第8回は、番町、紀尾井町、四谷、青山北町周辺の4図を読みます。江戸城西側の武家地が、明治期に官僚・政治家の邸宅、軍用地、皇族・華族地、外国公館へ転換していく地域です。
千代田区は、明治維新後の番町界隈で旗本屋敷跡地が官僚・政治家の屋敷街へ変わり、紀尾井町周辺には軍用地や皇族・華族地が置かれたと説明しています。五千分一東京図は、その再編を街区単位で追うことができます。
五千分一東京図測量原図とは
本シリーズ全9地域の位置関係、資料番号1001〜1038の対応、地図の読み方は「明治五千分一東京図を読む|9地域・38資料 完全ガイド」にまとめています。
国土地理院「古地図コレクション」では、五千分一東京図測量原図を明治16〜17年に作成された東京市中の地図として整理しています。資料番号は国土地理院における資料整理番号です。
東京府武蔵国麹町区番町近傍
国土地理院 資料番号1029

資料番号1029は明治16年(1883)6月の測図です。番町の旧武家地だけでなく、市ヶ谷台の「陸軍士官學校」、改称直後の「靖國神社」、開校間もない「番町學校」、上二番町へ移転したばかりの「出雲大社」、さらに市ヶ谷門・四谷門や複数の寺院が同じ図面に収まっています。江戸の武家地が軍事・教育・宗教施設へ再編される途中を具体的に追える原図です。
市ヶ谷台の陸軍士官学校と周辺寺院
市ヶ谷台には「陸軍士官學校」が大きく描かれています。陸軍士官学校は明治7年(1874)に市ヶ谷へ移り、1029は移転から約9年後の姿です。原図では構内に「馬場」「体操場」も書き分けられており、ここが校舎だけではなく、乗馬や身体訓練まで行う広い軍事教育施設だったことが読み取れます。後年、この市ヶ谷地区には陸軍省・参謀本部が置かれ、昭和9年(1934)建築の士官学校本部庁舎は戦後に極東国際軍事裁判の法廷として使われました。現在の防衛省市ヶ谷地区へつながる土地です。
その周辺には「長龍寺」「長延寺」「常仙寺」も確認できます。長龍寺は文禄2年(1593)に麹町四番町で開かれ、のち市ヶ谷左内坂へ移転しました。明治42年(1909)には陸軍士官学校の拡張に伴い高円寺へ移っています。長延寺も明治42年に杉並へ移転し、常仙寺も明治41年(1908)に杉並へ移りました。1883年の1029は、軍用地の拡張によって寺院が郊外へ移る前の市ヶ谷を記録しています。
改称直後の靖国神社と成立期の出雲大社東京分祠
図中の「靖國神社」は、東京招魂社が明治12年(1879)6月に靖國神社へ改称されてから4年後の表記です。さらに明治15年(1882)2月には遊就館が開館しており、1029はその翌年に当たります。
上二番町に記された「出雲大社」も重要です。出雲大社第80代宮司の千家尊福は明治11年(1878)、神田神社社務所内に東京出張所を設けました。東京出張所は明治15年(1882)4月4日に麹町区上二番町へ移転しています。測図が1883年6月であるため、1029は番町に東京の出雲大社拠点が置かれた直後の位置を記録した資料です。現在の出雲大社東京分祠は六本木にあります。
番町学校と旧大名屋敷の転用
「番町學校」は現在の千代田区立番町小学校につながります。学校は明治3年(1870)に市ヶ谷八幡の洞雲寺に仮小学校として置かれ、明治5年(1872)に旧小幡藩邸跡の現在地へ移転、明治6年に第三中学区第一番小学・番町学校と改称しました。1029は現在地移転から約11年後です。明治19年(1886)には、のちの大正天皇となる皇太子が同校を訪れています。
下二番町付近の「松平邸」は、松平姓の家が構えたまとまった私邸を示す表記です。下二番町は江戸期に武家屋敷が並んだ地域で、明治になると華族や官吏などの邸宅地へ移っていきました。群馬県立文書館には前橋藩松平家の「東京下二番町38番地邸」を記した明治7~8年の家扶日記が残るため、原図の「松平邸」は前橋松平家の邸宅である可能性があります。重要なのは、旧武家地の大きな区画が明治になっても有力家の私邸として使われていたことです。
撤去後も残る市ヶ谷門・四谷門と麹町の心法寺
