北千住駅西口には、大型商業施設の近くに短い間口の店が並ぶ細い横丁があります。焼き鳥、煮込み、刺身、餃子、立ち飲み、角打ち、バーなどが集まり、昼から営業する店もあります。
北千住の飲み屋街は、宿場、市場、鉄道、工場、戦後商業、小規模な街区が重なって形成されました。
1594年に千住大橋が架けられ、1625年に千住宿が開かれました。街道、水運、市場が交わり、旅人、商人、人足、荷物、馬が集まると、宿泊、食事、酒、休息の需要が生まれました。
1896年に北千住駅が開業し、1899年には東武鉄道が北千住から北へ延びました。地下鉄とつくばエクスプレスも加わり、北千住は広域ターミナルになりました。周辺では工業化が進み、敗戦後には生活再建のための小商いが駅前に集まりました。商店街と常設店舗が整う一方、駅西口には小さな店が入る区画と路地が残りました。
- まず結論―北千住には七つの層が重なった
- 千住大橋と千住宿が人を集めた
- 水運とやっちゃ場が食の町を支えた
- 旅籠の酒と現在の居酒屋は同じものか
- 飯盛旅籠と飯盛女をどう理解するか
- 江戸の飯盛旅籠と大正期の遊廓は別である
- 1896年、北千住駅が開業した
- 工場とお化け煙突が働く街をつくった
- 戦災と敗戦後の商業をどう考えるか
- 戦後商業から現在の飲み屋街へ
- なぜ駅西口に飲み屋が集中したのか
- 市場があるから酒と魚が安いのか
- 地下鉄・TX・大学が客層を変えた
- 西口再開発は飲み屋街を消したのか
- これからの北千住で問われること
- 古地図と空中写真で見る北千住
- 地図で歩く北千住
- 飲食と歴史散歩で守ること
- よくある疑問
- まとめ―北千住は、飲む街になる前から人を受け入れる街だった
- 参考文献・資料
まず結論―北千住には七つの層が重なった
北千住の飲み屋街は、次の七つの都市機能が重なって成立しました。
| 層 | 主な時期 | 飲食街へ与えた影響 |
|---|---|---|
| 橋・街道・宿場 | 1594年以降 | 旅人、商人、人足、馬、荷物を集め、宿泊・食事・酒の需要をつくった |
| 水運・市場 | 江戸期以降 | 河岸と青物市場が商品、運送人、早朝労働を集めた |
| 性産業と女性労働 | 江戸期・大正~昭和前期 | 飯盛旅籠と近代遊廓が存在したが、現在の飲み屋街とは制度・場所・系譜が異なる |
| 鉄道 | 1896年以降 | 東京、埼玉、北関東、茨城を結ぶ巨大な人流をつくった |
| 工業・労働 | 大正~昭和 | 工場、発電所、運輸、商業の勤務者と家族が暮らす生活都市をつくった |
| 戦後商業・小規模街区 | 1945年以降 | 露店・小商いから常設店舗・商店街へ移り、小さな店が入れる区画を残した |
| 現代の複合都市 | 2000年代以降 | 再開発、大学、文化施設、住宅、観光が新しい客層を加えた |
千住大橋と千住宿が人を集めた
1594年、徳川家康の命により千住大橋が架けられました。足立区公式資料では、関東郡代となる伊奈忠次が工事を指揮したとされています。
橋が架かる以前、隅田川を越える交通は舟に頼っていました。橋の完成により、人、馬、荷車、商品が安定して行き来できるようになりました。
1625年、千住宿が開かれました。日光道中と奥州道中で、日本橋を出て最初の宿場です。

歌川広重の『千住の大はし』には、橋と川、北へ続く道が描かれています。
宿場には旅籠、本陣・脇本陣、問屋場、食事や酒を出す店、商品の売買・保管を担う施設などがありました。1844年の記録では、千住宿の人口は9956人に達し、江戸四宿で最大だったと足立区は説明しています。
街道の道筋は、日本橋から北千住まで日光街道を歩いた記事で現地の史跡とともに確認できます。千住から旅立った松尾芭蕉の旅は、『おくのほそ道』を解説した記事で詳しく紹介しています。
