日本銀行総裁は、しばしば「金利を決める人」と説明されます。しかし、日本銀行の144年を振り返ると、総裁が向き合ってきた仕事ははるかに広大です。全国で通用する銀行券を整え、金本位制を支え、戦争の資金調達を助け、銀行恐慌では金融機関へ現金を送り、敗戦後にはインフレを抑え、高度成長では景気の過熱にブレーキをかけました。バブル崩壊後はゼロ金利、量的緩和、マイナス金利、長短金利操作へ進み、現在は異例の金融緩和からの正常化を担っています。
中央銀行の歴史を人物で追うと、「景気を支えたい政府」と「通貨の価値を守りたい日銀」、「危機の銀行を救う必要」と「救済が問題を先送りする危険」、「金融を緩める決断」と「緩和を終える決断」が何度も現れます。大蔵・財務大臣が国家の税・予算・国債を担ってきた歴史は、歴代大蔵大臣・財務大臣でたどる日本財政史で詳しく扱っています。日銀総裁の歴史は、その同じ時代を「円・金利・銀行・金融市場」から見たもう一つの近現代史です。
- 日本銀行総裁は何をする人なのか
- 1882年、日本銀行が生まれる――松方正義と初代総裁・吉原重俊
- 創設7年で政府と衝突――富田鐵之助が辞任した理由
- 金本位制と政府借入れ――川田小一郎、岩崎彌之助、山本達雄
- 日露戦争を金融で支える――松尾臣善と高橋是清
- 高橋是清と井上準之助――総裁経験者が大蔵大臣へ移る時代
- 関東大震災と1927年金融恐慌――市来乙彦が「最後の貸し手」になる
- 金解禁から高橋財政へ――土方久徴は正反対の政策を同じ総裁として支えた
- 深井英五と高橋是清――金融緩和を終える「出口」はなぜ難しかったのか
- 戦時の日銀――結城豊太郎と1942年日本銀行法
- 渋沢敬三――戦時金融を担った総裁が敗戦後には大蔵大臣になる
- 一萬田尚登――戦後インフレにも、強すぎる緊縮にもブレーキをかける
- 1949年、総裁一人の銀行から政策委員会の銀行へ
- 高度経済成長――山際正道は「成長しすぎる日本」をどう抑えたか
- ニクソン・ショックと石油危機――佐々木直が「狂乱物価」と戦う
- 森永貞一郎と前川春雄――「公定歩合」中心から市場金利の時代へ
- プラザ合意とバブル――澄田智はなぜ金融緩和を続けたのか
- 三重野康――「バブルを潰した総裁」という評価をどう見るか
- 松下康雄と1997年金融危機――日銀は決済を止めない
- 1998年新日銀法――独立性と透明性を制度にする
- 速水優――金利がゼロになったら中央銀行は何をするのか
- 福井俊彦――量的緩和から初めて出口へ向かう
- 白川方明――リーマン・ショック、ETF購入、そして2%目標
- 黒田東彦――「2年で2%」を掲げた異次元緩和
- 黒田日銀を成功・失敗の二択で評価できない理由
- コロナと円安――政府の財政と黒田日銀が再び並走する
- 植田和男――ゼロ金利時代の始まりを知る人が、その出口を担う
- 2024~2026年――マイナス金利を終え、「金利のある日本」へ
- 歴代日本銀行総裁一覧――第1代吉原重俊から第32代植田和男まで
- 円を守る仕事は、時代ごとに意味が変わった
- 参考資料
日本銀行総裁は何をする人なのか
日本銀行は日本の中央銀行です。銀行券を発行し、金融機関同士の決済を支え、金融市場へ資金を出し入れし、金融機関の経営や金融システムを点検します。金融危機では「最後の貸し手」として銀行へ資金を供給する役割も担います。
現在の金融政策は総裁一人で決めません。政策委員会は総裁、副総裁2人、審議委員6人の計9人で構成され、金融政策決定会合で多数決によって方針を決めます。政府代表も会合へ出席して意見を述べ、議案提出や議決延期を求められますが、議決権はありません。
この仕組みは長い歴史の末にできたものです。創設直後の日銀では大蔵大臣の影響が強く、戦時中には国家政策へ深く組み込まれました。戦後は政策委員会が設けられ、1998年施行の新しい日本銀行法で金融政策の自主性と透明性が明確にされました。「政府と中央銀行はどこまで近く、どこから距離を置くのか」は、日銀創設以来の中心問題です。