外濠沿いには「市ヶ谷門」「四谷門」の名が残ります。市ヶ谷門は明治4年(1871)に門が撤去され、四谷門も明治5年(1872)に撤去されました。1029はその10年以上後の地図ですが、場所の名称として旧江戸城外郭の門名がなお使われています。四谷門では桝形と石垣の大部分が明治32年(1899)まで残りました。
市ヶ谷側の「八幡社」は、位置関係から現在の市谷亀岡八幡宮を示すと考えられます。原図では正式社名ではなく「八幡社」と簡略に記されていますが、同社は太田道灌が江戸城の西方鎮護として勧請したと伝わる古社です。明治5年(1872)に郷社となり、神仏分離に伴って境内の仏殿・芝居小屋・茶屋などが撤去されました。1029は、江戸期の門前のにぎわいから近代の神社境内へ姿を変えた後の時期を描いています。
麹町の「心法寺」は慶長2年(1597)開創の浄土宗寺院です。開山は然翁聖山、開基は徳川家康とされます。周辺の寺院が開発や災害で区外へ移るなか、心法寺は現在地に残り、千代田区内で墓域を持つ唯一の寺院となっています。墓域には新田開発や河川改修で知られる幕臣井澤弥總兵衛の墓碑も残ります。
原図には「東本願寺出張所」も明瞭に読めます。「出張所」は、寺院一か寺の名称というより、本山・宗派が東京で宗務や対外連絡を行うために置いた拠点を示す語です。真宗大谷派では現在も東京宗務出張所を置き、政府その他の中央機関との連絡・調整や首都圏の教化を担っています。1883年の番町の出張所と現在の施設との直接の継承関係までは確認できませんが、この表記から、ここが東本願寺側の東京における宗務拠点の一つだったことが分かります。
東京府武蔵国麹町区紀尾井町及赤坂区田町近傍
国土地理院 資料番号1030

資料番号1030には、紀尾井町・赤坂田町の旧大名屋敷地が、明治政府・皇室・陸軍・学校へ振り分けられた状態が具体的に描かれています。「太政官」「宮内省」「皇宮地附属地」「警視廳用地」「伏見宮邸」「北白川宮邸」「陸軍軍醫本部」「陸軍省用地」「赤坂小學校」「日枝神社」「星ヶ岡」などが明瞭に確認できます。
赤坂仮皇居に集まる太政官と宮内省
旧紀州徳川家の赤坂邸は明治5年(1872)に皇室へ献上され、翌明治6年(1873)の皇居火災後は赤坂仮皇居となりました。1030ではその一角に「太政官」「宮内省」が記されています。宮内省は皇居火災後に赤坂仮皇居へ移り、太政官庁舎も明治10年(1877)に同地へ建てられました。太政官制が内閣制度へ移行するのは明治18年(1885)12月なので、1883年の1030は太政官が赤坂に置かれていた末期の姿を記録しています。
同じ範囲には「皇宮地附属地」「警視廳用地」も見えます。旧大名屋敷の巨大な区画が、皇居機能と中央官庁の用地へそのまま転用されていたことが分かります。
伏見宮邸・北白川宮邸―旧大名屋敷地から皇族邸へ
紀尾井町側には「伏見宮邸」と「北白川宮邸」が大きく記されています。明治16年(1883)の宮家当主は、それぞれ伏見宮貞愛親王と北白川宮能久親王でした。紀尾井町では旧大名屋敷の広い敷地が、維新後に皇族邸や官用地へ転用されています。北白川宮邸の敷地は後に李王家東京邸へと引き継がれました。
陸軍軍医本部と赤坂小学校
東側には「陸軍軍醫本部」と「陸軍省用地」が確認できます。陸軍軍医制度の中心機関で、明治15年(1882)9月には松本順が軍医本部長に就任しました。1030はその翌年に当たり、赤坂・紀尾井町一帯に中央政府と陸軍の施設が隣接していたことを示しています。
「赤坂小學校」は現在の港区立赤坂小学校の前身です。明治6年(1873)に赤坂一ツ木町で茜陵学校として開校し、明治8年(1875)に赤坂小学校と改称しました。1883年の地図は改称から約8年後の校地を記録しています。
原図には「赤坂区役所」も記されています。赤坂区は明治11年(1878)の郡区町村編制法によって成立した東京15区の一つで、赤坂・青山一帯を管轄しました。1030は区成立から約5年後で、「区役所」という文字は、江戸期の武家地・町人地が近代的な区行政の単位へ再編されたことを示しています。
