江東区千田の住宅街に、明治20年から続く木桶工房「桶栄(おけえい)」があります。四代目の川又栄風さんは、東京都の媒体で「東京最後の結桶師」と紹介される職人です。
木桶は、風呂桶、寿司桶、飯櫃、たらいなど、かつての暮らしを支える日用品でした。水をためる、米を保存する、食材を運ぶ。プラスチック容器も電気炊飯器もない時代、桶は家庭にも料理屋にも欠かせませんでした。
現在、東京で伝統的な結桶を作り続ける職人は川又さん一人です。桶栄が残った背景には、深川という材木の町、四代にわたる家業、暮らしの変化への対応、そして「古い形をそのまま保存する」のではなく、使える道具として作り続ける判断がありました。
「結桶」とは、板を箍で締めて作る木の容器
結桶は、短冊状に割った木の板を円形に並べ、竹や金属の箍(たが)で締め、底板をはめて作る容器です。江東区の文化財資料によると、板を箍で結ぶ「結物」の技術は11世紀後半に確認され、底板を備えた結桶や結樽が全国へ広がったのは15~16世紀です。
木をくり抜いて容器を作る方法と比べ、細い板を組み合わせる結桶は、大きさや用途を変えやすく、木材も効率よく使えます。板が水分を吸ってわずかに膨らむ性質を利用し、継ぎ目を密着させて水漏れを防ぎます。
桶栄が主に使うのは、樹齢300年ほどの木曽産サワラです。サワラは軽く、油分を含んで水や酸に強く、香りが穏やかです。飯櫃など食品に触れる道具にも向きます。
板には年輪がほぼ直線に見える柾目材を使います。柾目は変形しにくく、水分を吸ったり放出したりする働きがあります。炊き立てのご飯を木の飯櫃へ移すと余分な水分を吸い、冷めてもべたつきにくくなります。
桶と樽は同じものではない
日常語では「桶・樽」とまとめられますが、伝統的な木工では作り方と用途が異なります。林野庁の資料では、桶は主に柾目材を使い、固定された上蓋を持たない容器、樽は板目材を使い、酒樽のように固定された蓋を持つ容器として説明されています。
醤油や味噌を仕込む巨大な木桶を作る技術は、飯櫃や風呂桶を作る結桶とは構造や規模が異なります。全国では大型醸造桶を復活させる取り組みが進んでいますが、桶栄が継承するのは東京の生活道具として発達した江戸結桶です。
なぜ深川で木桶づくりが栄えたのか
桶栄の歴史は、深川と材木の歴史から始まります。
江戸では大火が繰り返されました。材木置場は火災時に燃え広がる危険があり、寛永18年(1641年)の大火後、幕府は材木置場を市街地の外へ移しました。元禄14年(1701年)には深川の埋立地が新たな木場となり、1703年に木場町と名付けられます。
江東区の資料によると、材木置場が移ると、木材を扱う職人も深川へ移ってきました。木場には全国から木材が集まり、材木商、筏師、大工、木工職人が仕事をする町が形成されます。木場の角乗や木遣が現在まで残っているのも、材木産業が地域文化そのものを作ったためです。
木桶職人にとって、材料を選べる木場の近さは大きな利点でした。深川には花柳界や料亭もあり、飯櫃、寿司桶、風呂桶など質の高い木桶を必要とする顧客もいました。
1887年、初代川又新右衛門が深川で開業した
桶栄の創業は1887年(明治20年)です。初代・川又新右衛門が深川で結桶師として開業しました。川又家は現在の千田周辺で仕事を続け、二代目・栄吉の代に屋号を「桶栄」としました。
初代が得意としたのが、飯櫃です。中でも桶栄を代表する「江戸櫃」は、一般的な桶より高い精度が必要です。
通常の桶は、側板の内側へ底板をはめ込み、箍で締めるため、わずかな形のゆがみがあっても機能します。江戸櫃は本体へ一回り大きな蓋をかぶせる構造で、本体と蓋の円が合わなければ閉まりません。板を組み上げた段階から真円に近づける精度が求められます。
