東京で福岡を探す|黒田・有馬・小笠原の江戸屋敷から水天宮、アーティゾン美術館へ

歌川広重「名所江戸百景 増上寺塔赤羽根」

霞が関の官庁街、広尾の寺町、日本橋蛎殻町の水天宮、新宿河田町の洋館、京橋の美術館。東京を歩くと、現在の福岡県につながる場所が意外なほど多く現れます。

江戸時代の福岡県域には、福岡藩、久留米藩、柳川藩、小倉藩、秋月藩などがありました。藩主家は江戸に屋敷を構え、参勤交代と政治交渉のために家臣や家族を暮らさせました。明治以降は、文学者、実業家、旧大名家、県人会が東京との結びつきを受け継いでいきます。

筑前・筑後・豊前から見る東京の福岡県

現在の福岡県を歴史地理で見ると、筑前ちくぜん、筑後ちくご、豊前ぶぜんという異なる地域が重なっています。江戸時代には筑前の福岡藩と秋月藩、筑後の久留米藩と柳川藩、豊前の小倉藩などが並び、それぞれが江戸に拠点を持っていました。

明治初期には福岡、秋月、久留米、柳川、三池、豊津、千束、中津などの県が置かれ、統合を経て現在に近い県域が形づくられました。東京に残る福岡県の歴史をたどるときも、福岡藩だけに絞らず、複数の藩と地域を見ると全体像がつかみやすくなります。江戸時代の藩校や藩政の仕組みは、藩校とは何だったのか|何を学び、どう経営した?で詳しく解説しています。

福岡藩黒田家|霞が関から広尾へ

福岡藩を治めた黒田家は、江戸に複数の屋敷を構えていました。福岡市博物館の調査では、霞が関の上屋敷、赤坂溜池の中屋敷、白金と渋谷の下屋敷が確認されています。江戸後期には上屋敷と中屋敷がそれぞれ約2万坪、白金下屋敷が3,400坪余、渋谷下屋敷が9,000坪余という規模でした。

初代藩主黒田長政くろだ ながまさの時代には、すでに江戸での長期滞在を前提とした家臣統制が進んでいました。慶長13年頃の「慶長江戸絵図」には「黒田筑前守」と記された屋敷が大名小路に描かれています。

霞が関の上屋敷跡は現在の外務省付近です。江戸城外桜田から霞が関を読むには、外桜田永田町絵図を徹底解説が位置関係をつかむ助けになります。赤坂溜池の中屋敷は赤坂絵図を徹底解説、渋谷下屋敷は青山渋谷絵図を徹底解説、白金下屋敷は目黒白金絵図を徹底解説と重ねて見ると、黒田家の江戸拠点が都心から郊外へ広がっていた様子がよく分かります。

黒田家の東京で最も見応えのある現存史跡は、渋谷区広尾の祥雲寺です。長政が元和9年(1623)に没すると、二代藩主黒田忠之は赤坂溜池の自邸内に寺を建立しました。その後、移転を重ねて現在の広尾に落ち着きました。

祥雲寺には黒田長政の墓が残り、渋谷区指定史跡となっています。さらに福岡藩主黒田家、分家の秋月藩主黒田家、久留米藩主有馬家などの大名墓地群もあります。筑前と筑後の大名家が広尾の一寺院で交差する場所です。周辺を歩くなら、渋谷から広尾の歴史散歩も合わせて使えます。

久留米藩有馬家|赤羽橋から水天宮へ

筑後の久留米藩有馬家は、芝赤羽根橋付近に上屋敷を置きました。文政元年(1818)、九代藩主有馬頼徳ありま よりのりは、参勤交代で江戸に滞在している間も国元の水天宮を参拝できるよう、久留米から分霊を勧請して上屋敷内に祀りました。東京の水天宮の始まりです。

水天宮への信仰は江戸の町人にも広がり、有馬家は毎月5日に屋敷の門を開いて参拝を認めました。明治4年(1871)に青山、翌年に日本橋蛎殻町へ移り、藩邸内の神社から東京の街の神社へと場所を変えながら続いています。

赤羽根の有馬家上屋敷には、八代藩主有馬頼貴ありま よりたかが建てた高さ約9メートルの火の見櫓がありました。江戸名物として知られ、歌川広重の「名所江戸百景 増上寺塔赤羽根」にも当時の景観が描かれています。

現在の水天宮境内には、久留米出身でブリヂストン創業者の石橋正二郎が奉納した一対の狛犬があります。江戸の久留米藩主家と、昭和の久留米出身実業家の足跡が同じ境内に重なっています。日本橋側を歩くコースは、水天宮・日本橋箱崎から永代橋・清洲橋へでも紹介しています。

