戦後日本に駐屯した英・豪・NZ・インド軍|英連邦占領軍BCOFの全国拠点を徹底調査

東京・恵比寿に置かれた英連邦占領軍エビス・キャンプの全景

東京・中目黒に、かつてオーストラリア軍を中心とする外国軍基地がありました。現在の防衛省目黒地区に置かれた「エビス・キャンプ」です。航空自衛隊の公式沿革には、1945年11月に「英連邦軍(豪州軍)が進駐」、1956年1月に接収解除と記されています。

戦後日本の占領軍というと、GHQと米軍の印象が圧倒的です。しかし1946年、日本にはオーストラリア、イギリス、ニュージーランド、英領インドからなるBritish Commonwealth Occupation Force(BCOF、英連邦占領軍)が本格進駐しました。主な担当区域は広島・山口・岡山・鳥取・島根の中国5県と四国4県。ピーク時には約3万6000人が展開し、東京にも独自の司令・警備拠点を持っていました。

呉には総司令部と大規模な基地部隊、江田島には司令部、防府と岩国には英連邦空軍、下関にはニュージーランド軍、鳥取にはパンジャブ連隊、松江や岡山には英印軍が入りました。1950年に朝鮮戦争が始まると、旧BCOF基地は英連邦軍の後方基地へ転じ、カナダ軍まで日本国内に置かれます。

英連邦占領軍BCOFとは何だったのか

BCOFは、第二次世界大戦後の日本占領に参加した英連邦諸国の統合部隊です。オーストラリア戦争記念館の公式記録では、構成国はオーストラリア、イギリス、ニュージーランド、インド。1946年1月31日に参加が公表され、オーストラリア軍主力は2月21日に日本へ到着しました。

指揮官は一貫してオーストラリア軍将官が務めました。初代司令官はジョン・ノースコット中将です。部隊には陸軍だけでなく、空軍、海軍、病院、輸送、通信、補給、郵便、修理、衛生、軍警察などが含まれていました。ひとつの国の歩兵旅団が日本へ来たという規模ではなく、占領地域で長期間活動できる独立性の高い軍事組織でした。

兵力は1946年春から急増しました。国立国会図書館が紹介する米第8軍資料では、BCOFは2月末7,062人、3月末14,096人、4月末25,442人、5月末34,965人、8月末36,154人です。1946年夏には約3万6000人規模となり、中国5県と四国4県へ展開しました。

その後は縮小が進み、1948年12月には担当区域が広島県と山口県岩国管区へ絞られました。1946年12月末には37,021人だった兵力も、1948年4月には12,009人まで減っています。

BCOFは米第8軍とSCAPの指揮体系に組み込まれ、武装解除、旧日本軍兵器の捜索・破壊、治安、密入国監視、航空監視、復員者の受け入れ、選挙監視などを担当しました。地方の軍政は米軍の軍政機構が担い、BCOFは軍事的な監視と警備を担いました。

全国配置を先に見る|どの国の軍隊がどこにいたのか

地域主な拠点主な部隊・国役割
東京エビス・キャンプ、丸の内豪州軍中心の英連邦軍東京地区司令、皇居警備、宿泊・休暇支援
広島県呉、江田島、広、海田市、福山豪州軍中心BCOF総司令・基地・歩兵旅団・兵站
山口県下関、防府、岩国NZ軍、英連邦空軍、豪空軍山口占領、航空基地、航空監視
岡山県岡山市など英印師団英印軍の司令・駐屯
鳥取県岩倉兵営、美保飛行場パンジャブ連隊、英・印空軍武装解除、警備、日本海沿岸監視
島根県松江、浜田、出雲英国軍・英印軍山陰の占領・警備
四国松山、高知、徳島など英国軍四国4県の占領・訓練

この表は主要拠点を整理したもので、実際の配置は部隊の撤収や再編、警備交代によって変化しました。1946年の最盛期と1948年以降の縮小期では地図が大きく異なります。

東京|中目黒にあったエビス・キャンプ

東京都内で最も明確に追えるBCOF拠点がエビス・キャンプです。現在の防衛省目黒地区一帯にあたり、航空自衛隊目黒基地の沿革には1945年11月の英連邦軍進駐と1956年1月の接収解除が明記されています。戦前、この場所には海軍技術研究所がありました。

BCOFは中国・四国を主担当としましたが、東京にはSCAP、連合国代表部、日本政府の中央機関が集中していました。このため1946年4月、東京にBritcom Sub Area Tokyoが設けられます。BCOFは皇居警備用の1個大隊を交代で東京へ送り、英連邦軍関係者の宿泊、連絡、休暇、輸送などを支える拠点を維持しました。

