荒川区荒川8丁目に、「大正胞衣社」という見慣れない名前の会社があります。すぐ近くには日本胞衣衛生の荒川工場があり、町屋には多賀商会の処理施設があります。
「胞衣」は「えな」または「ほうい」と読みます。東京都の条例では、胎盤、さい帯、卵膜、妊娠4か月未満の死胎を指します。東京都の解説では「妊娠4か月未満」は満84日までで、85日以上の死胎は墓地、埋葬等に関する法律の対象になります。出産に伴う羊水や、汚れが付着した布・綿・紙・ガーゼ類は「産汚物」です。
東京都の「令和6年度衛生統計年報」によると、2025年3月31日現在、胞衣産汚物取扱場は都内に5施設あります。現在の日常生活ではほとんど目にしない仕事ですが、出産と都市衛生のあいだを支える制度として今も続いています。
胞衣取扱業とは何をする仕事か
東京都の「胞衣及び産汚物取締条例」は、胞衣と産汚物を収集・運搬し、集積、焼却、洗浄、消毒などを行う事業を「胞衣及び産汚物取扱業」と定めています。営業には東京都知事の許可が必要です。
条例では、収集した胞衣と産汚物を24時間以内に焼却など許可された方法で処分すること、取扱件数、料金、依頼先、収集日を帳簿へ記録することも定めています。取扱場には防臭設備や排水設備が求められ、敷地の周囲には外から内部を見通せない高さ2メートル以上の塀を設ける規定があります。
取扱場は「人家稀疎の地」を原則とし、学校、病院、人家、主要道路などから300メートル以上離す規定もあります。衛生上その他の公共への危害がないと認められる場合には、条件を斟酌できる条項があります。現在の荒川8丁目は住宅と工場が混在する市街地であり、制度が作られた時代と都市の姿が大きく変わったことも分かります。
注射針やメスなどの鋭利な医療器具は条例上の「産汚物」には含まれず、感染性産業廃棄物など別の制度で扱われます。胞衣取扱業の対象は、出産に伴って生じる胎盤・さい帯・卵膜などに限られています。
東京都の許可業者は現在5社
東胞協会が現在掲載している東京都の許可業者は、安産社、大正胞衣社、多賀商会、多摩商事、日本胞衣衛生の5社です。
荒川区の一般廃棄物処理業許可業者名簿には、日本胞衣衛生、多賀商会、大正胞衣社の3社が医療廃棄物を収集・処分する事業者として載っています。東京都環境局の施設名簿では、日本胞衣衛生荒川工場が荒川8丁目18番8号、大正胞衣社が同18番6号、多賀商会町屋工場が町屋1丁目34番16号にあります。
荒川8丁目では、大正胞衣社と日本胞衣衛生の施設が隣り合っています。大正胞衣社の公式サイトは「大正年代創業」と記しており、現在も東京都の許可を受けて胞衣と産汚物を扱っています。都内に5施設しかない業種のうち複数の処理拠点が荒川区に残ること自体が、三河島・荒川一帯の都市史と深く結び付いています。
胞衣を特別に扱う条例は、全国でも限られている
胞衣に関する独自制度は、東京都以外にも残っています。東京大学医科学研究所の生命倫理研究分野による整理では、都道府県レベルで胞衣の取扱いに関する条例を持つのは、北海道、東京、神奈川、愛知、三重、兵庫、京都、大阪の8都道府県です。
ただし、条例の内容や処理方法は地域ごとに異なります。許可業者が専用施設で扱う地域、許可を受けた収集業者が火葬場へ運ぶ地域などがあり、胎盤や妊娠4か月未満の死胎を扱う制度は、地域ごとに異なります。東京都では、戦前から続く許可業者制度と専用の取扱場が現在も維持され、5施設が営業しています。
胞衣は子どもの生命と結び付く存在だった
神戸大学の研究は江戸時代の産育書を分析し、胞衣が子どもとともに生まれる存在として捉えられ、胎児を守り育てる役割を持つものと考えられていたことを論じています。
胞衣を容器に納めて埋める習慣は江戸時代より前の史料にも現れます。考古学研究が引用する『親元日記』には、1465年、胞衣を絹で二重に包んだ桶へ入れ、さらに壺へ納めて土中に埋めた記録があります。近世の産育書には、丈夫な二重の桶を作り、蓋を釘で留める方法まで記されました。