日枝神社と星ヶ岡―星岡茶寮開設の前年
赤坂側の高台には「日枝神社」と「星ヶ岡」が記されています。日枝神社は明暦の大火後、万治2年(1659)に江戸城の裏鬼門に当たるこの地へ遷座しました。星ヶ岡は日枝神社の鎮座する丘の呼称です。翌明治17年(1884)には星岡茶寮が開かれ、政財界人や文化人が集う場所となりました。1030はその開設前年の星ヶ岡を記録しています。
原図の「高崎邸」は、高崎姓を掲げる人物・家のまとまった私邸区画を示しています。この一帯は江戸期の大名・武家屋敷地が明治期に皇族、華族、官僚などの邸宅へ転用された地域で、「邸」という表記そのものが一般の町家とは異なる大規模な私有地だったことを伝えます。居住者を一人に断定できる資料までは確認できませんが、旧武家地が近代の有力者住宅地へ引き継がれた具体例として読むことができます。
東京府武蔵国四谷区四谷傳馬町近傍
国土地理院 資料番号1031

資料番号1031は明治16年(1883)12月の測図です。高精細原図には「市ヶ谷監獄署」「東京鎭臺兵營」「火藥庫」「司法省用地」「玉川上水」が明瞭に記され、東端には陸軍士官学校の一部も入ります。四谷の町人地・寺町のすぐ外側に、監獄・軍用地・司法省用地が並んだ明治初期の土地利用を具体的に確認できます。
市ヶ谷監獄署―小伝馬町牢屋敷から移った近代監獄
北西側の大きな囲郭には「市ヶ谷監獄署」とあります。新宿区史年表では、明治7年(1874)に日本橋小伝馬町の牢屋敷が市谷谷町へ移され、市谷監獄となったとされています。1031は移転から約9年後で、長大な獄舎群と周囲の空地まで描き分けられています。施設はのち東京刑務所へつながり、昭和12年(1937)の東京拘置所完成までこの地域に存在しました。
東京鎮台兵営と火薬庫―四谷・市ヶ谷の軍事化
北東側には「東京鎭臺兵營」が広い敷地を占め、東端には「陸軍士官學校」も見えます。東京鎮台は徴兵制下の首都防衛を担った陸軍部隊で、明治16年の陸軍省文書にも東京鎮台からの報告・伺いが多数残ります。原図では兵営の南東に、土塁と水濠で隔てられた「火藥庫」が独立して配置されており、危険物施設を居住地や兵舎から離していたことも読み取れます。
司法省用地―監獄と隣接する国家用地
四谷傳馬町側には「司法省用地」と明記されたまとまった区画があります。「用地」は特定の一棟を指す施設名ではなく、司法省が行政目的のために確保・管理していた土地そのものを示す表記です。近接する市ヶ谷監獄署とあわせると、明治政府が旧武家地・寺町周辺の大区画を司法・矯正行政に組み込んでいったことが読み取れます。1031では建物名よりも、国家機関の用途別に土地が再編されていく過程を示す区画として見るのが適切です。
玉川上水―四谷大木戸で江戸市中へつながる水路
南西側には青く描かれた「玉川上水」が通ります。玉川上水は承応3年(1654)、羽村から四谷大木戸まで約43キロメートルを開渠で導かれ、四谷大木戸から先は木樋・石樋によって江戸市中へ配水されました。大木戸脇の水番屋では水質・水量や異物を監視していました。1031の測図時点でも上水は東京の水源として機能しており、淀橋浄水場完成後の明治34年(1901)頃まで利用が続きました。
東京府武蔵国赤坂区青山北町近傍
国土地理院 資料番号1032

資料番号1032は明治17年(1884)2月の測図です。高精細原図には「近衛局」「陸軍火藥庫」「賢所」「御産所」「御養蚕所」「永井邸」「野嶋邸」「荒木邸」が明瞭に読めます。青山北町・信濃町周辺に、皇室施設、近衛兵・陸軍施設、旧大名家につながる邸宅が隣接していた時期を記録しています。
近衛局―「近衛」改称の前年
東側の大規模な兵営には「近衛局」とあります。近衛局は明治5年(1872)4月、近衛条例によって近衛諸兵の司令部として設置され、陸軍省の隷下に置かれました。佐賀の乱や西南戦争にも近衛兵が出動しています。明治18年(1885)6月には「局」が陸軍省内の一事務局と誤認されるおそれがあるとして「近衛」へ改称されました。1032はその約1年4か月前の名称を残しています。
