※本ページの大部分は東京ステーションシティ運営協議会のページを引用しています。
※「丸の内駅舎の見どころ」もおすすめです。
略歴(年表)
1872 新橋~横浜に鉄道が開業
1908 中央停車場の建設工事に着手
1914 「東京駅」と名称を改め、営業を開始
1915 東京ステーションホテルが開業
1923 関東大震災が起こる(駅舎はとくに被害無し)
1929 八重洲口開設
1945 空襲による火災により、屋根等が焼失
1947 3階建の駅舎が2階建の駅舎として完成
1964 東海道新幹線が開業
1988 東京ステーションギャラリーが開館
2003 国の重要文化財に指定される
2007 丸の内駅舎保存・復原工事着工
2012 保存・復原工事完成
2013 グランルーフ完成
2014 東京駅開業100周年
2017 東京駅丸の内駅前広場完成
1884年〜
東京府知事、芳川顕正による「市区改正意見書」(最初の都市計画案)作成
江戸から引き継いだ都市インフラが限界に達した明治10年代、近代国家の首都にふさわしい都市へと東京を改造する気運が高まり始めた。鉄道計画はそのメインテーマと位置付けられ、既に東京のターミナルとして開業していた新橋駅と上野駅とを結ぶ市街線の建設、及び、その両駅に代わる中央停車場の設置が計画された。その目的は、それまで各方面ごとに独自に敷設されていた官設鉄道と私設鉄道を結んでネットワークを形作ることによって都市内交通を活性化し、同時に日本列島を縦貫する国土交通の大動脈を創出することにあった。とりわけ、その中核に位置する中央停車場には、全国に拡がる鉄道網の収束点としての役割が期待され、1890年(明治23)には内務大臣より建設の訓令が発せられ、1900年(明治33)から市街高架線の建設工事が着手されたものの日露戦争の勃発により工事は中断。1906年(明治39)ようやく再開され1910年(明治43)に高架線は完成した。また中央停車場の建設工事は6年半の歳月を経て1914年(大正3)、東京駅として開業した。「市区改正委員会」による最初の建設計画が発表されてから実に30年後のことである。
1895年〜
新橋~中央停車場間の市街高架線の建設と中央停車場の建設決定
東京駅は、ヨーロッパの大都市の中央駅や、新橋、横浜、上野などそれまでの日本の主要駅に見られるような頭端式(行き止まり式)ではなく、通過式の構造を採用している点が特徴的である。市街地に正対して駅舎が配置される頭端式は都市の顔として存在感を高めることができる反面、旅客・貨物を問わず、機関車による牽引が一般的であった当時、その付け替えには広い構内と多大な時間を必要とした。新橋上野間を結ぶ市街高架線としてスムーズな列車通過を最重要視した当時の鉄道官僚たちの合理的見識の成果といえるだろう。
1903年〜
辰野金吾への駅舎設計依頼
辰野金吾の設計の特徴は、バルツァーが和洋折衷を提案していたのに対し、あくまで西洋式で表現をまとめた点と、バルツァーの構想した分棟式配置を引き継いだ上で一体化し、全体を一つの建物として計画した点にある。建築様式も「辰野式ルネッサンス」とよばれる独自のデザインが随所に盛り込まれていて、第1案で既に両端のドームが描かれている。設計途中に日露戦争が日本の勝利の形で終結したことも手伝い、建設予算も大幅に増額され、アジアの新興国家にふさわしい、かつてない巨大建築の駅舎となった。
辰野金吾
辰野金吾(たつのきんご、1854~1919)
肥前国唐津藩生まれ。 (現在の佐賀県唐津市)工部大学校でジョサイア・コンドルに学び、 1879年(明治12) イギリスに留学。帰国後は工部大学教授をつとめて後進を育成し、明治建築界に君臨。 1903年に官職を離れ自ら建築事務所を主宰。日本銀行本店、 中央停車場 (東京駅)をはじめ明治国家の権威を象徴する建築を数多く手がける。国家の三大建築として日銀・東京駅に続き国会議事堂の建築を念願したが果たせずに終わる。 鉄道関係では、東京駅のほかに万世橋駅、浜寺公園駅(南海鉄道)を設計した。
1908年〜
中央停車場建設工事着工
1903年(明治36)、前東京帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)学長で、当時の日本建築界の第一人者、辰野金吾に設計を依頼。当初は小規模な計画だったものの、初代鉄道院総裁後藤新平の意向で設計変更を重ね、予算も当初の7倍にも膨れ上がった。1908年(明治41)駅舎基礎工事がスタート。6年半後の1914年(大正3)12月14日、総坪数3,184坪(内駅舎2,341坪)、正面長334.5m、左右に巨大な2つのドームをもつ荘重な駅舎が完成した。
1914年
