板橋区大和町の日曜寺(にちようじ)は、江戸時代前期から中期にかけて成立した真言宗霊雲寺派の寺院です。八代将軍徳川吉宗の次男・田安宗武の保護を受け、田安家の祈願寺として栄えました。境内には、宗武の一族が奉納したと伝わる仏画と、息子の松平定信が筆を執った扁額が残ります。
江戸時代に開かれた日曜寺と田安宗武
日曜寺は光明山日曜寺と称し、18世紀初めに宥慶比丘(ゆうけいびく)が開いたと伝えられています。本尊は愛染明王で、総本山は現在の文京区湯島にある霊雲寺です。江戸時代には中山道板橋宿の周辺で知られる寺院となりました。
田安宗武(1716~1771)は、八代将軍吉宗の次男で、徳川御三卿の一つである田安家の初代当主です。宗武は日曜寺の住職に帰依し、寺を保護しました。19世紀前半に編まれた地誌『新編武蔵風土記稿』には、宗武のほか、正妻の宝蓮院や子の松平定信らによる仏像・仏画の奉納が記されています。
田安家が奉納した4幅の仏画
日曜寺には「日曜寺田安家奉納仏画」と呼ばれる4幅の仏画が伝わります。内訳は愛染大曼荼羅1幅、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の2幅からなる両界曼荼羅、弘法大師影像1幅です。江戸幕府の将軍家に近い田安家と寺院との関係を伝える文化財として、令和4年(2022)3月8日に板橋区の登録有形文化財となりました。
愛染大曼荼羅は縦288.0センチメートル、横194.5センチメートルの大きな絵画です。中央に愛染明王を描き、周囲には鳳凰などの装飾を配しています。額縁のように見える表装部分も実際には絵で描いた「描表装」で、三葉葵の紋や金泥の模様が取り入れられています。
金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅は、いずれも縦2メートルを超える大型の仏画です。密教では仏や菩薩の世界を曼荼羅として表し、儀礼や教えを伝えるために用いてきました。日曜寺の両界曼荼羅には霊雲寺派に特有の構図が見られ、宗派の仏教美術を考える資料になっています。
火災の記録が残る弘法大師影像
4幅のうち弘法大師影像は、縦142.5センチメートル、横50.3センチメートルの絹本著色画です。損傷が大きく、伝来に火災が関わったとされています。史料の端裏書には、もとは田安宗武の屋敷に置かれていましたが、屋敷が火災に見舞われた際、灰の中から取り出されたことが記されています。『新編武蔵風土記稿』にも同様の伝承が載っています。
日曜寺自体も第二次世界大戦時の空襲で被災し、山門を除く境内の多くが焼失したとされます。そのため、寺の所蔵品が失われたと考えられた時期がありました。後年の文化財調査で田安家奉納の仏画が確認され、歴史資料として登録されました。
1815年、松平定信が贈った日曜寺扁額
山門に掛かる「日曜寺」の扁額は、松平定信(1759~1829)が書いたものです。定信は田安宗武の七男で、陸奥国白河藩主を務め、老中として寛政の改革を進めました。
文化12年(1815)、定信は父・宗武の生誕100年を記念して扁額を奉納しました。欅材を用いた額の大きさは縦80センチメートル、横153センチメートルで、「日曜寺」の三文字が右から草書で書かれています。父が深く帰依した寺院へ子が書を贈った経緯が、奉納年とともに残っています。
愛染明王と染物職人の信仰
日曜寺の本尊である愛染明王は、江戸時代の町人や職人にも信仰されました。「愛染」と「藍染」が同じ音であることから、江戸とその周辺で染物に携わる人々が参詣したと伝わります。板橋宿近くの寺院が将軍家一門の祈願寺となる一方、地域の職人にも親しまれていたことを伝える信仰です。
日曜寺の所在地と見学
所在地は東京都板橋区大和町42-1です。都営三田線の板橋本町駅から徒歩約8分で、東武東上線の中板橋駅からも徒歩で訪ねられます。田安家奉納仏画は通常非公開です。見学できる範囲については寺院や現地の案内に従ってください。
旧中山道の板橋宿と周辺寺社の歴史は、板橋宿・仲宿周辺の歴史と文化財にまとめています。
参考資料
- 板橋区「日曜寺のご案内」
- 板橋区「日曜寺田安家奉納仏画」
- 板橋区『令和7年度版 板橋区文化財マップ』
