板橋区立郷土資料館が収蔵する「旧石成村観音堂鰐口(きゅういしなりむらかんのんどうわにぐち)」は、応永27年(1420)の銘文を持つ中世の仏具です。赤塚郷の観音堂へ奉納された後、寛正7年(1466)には新座郡の別の観音堂の名が刻まれました。二つの銘文から、室町時代の赤塚にあった寺院と、仏具が移動した歴史をたどれます。
鰐口は観音堂で鳴らす仏具
鰐口は、寺社のお堂の軒先に掛け、参詣者が綱を振って打ち鳴らす金属製の道具です。扁平で丸い形をしており、下部に音を響かせる開口部があります。中世の人々は観音堂を訪れ、礼拝の際に鰐口を鳴らしました。金属の表面に寄進者や年月日が刻まれると、建物が失われた後も当時の信仰を調べる資料となります。
1420年の「赤塚郷石成村観音堂」銘
鰐口の表には「武州豊島郡赤塚郷石成村観音堂鰐口」と応永27年9月18日を示す銘文があります。石成村は、現在の赤塚・成増の一部にあたる地域です。板橋区の文化財研究では、この観音堂が現在の赤塚五丁目にある上赤塚観音堂の前身であった可能性を指摘しています。
応永27年は室町時代で、赤塚が現在の板橋区に分かれるよりはるか前です。地名が刻まれた鰐口は、その時代の赤塚郷に観音信仰の場所があったことを具体的に伝えています。
1466年に刻まれた新座郡満願寺の名
鰐口の裏には、寛正7年(1466)に「武州新座郡中目満願寺観音堂」の名を刻んだ銘文があります。表の古い文字の一部には削られた痕跡もあり、1420年から1466年までの46年間に鰐口が赤塚郷から新座郡へ移されたと考えられます。中目は現在の埼玉県和光市に関わる地域です。
移動の事情は明らかになっていません。当時の赤塚郷では、宝徳元年(1449)の白子郷の領主による進攻や、康正2年(1456)の千葉氏の進出など、領主と地域をめぐる変化がありました。寺院の財産である鰐口の移動は、その時代の社会状況とあわせて研究されています。
近代の収集を経て郷土資料館へ
鰐口はその後、新座郡からも離れ、近代には杉浦丘園や堀口蘇山ら収集家の手に渡りました。平成23年(2011)、板橋区立郷土資料館が古美術品として購入し、収蔵しました。応永27年の奉納から約六百年を経て、赤塚に関係する中世資料が地域の博物館に保存されることになりました。
現在、鰐口は資料館の収蔵資料で、常時公開の有無は展示によって異なります。見学する場合は展示情報を確認してください。赤塚城や松月院など中世の歴史については、赤塚・成増周辺の歴史と文化財で紹介しています。
参考資料
板橋区「中世の赤塚にあった鰐口、約550年ぶりに板橋区に里帰り」、板橋区『令和7年度版 板橋区文化財マップ』。