水運とやっちゃ場が食の町を支えた
千住宿は、街道に加えて水運でも栄えました。千住大橋付近の橋戸河岸では、舟で運ばれた米、野菜、魚、陶器などを陸へ上げ、街道や江戸市中へ送りました。
千住河原町には青物市場が発達し、地元では「やっちゃ場」と呼ばれます。足立区公式資料によれば、千住掃部宿市場は1735年に幕府から認められた市場となりました。
市場の仕事は夜明け前から始まり、荷積み、値決め、選別、運送が行われました。この生活時間が、早朝からの食事や休息の需要を生みました。
現在は千住橋戸町に東京都中央卸売市場足立市場があります。旧青物市場と現在の水産市場は、制度も取扱品も異なります。
旅籠の酒と現在の居酒屋は同じものか
千住宿には旅籠、木賃宿、茶店、料理店があり、旅人へ食事、酒、休息を提供しました。
旅籠は宿泊を中心とし、街道交通の人馬継立や幕府の宿駅制度と結びついていました。現在の飲食店とは営業制度、土地所有、建築、客層が異なります。
飯盛旅籠と飯盛女をどう理解するか
江戸四宿には、飯盛旅籠と呼ばれる宿がありました。そこで飯盛女は、食事の給仕だけでなく、性的奉仕を伴う接客を担いました。
足立区立郷土博物館の資料は、1764年の制度・記録として、千住宿全体で150人まで飯盛女を置くことが認められ、36軒の飯盛旅籠があったと説明しています。1824年の記録には、女性たちの名前、年齢、出身地が残ります。
女性たちは、農村の困窮、家族の借金、前借金、移動の制限、病気、暴力、若年死などの危険にさらされました。近世の身分、家族、債務、性別による強い制約のもとにあった女性労働です。
金蔵寺には、千住宿で亡くなった女性を供養する塔があります。
江戸の飯盛旅籠と大正期の遊廓は別である
江戸期の飯盛旅籠と、千住柳町の近代遊廓は、時代、場所、制度が異なります。
足立区立中央図書館のレファレンスが参照する区史資料によれば、千住遊廓は1919年、千住四丁目飛地に設けられました。1928年、この地域は千住柳町と改称されます。
開設時に11軒の妓楼が建てられ、関東大震災後に他地域から移転が進み、56軒が並んだ時期があったとされています。
| 比較 | 飯盛旅籠 | 千住柳町遊廓 |
|---|---|---|
| 主な時期 | 江戸期 | 1919年以降の大正・昭和 |
| 制度 | 宿駅の旅籠に飯盛女を置く | 近代の警察・公娼制度下の貸座敷営業 |
| 主な場所 | 旧街道沿いの千住宿 | 千住四丁目飛地、後の千住柳町 |
| 現在の飲み横との関係 | 直接継承は確認できない | 場所・店舗・経営の直接継承は確認できない |
1956年5月24日に売春防止法が公布され、1958年4月1日に全面施行されました。その前後に、旧遊廓の建物は下宿、住宅、別の営業などへ転換しました。
制度と場所の違いは、江戸以来の吉原遊郭と近代の遊廓を比較できる記事でも確認できます。
1896年、北千住駅が開業した
1896年12月25日、現在のJR常磐線に当たる日本鉄道土浦線の北千住駅が開業しました。1899年8月27日、東武鉄道は北千住―久喜間で営業を始め、後に浅草側へ都心ターミナルを整えました。
1962年5月31日には日比谷線北千住―南千住間が開業し、東武伊勢崎線との相互直通運転が始まりました。1969年12月20日には千代田線北千住―大手町間、2005年8月24日にはつくばエクスプレスが開業しました。
現在、北千住駅にはJR常磐線、東武スカイツリーライン、東京メトロ日比谷線・千代田線、つくばエクスプレスの4社5路線が集まります。

写真は2017年の駅西口へ続く通りです。
鉄道は東京中心部、埼玉、千葉、茨城、北関東の生活圏を結び、終業後、乗換え、待ち合わせなどで駅前に滞在する人を増やしました。
