上野毛から瀬田、二子玉川へ歩くと、国分寺崖線の高台と多摩川沿いの低地のあいだに、縄文時代から現代までの土地利用が重なっています。高台には集落や古墳、近代の邸宅が置かれ、崖下には湧水と水路、低地には堤防や陸閘が築かれました。戦後になると水道施設、教会、美術館が加わり、二子玉川の再開発では古い住宅建築が新しい公園へ移されました。
上野毛駅と二子玉川駅は電車なら一駅です。歩くと、短い距離の中で坂、森、台地、谷、旧堤防が次々に現れます。地域の歴史をつないでいるのは、多摩川と国分寺崖線です。
- 上野毛・瀬田・二子玉川をつくった国分寺崖線
- 上野毛稲荷塚古墳|4世紀末の前方後円墳
- 上野毛自然公園と稲荷丸塚|崖線の森に残る近代以前の痕跡
- カトリック上野毛教会|今井兼次が設計した戦後の聖堂
- 五島美術館|田健治郎の「萬象閣」から五島慶太へ
- 野毛3丁目9番の大邸宅|小佐野賢治と国際興業
- 瀬田貝塚と瀬田遺跡|縄文から弥生へ続いた高台の集落
- 瀬田の地名と旧村|行火坂がつなぐ高台と多摩川低地
- 瀬田の長崎館・瀬田城|北条氏家臣の伝承と発掘成果
- 瀬田隧道|長沢浄水場建設の記録に残る水道施設
- 大山道と二子の渡し|江戸から大山へ続いた街道
- 玉電から二子玉川ライズへ|鉄道が変えた川辺の街
- 二子玉川公園と帰真園|新しい公園に移された旧清水家住宅書院
- 玉川東陸閘・玉川西陸閘|洪水対策と川辺の往来を両立した堤防の門
- 参考資料
上野毛・瀬田・二子玉川をつくった国分寺崖線
国分寺崖線は、武蔵野台地の縁を多摩川などが削ってできた段丘崖です。世田谷区では上野毛、瀬田、岡本、成城方面へ続き、急な坂、斜面林、湧水が帯状に残ります。上野毛自然公園では、斜面上部から下部へ短い距離で高低差を体感できます。
この高低差は土地の使われ方を分けました。洪水の影響を受けにくい台地上には長期にわたる集落や古墳が置かれ、近代には眺望を求める邸宅が並びました。多摩川に近い低地では、渡しや料亭、農地への往来と洪水対策がせめぎ合い、堤防に陸閘が設けられました。国分寺崖線の別エリアにおける湧水と住宅地の関係は、「国分寺崖線と世田谷のまちづくり」でも紹介しています。
上野毛稲荷塚古墳|4世紀末の前方後円墳
上野毛稲荷塚古墳は、上野毛2丁目の国分寺崖線上にある世田谷区指定史跡です。全長約33メートル、後円部の高さ約3メートルの小型前方後円墳と推定されています。1995年と2009年の発掘調査で周溝と粘土槨が確認され、鉄刀や管玉が出土しました。



副葬品の年代から築造は4世紀末ごろと考えられ、世田谷区は上野毛から尾山台に広がる野毛古墳群で早い段階に現れた古墳と位置づけています。後の時代には野毛大塚古墳など、さらに大きな古墳が多摩川沿いに築かれました。
古墳が置かれたのは崖線上の高台です。多摩川低地を望みやすい位置で、川沿いを移動する人々からも視認しやすい場所でした。現在は住宅地に囲まれていますが、古墳の位置そのものが古代の地形利用を伝えています。
上野毛自然公園と稲荷丸塚|崖線の森に残る近代以前の痕跡
世田谷区立上野毛自然公園は約9,240平方メートル。国分寺崖線の斜面を取り込んだ公園で、上部には桜の広場、下部には湧水のせせらぎがあります。現在の公園付近には、かつて「桜楓園」と呼ばれた桜の名所がありました。

