東京で長崎を探す|長崎屋・高島秋帆から活字、造船、平和祈念像まで

葛飾北斎が描いた江戸日本橋の長崎屋

東京で長崎県の痕跡を探すと、最初に現れるのは物産や郷土料理ではなく、江戸が海外の知識を受け取った場所です。日本橋にはオランダ商館長一行の定宿だった長崎屋があり、板橋には長崎から来た西洋砲術が「高島平」という地名を残しました。

明治に入ると、長崎で培われた技術と人材は東京の活字、造船、公園、衛生行政、教育、新聞、演劇へ広がります。昭和には、長崎平和祈念像の実寸大原型が井の頭のアトリエで生まれました。東京の街を歩くと、長崎が日本の近代化へ送り出した知識と人の流れが、いまも具体的な場所としてつながっています。

日本橋の長崎屋――出島の知識が江戸へ届いた

江戸時代、長崎・出島のオランダ商館長は将軍への謁見のため江戸へ向かいました。中央区の文化財案内によると、江戸参府は計166回。日本橋本石町の長崎屋は、その一行が滞在する定宿でした。

現在の日本橋室町4丁目4番10号付近にあった長崎屋には、オランダ人から海外事情や医学・科学の知識を得ようとする医師や蘭学らんがく者が集まりました。長崎から運ばれた知識が、ここで江戸の知識人へ直接渡っていきます。『解体新書』へつながる蘭学者たちの世界は、『蘭学事始』と解体新書の解説でも詳しくたどれます。

現在は建物に代わり、中央区の区民史跡「長崎屋跡」が所在地を伝えています。出島を入口とする海外知識は、日本橋で江戸の学者や医師へ渡りました。

高島秋帆――長崎の砲術が「高島平」という地名になった

天保12年(1841)5月9日、高島秋帆たかしま しゅうはんは弟子99人を率い、武蔵国徳丸原とくまるがはらで西洋式砲術の演習を行いました。場所は現在の板橋区高島平一帯です。

1841年の高島秋帆による徳丸原砲術演習図
1841年、現在の板橋区高島平一帯で行われた高島秋帆の西洋式砲術演習。

秋帆は長崎町年寄の家に生まれ、海外情報が集まる長崎で西洋の兵学と砲術を学びました。徳丸原で披露された大砲・小銃の運用は、幕府や諸藩が軍制と兵器を見直す大きな刺激となります。

その記憶は一世紀以上後の東京にも残りました。1968年に生まれた「高島平」という町名は、高島秋帆の「高島」と、平らな土地を表す「平」を組み合わせたものです。徳丸ヶ原公園には徳丸原遺跡碑があり、松月院には秋帆を顕彰する紀功碑があります。文京区向丘の大圓寺には国指定史跡の高島秋帆墓も残ります。

長崎の砲術家が東京の町名になり、その場所がのちに巨大団地へ変わった経緯は、高島平団地の歴史で詳しく紹介しています。

江戸の長崎県域――平戸・大村・島原・対馬の藩邸

現在の長崎県域には、幕府直轄の長崎のほか、平戸藩、大村藩、島原藩、福江藩、対馬藩など、異なる政治・文化圏がありました。各藩は参勤交代と江戸での政治活動のため、江戸に上屋敷・中屋敷・下屋敷を置きました。

武鑑や江戸切絵図では、平戸藩の上屋敷が浅草鳥越周辺、大村藩の上屋敷が永田町周辺、島原藩の上屋敷が数寄屋橋周辺に確認できます。街区が大きく変わった現在、これらは古地図上で江戸と長崎県域を結ぶ手掛かりになっています。

現地性が高いのが、南千住に残る対馬藩宗家の下屋敷跡です。宗家は寛文元年(1661)にこの地を拝領し、荒川区は現在も「宗屋敷跡」として案内しています。朝鮮との外交を担った対馬と江戸が、南千住の一角でつながります。

平野富二――長崎から築地へ渡った活字と石川島の造船

明治初期、長崎から東京へ移った技術者のなかで、街の産業構造に大きな足跡を残したのが平野富二ひらの とみじです。1873年、築地で「長崎新街出張活版製作所」を興し、のちの東京築地活版製造所へ発展させました。

