東京アメリカンクラブの歴史|戦前の満鉄クラブ・川村純義邸との関係

2019年撮影の東京アメリカンクラブ麻布台クラブハウスの正面入口と建物

麻布台の東京アメリカンクラブが建つ土地には、かつて南満洲鉄道株式会社(満鉄)の東京本社・支社があり、戦前には「東京満鉄倶楽部」と呼ばれた施設がありました。その前には明治の海軍大将・川村純義の邸宅が建ち、幼い昭和天皇もここで過ごしています。

東京アメリカンクラブは1928年に有楽町で創設され、1954年に麻布台へ移った会員制社交クラブです。

東京アメリカンクラブとは

東京アメリカンクラブ(Tokyo American Club)は、東京に暮らす外国人や日本人などが社交、文化交流、スポーツ、ビジネスに利用する民間の会員制クラブです。1928年、東京在住のアメリカ人51人によって創立されました。

港区麻布台2丁目にある現在のクラブハウスには、レストラン、図書館、宴会場、プール、スポーツ施設などが設けられています。公式サイトによると、会員は60を超える国・地域に広がっています。2011年1月18日に開館した建物は、建築家シーザー・ペリらの設計事務所ペリ・クラーク・ペリが手がけました。

江戸の大名屋敷から川村純義の洋館へ

江戸時代、この一帯には陸奥三春藩秋田家の中屋敷がありました。港区発行の地域情報紙『ザ・AZABU』第59号は、その屋敷地が現在のロシア大使館と東京アメリカンクラブにまたがっていたと記録しています。

明治15年(1882年)、海軍大将となる川村純義かわむらすみよしは、麻布狸穴町あざぶまみあなちょう4番地に洋館を建てました。約1万平方メートルの敷地に建てられた邸宅の設計者は、鹿鳴館ろくめいかんを手がけた英国人建築家ジョサイア・コンドルです。港区の資料では、コンドルが設計した最初の個人住宅とされています。

海軍軍服を着用した川村純義の白黒肖像写真
海軍大将・川村純義。出典:国立国会図書館『近世名士写真 其2』/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。

明治34年(1901年)に迪宮みちのみや裕仁親王、のちの昭和天皇が誕生すると、川村は養育主任に任じられました。親王は生後約70日から3歳になるまで、狸穴町の川村邸と静岡県沼津の別邸で養育されました。川村が亡くなったのは1904年です。

川村邸の洋館は、1954年に土地が東京アメリカンクラブへ渡るころまで残っていました。戦後まで続いた明治の洋館の姿は、港区『ザ・AZABU』第45号にも写真とともに紹介されています。

1906年、満鉄の東京本社は麻布狸穴町4番地にあった

日露戦争後、日本は中国東北部の鉄道や炭鉱などの権益を引き継ぎました。これらを経営するため、明治39年(1906年)に南満洲鉄道株式会社が設立されます。略称は「満鉄」。鉄道輸送に加え、港湾、鉱業、都市開発、調査活動などを担い、日本の中国東北部における経済活動と支配を支えた国策会社でした。

初代総裁は後藤新平ごとうしんぺいです。1906年11月10日、清国政府は、日本単独の満鉄設立が条約違反だと抗議しました。

初代満鉄総裁・後藤新平の1925年の白黒肖像写真
満鉄初代総裁・後藤新平(1925年)。Bain News Service/米国議会図書館/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。

渋沢栄一記念財団の「渋沢社史データベース」に収録された『満鉄四十年史』の年表には、1906年11月26日の設立総会の記事とともに、本社所在地が「東京市麻布区狸穴町四番地」と明記されています。同年12月7日に会社設立登記が完了しました。

翌1907年3月5日、本社は大連だいれんへ移転し、東京には支社が置かれました。同年4月1日には鉄道、炭鉱、埠頭などの営業が始まっています。港区の資料で「満鉄東京本社」と「満鉄東京支社」の両方の呼び名が登場する背景には、この組織の移転があります。

1928年に満鉄が作成した中国東北部と朝鮮半島周辺の英文地図
南満洲鉄道株式会社の1929年刊行物に収録された満洲地図。1928年作図。出典:『Report on Progress in Manchuria 1907–1928』/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。

戦前の「東京満鉄倶楽部」とは

東京支社として使われた麻布の土地には、後に「東京満鉄倶楽部」という施設が置かれました。港区『新修港区史』には「東京満鉄倶楽部(現アメリカンクラブ)」と記載されています。2013年に地域住民がまとめた『歴史散策マップ』も、満鉄東京支社の後に東京満鉄倶楽部となったと伝えています。