1882年、日本銀行が生まれる――松方正義と初代総裁・吉原重俊
明治初期の日本では、政府紙幣や国立銀行紙幣など複数の紙幣が流通し、通貨制度はまだ統一されていませんでした。西南戦争の戦費を賄うため紙幣発行が膨らむと、インフレも深刻になります。大蔵卿の松方正義は紙幣整理と財政緊縮を進め、その一環として中央銀行創設を具体化しました。
1882(明治15)年に日本銀行条例が制定され、10月に日本銀行が営業を開始します。初代総裁は吉原重俊でした。吉原は米英留学を経験し、大蔵省で松方を支えた官僚です。制度を設計した松方に対し、吉原は新しい中央銀行を実際に動く組織へ育てる仕事を担いました。

1885年から日本銀行は兌換銀行券を発行し、政府紙幣や国立銀行紙幣の整理が進みます。手形・小切手による決済も広がり、全国の金融を東京の中央銀行へつなぐ仕組みが整えられました。日本銀行は金利政策のために生まれたというより、まず「日本中で同じ通貨を信用して使える国」をつくるために生まれました。
創設7年で政府と衝突――富田鐵之助が辞任した理由
第2代総裁富田鐵之助の時代、日本銀行は早くも政府との距離を問われます。大蔵大臣の松方正義は、貿易と外国為替を担う横浜正金銀行への低利融資枠を大幅に増やすよう日銀へ求めました。

富田は、特定の政策目的で大量の低利資金を供給すれば、中央銀行が金融全体を調節する機能が弱くなると考えて反対しました。対立は解けず、1889年に富田は総裁を辞任します。
日本銀行創設からわずか7年です。政府は産業・貿易を支えるため中央銀行の資金を使いたい。日銀は通貨と金融市場全体を守りたい。後世に何度も現れる「政府と中央銀行の緊張」は、明治20年代から始まっていました。
金本位制と政府借入れ――川田小一郎、岩崎彌之助、山本達雄
第3代総裁川田小一郎、第4代岩崎彌之助、第5代山本達雄の時代、日本は日清戦争を経験し、1897(明治30)年に金本位制へ移行しました。円の価値を金と結びつける制度では、日本銀行が保有する正貨準備の維持が重大な仕事になります。
山本は日清戦争時に国債公募に関わり、戦後には清から受け取った賠償金の海外運用にも携わりました。その賠償金は金本位制導入の重要な基盤となります。
総裁となった山本は、輸入増加によって金が国外へ流出することを警戒し、金融引き締めを進めました。さらに政府の日銀借入れが増えると、兌換制度を守り、民間への資金供給を圧迫しないため、政府貸出に上限を設けるよう求めます。中央銀行が政府へどこまで資金を貸すのかという問題も、すでに明治期に現れていました。

日露戦争を金融で支える――松尾臣善と高橋是清
1904(明治37)年、日露戦争が始まります。第6代総裁松尾臣善の日銀には、戦争に必要な資金を国内へ供給しながら、金本位制を支える正貨準備も守るという難題が課されました。

東京で金融市場を支えた松尾に対し、海外へ出たのが副総裁の高橋是清です。高橋はロンドンやニューヨークで銀行家・投資家と交渉し、日本政府の外債を販売しました。税金と国内国債だけでは巨額の戦費を賄えず、戦争継続には外国から資金を借りる必要がありました。
軍事力の背後で問われたのは国家の信用でした。「日本政府は利息を払い、元本を返す」と海外市場に信じてもらえなければ、戦争資金は続きません。財政側の戦費調達と大蔵大臣の動きは大蔵・財務大臣でたどる日本財政史、戦争と講和の外交は歴代外務大臣一覧と日本外交史でつながります。
戦後、松尾は今度は過熱した景気を抑える側へ回りました。戦争中に出した資金を、平時になれば引き揚げる必要があります。「危機対応の後にどう正常化するか」という日銀の難題は、この時代にも現れています。
高橋是清と井上準之助――総裁経験者が大蔵大臣へ移る時代
1911年、第7代総裁に高橋是清が就任しました。日露戦争で外債調達を担った高橋は、1913年に大蔵大臣となるため総裁を退任します。中央銀行の実務、国際金融、大蔵行政、首相職を一人で経験する、近代日本でも稀有な財政金融家となりました。

