2026年7月18日(土)10時から、10名で國學院大學博物館を訪れ、企画展「秀吉兄弟とその時代―『秀』の一族の“覇気”―」を鑑賞しました。今回の中心は、豊臣秀吉・秀長兄弟の華やかな合戦絵巻ではなく、書状、朱印状、判物、日記など、当時の人々が実際に残した文字の史料です。何百年も前の手紙を目の前にしながら、2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる時代を、物語ではなく同時代の記録からたどりました。
企画展示室内は撮影できなかったため、この記事では入口や常設展示、特集展示、大学食堂の写真を掲載します。展示内容については、國學院大學博物館の公式情報、出品目録、デジタル・ミュージアムなどをもとに詳しく解説します。

國學院大學博物館で「秀吉兄弟とその時代」を鑑賞
國學院大學博物館は、渋谷キャンパスの学術メディアセンター地下1階にあります。考古・神道・校史という大学ならではの常設展示に加え、期間ごとの企画展を無料で鑑賞できる博物館です。

企画展「秀吉兄弟とその時代」の会期は、2026年7月7日から9月13日まで。展示は、秀吉が織田信長の家臣として活動した時期から、豊臣政権の成立、秀長の死後、さらに秀吉が豊国大明神として祭られるまでを、四つの章でたどる構成でした。
会場に並ぶ史料の多くは文字中心です。最初は「くずし字を読めないと難しいのでは」と感じますが、発給者、宛先、年代、印や花押、紙の形に注目すると、文書が誰と誰をつないだものなのかが見えてきます。秀吉一人の出世物語ではなく、弟、甥、養子、公家、朝廷、有力大名までを含む政治的な関係網を読み解く展示でした。
「秀」の一族とは何か――血縁を超えた豊臣政権のネットワーク
展示の副題にある「『秀』の一族」は、同じ血筋だけを示す正式な家名ではありません。秀吉と秀長の兄弟、秀次や秀保などの甥、秀頼という実子、養子となった秀俊、さらに宇喜多秀家や毛利秀元のように豊臣政権へ深く組み込まれた大名まで、名前の「秀」を手掛かりに人間関係を見直すための視点です。
戦国大名にとって、一字を与える偏諱は単なる命名ではありません。主従関係や政治的な結び付きを可視化する働きがありました。ただし、展示に登場する「秀」の人物全員が秀吉本人から一字を受けたわけではありません。たとえば毛利秀就は、幼い豊臣秀頼から「秀」の一字を受けています。誰から一字を受けたのかまで確認すると、豊臣家の関係が次世代へ引き継がれた様子も分かります。
戦国時代の「書状」を見るための基礎知識
現代の「手紙」からは、親しい人への私信を思い浮かべがちです。しかし戦国時代の書状は、命令、依頼、交渉、礼、軍事連絡、土地問題の調整など、政治実務にも広く用いられました。短い文章であっても、誰が誰に何を認め、何を求めたのかを知る重要な史料です。
まず「誰が・誰に・いつ・何のために」を見る
古文書を一字ずつ読めなくても、展示解説に記された発給者、宛先、日付、所蔵者を押さえれば、文書の位置付けはつかめます。次に、本文末尾の花押や印、紙の折り方、原本・控え・写しの違いを確認します。本文は秘書役にあたる右筆が書き、最後に発給者が花押を据える場合もありました。本人が全文を書いた「自筆書状」は、筆跡そのものからも人物との距離を感じられます。
展示でよく登場した文書用語
花押は、本人の署名に代わる図案化されたサインです。判物は、発給者が花押を据えた文書を指します。朱印状は朱色の印を押した文書で、命令や所領の保証などに使われました。
御判御教書は、将軍自身の花押を据えた文書を敬って呼ぶ名称です。禁制は、乱暴、略奪、伐採などの禁止事項を示す文書で、地域を保護すると同時に、命令を実行する権力の存在も示します。