桜楓園に関わったのが、旧上野毛村の戸長や東京府会議員を務めた田中筑後です。世田谷区立郷土資料館の資料では、田中は庭園や茶室に通じ、隣接する田健治郎邸の庭園づくりにも関わりました。現在の上野毛自然公園と五島美術館周辺には、近代の庭園文化が連続していました。
旧上野毛村の田中家と「筑後丸」
1981年に発行された地域誌『とうよこ沿線』の田中重義家取材記事は、五島美術館を中心とする一帯を古老が「筑後丸」と呼んでいたと記録しています。記事では、その名を天正年間の小豪族・田中筑後守重政の館に由来すると伝えています。世田谷区の地域資料にも、上野毛稲荷神社が室町時代に吉良氏の家臣・田中筑後の屋敷神としてまつられていたという伝承が残ります。
田中家は江戸時代に旧上野毛村の名主を代々務めました。世田谷区立郷土資料館は、田中家に伝来した158年間・109冊の御用留を『世田谷区史料叢書』全10編で翻刻しています。上野毛の土地利用、村政、近世社会を追えるまとまった史料群です。
公園上部には「稲荷丸塚」と呼ばれる小さな塚が残ります。資料上は古墳と中近世の塚という二つの位置づけが併存しています。4世紀末の築造が発掘で確認された上野毛稲荷塚古墳とは別の遺構です。五島美術館庭園内にも「稲荷丸古墳」と呼ばれる塚があり、近接した場所に似た名称が残っています。
カトリック上野毛教会|今井兼次が設計した戦後の聖堂
カトリック上野毛教会の歩みは、1951年12月、中国で宣教していた男子カルメル修道会のイタリア人司祭6名が来日したことに始まります。翌1952年、修道院設立のため現在の上野毛の土地が購入され、男子跣足カルメル修道会の修道院が設立されました。敷地内にあった日本家屋の八畳間を聖堂とし、同年8月15日に最初のミサが行われました。信徒が増えると新しい聖堂が計画され、1958年8月に着工、1959年7月15日に献堂されました。
「男子跣足カルメル修道会」とは
カルメル会は中世に始まったカトリックの修道会です。16世紀、アビラの聖テレジアと十字架の聖ヨハネが、初期の厳格な修道生活へ立ち返る改革を進めました。この改革派が跣足カルメル会です。「跣足」は裸足を意味する言葉で、簡素で厳格な生活を志した改革の歴史に由来します。
「男子」は男性修道者の共同体を指します。日本のカルメル会には、男子修道会、女子カルメル会、修道院に入らず社会生活を送りながらカルメルの霊性に生きる在世会があります。上野毛では男子修道院の聖堂に近隣の信徒が集まったことから教会が始まり、現在のカトリック上野毛教会へ発展しました。

設計した今井兼次は、長崎の日本二十六聖人殉教記念施設や碌山美術館でも知られる建築家です。上野毛教会では建物に加え、聖櫃、十字架、正面扉、ステンドグラスなどの細部まで設計しました。戦後の上野毛に形成された宗教文化と建築文化を一つの建物からたどれます。
五島美術館|田健治郎の「萬象閣」から五島慶太へ
五島美術館は1960年4月18日に開館しました。構想したのは、東急グループの礎を築いた五島慶太です。五島は鉄道経営の一方で古写経をはじめとする古美術を収集し、その公開施設として美術館建設を進めました。五島は1959年に亡くなり、開館は翌年となりました。