第8代三島彌太郎を経て、1919年に第9代総裁となった井上準之助は、東京帝国大学卒業後に日本銀行へ入り、日銀内部で育った初の総裁です。第一次世界大戦後の反動不況で企業や銀行が資金難に陥ると、日銀は救済融資を行いました。

井上も後に大蔵大臣へ移り、1929年の浜口雄幸内閣で金解禁を進めます。高橋と井上はいずれも日銀総裁を経験してから大蔵大臣となりましたが、昭和恐慌への対応では正反対に見える政策を選びます。中央銀行家としての経験が、その後の財政・通貨政策へどう結びついたかが、この二人を比べる面白さです。
関東大震災と1927年金融恐慌――市来乙彦が「最後の貸し手」になる
1923(大正12)年9月、関東大震災が東京・横浜を襲いました。直後に第10代総裁となった市来乙彦は、震災で支払いが困難になった手形を再割引し、銀行や企業へ大量の資金を供給しました。
金融機関を一斉に倒産させれば、復興資金の流れまで止まります。日銀は緊急救済を優先しました。しかし、救済対象には震災以前から経営が悪化していた企業の債務も混ざり、問題は「震災手形」として残ります。
1927年、震災手形処理をめぐる政治対立の中で、片岡直温大蔵大臣の発言を契機に取り付け騒ぎが拡大しました。日銀は市中銀行へ大量の資金を供給し、台湾銀行救済では特別融資による損失を政府が補償する枠組みを求めました。中央銀行が金融システムを守るため巨額のリスクを取るなら、財政はどこまで責任を負うのか。政府と日銀の境界が具体的な損失負担として現れた場面です。
金解禁から高橋財政へ――土方久徴は正反対の政策を同じ総裁として支えた
1928年、第12代総裁となった土方久徴は、日本金融史でも特異な位置にいます。在任中に、井上準之助大蔵大臣の金解禁と緊縮政策、高橋是清大蔵大臣の金輸出再禁止と積極財政という大転換を、同じ日銀総裁として経験したからです。
1930年、日本は金本位制へ復帰しました。しかし世界恐慌が深まり、輸出・物価・企業収益・農村経済が悪化します。1931年末に犬養毅内閣が成立すると、高橋大蔵大臣は就任日に金輸出を再禁止しました。
1932年から政府は赤字国債を発行し、日銀が直接引き受ける方式を本格化させます。政府が国債を日銀へ渡し、その代金を支出すれば、市中へ新しい資金が流れます。恐慌下では強い景気刺激になりますが、長く続けば通貨膨張とインフレの危険が高まります。
土方の日銀は政府国債を引き受ける一方、保有国債を市場へ売却して資金を吸収する操作も続けました。高橋財政は政府が日銀を一方的に使った政策ではなく、日銀側も景気回復を支えながら副作用を抑えようとしていました。
深井英五と高橋是清――金融緩和を終える「出口」はなぜ難しかったのか
1935年に第13代総裁となった深井英五は、元新聞記者という異色の経歴を持ち、松方正義の秘書官を経て日本銀行へ入りました。第一次世界大戦、関東大震災、昭和金融恐慌、金解禁、金輸出再禁止を日銀内部から経験しています。
1930年代半ばには景気が回復し、高橋是清も財政拡張を平時へ戻そうとしていました。深井も日銀の国債保有と政府国債の膨張、低金利の長期化を警戒します。大蔵大臣と日銀総裁の双方が「出口」を意識した時期です。
しかし軍事費は増大し、財政正常化は政治的な抵抗に直面しました。1936年の二・二六事件で高橋は殺害され、翌1937年には深井も総裁を退きます。危機対応で始めた財政・金融緩和を、危機が去った後に縮小する難しさが鮮明になりました。
戦時の日銀――結城豊太郎と1942年日本銀行法
第14代池田成彬を経て、1937年に第15代総裁となった結城豊太郎の時代、日本は日中戦争から太平洋戦争へ進みました。軍事費と軍需生産が拡大し、金融も戦争遂行へ組み込まれていきます。
結城は金融界の自主性を残そうとし、金融協議会を設けて民間金融機関との連携を重視しました。1942年の日本銀行法制定でも、中央銀行の中立性を一定程度守ろうと動きます。
しかし成立した1942年法には戦時国家の思想が強く反映され、日本銀行は国家政策に沿って経済総力を発揮させる機関として位置づけられました。現在の日銀法が掲げる「物価の安定」とは性格が大きく異なります。