陸軍火薬庫―土塁で隔離された危険物施設
西側には「陸軍火藥庫」があり、火薬庫の建物を厚い土塁が囲む構造まで描かれています。明治6年(1873)3月の東京鎮台文書には「青山火薬庫二箇所守衛」とあり、青山の火薬庫が東京鎮台の守衛対象だったことを確認できます。前年の明治5年には青山火薬庫が陸軍側の施設として整理されており、1032は明治初期から続いた火薬貯蔵施設の姿を示しています。
青山御所の御産所―大正天皇誕生から約4年半
皇室関係の敷地には「御産所」が明瞭に記されています。東京都立図書館の木子文庫には「青山御所・御産所配置平面図」が、宮内公文書館にも「赤坂仮皇居平面図 六百分一 附青山御所・御産所」が残ります。明治12年(1879)8月31日には、後の大正天皇となる明宮嘉仁親王が青山御所で誕生しました。1032の測図はその約4年半後で、皇子誕生に使われた御産所がなお施設名として記録された時期に当たります。
御養蚕所―青山御所で復活した宮中養蚕
原図には「御養蚕所」もあります。群馬県立文書館には明治12年(1879)5月9日付で、差出人を「青山御所養蚕所田島弥平」とする養蚕状況の書状が残っています。この年、英照皇太后を中心に青山御所で宮中養蚕が再開され、田島弥平ら上州の養蚕家が奉仕しました。1032は再開から5年後の御養蚕所を描いており、皇室と明治期の蚕糸業振興との結び付きを具体的に示す施設です。
賢所―赤坂仮皇居に置かれた宮中祭祀施設
東寄りには「賢所」も確認できます。宮内公文書館には明治12年(1879)作成の「赤坂仮皇居賢所出来形之図」や、同時期の賢所配置図が残っています。明治6年(1873)の皇居火災後、天皇の居所だけでなく宮中祭祀の施設も赤坂側へ移された時期で、1032は赤坂仮皇居と青山御所が一体的に使われていた皇室用地の構成を読み取れる資料です。
永井邸―旧櫛羅藩主家が信濃町に残した屋敷
信濃町側の「永井邸」は、旧櫛羅藩主家の永井直哉の邸宅と特定できます。信濃町南遺跡の調査報告では、永井家が明治期に半蔵門外から信濃町へ居を移し、『五千分一東京図実測原図』の「永井邸」を同家の屋敷として確認しています。直哉は同年7月8日に子爵となるため、1884年2月測図の1032は爵位授与の約5か月前に当たります。
原図には「野嶋邸」「荒木邸」も明瞭に読めます。どちらも姓を冠した私邸区画で、青山御所・近衛局・陸軍火薬庫のような大規模な皇室・軍用地の間に個人邸宅が残っていたことを示しています。当主を一人に断定できる同時代資料までは確認できませんが、人物名の確定とは別に、1884年の青山・信濃町周辺が官有地一色ではなく、旧来の屋敷地を引き継ぐ私邸が混在する地域だったことを読み取れます。
4枚を続けて見ると見えてくる江戸城西側の再編
1029〜1032を続けると、番町の住宅地、紀尾井町の大屋敷、四谷の街道町、青山の墓地・郊外地が連続します。江戸の武家地が一様に変化したのではなく、住宅、軍事、皇族・華族地、公共施設へ場所ごとに異なる再編を受けたことがわかります。
明治五千分一東京図シリーズ: ← 前の記事:⑦ 高田・小日向・牛込 | 9地域総合ガイド | 次の記事:⑨ 赤坂・麻布・広尾 →
主な参考資料
- 国土地理院「古地図コレクション 五千分一東京図測量原図」
- 千代田区・千代田区文化財サイト「番町小学校」「市ヶ谷門・四谷門」ほか
- 新宿区「新宿区史年表 明治時代」
- 港区「地名の歴史(赤坂地区)」ほか
- 杉並区「長龍寺」「長延寺」「常仙寺」文化財案内
- 国立公文書館アジア歴史資料センター「太政官」「近衛局」ほか
- 宮内庁書陵部 宮内公文書館「赤坂仮皇居」「青山御所・御産所」「賢所」関係図
- 東京都立図書館「木子文庫」
- 東京都水道局「玉川上水」
- 群馬県立文書館「前橋藩松平家記録」「田島弥平家文書」
- 出雲大社東京分祠・真宗大谷派・靖国神社・日枝神社の各公式沿革