本館の設計は吉田五十八です。寝殿造の意匠を近代建築へ取り込み、1961年に第二回建築業協会賞を受賞しました。庭園を含む敷地は約6000坪。武蔵野の雑木林が多摩川へ向かって大きく下り、本館と茶室「古経楼」「冨士見亭」は2017年に国の登録有形文化財となりました。
五島以前、この土地には田健治郎の別邸「萬象閣」があった
五島美術館の土地には、五島慶太より前に政治家・官僚の田健治郎が別邸を構えていました。田は逓信大臣、台湾総督、農商務大臣などを務め、上野毛の邸宅を「萬象閣」と名づけました。
世田谷区立郷土資料館が紹介する田の日記には、桜、ツツジ、藤棚、池、滝、温室、小径など庭園整備の記録が残ります。1907年に玉川電気鉄道が開通すると、田は別邸への移動が便利になったことも記しました。国分寺崖線の眺望と新しい鉄道交通が結びつき、上野毛・瀬田には政財界人の別邸が集まりました。
五島慶太による鉄道経営と沿線開発の全体像は、「五島慶太と東急帝国」で詳しく紹介しています。
野毛3丁目9番の大邸宅|小佐野賢治と国際興業
上野毛自然公園の南東、野毛3丁目9番には、樹木に囲まれた大規模な住宅地があります。世田谷区へ2025年7月8日に提出された建築構想届では、国際興業管理株式会社がこの場所で「上野毛プロジェクト」を進める計画が記載されています。届出時の敷地面積は7,678.55平方メートル、用途は一戸建て住宅、地上2階・地下1階、1戸。工事種別は増築です。

小佐野賢治が築いた国際興業
国際興業の公式沿革によると、小佐野賢治は1940年に東京・芝で自動車部品業を創業しました。1945年にホテル事業、1946年に乗合・観光バスへ進出し、1947年に社名を国際興業としました。1953年には輸入自動車販売、1963年にはハワイのホテル事業、1964年には不動産事業へ進み、交通、観光、商事、不動産へ事業領域を広げました。
現在の国際興業株式会社は国際興業管理株式会社を株主とし、国際興業管理は不動産の売買・賃貸・管理やホテル業などを事業内容としています。野毛3丁目9番の「上野毛プロジェクト」でも、国際興業管理が建築事業者として世田谷区へ届け出ています。
「上野毛迎賓館」と呼ばれた旧小佐野邸
2026年9月に公開された小佐野家関係者・小佐野匠氏のインタビューでは、幼少期に上野毛で暮らし、道路を挟んだ向かいが賢治の家だったと回想しています。国際興業内部では賢治邸を「迎賓館」と呼び、敷地は「6000坪」だったという家族の記憶も語られました。
同じインタビューでは、戦後まもなく小佐野賢治が五島慶太から約6000坪の土地を90万円で購入したという家族内の伝承も語られています。2025年の建築構想届に記載された敷地は7,678.55平方メートルで、6000坪(約1万9800平方メートル)より小さくなっています。現在の計画地と、証言に残る旧邸の規模には差があります。