中央銀行が政府からどこまで独立するかは抽象的な制度論ではありません。戦争、恐慌、巨額財政支出のように政府が強い資金需要を持つときほど、その距離が現実の問題になります。
渋沢敬三――戦時金融を担った総裁が敗戦後には大蔵大臣になる
1944年、第16代総裁となった渋沢敬三は、渋沢栄一の孫です。戦争末期の日銀は、政府国債の引き受けや軍需産業への資金供給を通じて戦時経済を支えました。

戦争が終わるころには、物資の供給に比べて通貨が大きく膨張していました。1945年に敗戦すると、渋沢は日銀総裁を退き、幣原喜重郎内閣の大蔵大臣へ移ります。1946年には預金封鎖、新円切り替え、財産税など、今度は通貨膨張を抑える政策を担当しました。
戦時中に日銀総裁として資金を供給した人物が、敗戦後には大蔵大臣としてその資金を封じ込める側に回りました。戦時財政と敗戦後のインフレが一続きの問題だったことは、渋沢の経歴を見ると鮮明です。詳しい財政面は日本財政史の記事で扱っています。
一萬田尚登――戦後インフレにも、強すぎる緊縮にもブレーキをかける
第17代新木栄吉の後、1946年に第18代総裁となった一萬田尚登は、戦後日本銀行を代表する総裁です。在任は8年半に及び、銀行界・産業界への大きな影響力から「法王」と呼ばれました。

一萬田はドイツで第一次世界大戦後の激しいインフレを見た経験があり、通貨価値の安定を重視しました。敗戦後の日本でも強いインフレを抑えるため、金融引き締めを進めます。
1949年に米国からジョゼフ・ドッジが来日すると、今度は状況が変わります。均衡予算や復興金融金庫融資停止などのドッジ・ラインは強いデフレ圧力を生みました。一萬田の日銀は市中銀行への貸出などを通じ、その衝撃を和らげます。
一萬田は「いつでも締める総裁」ではありませんでした。インフレが強ければ締め、政府の緊縮が強すぎれば金融面から支える。中央銀行が景気と物価の双方を見ながら政策を調整する姿が、この時代にはっきり現れます。
1949年、総裁一人の銀行から政策委員会の銀行へ
戦後改革では、日本銀行の意思決定制度も変わりました。1949(昭和24)年、政策委員会が最高意思決定機関として設けられます。
この変更によって、金融政策は総裁個人の判断だけでなく、複数の委員が審議して決める制度へ移りました。現在の金融政策決定会合へつながる大きな転換です。
歴代総裁を人物で追う際も、戦後は「総裁が決定した」とだけ書くと実態から離れます。総裁は政策委員会の議長として方向を示し、説明責任を負いますが、金融政策そのものは合議で決まります。
高度経済成長――山際正道は「成長しすぎる日本」をどう抑えたか
新木栄吉の二度目の総裁就任を経て、1956年に第20代総裁となった山際正道の時代、日本は高度経済成長へ入ります。
1ドル360円の固定相場制では、景気が過熱して輸入が増えると外貨が流出し、国際収支が悪化します。すると日銀は金融を引き締め、景気を冷ます。改善すれば再び緩める。この「ストップ・アンド・ゴー」が高度成長期に繰り返されました。
政府には成長率を高く維持したい意向がありました。特に池田勇人政権は所得倍増を掲げます。一方、山際は通貨価値の安定を経済成長の基盤と考え、景気過熱への警戒を崩しませんでした。首相と中央銀行の役割は対立だけでなく、成長を加速する力と、持続可能な範囲へ抑える力として組み合わさっていました。首相側の政策は歴代首相一覧と近代日本史でもたどれます。
ニクソン・ショックと石油危機――佐々木直が「狂乱物価」と戦う
第21代宇佐美洵を経て、1969年に第22代総裁となった佐々木直は、戦後金融体制が大きく崩れる時期を担当しました。1971年のニクソン・ショックでドルと金の交換停止が打ち出され、固定相場制は揺らぎます。1973年には日本も変動相場制へ移りました。
同年秋には第一次石油危機が発生します。原油価格急騰の前から、日本国内では金融緩和、財政拡大、列島改造ブーム、地価上昇などで需要と物価の上昇圧力が強まっていました。そこへ原油ショックが重なり、「狂乱物価」と呼ばれるインフレになります。
