大河列伝・小栗忠順編|幕末を動かした人々と近代日本の始まり

小栗忠順を中心に幕臣、遣米使節、横須賀製鉄所、近代日本への流れを描いた大河列伝のアイキャッチ

「幕末の近代化」では、明治政府をつくった薩摩・長州の人物が注目されがちです。江戸幕府の内部にも、外交・財政・軍事・産業を同時に組み替えようとした実務家たちがいました。

その代表が、小栗忠順おぐり・ただまさです。小栗上野介とも呼ばれた彼は、万延元年遣米使節に加わり、帰国後は外国奉行・勘定奉行・軍艦奉行・陸軍奉行などを歴任しました。横須賀製鉄所の建設、幕府財政、軍制改革を担い、1868年に上野国権田村で新政府軍に捕らえられ、十分な弁明の機会を与えられないまま処刑されました。

小栗の仕事は、岩瀬忠震や水野忠徳ら外交官僚、栗本鋤雲、フランス公使ロッシュ、技師ヴェルニー、大鳥圭介、徳川慶喜、勝海舟、職人・通訳・会計担当者・兵士たちの仕事と重なっていました。

大河列伝とは何か|小栗一人ではなく、幕末の「つながり」を読む

このシリーズの「大河」は、複数の人物と立場から歴史の大きな流れを読むという意味です。

人物を入口にすると出来事を追いやすい一方、主人公だけを追えば、制度、組織、技術者、資金、国際情勢が背景へ退きます。

小栗忠順編では、次の四つを一つの流れとして見ます。

  • 人物:小栗、勝海舟、徳川慶喜、栗本鋤雲、榎本武揚、大鳥圭介、ヴェルニーら
  • 制度:幕府官僚制、勘定奉行、外国奉行、常備軍、外交使節
  • 技術:造船、修船、ドライドック、機械加工、西洋式軍制
  • 国際関係:開国、通商条約、金銀問題、フランスとの協力

小栗の基本的な経歴は、既存記事「小栗忠順とは何者か|幕末幕府の近代化を支えた男」で整理しています。

全体像の年表

小栗と周辺の動き 時代の意味
1827 江戸・神田駿河台の旗本家に生まれる 幕府官僚として育つ土台
1853 ペリー来航 外交・海防・軍制改革が同時課題になる
1859 目付となる 外交案件を扱う中枢へ
1860 万延元年遣米使節の監察として渡米 条約外交と近代産業を実見
1861〜67 外国奉行、勘定奉行、町奉行、軍艦奉行、陸軍奉行などを歴任 外交・財政・軍事を横断
1865 横須賀製鉄所起工 技術を購入する段階から、国内に根づかせる段階へ
1867 大政奉還、王政復古 幕府改革の時間が尽きる
1868 抗戦論を唱えて罷免、権田村へ退去、閏4月6日処刑 政権移行が内戦と軍事処断を伴う
1871 横須賀製鉄所が横須賀造船所へ 幕府事業が明治政府の海軍・工業基盤へ継承
1869以後 榎本武揚、大鳥圭介ら旧幕臣が明治国家でも活動 幕府と明治の間に断絶と連続が並存

小栗忠順が生きた幕末|開国・財政・軍事が同時に揺れた時代

黒船は「船の問題」だけではなかった

1853年のペリー来航は、蒸気軍艦による軍事的威圧であると同時に、外交文書を読み、要求を判断し、交渉方針を決める情報処理の危機でした。幕府は翌年に日米和親条約、1858年に日米修好通商条約を結び、従来とは異なる国際関係へ入りました。

開港後は、関税、通貨交換、外国人居留地、港湾、通訳、治安、輸送などの実務が発生しました。条約を運用する役所、外国語を扱う人材、船を修理する工場、軍隊を維持する予算が必要になりました。

黒船来航時の通訳と英語受容については、「黒船来航を通訳した人々|堀達之助・ラナルド・マクドナルドから見る幕末英語史」で詳しく解説しています。

幕府は一枚岩ではなかった

幕府内部でも、開国の進め方、朝廷との関係、諸藩を政治へ参加させる範囲、軍事力を中央に集める程度をめぐって意見が分かれていました。

阿部正弘あべ・まさひろはペリー来航後、諸大名や朝廷へ意見を求めました。井伊直弼は条約調印と将軍継嗣問題を進め、反対派への弾圧で対立を深めます。外国奉行の岩瀬忠震、水野忠徳、川路聖謨、堀利煕らは、交渉文書、港、通貨、蝦夷地、防衛の実務を担いました。