口宣案は、朝廷の官位任命などを伝える過程で作られ、当事者へ渡された文書です。「案」と付いていても、単なる価値の低い下書きではありません。誰がどの官位へ進んだかを示す重要な証拠です。宸翰は天皇の自筆、折紙は料紙を横に折って用いる文書形式です。
このような基礎知識があると、展示ケースの中の紙が「読めない古い文字」ではなく、権利を認め、命令を伝え、官位を与え、人間関係をつないだ政治の道具に見えてきます。
久我家とは何か――なぜ展示に何度も登場するのか
今回の出品目録では「久我家文書」という名称が繰り返し登場しました。久我家は武将の家ではなく、京都の朝廷に仕えた公家の家です。村上天皇の皇子を祖とする村上源氏の流れをくみ、摂家に次ぐ家格である清華家の一つに数えられました。
國學院大學図書館が所蔵する久我家文書は、平安時代末から明治時代まで約2,800点に及ぶ文書群です。その大部分が国の重要文化財に指定されています。これは有名人の手紙を偶然集めたものではなく、久我家が所領、収入、官職、朝廷での立場を守るため、家の証拠として保存してきた文書のまとまりです。
戦国時代には、古くから土地を持っているだけでは権利を維持できませんでした。支配者が替わるたび、新たな権力者から「この土地を引き続き領有してよい」という安堵を受ける必要がありました。そのため久我家には、三好氏、足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉らが発給した文書が残りました。
同じ家に伝来した文書を年代順に見ると、京都周辺の実権がどの勢力へ移っていったかが分かります。また、秀吉が久我家領を安堵した文書からは、古い荘園の権利をそのまま残したのではなく、検地や石高という豊臣政権の基準で整理し直し、そのうえで所有を認めたことが読み取れます。保護と再編が同時に進められた点が重要です。
四つの章から読み解く「秀吉兄弟とその時代」
第Ⅰ章 信長家臣としての奔走
最初の章では、秀吉が天下人になる前の畿内で、室町幕府、三好氏、松永久秀、織田信長らがどのように動いていたかが示されました。三好長慶書状、足利義昭御判御教書、織田信長朱印状などを同じ久我家の側から見ると、発給者が替わっても、久我家が土地と収入を守るために時の権力者へ働きかけ続けたことが分かります。
秀吉の出世物語は、何もない場所から始まったわけではありません。すでに京都とその周辺には、公家、寺社、将軍、戦国大名、地域の支配者が複雑に重なる政治空間がありました。秀吉はその中へ入り、信長の家臣として軍事と交渉の経験を積みました。
第Ⅱ章 「豊臣摂関家」の天下一統
第二章では、秀吉・秀長の文書、久我家領に関する注文案、検地帳、朝廷の口宣案などから、天下統一が合戦だけで進んだのではないことが分かります。土地を測り、収穫高を定め、権利を認め、官位を与える。こうした事務の積み重ねが豊臣政権を形づくりました。
不知行とは、名目上は所領であっても、実際には支配できず年貢を得られない状態です。「久我家領不知行分注文案」は、古くからの権利と現実の支配が一致していなかったことを示します。秀吉の判物や朱印状は、その混乱を豊臣政権の基準で組み直す文書でもありました。
第Ⅲ章 秀長の死と豊臣政権
1591年に秀長が亡くなると、豊臣家では誰が家や領国、政権を継ぐのかが大きな問題となります。秀次、秀保、秀俊、秀頼らは、それぞれ異なる立場で後継構想に関わりました。三通の「羽柴秀俊宛後陽成天皇口宣案」は、のちの小早川秀秋が、まだ「羽柴秀俊」として豊臣家の養子だった時期に、朝廷の官位秩序へ組み込まれていたことを伝えます。
秀長の死だけを豊臣政権崩壊の原因とすることはできません。しかし、諸大名や寺社、朝廷との間を調整できる有力者を失い、後継候補の立場が短期間で変わり、秀頼が幼かったことなどが重なって、政権運営が難しくなったことは読み取れます。
