文京シビックセンター25階の東・西・北側は、展望ラウンジとなっております。地上約105メートルの高さから、文京区内の東京大学、小石川植物園をはじめ、東京スカイツリーや新宿副都心の高層ビル群、富士山、筑波山などを見渡すことができます。開館時間は9時00分~20時30分。休館日は年末年始(12月29日~1月3日)、5月第3日曜日。入場無料。(2024/11/06時点の情報)
一帯は松平右京亮(うきょうのすけ)の中屋敷があった台地で、「右京山」とか「右京が原」と呼ばれ、子どもたちの遊び場だった。菊坂に住んでいたころの樋口一葉も、妹と虫の音を聞きにきたとかこないとか。九段の祭りの花火を右京山から見物したという日記の記述もあるとかないとか。
樋口一葉ゆかりの旧伊勢屋質店。平成27年に学校法人跡見学園が取得・保存しています。平成28年3月には文京区指定有形文化財に指定されました。教育施設として活用することはもとより、週末には広く一般公開(12:00~16:00で入場無料)を行っています。
以下、跡見学園女子大学公式ページより抜粋。
旧伊勢屋質店が立つ菊坂は、古くは一帯に菊畑が広がり菊花を作る者が多く住んでいたことから、菊坂と呼ばれるようになったといわれています。 江戸時代中期に町屋が開かれて以来、明治時代には多くの町屋が立ち並ぶにぎやかな町となりました。しかし、今では、都心にあって庶民的で静かな佇まいの菊坂の界隈で、往時を偲ばせるのは旧伊勢屋質店のみとなっています。 旧伊勢屋質店は万延元年(1860)に創業し、昭和57年(1982)に廃業しました。建物は幾度かの修繕がなされていますが、見世(店舗兼住宅)、土蔵(倉庫)、座敷(住居)が現存しています。明治の面影を色濃く留めている建造物と棟札(見世)が、平成28年3月1日に文京区指定有形文化財に指定されました。 店構えは、江戸時代の町屋の造りが継承されており、出格子・出桁造り・屋根瓦・鬼瓦などにその特徴がみられます。 道路に面する見世の出格子は、防犯のためかつては真鍮製だった時代もありました。商売柄か、玄関は直接道路から見えないよう、入り口の差鴨居の上には、厄除けの寺社の札が入った箱が置かれていました。 見世と土蔵を平入りにした配置や、日当たりと風通しを確保するための中庭、夏の間は障子を外し、桟だけにすることで風通しを確保する大阪障子など、限られたスペースを合理的に活用する工夫に加え、人目に触れる場所には良材を使う気配りなども町屋の特徴と言えるでしょう。
樋口一葉は明治23年9月から26年7月までの3年間、本郷菊坂の借家に暮らしていました。その菊坂時代を語るのに欠かせないのが伊勢屋質店です。 父則義の死後、樋口家の戸主となった18歳の一葉は、作家として身を立てる決意をします。しかし、手探りでめざす職業作家への道は、険しく、母と妹も着物の仕立てや洗い張りで支えるものの、生活は苦しくなる一方でした。 こうした折り、駆け込んだのが近所にあった伊勢屋質店でした。 「伊せ屋がもとにはしる」。 一葉は何度も日記にこう記していて、当時の逼迫した様子が浮かび上がってきます。伊勢屋が一葉一家の窮乏生活を辛うじて救っていたと言ってもいいでしょう。 一葉と伊勢屋の縁は、菊坂の地を離れた後も、亡くなるまで切れることはありませんでした。 (本学文学部 教授 小仲信孝)
本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(江戸志)とか、その形が「鎧に似ているから」(改撰江戸志」)などといわれている。この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。
小説家・歌人として明治期に活躍した樋口一葉(1872~1896、享年24)の旧居跡。24年間の短い生涯のうち、約10年間文京区内に住んだ。この地には、父の死後移り、母と妹を養いながらこの地の貸家で小説家として立つ決意をし、半井桃水の指導を受けながら、『闇桜』『たま襷』『別れ霜』『五月雨』などの小説を執筆した。『大つごもり』『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』など今も読み継がれる作品や多くの和歌を残している。(注意)史跡・旧居跡周辺の散策は、住民の方々の迷惑にならないように、ご配慮をお願いします。
坪内逍遥(1859~1935)は、本名雄蔵、号は逍遙、または春廼舎おぼろで、小説家、評論家、教育家である。明治17年(1884)この地(旧真砂町18番地)に住み、『小説神随』(明治18年~19年)を発表して勧善懲悪主義を排し写実主義を提唱、文学は芸術であると主張した。その理論書『当世書生気質』は、それを具体化したものである。門下生・嵯峨の舎御室は「逍遙宅(春廼舎)は東京第一の急な炭団坂の角屋敷、崖渕上にあったのだ」と回想している。逍遙が旧真砂町25番地に移転後、明治20年には旧伊予藩主久松氏の育英事業として「常盤会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規 は、明治21年から3年余りここに入り、河東碧梧桐(俳人)も寄宿した。また舎監には内藤鳴雪(俳人)がいた。
ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に 鳴くほととぎす 正岡子規
炭団坂は、本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂 である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥 が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。
宮沢賢治(1896~1933、享年37)は詩人・童話作家。花巻市生まれ。大正10年(1921)1月上京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方二階六畳に間借りしていた。菜食主義者で馬鈴薯と水の食事が多かった。右手建物の2F中央付近です。東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をした。これらの活動と平行して童話・詩歌の創作に専念し、1日300枚の割合で原稿を書いたといわれている。童話集「注文の多い料理店」に収められた「かしわばやしの夜」、「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれたものである。8月、妹トシの肺炎の悪化の知らせで急ぎ花巻に帰ることになったが、トランクにはいっぱいになるほど原稿が入っていたという。
詩人、童話作家、教師、科学者、宗教家など多彩な顔を持つ一方、1926年(大正15年)には農民の生活向上を目指して農業指導を実践するために羅須地人協会(らすちじんきょうかい)を設立。多方面で活動を行いますが、無理がたたり病に倒れ、1933年(昭和8年)9月21日、37歳の若さでこの世を去りました。生涯で多くの短歌や詩、童話などの作品を遺しており、現在では国内、国外を問わず親しまれていますが、生前に刊行された著書は2冊だけでした
⑦菊坂
この界隈には、樋口一葉や石川啄木、宮沢賢治など多くの文人が暮らしました。
「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の力菊坂町と唱候由」(御府内備考)とあることから、坂名の由来は明確である。今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片一丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人家族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った堀抜き井戸が残っている。
寝ざめせし よはの枕に音たてて なみだもよほす 初時雨かな 樋口夏子(一葉)
本妙寺(現在豊島区巣鴨5-35-6)は旧菊坂82番地(現本郷5-16)の台地一帯にあった法華宗の大寺院であった。 寺伝によれば寛永13年(1636)にこの地に移ってきた。境内には北町奉行“遠山の金さん”こと遠山左衛門尉景元、幕末の剣豪千葉周作や囲碁の本因坊歴代の墓所が あった。明暦3年(1657)の大火「振袖火事」または「明暦の大火」の火元とされているが原因には諸説がある。この大火後、幕府は防火対策を 中心に都市計画を打ち出し、文京区の地域には寺社、武家屋敷などが多く移転してきて、漸次発展することとなった。
この地に、明治42年(1909)佐藤志津校長らの尽力により、佐藤志津校長らの尽力により、私立女子美術学校【現女子美術大学・同短期大学:創立明治33年(1900)本郷弓町】・佐藤高等女学校【現同大学付属高等学校・中学校:創立大正4年(1915)】の菊坂校舎が建設された。特に女子を対象とした美術教育の専門学校として、画期的な役割を果たしたが、さらに大規模な校地を求め、昭和10年(1935) 現杉並区和田へ移転した。
『御府内備考』によると、兼康祐悦(かねやす ゆうえつ)という口中医師(歯医者)が住んでいたことに由来する。店名としての兼康はこの地に祐悦が開いた店。享保年間(1716年頃)から乳香散という歯磨粉を売り始め、大いに流行、繁盛したという。享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、ここを境に南側を耐火のために土蔵造りや塗屋にすることを命じた。一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれた。現在、店は移転し、洋品店となった店舗(文京区本郷2-40-11)脇に説明プレートがある。