小栗は、この幕府官僚群の次世代に位置し、役職を通じて政策を実行する旗本官僚でした。

旗本と幕府官僚の仕事

旗本は将軍に直接仕える武士です。小栗家のような家からは、使番、目付、奉行などを通じて幕政実務を担う者が出ました。

小栗は1855年に家督を継ぎ、使番を経て1859年に目付となりました。帰国後に就いた外国奉行は外務行政、勘定奉行は財政・幕府領行政、町奉行は江戸の行政・司法、軍艦奉行や陸軍奉行は海陸軍の整備に関わる職です。

頻繁な異動と罷免・復職は、幕府末期の政策と責任者が揺れ続けた状況を映しています。国立国会図書館の小栗上野介関係文書の経歴解説でも、外交・財政・軍事の複数部門を歴任した経歴を確認できます。

万延元年遣米使節|小栗はアメリカで何を見たのか

正式使節はポーハタン号、咸臨丸は随行船

1860年、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、アメリカへ正式使節を送りました。正使は新見正興、副使は村垣範正、小栗は監察でした。

正式使節はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗りました。勝海舟、中浜万次郎、福沢諭吉らが乗った咸臨丸は随行し、サンフランシスコから日本へ戻っています。国立国会図書館の「世界を見たサムライ達」も両者を分けて説明しています。

使節はハワイ、サンフランシスコを経てパナマへ進み、鉄道で大西洋側へ横断し、ワシントンで批准書を交換しました。その後は大西洋、アフリカ南端、東南アジアを経て帰国します。外務省の外交史料紹介は、パナマ鉄道を利用した世界一周の経路を史料とともに示しています。

小栗が見た「近代国家の接続」

使節団は造幣施設、工場、海軍施設、鉄道、都市、議会などを見学しました。機械は、規格、会計、教育、交通、信用、行政と結びついていました。

造船には工作機械、部品規格、熟練工、資材調達、賃金、工程管理が要ります。通貨の発行には、金属の品位、重量、刻印、信用を管理する制度が必要です。帰国後に小栗が財政と工場建設を一体で扱った背景には、こうした仕組みを実見した経験がありました。

造幣局の交渉や「ねじ一本」の逸話はどこまで事実か

小栗がアメリカの造幣局で日本小判の価値を論証した、あるいは一本のねじを持ち帰って日本工業の遅れを説いたという逸話は広く知られていますが、細部には後世の脚色が混じる可能性があります。

使節団が通貨・産業・交通・軍事施設を観察し、小栗が帰国後に通貨問題、関税交渉、造船施設建設へ関わったことは確認できます。

勝海舟・中浜万次郎との距離

小栗、勝、中浜万次郎は同じ遣米事業に関わりましたが、役割は異なりました。小栗は正式使節の監察、勝は咸臨丸の船将、中浜は咸臨丸の通弁方でした。

小栗は幕府官僚として制度へ、勝は海軍と政権移行へ、中浜は漂流経験と語学・航海知識を通じて海外と日本を結びました。

幕府財政と横須賀製鉄所|近代化には「払い続ける仕組み」が必要だった

勘定奉行は幕府の台所だけではない

小栗が何度も務めた勘定奉行は、幕府財政の収支、幕府領の行政と年貢、貨幣・貿易に関わる実務を担いました。幕末には軍艦購入、兵器調達、外国人技術者の雇用、工場建設などの支出が膨らみます。

幕府の収入は、幕府直轄領の年貢、御用金、貨幣改鋳、関税などの組み合わせでした。開港後の物価変動や金流出、長州征討などの軍事費も重なりました。

小栗は、冗費削減、財源確保、関税率改訂、商社構想などに関わりました。国立国会図書館は、1867年の兵庫商社構想について、複数の出資者から資金を集める経営体として「商社」を提案したと紹介しています。詳しくは「幕末・明治初期の商社誕生に関わった人々」で確認できます。

幕府は戦費と近代化費用を同時に負担し、政策を継続する時間も不足していました。小栗は、軍事・産業政策を支える継続的な財源と組織を予算と制度へ落とし込もうとしました。

「製鉄所」は鉄をつくるだけの工場ではなかった

当時の「製鉄」は鉄を加工する意味を含み、横須賀製鉄所は艦船の建造・修理、機械製造、ロープ製造、ドライドック、技術教育を備えた総合的な造船・機械工場でした。

幕府は、故障した船を国内で直し、部品を作り、技術者を育て、将来は建造まで行う能力を求めました。横須賀製鉄所は、軍艦の購入から運用・再生産へ進むための施設でした。

なぜフランスだったのか

外交面では幕臣の栗本鋤雲くりもと・じょうん、駐日フランス公使レオン・ロッシュらが関わり、技術面ではフランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーが中心となりました。

