大正東京・日本橋区を古地図で徹底解説|日本橋・兜町・人形町

大正期の東京市日本橋区を描いた番地界入東京市拾五区区分図

日本橋区は、江戸の商業中心地に、明治以降の銀行・証券取引所・近代企業・百貨店が重なった地域です。現在の中央区北部にあたり、日本橋、室町、本石町、兜町、茅場町、蛎殻町、箱崎町、浜町、馬喰町などを含みます。

ここで見る『番地界入東京市拾五区全図 日本橋区図 3』は、大正9年(1920)11月25日第二版です。番地界、町名、橋、河岸、堀割、学校、病院、銀行、倉庫などが細かく記され、約2年10か月後の関東大震災で大きく姿を変える直前の日本橋区を追えます。

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日本橋区の地図は「水と商業」を読む

精細図で最初に目に入るのは、水路の多さです。日本橋川から東堀留川、浜町川、箱崎川などが市街地へ入り込み、その岸に河岸と倉庫、問屋街が並びます。道路輸送が主役になる前の日本橋では、船で商品を運び、河岸で荷を揚げ、すぐ背後の店や蔵へ送る仕組みが都市の骨格でした。

地図には「鎌倉河岸」「元柳河岸」「柳河岸」「佐久間河岸」など、河岸名が町名と同じ密度で記されています。堀割は戦後まで段階的に埋め立てられ、東堀留川は1949年に埋め立てが完了し、浜町川も戦後の復興と都市改造のなかで姿を消しました。現在の街路を歩くと不自然に細長い道路や緑道がありますが、その一部は水路の跡です。

現在の日本橋川には日本橋、江戸橋、鎧橋などが残り、地図との位置照合の基準になります。現在の石造二連アーチの日本橋は1911年完成なので、この地図では完成から9年ほどの新しい橋でした。

江戸の商業中心は近代にも残った

大正9年1920年の日本橋・室町・本石町周辺の詳細古地図
日本橋・室町・本石町周辺。旧町名、河岸、橋、金融・商業施設が密集する地域です。

日本橋北詰の精細図には、本船町、按針町、長浜町、本小田原町などの旧町名が見えます。この一帯が日本橋魚河岸です。中央区の史料では、魚市場は日本橋川北岸を中心に、本船町・按針町・長浜町・本小田原町まで広がっていました。川沿いの荷揚げ場、魚問屋、売場が一体となり、江戸から大正まで東京の食を支えました。

「按針町」は三浦按針ことウィリアム・アダムスの屋敷に由来する町名です。現在は日本橋室町一丁目・本町一丁目付近に含まれ、町名そのものは失われました。地図には本両替町、本革屋町、元四日市町、佐内町など、現在の住所から消えた町名も多数残ります。1920年の日本橋は、江戸の職業・商業・居住の履歴を町名に残した都市でした。

室町には三越の店舗があります。越後屋は1673年に三井高利が創業し、1904年に三越呉服店が「デパートメントストア宣言」を発表しました。1914年には鉄骨鉄筋コンクリート造の新館が完成し、エスカレーターやエレベーター、スプリンクラー、全館暖房を備えた近代百貨店となります。1920年の地図は、江戸の呉服商が近代百貨店へ転換した後の室町を描いています。1923年の震災で建物は大きく被災し、その後の増改築を経て現在の日本橋三越本店へつながります。

日本橋通一丁目には「白木屋呉服店」もあります。白木屋は江戸時代から日本橋で商売を続けた大店で、1919年に百貨店へ転身したばかりでした。三越が1904年に近代百貨店化を宣言したのに対し、白木屋はその約15年後に追随したことになります。1920年図は、江戸以来の呉服商二店がともに近代百貨店へ変わった直後の日本橋を記録しています。白木屋は1923年の震災後に再建されますが、1932年には大規模な白木屋大火が起こり、日本の百貨店史・都市防災史でも知られる存在となりました。

同じ通りには「大倉書店」も確認できます。大倉書店は明治・大正期を代表する出版社・書店の一つで、夏目漱石『吾輩は猫である』の初期単行本を服部書店と共同で刊行しました。1908年には日本橋に4階建ての店舗を建てましたが、1923年の関東大震災で倒壊・焼失しています。地図に描かれた大倉書店は、近代出版文化の拠点が震災で失われる3年前の姿です。