京都大学の研究では、胞衣を壺や桶などへ納め、床下、入口、屋敷の周囲などへ埋める習俗が各地にあったことが整理されています。場所の選び方には地域差があり、家族や通行人に踏ませることで子どもの健やかな成長を願う例、反対に人に踏まれない場所を選ぶ例など、複数の考え方が共存していました。
身分の高い家では専用容器も豪華でした。東京都港区の旧仙台藩伊達家墓地では、1685年に5歳で亡くなった仙台藩主伊達綱村の長男・扇千代に関係するとみられる胞衣容器が出土しています。青銅製の二重容器の内側に木桶を納め、外側には鶴・亀・松・竹の装飾が施されていました。胞衣をどう納めるかは、信仰だけでなく身分や経済力も反映する行為でした。
明治東京では「胞衣を納める器」まで商品になった
近代化は、胞衣を納める道具も変えました。1889年(明治22年)には「有限責任日本胞衣納器商会」の定款が作られ、胞衣専用の容器を製造・販売する事業が計画されています。本店は日本橋区、製造所は深川区に置かれました。
当時は、かわらけを上下二枚に重ねて胞衣を納める例がありましたが、暑い時期には腐敗や臭気が問題になりました。商会の専用容器は、蓋と本体を密着させて臭気を漏らしにくくする設計を採り、鶴亀松竹梅や七宝をあしらう意匠も想定されていました。
価格は上等50銭、中等25銭、下等6銭の三段階でした。本支店や取次所を東京市内のほか地方にも置く構想があり、胞衣納めは家庭内の作法から、専用品を購入し専門業者へ委ねる市場へ移り始めていました。
キーパーソン松本亥平と松本龍智が、6つの処理場を会社へまとめた
専門業者の成立は行政規制より早く進んでいました。1890年(明治23年)1月、松本亥平と松本龍智が中心となり、警視庁・東京府の許可を受けていた6つの胞衣埋納・産褥物焼却場をまとめ、「日本胞衣株式会社」を設立しました。
- 南葛飾郡吾妻村 吾妻社
- 北豊島郡雑司ケ谷村 鬼子母社
- 北豊島郡中里村 東京衛生社
- 北豊島郡中里村 栄生社
- 北豊島郡三河島村 子安社
- 荏原郡大井町 益人社
6施設の中には、現在の荒川区にあたる三河島村の「子安社」が含まれています。現在の大正胞衣社や日本胞衣衛生との法人上の連続性を示す公開資料は確認されていませんが、三河島で胞衣処理が行われていた歴史は少なくとも1890年まで遡ります。
史料では松本亥平は「権大講義」と記されています。明治初期の神道教導職で用いられた職階名です。松本らの事業は、胞衣を衛生的に収集して処分する仕組みに、神道的な祭祀を組み合わせていました。道灌山に神社を設け、家族ごとの埋納場所を用意し、胞衣を納める専用容器まで商品化しました。
1889年12月に作られた日本胞衣納器商会の定款と、翌1890年の日本胞衣株式会社設立を続けて見ると、松本らが容器販売、運搬、埋納、祭祀、焼却を一つの事業体系に組み替えようとしていたことが分かります。家庭の出産習俗が、東京の人口増加と衛生行政を背景に都市サービスへ変わる局面でした。
道灌山の胞衣神社では、会社が祭祀と衛生事業を同時に担った
日本胞衣株式会社は道灌山に中央施設を置き、「胞衣神社」を設けました。会社の目的には、胞衣を祭祀して納めることと、産穢物を焼却して衛生に役立てることの両方が掲げられていました。信仰と衛生事業が、一つの株式会社の中に同居していました。
1897年(明治30年)の「胞衣納祭證」には、「胞衣納祭及産穢物除去手数料」として20銭を受け取り、年2回の大祭で祈願する仕組みが記されています。希望者は土地代を納め、家族専用の胞衣埋納場所を設けることもできました。胞衣を専門業者へ預ける仕組みには、処理に加えて祭祀も組み込まれていました。
後年の回想では、道灌山の施設には木造の鳥居があり、桜の木と茶店がありました。土器へ納めた胞衣を埋めた小さな盛り土も点在し、春には花見客が訪れたと伝えられます。胞衣処理会社、神社、行楽地が同じ風景の中に存在していました。
1899年(明治32年)、正岡子規も道灌山を訪れ、紀行文『道灌山』に「胞衣神社の前の茶店」で休んだことを書いています。胞衣神社は閉ざされた特殊施設ではなく、当時の東京人が知る道灌山の景観の一部でした。
1891年、家庭の習俗が衛生行政の対象になった