初代が作る飯櫃や桶は丈夫さと形の美しさで評判となり、深川をはじめ多くの料亭で使われました。木場で良材を選び、料理屋で実際に使われる。桶栄の仕事は、深川の材木産業と食文化の両方に支えられていました。
飯櫃も風呂桶も、戦後の暮らしから消えていった
戦後、木桶を取り巻く生活環境は大きく変わりました。プラスチック製品が普及し、軽く、安く、乾かす手間の少ない容器が家庭へ入ります。
台所では電気炊飯器が広がりました。1950年代後半には各社が家庭用電気釜を相次いで発売し、炊飯から保温まで家電が担うようになります。炊いた米を飯櫃へ移す習慣は減っていきました。
風呂場でも、木の手桶や風呂桶はプラスチック製品へ置き換わりました。毎日の暮らしに大量に必要だった木桶の市場が縮小し、東京の結桶職人は減っていきます。
桶栄自身も、公式資料でプラスチック製品の普及、炊飯器の登場、生活様式の変化を結桶職人減少の背景として挙げています。需要がなくなれば、技術を習う若者も入りません。組合も消え、東京で結桶を本業にする職人は最後の一人になりました。
四代目・川又栄風は、最初から桶職人を目指したわけではない
現在の四代目・川又栄風さんは1961年、深川に生まれました。父の栄一さんは三代目の結桶師で、後に江東区の無形文化財保持者となった職人です。
栄風さんは工房で祖父や父が働く姿を見て育ちました。立教大学を卒業後は、ファッション関係の会社で営業職を経験しました。
服飾の仕事では、工場で量産する既製服の一方に、刺繍やテキスタイルなど人の手で作る工程が残っていました。ものづくりの現場へ関心を持ち、自分で作る仕事を考えた時、家業の結桶へ戻る選択肢が浮かびます。
1986年、26歳で父・栄一さんへ正式に師事しました。家業はすでに斜陽産業でした。需要が増えている仕事へ転職したのではなく、職人が減り続ける仕事へ自ら戻りました。
一つの江戸櫃に70~80もの工程がある
結桶の製作には多数の手作業があります。木を選び、原木を割り、板の厚さをそろえ、側面の角度を調整し、板を組み、内外を削り、底を入れ、箍を締めます。桶栄の紹介では、一つの製品に70~80ほどの工程があります。
特徴的な道具が「クレシゲ」「セン」「カマ」「正直台」です。クレシゲで木を柾目に割り、胸当てを付けてセンを手前へ引きながら板の反りと厚さを調整します。板同士が接する面は、カマと呼ぶ定規で角度を確かめ、正直台という鉋で削ります。
結桶は、板の面と面を精密に合わせ、木が水を吸って膨らむ性質まで計算して器にします。わずかな削り過ぎや角度のずれが、全体の円へ影響します。
栄風さんは修業初期、父と同じように道具を使っても思いどおりに削れませんでした。身長、腕の長さ、筋肉、腰の位置が師匠と違うことに気付き、自分の身体に合う刃の出し方や姿勢を探しました。何十回、何百回と同じ動作を繰り返し、身体の使い方がなじむまで7~8年かかったと振り返っています。
「伝統どおり」に作るだけでは、現在の暮らしに残らない
栄風さんは伝統的な製法を守る一方、道具としての使いやすさは変えています。代表的なのが箍です。
かつて桶栄では銅の箍を使っていました。銅は時間がたつと緑青が出ることがあり、手入れが必要です。栄風さんは、管楽器やカトラリーにも使われる洋白銀に注目しました。銀に近い光沢を持ち、強度が高く、錆びにくい金属です。
江東区の文化財資料も、四代目が従来の銅箍から強度があり錆びにくい洋銀箍へ変えたことを記録しています。現在の桶栄の製品は、白いサワラの木肌と銀色の箍を組み合わせた外観が特徴になりました。
用途も広げました。飯櫃だけでなく、ワインクーラー、アイスペール、パンケースとして使える「コンテナ」など、現代の食卓へ置ける製品を作っています。江戸の道具を復元品として売るのではなく、今の生活で日用品として使える形へ変えています。
江戸櫃は「炊飯器以前の道具」から高級な食の道具へ変わった