第Ⅳ章 神になった秀吉
展示は秀吉の死で終わりません。秀吉は死後、豊国大明神として祭られました。「豊国大明神舞楽人御支配帳」は、祭礼で舞楽を担う人々を管理した記録です。秀吉を神として祭ることが、漠然とした追悼ではなく、担当者、役割、費用、儀礼を伴う組織的な事業だったことが分かります。
命令を出す人が亡くなっても、文書と儀礼は残ります。この章は、天下人の「記憶」がどのように制度化され、やがて徳川政権の成立によって位置付けを変えていくのかを考える内容でした。
「秀」の一字でつながる九人の人物
豊臣秀吉|1536〜1598年(1537年説あり)
織田信長の家臣から台頭し、本能寺の変後に織田家中の主導権を握り、全国統一を進めました。展示では英雄一人の物語ではなく、判物、朱印状、官位、養子関係、一字の授与を通じて、人と土地を豊臣政権へ組み込んだ中心人物として見えてきます。
豊臣秀長|1540〜1591年
秀吉の弟で、軍事だけでなく諸大名との交渉、紀伊・大和などの統治、政権内の調整を担いました。前期展示の「羽柴長秀(秀長)書状」は、のちに秀長と名乗る人物が「長秀」を用いていた時期の史料です。兄を支えた補佐役にとどまらず、政権を実務面で動かした人物として捉えることが大切です。
豊臣秀次|1568〜1595年
秀吉の姉の子で、1591年に関白職を譲られた正式な後継者でした。後世の悪評だけで見るのではなく、判物や朱印状を発給し、政務を担う権限を持っていた点が展示のポイントです。秀頼誕生後に立場を失い、1595年に高野山で死去しました。
豊臣秀頼|1593〜1615年
秀吉と淀殿の子で、秀吉没後の豊臣家当主です。幼少だったため政権の後継体制は不安定になりましたが、成長後は黒印状を発給し、人に「秀」の一字を与える立場でもありました。毛利秀就の名は、秀吉が築いた政治的な関係が秀頼の世代へ継承されたことを示します。
羽柴秀俊|1582〜1602年
秀吉の正室・高台院の甥で、幼少期に秀吉の養子となりました。その後、小早川隆景の養子となり、小早川秀秋と名乗ります。関ヶ原の戦いで知られる人物ですが、展示の口宣案は、それ以前に羽柴秀俊として官位を与えられ、豊臣家の後継候補の一人だった時期を示します。
宇喜多秀家|1572〜1655年
備前の大名・宇喜多直家の子で、豊臣政権下の有力大名となりました。秀吉・秀長の血縁者ではありませんが、豊臣家との婚姻や政治関係によって政権中枢へ組み込まれました。関ヶ原の戦いでは西軍主力として戦い、敗戦後は八丈島で生涯を終えました。
豊臣秀保|1579〜1595年
秀次の弟で、秀吉の甥です。秀長の娘と結婚し、秀長の養子・後継者となりました。秀長の死後に大和郡山を継ぎましたが、若くして死去します。秀長の家と大領国を次世代へつなぐ構想が短期間で途切れたことを示す人物です。
毛利秀元|1579〜1650年
毛利元就の孫で、のちに長府毛利家の祖となりました。元服時に秀吉から「秀」の一字を与えられた人物です。展示された1599年の毛利秀元書状は、秀吉没後にも豊臣政権と毛利氏の間で交渉や連絡が続いていたことを考える手掛かりになります。
毛利秀就|1595〜1651年
毛利輝元の長男で、長州藩初代藩主です。5歳で豊臣秀頼に謁見し、「秀」の一字を受けて秀就と名乗りました。秀元が秀吉から一字を受けたのに対し、秀就は秀頼から受けています。二人を比べると、名前を通じた政治関係が次の世代へ継がれたことが分かります。
企画展だけではない國學院大學博物館の常設展示
企画展のほか、校史展示室、考古学展示室、神道展示室も鑑賞しました。文字資料が続く企画展の後に、立体的な考古資料や大学の歴史を示す品々を見ると、展示のリズムが変わり、専門知識がなくても楽しめます。