アメリカは南北戦争中で、イギリスは薩摩藩などとの関係を深めていました。ロッシュは幕府を中央政府として強化する外交を進め、幕府は造船・軍制・金融でフランスの支援を利用しました。

横須賀市の公式解説によれば、幕府は1865年11月15日に起工式を行いました。工事は明治政府へ引き継がれ、1871年に第1号ドックが完成し、横須賀造船所と改称されます。

工場が移したのは機械だけではない

横須賀製鉄所では、工作機械や造船技術に加え、図面、メートル法、工程、時刻、賃金、休日、会計、教育など、工場運営の仕組みも導入されました。横須賀市の広報資料は、黌舎と呼ばれる学校が技術教育を担い、機械や技術が灯台、製糸場、各地の工場へ広がったと紹介しています。

長崎製鉄所、反射炉、各藩の軍事工場、洋学教育などの先行・並行事業もありました。横須賀製鉄所は、外国人技術者、日本人職人、学校、会計、艦船修理を一拠点へ集め、明治政府が継続利用した点で重要です。

幕府陸軍とフランス式軍制|「装備がある」だけでは軍隊にならない

諸藩の軍役から常備軍へ

江戸幕府の軍事体制は、将軍直属の家臣団と諸大名が負担する軍役を基礎にしていました。欧米の常備軍に対抗するには、統一された編制、歩兵・砲兵の訓練、武器規格、指揮命令、給与、補給が必要でした。

幕府は講武所、海軍伝習、歩兵組織などを整え、文久期以降に陸軍改革を進めました。小栗は歩兵奉行、陸軍奉行、勘定奉行として制度と予算に関わります。1867年にはフランス軍事顧問団が来日し、シャノワンらの指導で伝習隊が編成されました。

大鳥圭介・松平乗謨・伝習隊

大鳥圭介おおとり・けいすけは洋学と軍事技術に通じ、幕府陸軍の育成に関わりました。松平乗謨まつだいら・のりかたは陸軍奉行として軍制整備を担い、のちに大給恒と名乗ります。伝習隊はフランス式訓練を受け、戊辰戦争でも戦いました。

軍制改革は、洋学者、奉行、教官、兵士、外国顧問団の共同事業でした。小栗は財政・編制・兵器・政策をつなぐ行政官として関わりました。

「幕府は本気で戦えば勝てた」のか

鳥羽・伏見の敗戦後、小栗は箱根方面で新政府軍を迎撃し、海軍で後方を断つ策を唱えたとされます。この話から「慶喜が採用していれば幕府は勝てた」と語られることがあります。

幕府側には海軍、訓練部隊、フランス式装備がありました。一方で、将軍の政治意思、諸藩の協力、指揮系統、士気、補給、「朝敵」とされた政治的打撃、江戸市中を戦場にする危険がありました。

小栗の抗戦策は残された軍事資産を交渉力へ変える発想でしたが、軍事的可能性と政治的実行可能性は別の問題でした。

徳川慶喜・勝海舟との違い|幕府崩壊と小栗処刑まで

徳川慶喜は何を残そうとしたのか

15代将軍徳川慶喜は、軍制・行政の改革を進めつつ、1867年に大政奉還を行いました。政権を朝廷へ返した後も、新しい政治体制の中で徳川家の影響力を残す可能性を探っていました。

王政復古で徳川家を排除する方向が強まり、1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れます。慶喜は大阪城を離れて江戸へ戻り、恭順へ傾きました。小栗は抗戦を主張したとされ、1月15日に役を解かれます。

慶喜は全面戦争による徳川家消滅を避けようとし、小栗は軍事力を放棄すれば交渉の土台も失うと考えました。二人は残すべきものの優先順位が異なりました。

徳川将軍家全体の流れは、「徳川15代将軍と右腕たちで読む江戸時代」で整理しています。

勝海舟はなぜ江戸開城を選んだのか

勝海舟と小栗は、海外を見て海軍と近代化の必要を理解した幕臣でした。最終局面では、小栗が抗戦論を唱え、勝が江戸城開城交渉を担いました。

比較軸 小栗忠順 勝海舟
主な強み 財政・制度・工場建設・軍制 海軍・交渉・政権移行
1868年の優先 軍事力を残し、交渉余地を確保 江戸の戦火回避と徳川家の存続
見ていた危険 無抵抗で政治力を失うこと 内戦で都市と住民が壊滅すること
後世の像 徹底抗戦の悲劇的改革者 無血開城の和平交渉者