鉄道院告示による東京駅の名称決定
建設工事の段階では中央停車場と呼ばれていた東京駅。その改称にあたっては、日本の中心東京に完成したことをもって東京駅と命名し、地方の人にもわかりやすくすべきと考える側と、東京には、上野、新宿をはじめたくさんの東京の駅があり、中央停車場だけに東京駅の名称を冠するのはおかしい、外国の例にならい、首都を代表する駅には中央駅の名を冠するべきとする側とに分かれ、議論が紛糾。開業2週間前の1914年(大正3)12月5日、鉄道院告示によってやっと東京駅の名称が決定した。
東京駅竣工
煉瓦積鉄骨造り三階建て、さらに左右に八角形の広間を配し、銅板葺きの巨大なドームをそなえる壮麗なルネッサンス様式の東京駅駅舎。大国ロシアに勝った日本の首都の中央停車場としての機能性と外観を備えているばかりでなく、吹き抜けとなったドームの窓から差し込む柔らかな光に映える支柱の装飾、ずらりと並んだ出札窓口には御影石と高級木材がふんだんに使用されるなど、その内部も帝都の玄関にふさわしい荘重さと重厚感にあふれ、まさに日本を代表する建築物としての威容をそなえるものであった。
東京駅開業
1914年(大正3)12月18日、東京駅開業式は、第一次世界大戦に出征した軍司令官神尾中将の凱旋式に合わせ、鉄道建設推進の最大の功労者のひとり大隈首相を筆頭とする来賓の列席の下に挙行された。駅前には巨大なアーチも設置され、祝賀ムード一色に染まったものの、議員を乗せた出迎え電車が途中、運転不能に陥るなどトラブルに見舞われた。東京駅の開業によって、これまで長年、東海道本線の起点であった新橋駅は貨物駅化されて汐留と名を改め、旧烏森駅を「新橋駅」と改称した。
1915年
東京ステーションホテル開業
東京駅開業に遅れること1年、鉄道駅併設ホテル第一号としてオープンした東京ステーションホテル。客室数72室、宴会場を備えたヨーロッパスタイルのホテルは開業当初から満室続きという盛況ぶりであった。オープン当初はレストラン経営で実績のある精養軒に委託され、その後、鉄道省直営から戦中戦後の混乱期を経て、1951年(昭和26)に復活。東京駅併設という地の利から文人(※)に愛され、しばしば作中にとりあげられた。保存・復原工事に伴って休業していた同ホテルは、2012年10月、100年前のたたずまいに最先端の心地よさを融合させ、再開の運びとなった。
※ゆかりの著名人
金子直吉(旧202号室)
内田百閒(旧225号室)
江戸川乱歩(旧216号室・旧218号室)
川端康成(旧317号室)
石橋湛山(旧204号室・旧206号室)
松本清張(旧209号室)
森瑤子(旧207号室)
1921年
丸の内南口で原敬首相暗殺事件発生
東京駅の歴史に暗い影を落とすのが二つの暗殺事件である。1921年(大正10)、平民宰相として知られる原敬首相が、19才のテロリストの刃を胸部に受け絶命。また満州事変勃発の前年、1930年(昭和5)には、ライオン宰相の異名をとった浜口雄幸首相が、プラットホームでピストルにより狙撃され重傷を負い、半年後に死去する事件が発生した。この事件の際に浜口首相の発した「男子の本懐である」という言葉は当時の流行語となった。両首相遭難現場を示すプレートが、今も丸の内南口と第4ホーム中央階段に設置されている。
1923年
関東大震災発生
1923年(大正12)9月1日、午前11時35分、関東地方を襲ったマグニチュード7.9の激震は、倒壊・焼失戸数13万5千戸、死者11万人を越える大被害をもたらしたものの、東京駅の建物に大きな被害はなく、奇跡的に死傷者もでなかった。しかし地震後に発生した火災は凄まじく、構内に停車中の280両の客貨車にも火の手は及び、駅員たちは炎上する車両を切り離し、手で押しながら避難させた。また、東京駅には避難する市民が殺到、待合室はもとより、ホームから貨車にまで人の波はあふれ、一時はその数約8千人にものぼった。
1943年
国家総動員法の施行
1943年(昭和18)、戦局の悪化に伴う国家総動員法の施行によって軍隊や軍需工場に徴用される男子職員にかわり、若い女子職員の採用が急増。戦争末期には東京駅でも200人を越す女子職員が、出札や改札をはじめ保線工事など力仕事まで担うこととなった。彼女たちに上級教育を施すことを目的に、東京駅では1945年(昭和20)5月に「東京駅女子高等学校」を開設。しかしせっかくのこの試みも、開校からわずか3ヶ月後の終戦に伴い閉校のやむなきに至った。
1945年
丸の内本屋、焼夷弾攻撃によりほぼ全焼