東京府は1891年(明治24年)、胞衣と産穢物を家屋に近接した場所へ埋める行為を規制し、取扱業者には府が許可した場所で処理することを求めました。家庭や地域で行われてきた胞衣納めは、公衆衛生の制度へ組み込まれていきます。
現在の東京都条例が制定されたのは1948年です。附則には、それ以前の警視庁令で許可を受けて営業していた業者を新条例の許可業者とみなす規定があります。明治期に形成された「専門業者を許可し、指定した方法で扱わせる」という仕組みは、戦後の条例制度にも引き継がれました。
戦後20年で、出産の場所が家庭から医療施設へ移った
戦後の出産場所の変化は急速でした。厚生労働省の人口動態統計では、1950年の出生は自宅・その他が95.4%、病院・診療所・助産所など施設内が4.6%でした。1960年には施設内50.1%、自宅・その他49.9%となり、割合が逆転します。
1970年には施設内96.1%、自宅・その他3.9%まで変化しました。20年間で、出産の場は家庭から病院・診療所・助産所へほぼ全面的に移っています。2023年には出生の54.3%が病院、45.1%が診療所、0.5%が助産所で、自宅・その他は0.2%です。
出産場所の変化に伴い、胞衣も家族や産婆が扱うものから、医療施設を起点に許可業者が収集するものへ移りました。明治期の衛生規制と、戦後の施設分娩の定着という二つの変化が、現在の胞衣取扱業の仕事を形作っています。
なぜ荒川区に胞衣業者が集まったのか
現在の荒川8丁目周辺には、明治から大正にかけて東京の都市化を支える工業・衛生施設が集まりました。東京藝術大学の地域史調査は、皮革工場、火葬場、と畜場、肥料・油脂関係の工場などがこの一帯に立地し、胞衣工場を含む悪臭問題も起きていたと紹介しています。
都市の中心部では、臭気、煙、排水を伴う施設の立地が難しくなります。三河島は明治期の東京市街の外縁にあり、低湿地や農地を抱えながら工場立地が進みました。1890年の日本胞衣株式会社へ統合された6施設の中に三河島村の子安社がすでに含まれていたことからも、胞衣処理とこの地域の関係は近代初頭まで遡ります。
荒川8丁目25番地には三河島水再生センターがあります。前身の三河島汚水処分場は1922年に運転を開始した、日本最初期の近代下水処理施設です。現在の大正胞衣社と日本胞衣衛生荒川工場は、この水再生センターに近い位置にあります。
各社が現在地へ移った個別の経緯までを直接示す公開資料は確認されていません。そのため、特定の行政命令によって3社が荒川区へ集められたとは断定せず、三河島に衛生・工業施設が集積した都市史の中で胞衣業も存続したことまでを確認できます。
三河島の地域史は、別記事「三河島・新三河島の歴史を歩く」でも紹介しています。
現在の業者にも「子どもの成長を祈る」祭祀が残る
東胞協会は、東京都の許可業者が年1回、業者敷地内の神社で子どもの健やかな成長を祈る例大祭を行っていると案内しています。
明治期の日本胞衣株式会社は道灌山に胞衣神社を設け、1897年の納祭證には年2回の大祭が記録されました。現在の許可業者にも神社での成長祈願が残っています。胞衣の扱いは家庭での埋納から許可業者による収集・焼却へ変わりましたが、胞衣を子どもの生命と結び付ける観念は、業界の祭祀の中に受け継がれています。
参考資料
- 東京都「胞衣及び産汚物取締条例」
- 東京都保健医療局「令和6年度 衛生統計年報 14 環境衛生」
- 東京都保健医療局「胞衣及び産汚物の取扱いについて」
- 東胞協会「東京都胎盤取扱業者」
- 有限会社大正胞衣社 公式サイト
- 荒川区「一般廃棄物処理業許可業者名簿」
- 東京都環境局「ダイオキシン類対策特別措置法対象事業所名簿」
- 島野裕子「胞衣にみる産と育への配慮」
- 姚明希・我部山キヨ子「日本の胎盤(胞衣)処理の歴史」
- 山近久美子「平城京における胞衣埋納場所の選地」
- 国立歴史民俗博物館研究報告 第169集
- 『考古論叢神奈河』掲載論文
- 東京藝術大学 Sumitomo Lab.「荒川・三河島エリア」
- 厚生労働省「出生場所別出生者数の推移」
- 東京大学医科学研究所 生命倫理研究分野「Research Project」

