池袋駅の中央通路に立つと、東に西武、西に東武、地下に丸ノ内線・有楽町線・副都心線、地上にJRのホームが重なっています。東口に西武、西口に東武が並び、出口を一つ間違えるだけで景色が変わります。現在の構造は、1903年に農地の中へ置かれた分岐駅へ、私鉄、百貨店、闇市、地下鉄、地下街が時代ごとに加わってできました。
- 30秒で分かる結論
- 駅ができる前の池袋はどんな場所だったのか
- 1903年、なぜ池袋に駅ができたのか
- 駅はできたが、まだ街はなかった
- 1914年、東上鉄道が池袋へ来る
- 1915年、武蔵野鉄道も池袋を始発駅にした
- 東武と西武が池袋を巨大ターミナルにした
- 関東大震災後、池袋へ人が流れ込む
- 駅と百貨店が一体化する
- なぜ東口が西武で、西口が東武なのか
- 空襲で破壊された池袋駅
- 闇市から戦後の繁華街が生まれた
- 1954年、丸ノ内線が池袋から走り始める
- 有楽町線と副都心線が駅の役割を変えた
- セゾン文化とサンシャイン60が東口を変えた
- なぜ池袋駅は迷路になったのか
- 現在の池袋駅で見られる歴史の痕跡
- 池袋駅120年の年表
- よくある疑問
- まとめ
- 参考文献・資料
30秒で分かる結論
池袋は、東京北西部と埼玉西部から人を運ぶ二つの私鉄が国鉄の分岐駅へ集まったことで、巨大ターミナルへ成長しました。駅に直結する百貨店と地下鉄は、乗り換え客を買い物や観劇へ導きました。戦災後には駅前の闇市が人と物資を受け止め、その後の商店街と再開発へつながります。駅の拡張が、東口・西口・北側に異なる性格の街を育てました。
- 1903年:日本鉄道の分岐駅として開業
- 1914~1915年:東上鉄道と武蔵野鉄道が池袋を起点に開業
- 1923年以後:震災後の人口移動で住宅地・商店街・文化の街が拡大
- 1940年代以後:百貨店、戦災復旧、闇市が駅前の人の流れを再編
- 1954年以後:地下鉄と地下街が都心・郊外を立体的につなぐ
- 2008~2013年:副都心線と直通運転により、終点であり通過点でもある駅へ変化
駅ができる前の池袋はどんな場所だったのか
明治初期の池袋は、東京市街地の外側に広がる農村でした。現在の駅周辺は北豊島郡の池袋村、西巣鴨村、長崎村などにまたがり、畑、雑木林、集落が点在していました。江戸から中山道を進む人は板橋宿を通り、寺社参詣や園芸で知られた巣鴨、徳川家の鷹狩場に由来する御料地を抱えた目白のほうが、池袋より早く地域の目印になっていました。
豊島区は武蔵野台地の東端にあり、谷端川や弦巻川などの流れが台地を刻んでいます。駅西側には丸池と呼ばれた池があり、低地と湧水を伴う地形が残っていました。「池袋」の地名には、池の多い土地に由来する説や、低地の形を袋になぞらえた説などがあります。
1885年、日本鉄道が品川―赤羽間を開通させた際、設けられたのは目白駅と板橋駅でした。池袋には線路だけが通り、周囲には農地が広がっていました。
1903年、なぜ池袋に駅ができたのか
池袋駅は1903年4月1日、日本鉄道豊島線の開業に合わせ、大塚駅・巣鴨駅と同時に設けられました。豊島線は池袋から田端方面へ分かれる路線で、池袋駅は鉄道網をつなぐ分岐点として生まれました。
品川―赤羽間の既設線から田端へ分岐するには、急な勾配や曲線を避け、線路用地を確保する必要がありました。目白付近より北の池袋は、分岐線を通しやすい地形と用地条件を備えていました。後に東上鉄道と武蔵野鉄道も計画を変更し、池袋を始発駅に選びます。

開業時の駅は、木造駅舎とホーム、線路設備を備えた小規模なものでした。1906年に日本鉄道が国有化され、1909年の国有鉄道線路名称制定で周辺路線は山手線の一部として整理されます。当時の「豊島線」「品川線」は、現在の環状運転を行う山手線とは路線の役割が異なりました。
駅はできたが、まだ街はなかった