小佐野賢治は1976年のロッキード事件で国会の証人喚問を受け、その証言をめぐって偽証罪で起訴されました。1981年の東京地裁判決は懲役1年、1984年の東京高裁判決は懲役10か月・執行猶予3年でした。戦後の企業成長と政治・経済の関係をめぐって広く知られた人物が、上野毛の崖線近くに大規模な邸宅を構えたことも、この土地の近現代史の一部です。
瀬田貝塚と瀬田遺跡|縄文から弥生へ続いた高台の集落
瀬田遺跡は、瀬田1・2丁目の国分寺崖線上に広がる大規模な複合遺跡です。旧石器時代から縄文、弥生、古墳、中世以降まで、長い期間の生活痕跡が重なっています。
縄文時代前期後葉の諸磯b式期には、行善寺坂と呼ばれる谷を囲むように住居が広がりました。昭和初期には貝層を伴う住居跡が調査され、世田谷区は「多摩川最奥の貝塚」と紹介しています。縄文中期には住居の分布が東西約280メートル、南北約220メートルに広がり、弧状または馬蹄形状の集落だったと推定されています。
弥生時代後期には環濠、住居跡、方形周溝墓が確認されました。居住域と墓域が隣り合う構成で、瀬田の高台が長期間にわたって生活の場として使われたことがわかります。古墳時代前期の遺構からは東海地方西部に由来する土器や、その形を模倣した土器も出土し、多摩川流域を介した人や物の移動を伝えています。
瀬田の地名と旧村|行火坂がつなぐ高台と多摩川低地
「瀬田」は「瀬戸」が変化した地名とされます。「瀬戸」は狭い出入口や谷地を表す言葉で、多摩川沿岸から台地内の谷が多い一帯を古くは「セト」と呼び、のちに「セタ」へ変わったと世田谷区は説明しています。1889年、瀬田村は奥沢、尾山、等々力、下野毛、上野毛、野良田、用賀の7村と合併して玉川村となり、大字瀬田になりました。
瀬田の地形をよく表すのが行火坂です。世田谷区の散策資料では行善寺坂とも呼ばれる急坂で、行善寺のある高台と多摩川側の低地を結びます。坂、寺、旧道が近接する配置には、崖線上の集落と川辺を行き来した旧瀬田村の生活動線が残っています。
瀬田の長崎館・瀬田城|北条氏家臣の伝承と発掘成果
中世の瀬田では、小田原北条氏の家臣・長崎氏が拠点を置いたと伝わります。世田谷区の文化財資料によると、1529年に建てられた小庵の場所へ、長崎氏が小田原から自ら建立した道栄寺を移し、行善寺としました。
周辺は「瀬田城跡」「長崎館跡」として伝承されてきました。国分寺崖線と谷に挟まれた舌状台地で、周囲との高低差が大きい地形です。発掘調査では中世以降の溝やピットが確認されています。現時点の発掘成果は中世遺構の確認までで、長崎氏の館の具体的位置は伝承として残ります。
瀬田隧道|長沢浄水場建設の記録に残る水道施設
瀬田隧道は、1950年代の東京都水道局資料に登場する水道関連施設です。東京都水道歴史館には、1955年4月25日に東京都水道局が撮影した「着工前の玉川口瀬田隧道」という写真が残ります。写真は「長沢浄水場(三) 建設記録写真」に収められています。

戦後の東京では人口増加と水需要の拡大に対応するため、相模川系の水を利用する拡張事業が進み、川崎市に長沢浄水場が整備されました。東京都水道歴史館の写真は1955年4月25日撮影で、「着工前の玉川口瀬田隧道」と題されています。長沢浄水場建設の記録写真に収められ、相模川系拡張事業が進んだ時期の瀬田に水道関連の隧道が計画されていたことを伝えています。
瀬田アートトンネルは1993年供用の別施設
国道246号の下を通る瀬田アートトンネルは1993年12月3日に供用を開始した歩行空間です。1950年代の水道工事記録に登場する瀬田隧道とは年代と用途が異なります。瀬田アートトンネルを含む周辺の街歩きは、「二子玉川・瀬田 歴史散歩の開催レポート」でも紹介しています。
大山道と二子の渡し|江戸から大山へ続いた街道
瀬田を通る大山道は、矢倉沢往還と呼ばれた脇街道です。江戸の赤坂から青山、渋谷、三軒茶屋、用賀を経て瀬田へ入り、二子の渡しで多摩川を越え、溝口、厚木、伊勢原の大山方面へ続きました。江戸時代中期以降、大山詣が盛んになると、信仰と物見遊山の旅人が行き交いました。
多摩川には長く橋がなく、街道は渡船で対岸へつながっていました。1925年に二子橋が完成すると、二子の渡しは役割を終えます。瀬田の坂道、大山道、多摩川、二子橋は、徒歩と渡船を前提とした交通から橋と鉄道へ移る過程を連続して残しています。
玉電から二子玉川ライズへ|鉄道が変えた川辺の街
1907年、玉川電気鉄道は三軒茶屋―玉川間を開通し、同年中に渋谷まで延伸しました。多摩川の砂利輸送を担う一方、旅客誘致のため遊園地やプール、沿線住宅地の開発にも取り組み、二子玉川には行楽客の流れが生まれました。1929年には大井町線が二子玉川まで開通し、上野毛から二子玉川までが鉄道で結ばれました。
二子玉川駅は、1929年に「二子玉川」となった後、1940年に「二子読売園」、1944年に「二子玉川」、1954年に「二子玉川園」と改称し、2000年に現在の「二子玉川」へ戻りました。駅名の変化には、行楽地としての時代と住宅・商業地へ変わった時代が重なっています。