日銀は1973年中に公定歩合を相次いで引き上げ、年末には9%へ達しました。現代の低金利に慣れた目には極端な数字ですが、当時の日銀にとって最大の敵はデフレではなくインフレでした。
森永貞一郎と前川春雄――「公定歩合」中心から市場金利の時代へ
第23代森永貞一郎、第24代前川春雄の時代、日本経済は石油危機後の低成長、第二次石油危機、国債大量発行、金融自由化に向き合いました。
金融政策の技術も変わります。1978年にはマネーサプライ見通しの公表が始まり、国債オペレーションも市場入札方式へ移っていきました。日銀が銀行へ直接働きかける色彩の強い政策から、市場で形成される金利へ働きかける政策へ重心が移ります。
現在は無担保コール翌日物の金利を政策の中心に据えています。明治から昭和前半の日銀を現在と同じ「政策金利を決める銀行」と見ると制度の変化を見失います。金融市場そのものの成長に合わせて、中央銀行の政策手段も変わってきました。
プラザ合意とバブル――澄田智はなぜ金融緩和を続けたのか
1984年、第25代総裁となった澄田智の時代、日本はバブル形成へ向かいます。1985年のプラザ合意後、ドル高是正のため円は急速に上昇し、輸出企業と景気への打撃が懸念されました。
日銀は金利を引き下げ、内需を支えます。ところが1980年代後半には株価、地価、銀行融資が急拡大しました。金融自由化で銀行の競争が強まり、不動産を担保とした融資も膨らみます。
難しかったのは、一般の物価上昇率が比較的低かったことです。消費者物価が安定している一方、土地と株式は猛烈に上がる。中央銀行は「物価」を見るべきか、「資産価格」や信用膨張まで金融政策で抑えるべきか。バブル期は、現在も続く中央銀行論の大きな課題を残しました。
バブルは一人の総裁の金利判断だけで生まれたものではありません。円高への政策対応、国内外からの内需拡大要請、金融自由化、土地制度、銀行の融資競争、資産価格上昇への期待が重なりました。その中心に長期の金融緩和があった、という位置づけが実態に近いでしょう。
三重野康――「バブルを潰した総裁」という評価をどう見るか
1989年12月、第26代総裁に三重野康が就任しました。三重野は後に「バブルを潰した総裁」と呼ばれることがありますが、金融引き締めは前任の澄田時代、1989年5月から始まっています。
三重野の下でも利上げが続き、大蔵省は不動産向け融資の総量規制を導入しました。株価と地価は下落し、企業と金融機関には巨額の債務と不良債権が残ります。
問題は、資産価格下落の影響がすぐには見えなかったことです。不動産担保の価値が下がり、借り手企業の財務が傷み、銀行の不良債権が増え、貸し出し能力が弱るまで時間差がありました。1990年代の停滞は、利下げの遅さだけで説明できず、企業・銀行のバランスシート調整と金融システム問題が重なった長期過程でした。
松下康雄と1997年金融危機――日銀は決済を止めない
1994年、第27代総裁となった松下康雄の時代、バブル後の問題は金融危機へ発展します。1997年には三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券などの破綻が相次ぎ、市場は金融機関同士の信用そのものを疑い始めました。
日銀は金融市場へ潤沢な資金を供給し、金融機関間の決済が止まることを防ぎます。金融政策で景気を動かす役割とは別に、決済システムと金融システムを守る中央銀行の役割が前面に出ました。
同じ金融危機は大蔵省の銀行監督行政への批判も高め、金融監督庁・金融庁の設置につながります。政府側の組織再編は大蔵省から財務省への歴史と表裏一体です。
1998年新日銀法――独立性と透明性を制度にする
1997年に新しい日本銀行法が成立し、1998(平成10)年4月に施行されました。戦時体制下で制定された1942年法から半世紀以上を経た全面改革です。