満鉄の倶楽部は、会社関係者の交流や賓客の応接に関わる社交施設でした。千葉大学の庭園史研究には、外国の外交関係者を迎えた場所としての記録があります。明治期の川村邸から受け継がれた敷地と庭園は、満鉄が活動した戦前期にも利用されていました。

東京満鉄倶楽部と東京アメリカンクラブは別々の組織として活動していました。

明治・昭和の古地図に残る麻布台の変化

明治16~17年(1883~1884年)に測量された『五千分一東京図測量原図』には、麻布狸穴町あざぶまみあなちょうの「河村邸」と、北東側の「秋田邸」が描かれています。「河村邸」は川村純義かわむらすみよしの邸宅を指し、地図では姓を「河村」と記しています。両邸宅の南側には「海軍観象台」もあります。

明治の五千分一東京図。河村邸、秋田邸、海軍観象台が描かれた部分図
明治の『五千分一東京図測量原図』麻布狸穴町部分図。河村邸、秋田邸、海軍観象台が描かれる。作成:参謀本部陸軍部測量局。国土地理院所蔵原図。

昭和戦前期の『大東京区分図三十五区之内 麻布区詳細図』では、川村邸があった一帯が「満鉄クラブ」と記され、隣には「ソヴィエト大使館」があります。南側には「東京天文台」の表記も残っています。

昭和戦前期の麻布区詳細図。満鉄クラブ、ソヴィエト大使館、東京天文台が示された部分図
昭和戦前期の『大東京区分図三十五区之内 麻布区詳細図』部分図。満鉄クラブ、ソヴィエト大使館、東京天文台が記載される。植野録夫著作(刊年未特定)。

明治の地図にある「秋田邸」は、旧三春藩主・秋田映季あきたあきすえの邸宅でした。その後、旧肥前蓮池藩主の鍋島家が屋敷を構え、1928年に土地がソヴィエト大使館へ売却されます。1930年には大使館の建物が建設されました。現在のロシア大使館にあたる場所です。

明治の地図にある海軍観象台は、海軍が天体や時刻を観測した施設です。1888年、東京大学天象台などと統合して東京天文台となりました。1924年に観測の中心が三鷹へ移転した後も、麻布の旧施設は東京大学の天文学教育に使われました。日本経緯度原点にほんけいいどげんてんは、1892年に東京天文台の子午環の中心に定められ、現在も麻布台に位置しています。

東京アメリカンクラブの創設と戦時中の閉鎖

大正末から昭和初期の東京では、外交官や実業家が集う会員制社交クラブが国際交流の場を担っていました。創設メンバーが借りた最初の施設は、有楽町の岩本ビル最上部3フロアでした。向かいには、フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテル二代目本館が建っていました。1935年、会員の増加に伴い丸の内の「仲10号館8号」へ移転しました。この場所は現在の丸の内パークビルディング(千代田区丸の内2丁目6番1号)の敷地にあたります。

1941年の日米開戦でクラブは活動を停止しました。旧クラブの建物は1945年9月に連合国軍に接収され、1949年4月までGHQ関東地区民政部などの事務所として使われました。同年7月4日、クラブは丸の内で350人の会員とともに再開しました。アメリカ人駐在員の家族が増え、食事や社交に加え、子どもを含む家族の余暇を過ごす施設としての需要が高まりました。

敗戦後の接収と1954年の麻布台移転

昭和20年(1945年)の敗戦で満鉄の事業は終わりました。千葉大学の研究は、同年9月に進駐軍が施設を接収し、その後ダンスホールとして利用したと記録しています。敷地の一部には旧来の庭園が残されました。

昭和29年(1954年)、東京アメリカンクラブは麻布台の土地を譲り受けて移転しました。丸の内のビルから広い敷地へ移ったことで、屋外プールをはじめとする会員向け施設が整備され、家族で過ごす場所としての性格が強まっていきます。

当時の移転をめぐってはクラブ内部でも意見が分かれ、決定は1票差だったとクラブの沿革を扱う記事に記録されています。

1970年代の建て替えと2011年の新クラブハウス

1975年、麻布台に新しいクラブハウスが開館し、日本人や米国以外の外国人にも会員層が広がりました。港区の『麻布未来写真館』には、1971年のクラブでの催しや、2005年の建て替え前の建物の写真が残されています。

老朽化した建物の再建に伴い、クラブは2008年に高輪の仮施設へ移りました。現在の麻布台クラブハウスは2011年1月18日に開館しました。大人向けの会議・社交空間と家族向けのスポーツ・余暇空間を建物内で分け、両者を一つの施設にまとめています。

大正時代の麻布を古地図からたどる記事では、近代の麻布の街路や土地利用を紹介しています。コンドルの建築を今に伝える建物としては、旧岩崎邸庭園の洋館を訪ねた記録もあります。

主な参考資料