開業直後の池袋駅は利用者が少なく、駅前に密集市街地もありませんでした。その後、駅へ向かう道路が整い、商店、下宿、学校、工場、住宅が線路の周囲へ集まりました。
東京市内の地価や家賃が上がると、鉄道で都心へ通える郊外へ住宅地が広がりました。立教学院をはじめとする教育機関の移転、工場や軍関係施設の立地も、通勤・通学需要を生みます。1910年代前半までの池袋は、東京へ出入りするための小さな乗り換え地点でした。
1914年、東上鉄道が池袋へ来る
1914年5月1日、東上鉄道が池袋―田面沢間33.5キロで営業を始めました。田面沢は現在の川越市駅と霞ケ関駅の間にあった駅です。東上鉄道の名は東京と上州を結ぶ構想に由来しますが、最初の開業区間は池袋から川越方面でした。
当初の計画には、都心側へさらに延ばす構想がありました。建設費、既存市街地への乗り入れ、国鉄との接続を考慮し、すでに分岐駅となっていた池袋が起点に選ばれます。東上鉄道は国鉄線の西側に駅施設を置き、川越や埼玉西部から来た乗客を池袋へ運びました。1920年に東武鉄道と合併した後も、この西側ターミナルは東武東上線の基盤として残ります。
列車は通勤客に加え、農産物や生活物資、買い物客、学生、行商人を運びました。西口側には商店、飲食店、宿泊施設が増え、街は線路の西側へ広がりました。
1915年、武蔵野鉄道も池袋を始発駅にした
翌1915年4月15日、武蔵野鉄道が池袋―飯能間を開業しました。現在の西武池袋線につながる路線です。練馬、石神井、所沢、飯能を結び、武蔵野の農村や行楽地を東京側へつなぎました。
武蔵野鉄道にも、池袋以外を都心側の起点とする計画がありました。用地と資金の制約から、国鉄へ乗り換えられる池袋が選ばれます。駅施設は国鉄駅の東側に置かれ、東上鉄道が西、武蔵野鉄道が東に分かれた配置が、後の「東口に西武、西口に東武」の土台になりました。
武蔵野鉄道は1922年に池袋―所沢間を電化し、1928年には池袋―練馬間を複線化しました。列車本数と輸送力が増えると、沿線の農村は通勤住宅地へ変わりました。休日には列車が行楽客も運び、郊外の人口増加とともに池袋駅の乗り換え客が増えました。
東武と西武が池袋を巨大ターミナルにした
東上鉄道は川越を中心とする埼玉西部と結びつき、武蔵野鉄道は練馬・所沢・飯能方面を池袋へつなぎました。両社は国鉄線をはさんで別々の頭端式ターミナルを構えます。頭端式とは、線路が行き止まりになり、列車が折り返す終着駅型の構造です。
私鉄沿線から来た人の多くは国鉄へ乗り換え、待ち時間に買い物や食事をし、映画や芝居を楽しみました。鉄道会社と商業施設は、乗り換え客を街へ呼び込む施設を整えます。池袋は、郊外から来た人が買い物や娯楽を楽しむ目的地へ変わりました。
線路は人を集める一方、地上の東西移動を難しくしました。東口と西口では、それぞれ異なる私鉄、商店街、文化施設が発展しました。
関東大震災後、池袋へ人が流れ込む
1923年の関東大震災は、池袋の市街化を加速させました。被害の大きかった都心・下町から、地盤が比較的安定し、鉄道で都心へ通える東京西北部へ住民が移ります。住宅地の造成、道路整備、商店街の形成が進み、駅利用者も増えました。

1933年の西口写真には、駅前道路と商店、行き交う人びとが写っています。開業から30年で、農地に囲まれていた駅前は市街地へ変わりました。西口側では立教大学を中心に学生街が育ち、安い土地と都心への交通を求めた芸術家が長崎・千早・要町周辺のアトリエ村へ集まりました。
池袋モンパルナスと呼ばれる文化圏は、長崎・千早・要町周辺のアトリエ村に広がりました。安い住居と制作場所、画家や詩人の交流、池袋駅から都心の展覧会場へ通える交通条件が、文化活動を支えました。
駅と百貨店が一体化する