新法は金融政策の自主性を尊重することを明確にし、政策委員会を中心とする意思決定を整えました。同時に金融政策決定会合の議事要旨を公表し、一定期間後には議事録も公開するなど、透明性と説明責任を強化します。
独立性は政府と無関係になることを意味しません。政府代表は金融政策決定会合へ出席し、意見を述べ、議案提出や議決延期を求められます。財政・経済政策と金融政策は連携を必要としながら、最終的な金融政策判断は政策委員会が担うという関係です。
速水優――金利がゼロになったら中央銀行は何をするのか
新日銀法施行とほぼ同時に第28代総裁となった速水優は、金融政策史の大転換を担当します。バブル崩壊後の景気低迷と金融危機の中で金利を引き下げ続け、1999年2月、日本銀行はゼロ金利政策を導入しました。
通常の金融政策は金利を下げて借入れと投資を促します。しかし政策金利がほぼゼロになると、同じ方法では下げ余地がほとんど残りません。日本は主要国に先駆けて「金利がゼロになった後、中央銀行は何ができるのか」という未知の領域へ入りました。
当時の政策委員会には、後の総裁となる植田和男が審議委員として参加していました。2000年8月にゼロ金利政策が解除された際、植田は解除に反対票を投じています。
2001年3月、景気と物価が再び弱まると日銀は量的緩和政策を導入しました。政策の中心を金利から日銀当座預金残高へ移し、金融機関が日銀に持つ資金そのものを増やします。現在では世界中で使われる「量的緩和」を、日本は早い段階で試すことになりました。
福井俊彦――量的緩和から初めて出口へ向かう
2003年、第29代総裁に福井俊彦が就任しました。福井日銀は量的緩和を引き継ぎ、日銀当座預金残高の目標を拡大して金融システムと景気を支えます。
景気回復と物価の改善が進むと、2006年3月に量的緩和政策を終了し、金融政策の操作目標を短期金利へ戻しました。1999年から始まった非伝統的政策から、初めて本格的な出口へ向かった瞬間です。
しかし正常化は長く続きません。世界の金融市場では米国住宅バブルと証券化商品の問題が膨らみ、次の総裁は就任直後に世界金融危機へ直面します。
白川方明――リーマン・ショック、ETF購入、そして2%目標
2008年4月、第30代総裁となった白川方明は、就任から半年後にリーマン・ブラザーズ破綻を迎えました。世界の金融市場が急停止し、日本でも輸出と生産が急落します。
日銀は政策金利を再びほぼゼロへ下げ、金融市場への資金供給、企業金融支援、CP・社債買い入れなどを進めました。2010年には包括的金融緩和を導入し、長期国債に加えてETFやJ-REITも買い入れる基金を設けます。日銀によるETF購入は黒田時代から始まった制度ではなく、白川時代が出発点です。
2012年末に安倍晋三政権が成立すると、政府はデフレ脱却のため強力な金融緩和を求めました。2013年1月、白川総裁の下で日銀は消費者物価上昇率2%の「物価安定の目標」を正式に採用し、政府と共同声明を発表します。
2%目標そのものは黒田東彦総裁の就任前に決まりました。白川時代に目標が制度化され、次の黒田総裁がその達成方法を大きく変える、という順序です。
黒田東彦――「2年で2%」を掲げた異次元緩和
2013年3月、第31代総裁となった黒田東彦は、就任直後の4月に「量的・質的金融緩和(QQE)」を導入しました。長期国債の買い入れを大幅に増やし、マネタリーベースを急拡大します。
狙いは、長く続いた「物価も賃金も上がらない」という予想を変えることでした。黒田は2%目標を約2年で実現する姿勢を示し、政策の規模とメッセージの強さで期待に働きかけました。
しかし2%の物価上昇は想定した期間には定着しません。2014年にはQQEを拡大し、2016年1月にはマイナス金利政策を決定しました。金融機関が日銀に預ける当座預金の一部へマイナス0.1%を適用し、より強く金利を押し下げます。
長期金利まで大きく低下すると、銀行収益や保険・年金運用への影響も広がりました。2016年9月、日銀は「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」を導入します。短期金利をマイナス0.1%、10年国債利回りをおおむねゼロ%程度へ誘導するYCC(イールドカーブ・コントロール)です。