東京地区司令部は当初、丸の内のEmpire Houseに置かれ、1948年10月の閉鎖後にエビス・キャンプへ移りました。1946年5月11日には豪第65歩兵大隊の40人が米第7騎兵連隊から皇居警備を引き継ぎ、BCOFによる皇居警備が始まっています。1949年にはオーストラリア陸軍第67大隊、のちの第3大隊ロイヤル・オーストラリア連隊がエビス周辺の警備任務に就いていました。

占領期の東京では、日本政府とGHQの折衝が日常的に行われていました。日本側でその交渉に深く関わった人物の一人が白洲次郎です。占領下の中央政治については、「白洲次郎の生涯|英国帰りの青年は、敗戦後の日本で何をしたのか」で憲法改正と講和まで詳しくたどっています。

広島県|呉・江田島・広・海田市に巨大な軍事ネットワーク

BCOFの中心は東京ではなく広島県でした。くれ市の公式年表によれば、1946年2月1日に英連邦占領軍先遣隊と海軍部隊が呉へ入港し、後続部隊が次々に上陸しました。総司令部と基地部隊が置かれ、ここから中国・四国へ展開します。

1946年に呉へ到着した英連邦占領軍のオーストラリア兵
1946年2月、呉へ到着した英連邦占領軍のオーストラリア兵。Australian War Memorial所蔵

呉にはHQ BCOFとBritcom Baseが置かれ、港湾、倉庫、宿舎、輸送、補給、修理、医療、通信などが集中しました。旧呉海軍基地のインフラは、敗戦後そのまま英連邦軍の巨大な兵站拠点へ転用されました。豪州軍の基地部隊には製パン、洗濯、郵便、衛生、給水、修理、軍警察まで含まれ、長期駐留を支える都市機能が組み込まれていました。

1946年5月、総司令部は江田島えたじまの旧海軍兵学校へ移りました。現在の海上自衛隊第1術科学校の公式沿革も、終戦後11年間にわたり米・英連邦軍などが施設を使用したと記録しています。旧海軍の士官教育施設が、敗戦直後には連合国軍の司令拠点となり、1956年に海上自衛隊へ引き継がれました。

豪第34歩兵旅団は当初海田市かいたいちに旅団本部を置き、1946年7月に広へ移りました。第65歩兵大隊は福山、第66大隊は広、第67大隊は海田市に配置されました。現在の陸上自衛隊海田市駐屯地も、公式沿革で「戦後、英豪軍が駐留」としています。

1946年の海田市キャンプとインド軍返納品集積所
1946年10月、海田市キャンプ。中央はインド軍返納品集積所。Australian War Memorial所蔵

広島県内には兵士だけでなく家族も暮らしました。1947年以降、家族同伴を進めるため住宅や学校などが整備され、虹村にはBCOF軍人家族向けの大規模住宅地と学校が置かれました。軍人本人だけでなく配偶者や子どもが日本で生活したことは、BCOF駐留の特徴の一つです。

山口県|ニュージーランドJ Forceと英連邦空軍

ニュージーランドの日本占領部隊は「J Force」と呼ばれました。ニュージーランド政府の歴史資料によると、1946年3月、4200人を超える兵士が日本へ到着し、さらにニュージーランド空軍第14飛行隊の約280人が加わりました。主力は山口県に展開し、下関しものせきに司令部が置かれました。交代要員を含めると、延べ1万2000人を超えるニュージーランド人がJ Forceで日本勤務を経験しました。

1946年の下関で閲兵を受けるニュージーランド第9旅団
1946年7月、下関で閲兵を受けるニュージーランド第9旅団。Australian War Memorial所蔵

J Forceの仕事は旧日本軍施設の捜索、武装解除、治安、復員・送還の監視、密入国対策などでした。山口県は朝鮮半島に近く、関門海峡と日本海・瀬戸内海の交通を押さえる位置にあります。占領軍にとって下関は、人と物資の移動を監視する重要地点でした。

航空戦力の主要拠点が防府ほうふ岩国いわくにです。防府にはオーストラリア空軍第81航空団と複数の飛行隊が展開しました。岩国は英連邦空軍の重要基地となり、のちの朝鮮戦争では英豪空軍機がここから前線支援へ飛び立ちます。

1946年に防府飛行場を視察する英連邦占領軍司令官一行
1946年4月、防府飛行場と兵舎を視察する英連邦占領軍司令官一行。Australian War Memorial所蔵

岩国市の公式説明は、戦後の岩国飛行場に「英連邦空軍・米空軍が駐留」と記しています。朝鮮戦争勃発後には英海軍部隊や英豪空軍機も使用し、単発戦闘機やジェット戦闘機が朝鮮半島へ向けて出撃しました。現在の米海兵隊岩国航空基地の前史には、英連邦軍が使用した時代があります。