池袋の商業は、駅と大規模店舗が直結したことで大きく変わりました。東口では1940年に武蔵野デパートが開業し、1949年に西武百貨店へ社名を変えます。乗客は街へ出る前に売場へ入れるようになり、乗り換えの途中で買い物ができました。
西口では丸物池袋店などを経て、1962年に東武百貨店池袋店が開業しました。東武東上線のターミナルと百貨店が結びつき、西口を歩く人の流れが変わります。東西の百貨店は売場を増築し、改札、連絡通路、地下売場、駅ビルと接続しました。買い物客は駅前広場へ出ず、建物の中を通って移動できるようになりました。

1963年の航空写真では、線路をはさんで東西の市街地が密集し、駅の近くに大型店が集まっています。西武と東急が池袋・渋谷で展開した鉄道と百貨店の都市づくりでは、駅の内部へ商業施設を広げた池袋と、駅前の街路へ店舗を展開した渋谷を比較しています。
なぜ東口が西武で、西口が東武なのか
現在の東武東上線につながる東上鉄道は国鉄駅の西側、現在の西武池袋線につながる武蔵野鉄道は東側へターミナルを置きました。それぞれの百貨店も鉄道ターミナルと同じ側に建てられ、東口に西武、西口に東武という配置が定着しました。


東口には西武百貨店とPARCOが並び、東池袋方面まで大型店と文化施設が続きます。西口には東武百貨店、立教大学、東京芸術劇場、飲食街が集まります。北側には鉄道施設と跨線橋、戦後市場から続く細かな街区が残っています。
空襲で破壊された池袋駅
1945年4月の空襲で豊島区の広い範囲が焼け、池袋駅周辺も大きな被害を受けました。鉄道は軍需輸送と市民生活の双方を支える基盤だったため、被災後も復旧が急がれます。駅舎や周辺建物を失った状態で、列車を動かし、人を運ぶことが優先されました。

1946年の写真には、空襲後の仮駅舎と乗客が写っています。配給だけでは食料が足りない時代、東武・西武沿線の農村へ買い出しに向かう人、郊外から物資を運ぶ人、復員・引揚げで東京へ戻る人が池袋を通りました。
闇市から戦後の繁華街が生まれた
終戦後、池袋駅の東口と西口には露店や市場が形成されました。郊外から食料と人が集まり、焼け跡では新たな商売が始まります。東口では森田組東口マーケットなどが知られ、西口にも市場と飲食街が生まれました。名称、運営者、範囲は時期によって異なります。
闇市には、飲食、日用品、仕事、情報を求める人が集まりました。行政による露店整理、道路・駅前広場の整備、大型店の拡張が進むと、露店の一部は商店街や飲食街へ移り、別の一部は再開発で姿を消します。市場で培われた商売のつながりは、その後の商店街や飲食街に受け継がれました。
新宿・上野・池袋・渋谷の市場と再開発の違いは、戦後東京の闇市の歴史で比較しています。池袋北側・西側の歓楽街、ホテル街、チャイナタウンの形成は、池袋北口・西口の都市史で扱っています。
1954年、丸ノ内線が池袋から走り始める
1954年1月20日、帝都高速度交通営団の丸ノ内線が池袋―御茶ノ水間で開業しました。戦後に新設された東京最初の地下鉄路線で、池袋はその起点です。地上では国鉄、東武、西武が郊外から人を集め、地下鉄は御茶ノ水、東京、銀座、新宿方面へ都心の軸を伸ばしました。
地下鉄の開業後、改札、階段、地下コンコース、地下売場が結びつき、地上へ出ずに移動や買い物ができる範囲が広がりました。1960年には現在位置に近い丸ノ内線池袋本駅が使われるようになり、百貨店の改築とともに地下空間も拡張されました。
有楽町線と副都心線が駅の役割を変えた
1974年10月30日、営団地下鉄有楽町線の池袋―銀座一丁目間が開業しました。その後、有楽町線は和光市・新木場へ延び、東武東上線や西武池袋線との相互直通運転を始めます。私鉄の列車が地下鉄へ入り、池袋で乗り換えずに都心へ向かえるようになりました。
1994年には有楽町線小竹向原―新線池袋間が有楽町新線として開通しました。この区間は2008年6月14日の副都心線和光市―渋谷間開業に組み込まれます。さらに2013年3月16日、副都心線は東急東横線・横浜高速みなとみらい線と相互直通運転を始め、埼玉西部から池袋、新宿三丁目、渋谷、横浜方面まで一つの列車で結ばれました。
