日本橋区は、江戸時代から続く商業の中心に、明治以降の銀行・取引所・近代企業が重なった地域です。現在の中央区北部にあたり、日本橋、兜町、人形町、浜町などを含みます。大正期の地図には、細かな町割りと水路、商業地の密度がよく表れています。
日本橋区の地図は「水と商業」を読む
日本橋川や掘割、河岸が市街地のすぐそばに入り込み、道路と水運が組み合わさっています。江戸から大正まで、商品の搬入・保管・販売は水運と深く結びついていました。番地界が細かく描かれるため、問屋街や商店街が高密度に形成されたことも分かります。
江戸の商業中心は近代にも残った
江戸時代、日本橋は五街道の起点で、魚河岸や問屋、両替商が集まりました。明治維新後も商業中心地としての位置は失われず、兜町には第一国立銀行、東京株式取引所などが置かれ、日本経済の中枢へ発展します。江戸の商人地が、そのまま近代金融街へつながった点が日本橋区の大きな特徴です。
兜町と日本銀行がつくった金融の街
兜町周辺は証券取引の中心、日本橋本石町周辺は日本銀行を核とする金融の中心となりました。大正期には企業活動と金融が急速に拡大し、周辺の商業地と一体化します。現在の日本橋・兜町に金融機能が残る背景は、この時代に定着しました。
人形町・浜町には暮らしと娯楽があった
日本橋区は金融街だけではありません。人形町周辺には商店、飲食、芝居や花街の文化があり、浜町には住宅地や公共空間が広がりました。業務・商業・娯楽・生活が徒歩圏で混在するのが、近代日本橋の都市構造でした。
関東大震災と魚河岸の移転
1923年の関東大震災は日本橋区に甚大な火災被害をもたらしました。日本橋魚河岸も被災し、その後の市場制度整備を経て築地市場へ移転します。復興事業では道路・橋梁・区画整理が進み、江戸以来の都市骨格に大きな改変が加えられました。
現在に残る日本橋区の性格
日本橋、三越周辺の商業、兜町の金融、人形町の町場文化など、大正期の地域機能は形を変えながら現在まで続いています。古地図と現在地図を比べると、失われた水路が道路へ転用された場所も多く、見えない水のネットワークが現代の街路に残っています。