飲食街を支えたのは、地域住民、勤務者、買い物客、学生、来街者が駅の外へ出て歩ける商業地があったことです。東武の路線形成については、東武が北千住から北関東へ伸びた歴史を、東京圏の私鉄史の中で解説しています。
工場とお化け煙突が働く街をつくった
大正から昭和にかけて、東京東部では工業化が進みました。平坦な土地、川と運河、鉄道、都心への近さを背景に、千住周辺には工場、倉庫、運輸施設が増えました。
1926年、千住火力発電所が建設されました。4本の煙突は見る場所によって1本から4本に見え、「お化け煙突」と呼ばれました。

千住火力発電所は東京と周辺工業地の電力需要を支えました。1963年に運転を終え、1964年に煙突は解体されました。
工業化により、工場、発電所、運輸・倉庫、設備・修理、商業に従事する人と家族が暮らしました。早番、夜勤、交替勤務、残業、平日休みなどの生活時間は、昼夜の食事や飲酒の需要を支えました。
戦災と敗戦後の商業をどう考えるか
1945年、東京は空襲と敗戦によって深刻な物資不足に陥りました。千住でも住宅、商店、工場、生活基盤が被害を受け、駅前や人通りの多い場所に食料、衣料、日用品、修理、飲食、中古品などの小商いが集まりました。
露店や仮設店が生まれ、統制価格を外れた取引も行われました。戦後の市場を説明する言葉には、次の違いがあります。
闇市
配給・価格統制を外れた非公式取引を含む市場です。
露店
道路や空地で営業する店です。許可の有無、扱う商品、合法・非合法は一様ではありません。
仮設市場
簡易な建物や共同施設に店を集めた市場です。
復興商店街
恒久的な建物、道路、土地関係、商店会を整えた地域商業です。
北千住では、戦後の小商いと飲食需要が駅前商業の再建に関係し、その後、店舗化、建て替え、商店会形成、業態転換が進みました。市場名、統括組織、境界、現在の店舗までの系譜を一括して確認できる公的資料は限られます。
資料が比較的多い地域との違いは、新宿・上野・池袋・渋谷の闇市を写真と資料で比較した記事で確認できます。
戦後商業から現在の飲み屋街へ
現在の北千住駅西口には、大型商業施設と、旧日光街道へ向かう通り、宿場町通り、本町商店街、細い路地、ときわ通りの飲み横が隣り合います。それぞれ成立時期や店舗構成は異なります。

写真は2009年の本町センター通り商店街です。小さな間口の店と生活商業、飲食店が隣り合っています。
足立区は、駅西口から続く飲み横、ときわ通りを、戦後の風情を残し、4~5坪ほどの小さな店が新旧入り混じる通りと説明しています。小規模な店は、一人や少人数の客、短時間の食事や一杯、専門料理などに対応しやすく、店同士を歩いて選べます。
なぜ駅西口に飲み屋が集中したのか
飲食店は東口にもありますが、飲み屋街のイメージは西口と強く結びついています。
旧日光街道の商業軸
駅西側には、宿場町の中心だった旧日光街道と商店街があり、昼間から人が歩く生活商業の基盤があります。
小区画と細街路
小さな敷地、短い間口、路地が残り、小規模飲食店が入れる空間があります。
駅前の人流
JR、東武、地下鉄、TX、バスの利用者が駅西口へ流れます。
市場・工場・商業の需要
市場関係者、工場・運輸勤務者、商店員、地域住民が異なる時間に利用しました。
商店街と飲食の共存
買い物、食事、通院、行政手続、待ち合わせなど、飲酒以外の目的でも人が訪れます。
後年のイメージ化
雑誌、テレビ、SNS、グルメサイトが「北千住の飲み横」「せんべろ」という言葉で地域を紹介し、西口の小さな飲食店を街の代表的なイメージにしました。
市場があるから酒と魚が安いのか
千住には江戸期のやっちゃ場と現在の足立市場という市場の歴史があります。市場には食材を仕入れる人、市場で働く人、運送・小売の取引先が集まり、地域の飲食需要と情報の流れを支えます。
地下鉄・TX・大学が客層を変えた