写真は1968年秋の二子玉川園駅砧線ホームです。玉川線の渋谷―二子玉川園間と砧線は翌1969年に廃止されました。その後、二子玉川駅東側では再開発が進み、2000年に都市計画が決定、2008年には街区名称が「二子玉川ライズ」と決まりました。江戸の渡し場だった川辺は、路面電車の行楽地を経て、大規模な商業・住宅地区へ変化しました。
二子玉川公園と帰真園|新しい公園に移された旧清水家住宅書院
世田谷区立二子玉川公園は2013年4月14日に開園しました。園内の帰真園は、多摩川、富士山、国分寺崖線を主題とした日本庭園です。再開発された二子玉川の新しい都市空間に、地域の地形と近代住宅の記憶が組み込まれています。

旧清水家住宅書院は1910年ごろ、現在の台東区根岸付近に建てられました。1919年に瀬田の清水家屋敷へ移築され、2013年に帰真園へ再移築されています。根岸、瀬田、二子玉川と二度の移築を経験した建物です。金箔地に葛と藤を描いた襖など、近代和風住宅の意匠を残しています。
五島美術館の旧田健治郎邸、野毛の旧小佐野邸とされる大邸宅、旧清水家住宅書院は、いずれも国分寺崖線周辺に集まった近代の邸宅文化を異なる形で伝えています。
玉川東陸閘・玉川西陸閘|洪水対策と川辺の往来を両立した堤防の門
二子玉川公園から多摩川沿いへ進むと、旧堤防に二つの陸閘が残ります。玉川東陸閘と玉川西陸閘で、現在も国土交通省の河川管理施設として多摩川左岸17.6キロ地点に位置づけられています。
多摩川では1914年の大水害を契機に築堤を求める運動が高まり、1918年から1933年度にかけて国直轄の多摩川改修工事が進みました。玉川1丁目から上野毛2丁目にかけての旧堤防も、この時期の治水事業と結びついています。
堤防の内外には料亭、渡し場、農地があり、人や馬が川辺へ出入りしていました。そこで堤防の一部を通路として開け、増水時に門扉を閉じる陸閘が設けられました。煉瓦造りの開口部は、洪水から街を守る治水施設であり、川と日常的につながっていた二子玉川の生活史を残す構造物でもあります。
参考資料
- 世田谷デジタルミュージアム「上野毛稲荷塚古墳」
- 世田谷区「上野毛自然公園」
- カトリック上野毛教会「沿革」
- 五島美術館「沿革」
- 五島美術館「建物・庭園」
- 世田谷区「建築構想届出一覧」
- 国際興業「沿革」
- 宮古新報「国際興業創業者一族 小佐野匠インタビュー(第1回)」
- 世田谷デジタルミュージアム「2021世田谷区遺跡発掘調査速報展」
- 東京都水道歴史館「着工前の玉川口瀬田隧道」
- 世田谷区「二子玉川公園」
- 世田谷デジタルミュージアム「旧清水家住宅書院」
- 国土交通省関東地方整備局「河川管理施設一覧」
- 『とうよこ沿線』復刻版「古文書の宝庫。上野毛の田中重義家」
- 世田谷デジタルミュージアム『世田谷区史料叢書(一)』
- 世田谷区「地区行事【上野毛まちづくりセンター】」
- 男子跣足カルメル修道会「カルメル会の起源と歴史」
- 世田谷区「地名の由来(瀬田・玉川・用賀・上用賀・玉川台)」
- 世田谷区「大山道」
- 世田谷区「大山道の歴史」
- 世田谷区「玉川電気鉄道(玉電)」
- 東急電鉄「大井町線の歴史」
- 東急「二子玉川プロジェクト(二子玉川ライズ)」