鳥取・岡山・島根|パンジャブ兵、グルカ兵、英印軍がいた山陰・山陽

一般的な占領史から最も抜け落ちやすいのが英領インド軍です。1946年当時、インドはまだ独立前で、BCOFには英国軍と英領インド軍からなるBritish-Indian Divisionが参加しました。岡山に師団司令部、松江方面に第268インド旅団が置かれ、パンジャブ、グルカなどインド亜大陸出身の兵士が日本で任務に就きました。

鳥取県の記録は特に詳しく残っています。1945年10月、米第24師団の部隊が旧鳥取歩兵第40連隊の岩倉いわくら兵営を接収しました。翌1946年、担当がBCOFへ移ると、第1パンジャブ連隊第5大隊が進駐します。鳥取県立公文書館の整理では、4月25日に先遣隊110人が岩倉兵舎跡へ到着しました。

5月30日にはパンジャブ兵が鳥取市中心部を行進しました。当時の新聞は、軍楽隊や異なる軍帽、服装を目にした市民の反応を伝えています。敗戦からまだ一年も経たない鳥取の街を、南アジア出身の兵士たちが隊列を組んで歩いていました。

美保みほ飛行場では米軍から英連邦空軍へ交代し、英国空軍第11・第17飛行中隊、インド空軍第4飛行中隊などが使用しました。スピットファイアによる日本海沿岸の密航監視飛行も行われています。鳥取県資料には、大山を背景に飛行する英連邦軍機の記録が残っています。

島根県では松江まつえ、浜田、出雲などに英国軍・英印軍が入りました。岡山は英印師団の中枢で、グルカ部隊も駐屯しています。1947年のインド独立と英連邦軍縮小に伴い、これらの部隊は順次日本を離れました。

1946年の松江で英印師団司令官の視察を迎える様子
1946年4月、松江で英印師団関係部隊を視察する様子。Australian War Memorial所蔵

四国|英国軍が4県を担当した

四国4県はBCOFの担当区域に組み込まれ、英国軍第5歩兵旅団が担当しました。BCOFの公式史では、初期の旅団司令部は松山に置かれ、愛媛・香川・徳島・高知の4県を受け持ったと記録されています。松山には英連邦軍の陸軍訓練センターも置かれました。

指揮系統では、第5歩兵旅団は岡山に司令部を置く英印師団の隷下でした。同じ英印師団の第268インド旅団は松江を司令部として岡山・鳥取・島根を担当しており、岡山の師団司令部から四国と山陰・山陽の英国・英印軍部隊を束ねる構成でした。

占領軍は何をしていたのか|武装解除から密入国監視まで

BCOFの任務は警備に加え、旧日本軍の兵器・弾薬の発見と破壊、選挙の監視、海外から帰還する日本軍人・民間人の受け入れ、違法入国の取り締まり、航空監視、情報収集まで広がっていました。オーストラリア戦争記念館の公式記録にも、これらの任務が列挙されています。

日本軍は敗戦後、膨大な兵器、軍需工場、飛行場、倉庫、港湾施設を残していました。占領軍は旧軍施設を接収し、兵器を集め、使用不能にし、必要な施設は自軍の基地へ転用しました。呉、江田島、海田市、美保、防府、岩国などで旧日本軍基地がそのまま占領軍基地へ変わったのは、この過程です。

一方、行政改革や制度変更を日本政府へ命令する中心機関はGHQでした。BCOFが担当県を独立統治したのではなく、日本政府を通じて占領政策を実施するSCAP体制の下で、軍事的な監視・警備・武装解除を担いました。この関係を押さえると、「中国・四国はオーストラリアに占領された」という単純化を避けられます。

1947年から急速に縮小|インド独立と各国部隊の撤収

BCOF最大規模の時代は長く続きませんでした。英国とインドの部隊は1947年に撤収が進み、ニュージーランド軍も1948~49年にかけて縮小・撤退します。1949年頃にはBCOFの大部分をオーストラリア軍が占めるようになりました。

1947年8月にはインドとパキスタンが分離独立しました。日本にいた英領インド軍の部隊も、独立後の新しい国家と軍の再編に向けて帰国します。鳥取や岡山で見られたパンジャブ兵、グルカ兵の姿は、占領初期数年間に集中しています。

アジア歴史資料センターによると、1948年12月にはBCOFの担当区域は広島県と岩国管区まで縮小しました。広大な中国・四国9県を覆っていた占領網は、呉・広・岩国周辺を中心とする体制へ変わっていきます。