勝が交渉を担った時点と小栗が罷免された時点では、軍事・政治状況、職務、情報、責任対象が異なりました。

権田村で小栗は何をしていたのか

罷免後、小栗は江戸を離れ、小栗家の知行地だった上野国群馬郡権田村、現在の群馬県高崎市倉渕町へ移りました。本人は「帰農」や土着の意向を示したとされ、屋敷建設を進めました。

周辺では東山道総督府が進み、世直し一揆が起こり、旧幕府軍や会津藩の動きも続いていました。小栗の周囲には武器や訓練経験のある者がおり、大鳥圭介ら旧幕府側の人物との接触も記録されています。

具体的な蜂起計画を示す記録は乏しい一方、旧幕府勢力を結ぶ政治・軍事的な核になり得ると警戒されました。

小栗忠順はなぜ処刑されたのか

1868年閏4月5日、小栗と家臣らは捕縛され、翌6日に水沼河原で斬首されました。高崎市の文化財解説は「何の取り調べもなく」処刑されたと説明しています。

新政府側が警戒した材料には、武器の保有、農兵・歩兵の存在、旧幕府関係者との接触、地域が戦時下にあったことが挙げられます。具体的な武装蜂起を裏づける決定的な史料は乏しいです。

旧幕府の大物を危険人物とみなす予防的判断、現地からの訴えや疑い、北関東の不安定な情勢が重なり、拙速な処断へ至りました。

小栗の死後に続いた近代化|主要人物と6つのテーマ

小栗の死で幕末は終わらない

小栗の処刑後も戊辰戦争は続きました。大鳥圭介らは北関東・東北へ転戦し、榎本武揚は旧幕府艦隊を率いて箱館へ向かいます。1869年、箱館戦争の終結で大規模な内戦は終わりました。

榎本武揚は明治政府に登用され、外交・開拓・逓信・農商務などで働きました。大鳥圭介も政府に出仕し、技術・外交・教育分野で活動します。

横須賀製鉄所は横須賀造船所、横須賀海軍工廠へ発展しました。幕府が雇った外国人、育成した日本人技術者、導入した機械と規則は、新政府の事業に組み込まれます。

明治政府は、幕府の施設・技術・人材を継承しつつ、廃藩置県、徴兵制、地租改正、中央官制によって全国制度を再編しました。

小栗忠順を取り巻く主要人物

人物 立場 小栗編で見える幕末
徳川慶喜 15代将軍 改革と政権返上、恭順という将軍の選択
勝海舟 幕臣・海軍官僚 軍事力を持ちながら都市を戦火から守る交渉
栗本鋤雲 外国奉行・幕臣 フランス外交、翻訳、情報、産業政策
岩瀬忠震 外国奉行 条約交渉を担った幕府外交官僚の先駆
水野忠徳 外国奉行・勘定奉行 開港、通貨、海防を横断する実務
川路聖謨 勘定奉行・外国奉行 ロシア交渉と幕府官僚の職業倫理
榎本武揚 海軍士官・旧幕府軍 箱館戦争と、敗者の知識が明治へ戻る過程
大鳥圭介 洋学者・幕府陸軍 技術者が軍人となり、再び官僚になる経路
松平乗謨 陸軍奉行 フランス式軍制と幕臣の制度改革
ヴェルニー フランス人技師 技術移転は設計・教育・管理を伴うこと
ロッシュ 駐日フランス公使 列強外交と幕府強化策の結びつき
西郷隆盛 薩摩藩・新政府側 江戸開城と新政府軍の政治・軍事判断
大村益次郎 長州藩・新政府軍制担当 幕府とは別系統から進んだ近代軍制
中浜万次郎 通訳・航海知識者 漂流民の経験が幕府外交へ入る道

小栗忠順から見える幕末の6つのテーマ

小栗の経歴は、開国と外交、幕府官僚制、産業化と技術移転、陸海軍の近代化、幕府とフランスの関係、幕府から明治への継承と再編を横断しています。

小栗忠順は「明治の父」なのか

小栗を「明治の父」と呼ぶ評価は、横須賀製鉄所など幕府の近代化事業が明治へつながったことを強調する表現です。

横須賀製鉄所を構想から予算・外交・建設へ動かし、財政・軍事・産業を一体の問題として扱った功績は重要です。ただし、近代日本は幕府諸機関、諸藩、民間商人、職人、留学生、外国人技術者、新政府の制度改革が重なって成立しました。

