史)
- 早稲田大学「陸軍射撃場―西早稲田(旧大久保)キャンパス」(戸山ヶ原射撃場とコンクリート射撃隧道)
- 一般社団法人新宿観光振興協会「玄国寺」(玄國寺の沿革、旧岩倉具視邸の庫裡)
- 新宿区「景観まちづくり計画 エリア別景観形成ガイドライン 4 若松地域」(戸山公園一帯の軍用地の歴史と遺構)