帝國生命保險會社ていこくせいめいほけんかいしゃ」は現在の朝日生命につながる会社です。1888年に帝国生命として創業し、創立には加唐為重かから・ためしげや資生堂創業者の福原有信ふくはら・ありのぶらが関わりました。1903年には当時として珍しく多数の女性事務員を採用しており、呉服・書籍だけでなく生命保険という近代的サービス業も日本橋へ集まっていたことが分かります。

兜町と日本銀行がつくった金融の街

大正9年1920年の兜町・茅場町・箱崎周辺の詳細古地図
兜町・茅場町・箱崎周辺。東京株式取引所、銀行、河岸、倉庫街が近接していました。
大正9年1920年の本石町・本町・室町・日本銀行周辺の詳細古地図
本石町・本町・室町周辺。日本銀行を中心に銀行・商店・旧町名が細かく並びます。

本石町には日本銀行、兜町には東京株式取引所と第一銀行、周辺の坂本町には銀行集会所があり、精細図だけでも金融機関が狭い範囲に集中していることが分かります。

「第一銀行」は、1873年に設立された日本最初の国立銀行「第一国立銀行」を前身とします。渋沢栄一が創立に深く関わり、1896年に第一銀行へ改称しました。1920年の時点では本店をまだ兜町に置いており、1928年に丸の内へ新本店を建てて移転します。したがってこの地図は、第一銀行・東京株式取引所・渋沢事務所が同じ兜町に集中していた最後の時期に近い姿を記録しています。

日本銀行は1882年に開業し、1896年に現在の本石町へ移りました。辰野金吾らが設計した本館は現在も残ります。この場所は江戸幕府の金貨鋳造機関「金座」の跡地です。金座が1869年に廃止された後、その土地に近代国家の中央銀行が置かれました。江戸の貨幣制度と近代の中央銀行制度が同じ街区で連続しています。

兜町の東京株式取引所は1878年、渋沢栄一らの関与によって設立され、同年6月に取引を始めました。地図が刊行された1920年は、第一次世界大戦後の反動で株価が急落した「戦後恐慌」の年です。3月15日の暴落では東京株式取引所が2日間休会しました。11月25日版の地図は、その金融不安が起きた同じ年の兜町を記録しています。

坂本町の銀行集会所は、銀行間の情報交換や共同活動の拠点です。渋沢栄一らが1877年に始めた銀行団体の流れから1880年に東京銀行集会所が成立し、1885年には辰野金吾設計の建物が坂本町に完成しました。後の全国銀行協会につながる組織で、取引所・銀行・銀行団体が隣接する金融街の構造が地図から読み取れます。

坂本町公園も地図に描かれています。1889年開園で、東京市が整備した初期の市街地公園の一つです。震災後に造られた復興小公園より前から存在していたため、1920年の地図にもすでに緑地として確認できます。

渋沢栄一は1888年、兜町2番地に洋風邸宅を新築して移り住みました。1901年5月10日に飛鳥山邸へ転居した後、この建物は渋沢事務所として使われました。1920年の兜町では、第一銀行、東京株式取引所、東京銀行集会所、渋沢事務所が近接し、渋沢が関わった銀行・証券・実業界の拠点が狭い範囲に集まっていました。渋沢事務所の建物は1923年の関東大震災で焼失しました。

蛎殻町かきがらちょう・小網町・箱崎はこざき|水天宮、倉庫、日本銀行発祥の地

大正9年1920年の箱崎町・中洲・隅田川周辺の詳細古地図
箱崎町・中洲・隅田川周辺。倉庫と水路が連続し、水運を利用した物流地区の構造が分かります。
大正9年1920年の蛎殻町・小網町・芳町周辺の詳細古地図
蛎殻町・小網町・芳町など現在の人形町周辺。水天宮、旧町名、商業地、河岸が近接しています。