鉄道網の拡大は、北千住を工業地域の駅から広域ターミナルへ変えました。日比谷線は都心の業務・商業地へ、千代田線は大手町、表参道方面と常磐線・小田急方面へ、つくばエクスプレスは秋葉原、埼玉東部、千葉、茨城へつながります。
千住地域には東京藝術大学、東京未来大学、帝京科学大学、東京電機大学などの教育機関が進出しました。2012年には、北千住駅東口の日本たばこ産業社宅跡地に東京電機大学東京千住キャンパスが開設されました。
学生、教職員、研究者、保護者、イベント参加者などの人流が加わり、飲食の選択肢は大衆酒場に加えて、カフェ、クラフトビール、外国料理、個人レストランなどへ広がりました。
西口再開発は飲み屋街を消したのか
北千住駅西口では1980年代から再開発が検討され、2004年に駅前広場、ペデストリアンデッキ、商業・公共・住宅機能を含む再開発が完成しました。マルイとシアター1010が入り、駅前の動線と街の印象が変わりました。
再開発は歩行者と車両の動線を整理し、駅前広場を拡張し、商業・文化施設や住宅を整え、防災性を高めました。大型街区では小さな酒場、個人商店、路地の店を再現しにくい場合があります。
北千住では、再開発された駅前と、その周辺に残る細い街路が近接しています。新しい駅前が人を集め、既存の小区画が小規模な店を受け止めました。
これからの北千住で問われること
千住西地区には古い木造住宅、細い道路、住宅・商店・工場の混在が残り、地震や火災、避難経路、老朽建物、歩行者と車両の競合が課題です。防災やバリアフリーと、小規模商業を継続できる環境の両立が求められています。
古地図と空中写真で見る北千住
時代ごとの地図や空中写真には、街道、水運、鉄道、工業、再開発による街区の変化が残っています。
江戸期
千住大橋、日光道中、千住宿の町割、問屋場、本陣、河岸、やっちゃ場が記されています。飯盛旅籠の位置は、宿場絵図と史料の照合が必要です。
明治期
日本鉄道の線路、北千住駅、旧街道、市場、住宅地が記されています。
大正・昭和前期
東武鉄道、工場、千住火力発電所、千住柳町遊廓の位置から、遊廓と駅西口飲み横の距離と街区の違いを確認できます。
戦災地図・戦後空中写真
焼失区域、駅前の空地、住宅、商店、道路の変化が分かります。闇市の境界が資料にない部分は推定にとどまります。
高度経済成長期
都電、バス、工場、商店街、住宅、駅施設の変化が記録されています。
2000年代以降
西口再開発、ペデストリアンデッキ、大学、東口整備、つくばエクスプレスの開業による変化を確認できます。
地図資料の読み方は、東京の古地図を現在地と重ねて読む方法で詳しく解説しています。
地図で歩く北千住
駅西口、旧日光街道、千住大橋、市場、千住柳町、工業史の痕跡を歩いてたどれます。
1.北千住駅西口
4社5路線とバスが集まる交通拠点です。再開発された駅前広場と小規模街区が隣接しています。
2.宿場町通り
旧日光街道の道筋が商店街の中に残ります。
3.千住宿本陣跡周辺
本陣、問屋場、見番横丁などの説明板と道筋があります。
4.金蔵寺
飯盛女の供養塔があります。
5.千住大橋
現在の主橋は1927年竣工で、1594年に架けられた木橋とは異なります。
6.やっちゃ場跡・足立市場周辺
旧青物市場と現在の水産市場の違いを確認できます。市場関係施設の見学範囲は施設の案内に従います。
7.飲み横・ときわ通り周辺
小さな間口と路地が残り、新旧の飲食店が集まります。
8.千住柳町
近代遊廓があった地域で、現在は住宅・生活の場です。
9.お化け煙突のモニュメント
煙突は現存せず、モニュメントや地域資料が発電所の歴史を伝えています。
現地を歩く際は、北千住から千住大橋・南千住まで千住宿を歩いたイベント記事と、東京の歴史散歩コース集も参考になります。
飲食と歴史散歩で守ること
住宅、店舗、寺院、市場、鉄道施設には、立入や撮影が制限される場所があります。
よくある疑問
北千住の飲み屋は江戸の宿場から続いているのですか?