池袋には東武東上線と西武池袋線の終着駅が残る一方、地下鉄直通列車は駅を通り抜けます。池袋で乗り換え、買い物や食事に立ち寄る人と、直通列車で通過する人の両方が利用する駅になりました。
セゾン文化とサンシャイン60が東口を変えた
戦後の東口では、西武百貨店を中心に、美術、演劇、書店、映画、ファッションを組み合わせた商業文化が育ちました。1975年に西武美術館が開館し、PARCOなどの施設も新しい生活様式や表現を紹介しました。堤清二らが率いたセゾングループの文化事業によって、池袋東口には若者が美術や演劇、映画を楽しむ施設が集まりました。
駅の東約1キロでは、東京拘置所の移転後、その跡地にサンシャインシティが建設され、1978年に開業しました。駅前や百貨店周辺に集まっていた人の流れは東池袋方面へ伸び、駅東口からサンシャインへ続く通りに店舗と娯楽施設が増えました。
西武の鉄道・百貨店・文化事業と渋谷の東急との違いは、西武と東急の都市開発史で比較しています。乙女ロードやアニメ文化も、東口から東池袋へ続く商業・娯楽施設の集積から発展しました。
なぜ池袋駅は迷路になったのか
池袋駅が迷路に感じられる最大の理由は、複数の事業者が別々の年代に必要な施設を足したからです。国鉄・JRの南北方向の線路を軸に、東側へ西武、西側へ東武の終端ホームが付き、地下へ丸ノ内線、有楽町線、副都心線が異なる深さと方向で加わりました。さらに百貨店、駅ビル、地下街、駐車場、商業通路が接続しています。
各事業者は、自社ホームと街を結ぶ通路をそれぞれ整備しました。古い通路を残したまま新しい改札や階段が加わり、百貨店の増築に合わせて連絡口も変わります。同じ「中央口」「南口」でも路線によって位置関係が異なり、地上の方角と地下の案内が一致しにくくなりました。
木造駅舎から始まった池袋駅は、営業を続けながら、戦災復旧、高度成長期の増築、地下鉄建設、バリアフリー化を重ねてきました。そのため、古い構造と新しい構造が同じ駅の中に残っています。
現在の池袋駅で見られる歴史の痕跡
西側の東武東上線、東側の西武池袋線は、郊外私鉄が池袋を終点に選んだ1910年代の配置を受け継いでいます。中央をJR線が南北に通り、地下には開業年代の異なる三つの地下鉄ホームが重なります。
- 東口:西武池袋本店とPARCOが並び、東池袋方面まで商業施設が続きます。武蔵野鉄道と戦後の西武系商業が作った街並みです。
- 西口:東武百貨店、東武東上線、立教大学、東京芸術劇場が近接し、鉄道、学生街、文化施設が重なっています。
- 北側:北改札、池袋大橋、線路沿いの細かな街区に、鉄道施設と戦後市場から続く街並みが残ります。
- びっくりガード:駅南側で線路の下をくぐる道路は、地上で分断された東西を結ぶ古くからの要所です。
- 地下通路:丸ノ内線、有楽町線、副都心線と百貨店地下階を結ぶ通路は、年代ごとに増築されました。
東口には西武、西口には東武、北側には鉄道施設と戦後市場から続く街区があります。各出口は、別々の鉄道と商業施設の発展に沿って異なる街並みを作りました。
池袋駅120年の年表
| 年 | できごとと駅・街への影響 |
|---|---|
| 1903年 | 4月1日、日本鉄道豊島線の開業に伴い池袋・大塚・巣鴨の3駅が開業。池袋は田端方面への分岐駅となる。 |
| 1906年 | 日本鉄道が国有化され、池袋駅は国有鉄道の駅となる。 |
| 1909年 | 国有鉄道線路名称の制定で周辺路線が山手線として整理される。 |
| 1914年 | 東上鉄道が池袋―田面沢間で開業。西口側に川越方面へのターミナルが生まれる。 |
| 1915年 | 武蔵野鉄道が池袋―飯能間で開業。東口側に所沢・飯能方面へのターミナルが生まれる。 |