朝鮮戦争で基地が再び重要に|カナダ軍も日本へ

1950年6月、朝鮮戦争が始まると、日本国内の英連邦軍施設は別の役割を持ち始めます。呉、広、岩国などは朝鮮半島へ向かう部隊の補給、訓練、休養、医療、輸送を担う後方基地となりました。

この時期にはカナダ軍も日本に部隊を置きました。カナダ国防省によると、日本で勤務したのは主に補給・郵便・通信などの行政部隊、英連邦病院要員、補充兵を管理・訓練する第25カナダ増援群で、これらはくれに配置されました。

カナダ軍は1946年のBCOF占領部隊には含まれません。日本占領への参加ではなく、朝鮮戦争を支えるための日本駐留です。占領期と朝鮮戦争期を分けると、日本にいた外国軍の顔ぶれが変化したことが分かります。

1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本の占領は終了しました。条約発効後にBCOFは解消され、英連邦軍の朝鮮戦争支援はBritish Commonwealth Forces Korea(BCFK)へ引き継がれます。呉のBritcom Baseや東京地区の支援機能はBCFKの後方拠点として残り、エビス・キャンプも1956年まで接収が続きました。1956年後半には日本国内の英連邦軍部隊の撤収が本格化しました。

実現しなかった中国軍の愛知進駐計画

連合国側では、中華民国軍を日本占領へ参加させる計画も具体化していました。米国務省の外交文書には、中国占領軍の部隊と物資を原則として名古屋港から上陸させる協定案が残っています。担当区域として愛知県が検討され、1万人を超える部隊の準備が進みました。

しかし中国国内では国共内戦が激化し、大規模な中国軍部隊の日本進駐は実現しませんでした。名古屋や愛知県に「中国軍占領地区」が成立した事実はなく、実際に日本本土へ展開したBCOFと区別する必要があります。

実現しなかったソ連軍の北海道北部進駐要求

ソ連も日本本土への進駐を求めました。1945年8月16日、スターリンはトルーマン大統領に対し、北海道北部をソ連軍への日本軍降伏区域に加えるよう要求しています。境界案は釧路くしろから留萌るもいへ引く線で、両都市を北側に含めるという具体的なものでした。

翌17日、トルーマンは北海道・本州・四国・九州の日本本土では日本軍がマッカーサーへ降伏する方針を回答しました。スターリンも22日の返書で北海道北部要求が拒否されたことを認識しています。北海道にソ連軍占領地区やソ連軍駐屯地は成立しませんでした。

現在もたどれる「米軍以外の占領軍」の痕跡

BCOFの施設は撤収後、多くが日本側へ返還されました。現在の施設を追うと、戦前の日本軍基地、占領軍基地、自衛隊施設という三つの時代が同じ土地に重なっています。

  • エビス・キャンプ:現在の防衛省目黒地区
  • 旧海軍兵学校・BCOF司令部:現在の海上自衛隊第1術科学校・幹部候補生学校
  • 海田市キャンプ:現在の陸上自衛隊海田市駐屯地
  • 防府飛行場:現在の航空自衛隊防府北基地周辺
  • 美保飛行場:現在の航空自衛隊美保基地・米子鬼太郎空港
  • 岩国飛行場:現在の米海兵隊岩国航空基地

戦後の基地史は「日本軍施設が米軍基地になった」という一本線だけでは捉えきれません。中国・四国では、旧日本軍施設を一度英連邦軍が使用し、その後日本側へ返還された場所が数多くあります。東京のエビス・キャンプもその一つです。

年表|1945年から1956年まで

  • 1945年8月 日本降伏。ソ連が北海道北部への進駐を要求するが米国が拒否
  • 1945年11月 東京の旧海軍技術研究所に英連邦軍(豪州軍)が進駐、エビス・キャンプとなる
  • 1946年2月 BCOFが本格進駐。呉に司令部・基地部隊を設置
  • 1946年3月 ニュージーランドJ Force主力が日本到着、山口県へ展開
  • 1946年4~6月 鳥取・岡山・島根などで米軍から英連邦軍への交代が進む
  • 1946年5月 BCOF総司令部が呉から江田島へ移転
  • 1946年夏 兵力が約3万6000人規模に達する
  • 1947年 英国・英領インド部隊の撤収が進む。8月にインド・パキスタン独立
  • 1948~49年 NZ軍撤退、担当区域縮小。BCOFは豪州軍中心へ
  • 1950年6月 朝鮮戦争勃発。呉・岩国などが英連邦軍の後方基地として再活用
  • 1951年 カナダ軍の補充・通信・郵便・医療部隊などが呉で活動
  • 1952年4月28日 サンフランシスコ平和条約発効、日本の占領終了
  • 1956年1月 エビス・キャンプ接収解除。江田島などでも日本側への返還が進む

参考資料