校史展示室|有栖川宮家と國學院大學の歩み



國學院大學の前身は、1882年に創立された皇典講究所です。古典研究と神職・国学者の養成を目的とし、初代総裁には有栖川宮幟仁親王が就任しました。展示では、有栖川宮家が家の学問とした書道、ゆかりの勲章、皇典講究所の教育などが紹介されていました。

国学の四大人とは、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の四人です。江戸時代に古典研究を深め、後の国学へ大きな影響を与えた人物として紹介されています。近年、皇室制度をめぐる議論に触れる機会があることもあり、国学展示を興味深く見たという声もありました。
考古学展示室|土偶と埴輪を造形から楽しむ


考古学の詳しい年代や分類が分からなくても、土器や土偶、埴輪の形、表情、大きさ、用途を想像しながら楽しめます。破片から生活や祭祀を読み取る考古学は、文字の史料を中心とする企画展とは違う方法で過去へ近づく学問です。
遮光器土偶は、大きな目のように見える造形で知られる縄文時代晩期の土偶です。「何を表しているのか」を一つに決めつけず、身体表現や装飾、祈りとの関係を想像できる点も見どころでした。

吉田家の人々|吉田神社とは?

神道展示室では、特集展示「書物・日記でたどる吉田家の人々」も開催されていました。企画展とは別の小規模展示ですが、同じ時代を別の角度から理解できる内容です。
吉田家は、京都の吉田神社で神職を務めた卜部氏の一流です。吉田神社は859年、藤原山蔭が奈良の春日社の神々を吉田山へ迎え、平安京の守護神として祭ったことに始まると伝わります。室町時代には吉田兼倶が吉田神道を体系化し、吉田山に斎場所大元宮を整えました。
吉田家は神社の祭礼を行うだけでなく、『日本書紀』をはじめとする古典、神々、祭祀、神祇故実の知識を、書物の書写や注釈によって継承しました。印刷物が容易に手に入らない時代、正確に写し、誰から誰へ伝えたかを記録すること自体が重要な学問でした。
秀吉の時代に活動した吉田兼見と、その弟の梵舜は、企画展とも深く関係します。兼見の日記は織田信長、明智光秀、豊臣秀吉らが動いた京都の状況を伝え、梵舜の日記『舜旧記』は今回の企画展にも出品されました。
さらに梵舜は、秀吉を豊国大明神として祭る豊国社の運営にも関わりました。企画展の最後に登場する「神になった秀吉」と、吉田家が受け継いだ神道・祭祀の知識がここでつながります。武将が出した命令文書だけでなく、その時代を記録した日記、儀礼を支えた家の書物まで見ることで、戦国時代が合戦だけで成り立っていたのではないことが分かりました。
イベント当日の様子――鑑賞後は大学食堂でランチ


当日は10時に集合し、約1時間かけて企画展と常設展示を鑑賞しました。企画展示室では写真を撮らず、一人ひとりが解説を読みながら、気になった史料を自分のペースで見て回りました。何百年も前の手紙が残り、当時の相談や命令が今も読めることへの驚きが大きく、普段は大河ドラマについて話す機会が少ない参加者同士でも、展示後には自然と話題が広がりました。

鑑賞後は國學院大學の学生食堂「NAGOMI」へ。一般のレストランより手頃な価格で、学生向けには定食380円など、さらに安いメニューが用意されていることに驚きました。大きな窓のある明るい食堂は清潔感があり、落ち着いて過ごせる空間でした。

カツカレーは620円。しっかりした量があり、揚げ物とカレーを一皿で楽しめる学食らしいメニューでした。

ランチでは、それぞれが気になった人物や文書、大河ドラマの場面、考古展示の印象などを話しました。歴史に詳しい人だけが解説するのではなく、「この名前はどう読むのだろう」「なぜこの手紙が残ったのだろう」といった疑問を持ち寄れるのが、ゆる歴史散歩会らしい時間です。一人参加でも会話に入りやすく、展示鑑賞と食事の両方を楽しめる会になりました。
まとめ|一枚の手紙から豊臣政権の人間関係が見えてくる
企画展「秀吉兄弟とその時代」は、豊臣秀吉の成功をたどるだけの展示ではありませんでした。秀長という弟、後継候補となった甥や養子、有力大名、公家、朝廷、神職の家まで、秀吉を取り巻く人々の関係を、同時代の文書から読み解く展示です。
誰かが命令し、右筆が文を書き、花押や印によって正式な文書となり、受け取った家が権利の証拠として何百年も保存する。その積み重ねから、土地、官位、主従関係、後継者の立場が見えてきます。文字ばかりに見える展示だからこそ、文書の基礎知識を持って見ると、当時の政治が急に具体的になります。
常設展示では考古学、神道、国学、大学史へ視野を広げ、最後は学食でランチと会話を楽しみました。ゆる歴史散歩会では、東京周辺の歴史スポットや文化施設を、初心者にも分かりやすく巡る街歩きイベントを開催しています。一人参加の方も多く、歴史に詳しくない方でも、疑問や発見を共有しながら気軽に参加しやすい雰囲気です。