| 1923年 | 関東大震災後、東京西北部への人口移動が進み、池袋周辺の宅地化と商業化が加速する。 |
| 1940年 | 東口に武蔵野デパートが開業し、鉄道と百貨店が一体化する。 |
| 1945年 | 空襲で駅周辺が被災。終戦後、東西の駅前に露店・市場が形成される。 |
| 1946年 | 仮駅舎で営業を続け、買い出し客や復員者を含む多くの利用者を運ぶ。 |
| 1949年 | 武蔵野デパートが西武百貨店へ社名変更。 |
| 1954年 | 営団地下鉄丸ノ内線池袋―御茶ノ水間が開業。池袋から都心へ地下の軸が伸びる。 |
| 1962年 | 東武百貨店池袋店が開業し、西口を歩く人の流れが変わる。 |
| 1974年 | 営団地下鉄有楽町線池袋―銀座一丁目間が開業。 |
| 1978年 | サンシャインシティが開業し、東口から東池袋方面へ人の流れが広がる。 |
| 1994年 | 有楽町線小竹向原―新線池袋間が有楽町新線として開業。 |
| 2008年 | 副都心線和光市―渋谷間が開業し、有楽町新線区間を編入。 |
| 2013年 | 副都心線と東急東横線・横浜高速みなとみらい線の相互直通運転が始まる。 |
| 2023年 | 池袋駅が開業120周年を迎える。 |
よくある疑問
池袋駅は最初から山手線の駅だったのですか?
1903年の開業時は日本鉄道豊島線の駅でした。日本鉄道の国有化と1909年の線路名称制定を経て、山手線の駅として整理されます。開業当初の豊島線と品川線は、現在の環状運転を行う山手線とは役割が異なりました。
東口に西武、西口に東武があるのはなぜですか?
東上鉄道が国鉄駅の西側、武蔵野鉄道が東側にターミナルを置き、それぞれの後継会社と百貨店が同じ側で発展したためです。東武と西武の社名は、池袋駅の出口方角とは関係がありません。
闇市が西武百貨店や東武百貨店になったのですか?
東口の武蔵野デパートは、闇市が生まれる前の1940年に開業しています。戦後は百貨店、露店市場、駅前整備、大規模店舗の拡張が並行して進み、街の姿が変わりました。
池袋駅が迷いやすいのは出口が多いからですか?
JR・東武・西武・地下鉄・百貨店が、異なる年代に通路と改札を増設したことが大きな理由です。地上の方角、鉄道会社の改札名、地下街の区画が一致しにくく、乗り換え経路が立体的に重なっています。
まとめ
池袋駅は1903年、農地の中に田端方面への分岐駅として生まれました。1914年に東上鉄道、1915年に武蔵野鉄道が乗り入れ、東京北西部と埼玉西部から多くの人が集まる駅へ成長しました。
関東大震災後の人口流入、駅直結の百貨店、戦災からの復旧、東西の闇市、丸ノ内線・有楽町線・副都心線が、駅と街をさらに広げました。増築された通路や改札が重なり、東口、西口、北側には異なる街並みが生まれました。
現在の池袋駅では、駅、百貨店、地下街、繁華街が一体につながっています。東武東上線と西武池袋線の終点であり、地下鉄直通列車が通過する中継駅でもある構造は、農村の分岐駅から続く120年の拡張によって生まれました。
参考文献・資料
- 豊島区立郷土資料館「えきぶくろ―池袋駅の誕生と街の形成―」
- 豊島区「池袋駅・大塚駅・巣鴨駅開業120周年記念」
- 豊島区デジタル区史「としまひすとりぃ」
- 東武鉄道「会社の沿革 1895年~1920年」
- 西武鉄道「年譜」
- そごう・西武「沿革」
- 東京メトロ「沿革」
- メトロアーカイブアルバム「丸ノ内線の歴史」
- メトロアーカイブアルバム「地下鉄の歴史 vol.4」
- 日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史 第10巻』
- 国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」