長崎出身の実業家・平野富二の肖像
平野富二。長崎で培った技術を東京へ運び、活字製造と造船の発展に関わりました。

築地1丁目12番22号には「活字発祥の碑」が立ちます。活字と印刷機械の製造は、新聞、書籍、教科書、行政文書を大量に印刷する近代社会の基盤になりました。

平野の事業は印刷から造船へ広がります。1876年、海軍の修船場跡を借りて石川島平野造船所を設立しました。事業は石川島造船所、東京石川島造船所へ発展し、現在のIHIへ続く企業史の一系統となります。

日本橋の長崎屋では海外の知識が江戸へ入り、明治の平野富二は長崎で培った技術を東京の産業へ移しました。築地と石川島には、情報から工業へ広がった長崎―東京の交流が残っています。

大村の人材が明治東京をつくった――長岡安平と長与専斎

長崎県大村から東京へ出た人材を追うと、明治東京の暮らしを支えた仕組みに行き着きます。長岡安平ながおか やすへいは大村出身の造園家で、同郷の楠本正隆くすもと まさたかに才能を見いだされ、東京の公園行政へ入りました。

長岡は芝公園をはじめ、全国各地の公園・庭園の設計や街路樹苗木の育成、史跡名勝天然記念物の保存に関わりました。芝公園には、長岡が暮らした屋敷「長栢園」の跡を示す碑が残ります。芝丸山古墳の調査・保存にも関わり、東京の都市公園と歴史遺産の双方に足跡を残しました。

同じ大村出身の長与専斎ながよ せんさいは、大坂の適塾と長崎の医学伝習所で医学を学び、明治4年(1871)に上京しました。欧州視察を経て内務省衛生局の初代局長となり、伝染病予防、上下水道、医療制度の整備を進めます。「衛生」という語を広めた人物としても知られます。

公園、上下水道、感染症対策、医療制度。明治の東京で日常生活を支える制度が整う過程には、大村から上京した人材が深く入り込んでいました。長崎医学伝習所から近代医学・病院制度へ続く流れは、日本の医学・病院の歴史と系譜でも整理しています。

石井筆子と福地源一郎――教育・福祉・新聞・演劇に残る長崎

大村出身の石井筆子いしい ふでこは、華族女学校で教え、女子教育と女性の権利に関わったのち、石井亮一とともに知的障害児教育へ生涯を捧げました。現在の国立市にある滝乃川学園には「石井亮一・筆子記念館」があり、その足跡を伝えています。

国立市の滝乃川学園 石井亮一・筆子記念館
滝乃川学園の石井亮一・筆子記念館。大村出身の石井筆子の足跡を伝えます。撮影:SHINZOI(CC BY-SA 3.0)

記念館は学園内にあり、見学は事前予約制です。東京の西側まで足を延ばすと、大村から上京した女性が近代教育と福祉の歴史に残した仕事を、現存建築と資料からたどれます。

長崎生まれの福地源一郎ふくち げんいちろうは、江戸で蘭学・英学を学び、明治期には『東京日日新聞』を主宰しました。新聞の言論活動に加え、浅草公園の整備や演劇改良にも関わり、市川團十郎、河竹黙阿弥らと歌舞伎座の創設に動きました。

小林清親が描いた福地源一郎
長崎生まれの福地源一郎。新聞、演劇、浅草の都市文化に足跡を残しました。小林清親画、1885年。

福地の墓は谷中霊園に残り、台東区の史跡に指定されています。日本橋で海外知識を受け取った江戸から、新聞と劇場が都市文化をつくる明治東京へ。長崎出身者の活動領域は、技術や行政から教育・報道・娯楽へ広がりました。

北村西望――長崎平和祈念像は井の頭のアトリエから生まれた

長崎市の平和公園に立つ平和祈念像と東京を結ぶ場所が、武蔵野市の井の頭自然文化園です。長崎県出身の彫刻家北村西望きたむら せいぼうは、1950年に長崎市から平和祈念像の制作を依頼されました。