黒田日銀を成功・失敗の二択で評価できない理由
黒田東彦の10年間には、金融政策の効果と副作用が同時に積み上がりました。大規模な国債買い入れは長期金利を押し下げ、企業や住宅ローンの資金調達環境を緩和しました。円高修正や株価上昇と重なり、雇用環境も改善します。
一方、2%の物価目標は長く安定的には達成されず、金融機関の利ざや縮小、国債市場の取引機能低下、日銀の巨大な国債・ETF保有などが課題として残りました。
日本銀行が2023~24年に進めた「金融政策の多角的レビュー」でも、非伝統的金融政策には金利低下や経済・物価の押し上げ効果があった一方、市場機能や金融機関収益などへの副作用が検証されています。「完全な成功」「何も効かなかった」のどちらにも収まらない政策でした。
コロナと円安――政府の財政と黒田日銀が再び並走する
2020年、新型コロナウイルス感染症で経済活動が急停止すると、黒田東彦の日銀は企業金融支援、CP・社債買い入れ、市場への資金供給などを拡大しました。政府は麻生太郎財務大臣の下で巨額の補正予算を編成し、財政と金融が同時に危機対応へ動きます。
コロナ後には世界的な供給制約、資源価格上昇、ロシアによるウクライナ侵攻などで海外のインフレが高まりました。米欧の中央銀行が急速に利上げする一方、日本銀行はYCCを維持します。海外との金利差が広がり、円安が進みました。
為替政策と金融政策の役割は異なります。日銀は特定の円相場を守ることを目的に金融政策を決める機関ではなく、為替介入は財務大臣の権限で実施されます。ただし国内外の金利差は為替相場に大きく影響するため、財務省と日銀の政策は市場で密接につながります。
植田和男――ゼロ金利時代の始まりを知る人が、その出口を担う
2023年4月、第32代総裁に植田和男が就任しました。経済学者出身で、1998年から2005年まで日銀政策委員会審議委員を務めた経歴を持ちます。
植田は審議委員として1999年のゼロ金利政策、2001年の量的緩和政策を経験しました。2000年のゼロ金利解除では反対票を投じています。日本が非伝統的金融政策へ踏み出した最初期を知る人物が、約20年後に総裁としてその長い時代の出口を担うことになりました。
植田日銀は2023年7月からYCCの運用を段階的に柔軟化し、同年10月にも長期金利の運用を見直しました。黒田時代の枠組みを一度に撤去するのではなく、市場への影響を見ながら少しずつ変更しました。
2024~2026年――マイナス金利を終え、「金利のある日本」へ
2024年3月19日、植田和男総裁の下で日本銀行は大きな政策転換を決めました。マイナス金利政策を終了し、YCCを終了し、ETF・J-REITの新規買い入れも終了しました。金融政策の中心を再び短期金利へ戻します。
その後、日銀は段階的に政策金利を引き上げました。2026年6月の金融政策決定会合では無担保コールレート(オーバーナイト物)の誘導目標を1.0%程度へ引き上げ、7月31日の会合でも1.0%程度を維持しています。2026年9月7日現在、植田総裁が在任し、政策金利は1.0%程度です。
日銀が1882年に生まれたころの課題は、全国で信用される銀行券と中央銀行制度をつくることでした。1999年からは金利がほぼゼロになった後の政策を世界に先駆けて試し、2024年以降はその異例の政策から通常の金利政策へ戻る道を探っています。
歴代日本銀行総裁一覧――第1代吉原重俊から第32代植田和男まで
| 代 | 総裁 | 在任期間 | 時代の主な金融テーマ |
|---|---|---|---|
| 1 | 吉原重俊 | 1882~1887 | 日銀創設、銀行券・決済制度整備 |
| 2 | 富田鐵之助 | 1888~1889 | 政府と中央銀行の初期対立 |
| 3 | 川田小一郎 | 1889~1896 | 明治金融制度の整備 |