小倉藩小笠原家|江戸下屋敷から昭和の伯爵邸へ

豊前小倉藩の小笠原家は、新宿区河田町に下屋敷を持っていました。現在の若松町遺跡では、豊前小倉藩小笠原家下屋敷跡の発掘調査が行われ、18世紀に使われた地下室4基などが確認されています。

同じ河田町には、旧小倉藩主家の30代当主小笠原長幹おがさわら ながよしが1927年に建てた小笠原伯爵邸が現存します。スパニッシュ様式の洋館で、現在は予約制のレストランや婚礼会場として使われています。

江戸の下屋敷跡と昭和初期の旧大名家邸宅が同じ河田町に残るため、小倉藩主家の東京生活を約200年の時間幅で追える場所です。周辺の歴史は牛込柳町と若松河田でもたどれます。

柳川から東京へ|北原白秋の上京と多磨霊園

柳川では、藩主立花家の歴史に加えて、近代文学が東京との結びつきを強めました。北原白秋きたはら はくしゅうは1885年に福岡県山門郡沖端村、現在の柳川市沖端に生まれ、1904年に上京して早稲田大学英文科予科へ進みました。東京で『明星』や『文庫』を舞台に文学活動を広げ、近代詩・短歌・童謡に大きな足跡を残しました。

北原白秋の肖像写真
北原白秋(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

白秋の墓は東京都立多磨霊園にあり、霊園の公式案内図にも著名人墓所として掲載されています。柳川の水郷文化から東京の文学界へ進み、東京で生涯を閉じた白秋は、筑後と東京を結ぶ近代文化史の代表的な人物です。

久留米から京橋へ|石橋正二郎と美術館

石橋正二郎いしばし しょうじろうは1889年に久留米で生まれ、家業からゴム製品へ事業を広げ、1931年にブリヂストンタイヤ株式会社を創立しました。会社はのちに東京へ本拠を移し、石橋も東京を舞台に企業経営と美術収集を進めます。

1952年、石橋は東京・京橋のブリヂストンビル2階にブリヂストン美術館を開設しました。1956年には石橋財団を設立し、同じ年に郷里久留米にも石橋美術館を開館しています。現在、京橋の美術館はアーティゾン美術館として続き、石橋財団のコレクションを核に活動しています。

石橋の美術収集を後押ししたのは、久留米ゆかりの洋画家坂本繁二郎との再会でした。坂本は同郷の青木繁の作品散逸を惜しみ、収集を勧めたと伝わります。久留米で生まれた人間関係が、東京・京橋の美術館につながりました。

2026年も続く東京と福岡のネットワーク

江戸の藩邸が消えた後も、東京と福岡の結びつきは組織として残りました。東京福岡県人会とうきょうふくおかけんじんかいは2026年に75周年を迎え、総会・懇親会、会報『東京と福岡』、読書会やウォーキングなどの活動を続けています。事務所は千代田区平河町の都道府県会館にあります。

福岡県東京事務所は千代田区麹町の「住友不動産ふくおか半蔵門ビル」にあり、中央省庁との連絡、広報、企業誘致、販路拡大、移住支援などを担っています。2026年9月1日には在京の福岡県ゆかりの人へ向けた『ふくおかニュース』第275号を発行しました。

江戸時代の参勤交代では藩主と家臣が往来し、近代には学生、文学者、実業家が上京し、現在は県人会や行政拠点が交流を支えています。東京の福岡県史は、藩邸の跡地から現役のネットワークまで連続しています。

東京で福岡県ゆかりの地を歩くなら

場所福岡県との関係現在見られるもの
霞が関・外務省付近福岡藩黒田家上屋敷屋敷跡の位置、霞が関跡の標柱周辺
祥雲寺(広尾)福岡藩黒田家、秋月黒田家、久留米有馬家黒田長政墓、大名墓地群
水天宮(日本橋蛎殻町)久留米藩有馬家水天宮、石橋正二郎奉納の狛犬
赤羽橋周辺久留米藩有馬家上屋敷旧上屋敷周辺の街路・赤羽橋
小笠原伯爵邸(河田町)旧小倉藩主小笠原家1927年竣工の洋館
多磨霊園柳川で育った北原白秋北原白秋墓
アーティゾン美術館(京橋)久留米出身の石橋正二郎石橋財団コレクションと美術館
東京福岡県人会・福岡県東京事務所現代の在京ネットワーク現在も活動する県人会・行政拠点

史跡としての密度が高いのは、広尾の祥雲寺、日本橋の水天宮、河田町の小笠原伯爵邸です。霞が関・赤坂・渋谷・白金の黒田家屋敷跡は、古地図と現在の街路を重ねると江戸の都市構造がよく見えてきます。

参考資料