彫刻家・北村西望の肖像
北村西望。長崎平和祈念像の実寸大原型は東京・井の頭のアトリエで制作されました。

高さ9.7メートルの像を制作するには大きな空間が必要でした。1953年、井の頭自然文化園に隣接する場所に専用アトリエが建てられ、ここで実寸大の石膏原型が制作されます。現在もアトリエ館と原型が残り、西望が制作した多数の彫刻とともに公開されています。

長崎平和祈念像は、長崎と東京の二つの場所を結ぶ作品です。原型がつくられた東京の仕事場まで残り、「制作された場所」から長崎との関係をたどれます。

2026年の東京に残る長崎――県人会・東京事務所・日本橋長崎館

長崎と東京の往来は、行政と県人ネットワークにも続いています。長崎県東京事務所は千代田区平河町の都道府県会館にあり、首都圏における県政情報の窓口を担っています。長崎市、佐世保市、諫早市、大村市、壱岐市、五島市も東京事務所を置いています。

首都圏の県人会は、佐世保、大村、諫早、島原半島、平戸・北松、西海、五島、壱岐、対馬など、県内各地域に広がっています。江戸時代に複数の藩・地域で構成されていた長崎県域の多様性が、現代の東京でも地域単位のつながりとして続いています。

日本橋には長崎県の情報発信拠点「日本橋長崎館」があります。2026年6月1日にリニューアルオープンし、内装改修と軽飲食機能の拡充などが行われました。江戸時代の長崎屋跡から徒歩圏に、現代の長崎県の拠点があります。日本橋では、約400年前から続く長崎―東京の交流を、過去と現在の二地点で歩いてつなげられます。

東京で長崎を歩くなら――現地で見られる9地点

場所現在地長崎県との関係現在見られるもの
長崎屋跡中央区日本橋室町4丁目オランダ商館長一行の江戸定宿中央区の史跡表示
徳丸ヶ原公園板橋区高島平高島秋帆の西洋式砲術演習徳丸原遺跡碑
松月院板橋区赤塚高島秋帆を顕彰紀功碑
大圓寺文京区向丘高島秋帆の墓所国指定史跡の墓
宗屋敷跡荒川区南千住対馬藩宗家の下屋敷屋敷跡の案内
活字発祥の碑中央区築地1丁目平野富二の活字製造記念碑
長栢園跡碑港区芝公園長岡安平の旧居跡碑
石井亮一・筆子記念館国立市矢川大村出身・石井筆子記念館・資料
北村西望彫刻園武蔵野市・井の頭自然文化園長崎平和祈念像の制作実寸大石膏原型・アトリエ館

日本橋では長崎屋跡と日本橋長崎館、板橋では徳丸ヶ原公園と松月院、井の頭では北村西望のアトリエと原型というように、同じ地域で複数の時代を重ねて歩けます。長崎の歴史が東京に残したものは、藩邸跡、墓、町名、碑、制度、工業、建築へと形を変えています。

よくある質問

東京で最も分かりやすい長崎県ゆかりの史跡はどこですか

江戸期なら日本橋の長崎屋跡、幕末なら板橋区高島平の徳丸原遺跡碑、近代なら築地の活字発祥の碑が代表的です。いずれも長崎から東京へ知識や技術が移った過程を具体的な場所で確認できます。

高島平という地名は高島秋帆に由来しますか

はい。1968年に発表された町名で、高島秋帆の「高島」と、平らな土地を表す「平」を組み合わせた名称です。秋帆は1841年に現在の高島平一帯で西洋式砲術演習を行いました。

長崎平和祈念像の原型は東京にありますか

あります。井の頭自然文化園の彫刻園に、高さ9.7メートルの実寸大石膏原型と制作アトリエが残っています。北村西望は1953年にこのアトリエで制作を進めました。

日本橋長崎館は現在も営業していますか

営業しています。2026年6月1日にリニューアルオープンしました。江戸時代の長崎屋跡から近く、現代の長崎県と東京を結ぶ情報発信拠点です。

参考文献・公式資料