今回訪れる予定の場所
専修大学 黒門
専修大学の前身である 「専修学校」は、 明治13年京橋区木挽町(現在の中央区銀座3丁目) に誕生し、 明治18年7月神田区今川小路2丁目8番地 (現在の神田神保町3丁目8番地)に移転し新校舎を設置しました。 この当時の正門が黒渋で塗られた冠木門であったことから、 「専修学校」の愛称として黒門と呼ばれたものでありました。 黒門は明治40年の校舎改築により姿を消すこととなりますが、 その名称は現在の専修大学の象徴として生き続けています。専修大学創立130年にあたり専修大学育友会のご厚意によりここに102年の時を経て黒門が復元しました。
千代田区町名由来板 飯田町
かつてこのあたりは千代田村と呼ばれるのどかな農村でした。天正18年(1590年)、江戸に入府した家康は、千代田村とその周辺を視察します。このとき案内役を買って出たのが、村の住人飯田喜兵衛(きへえ)でした。喜兵衛の案内に感心した家康は、彼を名主(なぬし)に任命し、さらに地名まで「飯田町」とするように命じました。
東京牛乳物語
江戸幕府が崩壊して明治になると多くの屋敷跡が廃墟となって残っていた。そうした屋敷は武士の失業対策もかねて払い下げられ、農業のほかに酪農の牧場として利用され、明治6年には、すでに都心部に7軒の牧場があったという。戊辰戦争で有名な榎本武楊は、明治時代の飯田橋に「北辰社」という牧場を持っていたほか、東京農大の前身である「育英学農業科」の初代学長にもなっている。彼が酪農の本場オランダに3年間留学していた経験があったためである。
- 牛乳の消費者の中心が外国人や新しもの好きの江戸っ子だったこと
- 輸送手段が整備されておらず保存手段が無く毎日配達する必要があったこと
- 乳牛の飼料である粕の入手が容易だったこと
などに関係している。こうした状況は、明治から大正、昭和の初めまで続き、明治32年には3千頭が飼育されていたという。その後酪農の中心は区部から多摩地域へと変わり、戦後、近郊酪農の進行とともに酪農を取り入れた農業が盛んに行われるようになっていく。『東京牛乳』の生産者の方々も、全て多摩地域である。
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甲武鉄道始点の地
甲武鉄道は1889年に開業、1906年鉄道国有法により国有化された。開業時の社長は大久保利和(利通の息子)であった。名称は甲斐国と武蔵国を結ぶことから。
東京大神宮→盆踊り大会