電気炊飯器が普及した現在、飯櫃は炊いた米をおいしく保つために選ばれる道具へ役割を変えています。
サワラの柾目材は、余分な水分を吸いながら乾き過ぎも抑えます。炊飯器の保温では温度を保ち続けますが、木の飯櫃は余熱を逃がしながら水分を調整します。料理店が寿司飯や白飯に木桶を使い続ける理由も、この性質にあります。
日常必需品として大量に売る市場は消えました。一方で、素材の性質、食味、手仕事の精度を求める料理人や家庭が残りました。桶栄は大量需要を取り戻すのではなく、木桶にしかできない用途へ仕事を絞ることで生き残っています。
2007年、四代目を継承。作品は海外へ広がった
栄風さんは2007年、四代目を継承しました。三代目・栄一さんは江東区無形文化財保持者となり、旧通商産業省の伝統的工芸品産業功労者賞を受賞しています。四代目も江東区優秀技能者として表彰され、2025年5月には木工(桶)の技術が江東区無形文化財として登録されました。
桶栄の製品は、金沢21世紀美術館、21_21 DESIGN SIGHT、東京ミッドタウン・デザインハブなどで紹介され、ニューヨーク、パリ、ミラノ、コペンハーゲンなど海外の展示にも参加しています。
国内の日用品だった木桶が、海外では日本の手仕事やデザインとして見られるようになりました。市場が縮小した一方で、評価される場所は東京の家庭や料亭から美術館、ギャラリー、海外へ広がりました。
弟子を取れば解決する、という状況でもない
東京最後の職人となれば、後継者の問題が浮かびます。栄風さんのもとには過去に弟子入り希望者もいました。しかし、技術を教えれば仕事が自動的に残るわけではありません。
木桶を日常的に買う家庭が減り、生産量も限られます。一人の職人が新たな弟子を雇い、その人の生活を長期間支えながら何年も修業させるには、安定した市場が必要です。
全国の大型醸造桶でも同じ問題が起きました。農林水産省によると、2000年代には醸造用の大桶を作れる桶屋が全国でわずかになり、2012年から蔵元や大工が技術を学ぶ「木桶職人復活プロジェクト」が始まりました。木桶仕込みの醤油は現在も国内流通量のごく一部です。
桶栄の江戸結桶と醸造用大桶は別の技術ですが、需要の縮小によって職人養成そのものが難しくなった構造は共通しています。
「最後の職人」が残そうとしているのは技法だけではない
栄風さんは、伝統を守るために保存活動だけを続けている職人ではありません。現在も注文を受け、木を割り、削り、器を作り、それを使う人へ渡しています。
TOKYO UPDATESの取材では、後継者問題を問われた栄風さんが、まず高い完成度のものを作り続けて形として残す考えを語っています。技術が途絶える可能性があるから質を下げるのではなく、後世の人が見て再び作りたいと思える水準を残す、という考え方です。
江戸時代には深川へ大量の木材が集まり、桶は庶民の生活用品でした。明治20年に初代が開業した時も、桶は特別な工芸品ではありませんでした。138年後、同じ技術で作る桶は東京で一人の職人が担う仕事になっています。
木桶が消えた歴史は、職人が技を失った歴史というより、日本の暮らしが木、竹、紙など地域の材料でできた道具から、工業製品へ置き換わった歴史です。桶栄には、その変化の前後をつなぐ技術が現在も残っています。
深川を歩くと、桶栄がこの場所にある理由が分かる
桶栄の工房は江東区千田にあります。周辺の深川・木場を歩くと、木場公園、材木業に由来する地名、木場の角乗や木遣など、木の町だった記憶が各所に残っています。
結桶だけを単独の伝統工芸として見ると、「昔の技術が一人だけ残った」という話になります。深川の材木集積、料亭文化、戦後のプラスチック化、電化、住宅と食生活の変化まで重ねると、なぜ東京に数え切れないほどいた桶職人が一人になったのかが具体的に見えてきます。