蛎殻町には水天宮があります。久留米藩有馬家が1818年に江戸屋敷へ勧請し、明治維新後の移転を経て1872年に日本橋蛎殻町へ移りました。安産・子授けの信仰を集め、現在も日本橋蛎殻町二丁目に鎮座しています。精細図では周辺に有馬小学校系の教育施設や細かな町割りが見え、神社の門前と生活圏が密接だったことが分かります。

日本銀行は1882年の開業時、現在の日本橋箱崎町、永代橋近くの旧北海道開拓使物産売捌所を本店として使いました。1896年に本石町へ移るまで、箱崎が日本銀行最初の本店所在地でした。1920年の地図では本店移転後の箱崎と本石町を同じ区内で比較できます。

精細図には「日本郵船倉庫」をはじめ、水運と結び付いた倉庫施設が見えます。箱崎には三井銀行倉庫部から1909年に独立した東神倉庫の拠点もありました。東神倉庫は現在の三井倉庫につながる会社で、箱崎は日本郵船など大手企業の倉庫と水路が結び付く物流地区でした。

地図には「杉村倉庫会社」と読める表記もあります。現在の杉村倉庫は1895年に大阪で創業し、地図の前年にあたる1919年に株式会社へ改組しています。会社名と法人化の時期は地図表記と合いますが、同社の公式沿革では大正期の東京・箱崎拠点を確認できません。このため、地図の会社が現在の杉村倉庫につながる可能性はあるものの、現段階では同一会社と断定しません。

人形町・浜町には暮らしと娯楽があった

大正9年1920年の浜町・久松町・隅田川周辺の詳細古地図
浜町・久松町・隅田川周辺。明治座、病院、大区画の邸地と河岸が見えます。

現在「人形町」と呼ばれる地域を1920年の地図で見ると、芳町、蛎殻町、住吉町、堀江町、小網町、富沢町などの町名が並びます。「芳町」は後の日本橋人形町一丁目・三丁目の一部にあたり、花街として栄えました。現在の地名と当時の旧町名を重ねることで、大正期の生活圏をより正確に追えます。

浜町・久松町の精細図では明治座が重要です。1873年に喜昇座として開場し、久松座、千歳座を経て1893年に明治座となりました。大正期には新派の重要な劇場となり、1917年から松竹の経営下に入ります。地図に描かれた明治座は1923年の震災で焼失し、1928年に再建されました。現在の明治座も日本橋浜町で興行を続けています。

精細図には「岩佐病院」「吉松病院」と読める医療施設もあります。同時代の人物資料では、岩佐新が日本橋区で病院を経営し、「告成堂病院長」と記録されています。1918年調査の名鑑にも日本橋区須賀町の「岩佐病院」が確認できるため、地図の岩佐病院は岩佐新が運営した告成堂病院の系譜にある医療施設とみられます。岩佐新は医師であるとともに男爵で、1918年から貴族院議員も務めました。

吉松病院については、浜町周辺を回想した資料に「浜町の小児科吉松」と記されています。小児科を診療していた吉松姓の医師の病院とみられます。院長のフルネームや正式な沿革、後身を特定できる資料は確認できません。

地図に見える大区画の邸地は、現在の浜町公園一帯の土地の歴史につながります。江戸後期には熊本藩細川家の下屋敷が置かれ、明治期には細川家の本邸となり、1903年からは細川家の一族である長岡護美子爵の邸地となりました。護美は細川斉護の六男で、熊本藩大参事、オランダ公使、元老院議官、貴族院議員などを務めました。1906年の護美死去後は護孝が長岡子爵家を継ぎました。

関東大震災後、この広い邸地は帝都復興事業に組み込まれ、1929年に浜町公園が開園しました。細川家下屋敷から華族の邸地を経て公共公園へ変わった土地です。

浜町には旧伊予松山藩主久松家の東京邸もあり、1883年に上京した正岡子規が寄寓したことで知られます。久松家は1887年にこの邸地を手放して三田へ移っており、大正9年より前の浜町の邸宅史を伝えます。