1945年(昭和20)5月25日、(山の手空襲)米軍のB29による焼夷弾の直撃を受け、開業以来30年、帝都の玄関として親しまれてきた壮麗な丸の内駅舎のドームと3階部分が焼失した。25日深夜、現在の丸の内北口の屋根裏から燃え上がった火はたちまち中央口から南口へと拡大、東京駅のシンボルでもあったドームの屋根が焼け落ちた。しかし翌日には早くも復旧活動が始動し、2日後の27日には列車5本の運転が再開された。尚、1947年(昭和22)、当時の天野東京駅長が従来と同じ駅舎の再建を強く主張したが、厳しい財政事情がそれを許さなかった。この時、応急処置的に「4年持てば良い」という気持ちで丸の内駅舎を修復させたが、2007年の保存・復原工事まで約60年も利用されることとなった。
1964年
東海道新幹線開業
国中が目前に迫ったオリンピックに湧く1964年(昭和39)10月1日、東京~新大阪間を結ぶ夢の超特急東海道新幹線が開業した。高度経済成長に伴う輸送量の急増により、旅客・貨物ともに輸送が逼迫していた東海道本線の抜本的改良案として建設が決定された東海道新幹線は、明治以来の宿願だった広軌(標準軌)別線を採用。世界に先駆けた最高時速210kmの営業運転を実現し、高度経済成長を支える大動脈となった。新幹線東京駅建設工事は1961年(昭和36)に着工、突貫工事の末に開業3ヶ月前の7月に完成した。
1972年〜
東京地下駅開業
鉄道100年を迎える1972年(昭和47)総武本線東京~錦糸町間の地下新線開通に伴い、東京地下駅が開業。長大なエスカレーターとエレベーターで地上と結ばれたホームは、地下5階、深さ28mに造られた。1987年(昭和62)に国鉄が分割民営化された後、1990年(平成2)には京葉線地下ホームが誕生(※)、翌年には東北、上越新幹線が東京駅から発着するようになり、さらに1997年(平成9)の長野新幹線、山形・秋田新幹線の開業と、東京駅は、新幹線を中心として全国へ拡がる長距離列車の拠点として、そのターミナル機能を飛躍的速度で進化させ続けている。
※もともとは1971年に計画された成田新幹線を想定されていたホームである。
丸の内駅舎保存・復原
■ 3階外壁の復原
3階外壁の復原に伴い、柱の形状も創建時の姿に戻しました。
■ 化粧レンガの再現
化粧レンガは創建時のものに近づけました。
■ 杭打ち
約1万本の松杭が駅舎を支える間に、建物外周の山留め杭と、約450本の本設杭と仮受け支柱が一本化した杭を地中20mまで打ちました。
■ 免震化
地下躯体の構築後、免震装置を設置。フラットジャッキでレンガの変形を最小限に抑え、駅舎の荷重を仮受け支柱からアイソレーターに完全に移行し、本受けします。最後に仮受け支柱を撤去、免震化が完了しました。
100年後も安心して利用できる東京駅にするために
東京駅丸の内駅舎保存・復原工事では、免震化工事に4年の歳月をかけています。地下を造るために、335mにおよぶ長大な駅舎のレンガ壁の下に打ち込まれた松杭を撤去し、そのかわりとなる新しい杭を設置して建物を支える工事のためです。松杭の間に打ち込まれた新しい杭の頭をつないで梁を作り、お盆のかたちのマットスラブで建物全体を支えています。
日本ではレンガ造りの歴史的建造物を保存する場合、内側に鉄筋コンクリートの箱をつくって耐震性を確保し、レンガを化粧材として残すという手法が主に採用されてきました。地震国の宿命ですが、これでは当初のレンガ造りという構造体を保存することにはなりません。東京駅丸の内駅舎保存・復原工事では、創建当初の構造体(レンガ造り)を余すところなく現代の構造体として使用しています。工事では、レンガ積みの壁の中にある鉄骨の柱と梁を活かす一方、スラブに使用していた石炭ガラコンクリートは耐久性がなくなっていたために撤去しました。ただし、撤去するのはあくまでコンクリートのみ。スラブの中に入っている鉄骨を残し、新しいコンクリートで床を造ることで免震化を実現しました。さらに、十分な耐震性を確保するため、床のスラブの下に壁沿いにコンクリートの添え梁をつくり、これらを一体化させることで耐震補強を行いました。耐震性の目標は、東日本大震災の揺れでもレンガ壁がひび割れしないこと。極めてまれに発生する大地震にはひび割れまでは許すものの、レンガの落下は生じないようにする。こうした緻密で骨の折れる保存・復原工事の結果、東京駅丸の内駅舎は万全の安全性を確保しています。
東京駅上空は500億円
特例容積率適用地区として都市計画で指定された区域内で、建築敷地の指定容積率の一部を複数の建築敷地間で移転することができる特例容積率適用地区制度というのがあり、東京駅はこの制度で500億円を捻出した。一般的に、容積率の移転は隣接する敷地の間でしか認められないが、特例容積率適用区域制度では、その区域内であれば隣接していない建築敷地の間で移転が認められる。これによって区域内での「空中権」の売買が可能となる。