| 4 | 岩崎彌之助 | 1896~1898 | 金本位制移行期 |
| 5 | 山本達雄 | 1898~1903 | 正貨準備、政府貸出抑制 |
| 6 | 松尾臣善 | 1903~1911 | 日露戦争、戦費・正貨・戦後引締め |
| 7 | 高橋是清 | 1911~1913 | 国際金融、大蔵大臣へ転出 |
| 8 | 三島彌太郎 | 1913~1919 | 第一次世界大戦、大戦景気 |
| 9 | 井上準之助 | 1919~1923 | 戦後恐慌、救済金融 |
| 10 | 市来乙彦 | 1923~1927 | 関東大震災、震災手形、金融恐慌 |
| 11 | 井上準之助 | 1927~1928 | 金融恐慌後の再建 |
| 12 | 土方久徴 | 1928~1935 | 金解禁、高橋財政、国債引受け |
| 13 | 深井英五 | 1935~1937 | 金融緩和の出口、二・二六事件 |
| 14 | 池田成彬 | 1937 | 戦時体制への移行 |
| 15 | 結城豊太郎 | 1937~1944 | 戦時金融、1942年日銀法 |
| 16 | 渋澤敬三 | 1944~1945 | 戦争末期の国債・軍需金融 |
| 17 | 新木栄吉 | 1945~1946 | 敗戦直後の金融 |
| 18 | 一萬田尚登 | 1946~1954 | 戦後インフレ、ドッジ・ライン |
| 19 | 新木栄吉 | 1954~1956 | 戦後復興から成長期へ |
| 20 | 山際正道 | 1956~1964 | 高度成長、国際収支、金融引締め |
| 21 | 宇佐美洵 | 1964~1969 | 高度成長後半、国際収支 |
| 22 | 佐々木直 | 1969~1974 | ニクソン・ショック、石油危機 |
| 23 | 森永貞一郎 | 1974~1979 | インフレ収束、国債市場 |
| 24 | 前川春雄 | 1979~1984 | 第二次石油危機、金融自由化 |
| 25 | 澄田智 | 1984~1989 | プラザ合意、円高、バブル形成 |
| 26 | 三重野康 | 1989~1994 | 金融引締め、バブル崩壊 |
| 27 | 松下康雄 | 1994~1998 | 不良債権、金融システム危機 |
| 28 | 速水優 | 1998~2003 | 新日銀法、ゼロ金利、量的緩和 |
| 29 | 福井俊彦 | 2003~2008 | 量的緩和継続と2006年の出口 |
| 30 | 白川方明 | 2008~2013 | リーマン、包括緩和、ETF、2%目標 |
| 31 | 黒田東彦 | 2013~2023 | QQE、マイナス金利、YCC、コロナ |
| 32 | 植田和男 | 2023~ | YCC柔軟化、マイナス金利終了、金利正常化 |
公式上は第32代までですが、井上準之助と新木栄吉がそれぞれ二度就任しているため、「32代」と「32人」は一致しません。歴代総裁の在任期間と読み方は日本銀行の公式歴代表に基づいています。
円を守る仕事は、時代ごとに意味が変わった
吉原重俊の時代、「円を守る」とは銀行券を統一し、人々が安心して紙幣を受け取れる国をつくることでした。山本達雄や松尾臣善の時代には金本位制と正貨を守ること、高橋是清や土方久徴の時代には恐慌から経済を救うこと、戦後の一萬田尚登にはインフレと復興の双方を管理することでした。
佐々木直は高インフレと戦い、澄田智と三重野康は資産価格の膨張と崩壊に直面しました。速水優以降の日銀は、政策金利をゼロまで下げても物価が上がらない世界で、新しい金融政策を次々に開発しました。そして植田和男は、その非伝統的政策から通常の金利政策へ戻る過程を担っています。
中央銀行の判断には常に代償があります。金融を締めればインフレやバブルを抑えられる一方、企業と家計の借入れは重くなります。緩めれば景気を支えられる一方、資産価格、通貨、銀行収益、市場機能への別の影響が生まれます。歴代総裁の選択は、どの問題をその時点で最も危険と見たかの違いでもありました。