ゆかりの地・FAQ・まとめ|小栗を入口に幕末の解像度を上げる

現在、どこで痕跡を見られるか

高崎市倉渕町・東善寺と終焉の地
東善寺には小栗父子と家臣らの墓、裏山の本墓、小栗公遺品館があります。水沼には終焉の地の碑があります。公開状況や拝観については、訪問前に高崎市の最新案内と東善寺の案内をご確認ください。

横須賀・ヴェルニー公園周辺
横須賀製鉄所の中心部は現在の米海軍横須賀基地内にあり、通常公開の対象外です。ヴェルニー公園、よこすか近代遺産ミュージアム ティボディエ邸、横須賀市自然・人文博物館では、造船所と技術移転の歴史を学べます。

東京・神田駿河台周辺
小栗は、幕臣屋敷が集まっていた神田駿河台の旗本家に生まれました。

デジタル史料
国立国会図書館の「近代日本人の肖像 小栗忠順」、国立公文書館の「激動幕末―歩兵と造船所」では、人物経歴と幕府近代化の史料にアクセスできます。

FAQ

小栗上野介と小栗忠順は同じ人物ですか?

同じ人物です。忠順が名で、上野介は官位に由来する呼び方です。資料によって豊後守、上野介、又一などの表記が現れます。

小栗忠順は何をした人ですか?

万延元年遣米使節に参加し、帰国後に外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行、陸軍奉行などを務めました。横須賀製鉄所建設、幕府財政、関税交渉、軍制改革、商社構想などに関わった実務官僚です。

横須賀製鉄所は現在の製鉄所と同じですか?

鉄を加工し、艦船の建造・修理、機械製造、ドライドック運用、技術教育を行う総合的な造船・機械工場でした。

小栗忠順と勝海舟は仲が悪かったのですか?

後世には対立者として描かれますが、幕府崩壊時に何を優先するかという政策路線の違いとして見る方が適切です。小栗は抵抗力と交渉余地、勝は江戸の戦火回避と徳川家存続を重視しました。

小栗忠順はなぜ斬首されたのですか?

新政府軍は、小栗と周辺の武器・兵力・旧幕府人脈を危険視しました。高崎市は、具体的な反乱計画を決定づける史料が乏しく、十分な取り調べを経ない処刑だったと説明しています。背景には軍事占領下の警戒と地域情勢がありました。

小栗忠順が生きていれば明治政府の中心になれましたか?

能力や経験から活躍の可能性は想像できますが、反実仮想です。榎本武揚や大鳥圭介のように旧幕臣が登用された例はあるものの、小栗の政治姿勢、新政府との関係、処刑に至る状況を踏まえると、結論は推測の域にとどまります。

まとめ|主役だけでは、時代は見えてこない

小栗忠順は、外交・財政・軍事・産業政策を横断し、横須賀製鉄所、軍制改革、財政・通商政策を進めた幕府官僚でした。

幕府の人材・施設・技術は明治政府へ継承されましたが、政治制度は中央集権国家へ再編されました。小栗の経歴は、その継承と断絶を同時に示しています。

関連記事

参考文献・参考サイト

  1. 国立国会図書館「小栗忠順|近代日本人の肖像」
  2. 国立国会図書館リサーチ・ナビ「小栗上野介関係文書」
  3. 国立国会図書館「世界を見たサムライ達」
  4. 外務省「万延元年遣米使節団のパナマ通過」
  5. 国立国会図書館「幕末・明治初期の商社誕生に関わった人々」
  6. 国立公文書館「激動幕末―歩兵と造船所」
  7. 国立公文書館「冗費の削減を指示(多聞櫓文書)」
  8. 横須賀市「横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)」
  9. 横須賀市自然・人文博物館「人文館2階」
  10. 文化庁日本遺産ポータル「米海軍横須賀基地 ドライドック1〜6号」
  11. 高崎市「小栗上野介の関連史跡」
  12. 高崎市「小栗上野介忠順終焉の地」
  13. 高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新―「小栗日記」を読む』岩波書店、2013年。
  14. 宮永孝『万延元年の遣米使節団』講談社学術文庫、2005年。
  15. 安達裕之『異様の船―洋式船導入と鎖国体制』平凡社、1995年。