地域として、旅人へ食事・酒・宿泊を提供してきた歴史はあります。
千住宿は遊郭だったのですか?
千住宿には飯盛旅籠があり、飯盛女を置くことが認められていました。
ただし、江戸市中の新吉原のように囲われた遊郭と、宿場の旅籠制度を同じものとして扱うと誤解を生みます。
飯盛女は料理を運ぶ女性だったのですか?
給仕だけでなく、宿泊客への性的奉仕を伴う接客を担いました。前借、貧困、移動制限などを伴う女性労働として理解する必要があります。
千住柳町遊郭は江戸時代からあったのですか?
近代の千住遊郭は1919年に設けられました。
江戸の飯盛旅籠とは、時代、場所、法制度が異なります。
千住柳町が現在の飲み屋街になったのですか?
確認できません。
北千住の飲み横は闇市の跡ですか?
戦後の小商い、露店、飲食需要が背景にある可能性はあります。
なぜ小さな飲み屋が多いのですか?
駅西口に小区画、細街路、生活商店街が残り、巨大な駅から人が流れるためです。地域住民、勤務者、買い物客、学生、一人客などを受け入れる小規模営業が成立しました。
工場労働者が飲み屋街をつくったのですか?
工場・発電所・運輸の勤務者は重要な客層の一つでした。多様な勤務時間は昼夜の飲食需要を生み得ます。
「せんべろ発祥の地」は北千住ですか?
少額で楽しめる大衆酒場や立ち飲みは各地にあります。
北千住は、後年のメディアや観光情報によって代表地域の一つとして知られました。
北千住駅は何路線ありますか?
現在はJR常磐線、東武スカイツリーライン、東京メトロ日比谷線・千代田線、つくばエクスプレスの4社5路線が集まります。
運行系統、直通運転、路線名称は変更されることがあるため、利用時は各社公式サイトで確認してください。
まとめ―北千住は、飲む街になる前から人を受け入れる街だった
北千住では、宿場、水運、市場、鉄道、工業、戦後商業が時代ごとに人を集め、駅西口の商店街と細い街路が小規模な店を受け入れました。現在の飲み屋街は、地域住民、勤務者、買い物客、学生、来街者の食事と休息の需要によって支えられています。
参考文献・資料
- 足立区「千住宿ってどんなところ?」
- 足立区「日光道中と千住宿」
- 足立区「千住宿開宿400年」
- 足立区「江戸四宿最大の人口を誇った千住宿」
- 足立区立郷土博物館「千住歴史大全」
- 足立区立郷土博物館「千住宿の仕事」
- 足立区「千住大橋」
- 足立区「千住の史跡」
- 足立区「鉄道と千住」
- JR東日本「北千住駅」
- 東武鉄道「北千住駅」
- 東京メトロ「北千住駅」
- 東京メトロ「東京メトロの歴史」
- 首都圏新都市鉄道「会社沿革」
- 足立区「千住の産業」
- 足立区「千住火力発電所」
- 足立区立郷土博物館「お化け煙突」
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース・足立区立中央図書館「千住柳町にあった遊郭について」
- e-Gov法令検索「売春防止法」
- 足立区「ととのう、千住。」
- 足立区「穴場な街NO.1 千住」
- 足立区「北千住駅西口地区第一種市街地再開発事業」
- 足立区「北千住駅東口周辺地区」
- 足立区「千住西地区の防災まちづくり」
- 足立区「千住宿商店街が誕生」
- 千住宿商店街「千住宿商店街について」
- Wikimedia Commons「Kitasenju sunroad shopping street adachi」
- Wikimedia Commons「100 views edo 103」
- Wikimedia Commons「170824 Kita-Senju Tokyo Japan02n」
- Wikimedia Commons「Honcho center shopping street senju adachi」
- Wikimedia Commons「Nishi arai bashi old」