小伝馬町こでんまちょう・大伝馬町おおでんまちょう・堀留町ほりどめちょう|伝馬町牢屋敷と問屋の町

大正9年1920年の堀留町・小伝馬町・大伝馬町周辺の詳細古地図
堀留町・小伝馬町・大伝馬町周辺。問屋街と細長い町割り、堀割の位置を確認できます。

大伝馬町・小伝馬町の町名は、江戸幕府の伝馬役を担った人々の町に由来します。江戸城下の物流を支えた地域で、明治・大正になると問屋と商店が高密度に並ぶ商業地になりました。地図の細長い敷地と細かな番地は、間口を道路側に取り、奥へ長い商家の土地利用をよく表しています。

小伝馬町には江戸時代、伝馬町牢屋敷があり、吉田松陰らも収容されました。牢屋敷は1875年に市谷監獄へ移転し、その跡地では学校や公共施設への転用が進みます。関東大震災後の復興事業では十思小学校と十思公園が整備され、現在は十思スクエア・十思公園、大安楽寺などが旧牢屋敷の範囲にあります。

堀留町の名は、堀割の行き止まり「堀留」に由来します。地図では東堀留川が市街地の奥まで入り、河岸と町が接しています。1949年に東堀留川の埋め立てが完了し、現在は道路として市街地に取り込まれています。

馬喰町ばくろちょう・横山町・橘町|問屋街と河岸の物流

大正9年1920年の馬喰町・横山町・浅草区境周辺の詳細古地図
馬喰町・横山町・浅草区境周辺。問屋街、河岸、橋、細かな番地が連続します。
大正9年1920年の日本橋区北部・神田区境周辺の詳細古地図
日本橋区北部と神田区境周辺。大伝馬町・小伝馬町・馬喰町などの旧町名と細かな商業地の構成を確認できます。

北東側の精細図には馬喰町、横山町、大伝馬町、小伝馬町、通油町、田所町、新乗物町、橘町、薬研堀町などが密集しています。馬喰町・横山町は現在も衣料品などの問屋街として知られ、江戸の宿場・物流機能から近代問屋街へ変化した履歴を残します。

町名にも職業と流通の記憶があります。「大伝馬町」「小伝馬町」は伝馬役、「通油町」は油商、「新乗物町」は乗物関係の職人・商人など、江戸の仕事と結び付く由来を持ちます。1920年の地図では、こうした旧町名と近代の会社・学校・病院が同じ画面に並びます。

東側には隅田川、両国橋・新大橋方面の交通軸もあり、内陸の堀割と大河川が連続していました。荷は隅田川から日本橋区内の水路へ入り、河岸から問屋街へ運ばれます。町名・河岸・橋を一緒に見ることで、日本橋区の商業と水運の結び付きが具体的に分かります。

関東大震災と魚河岸の移転

1923年9月1日の関東大震災と火災は日本橋区を広く焼き、魚河岸、東京株式取引所、明治座、渋沢事務所など多くの施設が被災しました。日本橋魚河岸は壊滅し、市場機能は仮設市場を経て移転していきます。1923年に中央卸売市場法が成立し、1935年に築地中央卸売市場が開場しました。

兜町では東京株式取引所も焼失しましたが、同年10月には仮施設で現物取引を再開します。1920年代後半から耐震・耐火を意識した金融建築が整備され、現在知られる証券街の景観へ向かいました。

震災復興では道路拡幅、橋梁架け替え、土地区画整理、公園整備が進みました。浜町公園はその代表例です。一方、坂本町公園は1889年に開園しており、1920年の地図にもすでに存在します。震災前からあった公園と、震災後に新設された復興公園を分けて見ると、復興事業で何が変わったのかが分かります。

水運・金融・問屋街の機能が形を変えて残る日本橋区

現在も日本橋三越本店、日本銀行本店、兜町の金融街、水天宮、明治座、馬喰町・横山町の問屋街など、大正期の機能につながる場所が残ります。一方、日本橋魚河岸は築地を経て豊洲へ移り、水路の多くは道路や緑道へ、浜町の大邸宅地は公園へ変わりました。

1920年の地図では、河岸・橋・問屋街・金融機関が近接し、商業を水運が支える都市構造が読み取れます。震災と復興で市場や街路は再編されましたが、兜町の金融、馬喰町・横山町の問屋、日本橋の商業という機能は場所を変えながら続きました。失われた町名や旧河道をたどると、現在の日本橋の下に江戸から大正期までの商業都市の骨格が残っています。

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参考資料