横須賀市の陸上自衛隊久里浜駐屯地には、旧海軍時代に掘られた大規模な地下壕群が残っています。久里浜駐屯地は1939年に海軍通信学校が置かれた場所で、現在は陸上自衛隊システム通信・サイバー学校などが所在します。
地下壕群の規模は、防衛関係団体の2025年研修資料で総延長約2km、久里浜駐屯地歴史館に展示される1951年の「地下道路地図」を確認した地域調査でも4地区・約2kmと紹介されています。最大のA地区は約1.2kmとされます。一本の2kmトンネルではなく、複数の地区、出入口、枝分かれする坑道からなる施設です。
2025年7月30日から地下壕の一部一般公開が始まり、2026年にも見学会が続きました。しかし久里浜駐屯地は2026年8月3日、台風による倒木のため地下壕入口付近の環境整備を行うとして、地下壕内部の見学を「当分の間」中止すると発表しました。2026年9月3日現在、再開日は公表されていません。通常の久里浜駐屯地見学は続いています。
旧海軍通信学校地下壕とは|現役自衛隊駐屯地に残る巨大地下壕
旧海軍通信学校地下壕があるのは、神奈川県横須賀市久比里の久里浜駐屯地周辺です。現在も部隊が活動する自衛隊施設の内部にあり、戦争遺跡だけが独立した公園や観光施設として残っている場所とは条件が異なります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 神奈川県横須賀市久比里・陸上自衛隊久里浜駐屯地周辺 |
| 現在の施設 | 陸上自衛隊システム通信・サイバー学校など |
| 地下壕群の規模 | 総延長約2kmとされる。日本国防協会資料と1951年「地下道路地図」を確認した地域調査による |
| 主な構成 | 4地区。最大のA地区は約1.2kmとされる |
| 一般公開開始 | 2025年7月30日 |
| 現在の内部見学 | 2026年8月3日から当分の間中止 |
| 管理 | 陸上自衛隊久里浜駐屯地 |
久里浜駐屯地公式サイトは、旧海軍通信学校地下壕の存在と2025年の一部一般公開開始を明記しています。ただし公式Webページは地下壕群全体の詳細な総延長を示していません。約2kmという数字は、公益財団法人日本国防協会の2025年研修資料や、駐屯地歴史館の1951年「地下道路地図」を調査した地域資料で確認できます。
戦争末期の横須賀では、軍港や航空・教育施設を空襲から守るため山腹を掘った地下施設が多数造られました。久里浜にも海軍通信学校のほか複数の海軍施設があり、その一角に大規模な地下壕群が残りました。現在の一般公開は、この場所の戦前・戦後を一続きに見る入口になっています。
海軍通信学校とは何だったのか
海軍の無線通信教育は田浦から始まった
横須賀市公式によると、現在の海上自衛隊第2術科学校がある田浦地区では1901年、日本で初めて海軍の無線電信術教育が始まりました。一方、「海軍通信教育発祥記念碑」の沿革を採録した資料では1903年2月とされています。年代には2年の違いがありますが、いずれも日露戦争前の時期に横須賀で海軍の無線教育が始まった流れを示しています。
無線通信は、電線を敷かなくても艦船や基地の間で情報を送れる技術でした。艦隊が広い海域で行動する近代海軍では、司令部から離れた艦艇へ命令を伝え、各艦から状況を受け取る手段が不可欠になります。日露戦争前後に無線の実用性が高まると、通信を専門に扱う人員の教育も組織化されていきました。
日本の無線技術がどのように成立したかは、「無線通信を発明したのは誰?マルコーニとテスラ、ロッジ、ポポフから日本の無線史まで」で、電信から電話・放送・インターネットまでの大きな流れは「日本の通信史をわかりやすく|電信・電話・ラジオ・テレビからインターネットまで」で整理しています。
1930年、海軍通信学校が独立した
1930年、通信教育部門は海軍水雷学校から分離し、海軍通信学校として独立しました。国立公文書館に残る「海軍通信学校令」(勅令第104号)は、学校の役割を制度上はっきり示しています。
同令では、海軍軍人に必要な通信術を教授するだけでなく、海軍に必要な通信術の研究、さらに通信教育の計画に関する研究・調査を行うと定めました。海軍通信学校はモールス信号の操作だけを教える練習所ではなく、通信技術の教育・研究を担う専門機関でした。
通信学校の独立は、通信が海軍の補助的な技能から、独立した教育・研究分野へ成長したことを示します。艦艇の行動範囲が広がり、航空機が作戦に加わると、誰が、どの周波数で、どの形式の電報を送り、受信した情報をどの指揮系統へ渡すかという運用全体が重要になります。学校令が「教育の規画に関する研究調査」まで任務に含めたのは、通信要員を個別に訓練するだけではなく、海軍全体の教育体系を整える役割があったためです。
1939年、久里浜へ移転
1939年、海軍通信学校は田浦から久里浜へ移転しました。久里浜駐屯地の公式沿革も、昭和14年に海軍通信学校として開設されたことを現在の駐屯地史の起点として記しています。海軍が通信教育の拠点を久里浜へ移したことで、この場所は戦争末期まで多くの通信要員を育成する学校地区となりました。

海軍通信学校では何を学んでいたのか
防衛研究所戦史研究センター史料室の目録を見ると、海軍通信学校の教育範囲はかなり広かったことが分かります。1938年の「普通科電信術練習生用 電気磁気 電気器具 無線理論」をはじめ、戦術、戦務、通信戦、通信長の実務などに関する教材が残されています。通信機の操作だけでなく、電気の基礎から部隊指揮の中で通信をどう使うかまでが教育対象でした。
| 年代 | 教材・科目 | 初心者向けの意味 |
|---|---|---|
| 1938年 | 電気磁気・電気器具・無線理論 | 無線機を理解するための電気と電波の基礎 |
| 1938年 | 気象学関係教材 | 通信や作戦に影響する気象の基礎 |
| 1942年ごろ | 電信符号・電報書字法 | 文字を符号化し、正確に送受信・記録する訓練 |
| 1943年 | 通信戦指揮参考案・通信戦務講義案 | 部隊指揮の中で通信を運用する教育 |
| 1940年代 | 戦術・戦略講義案、通信長執務便覧 | 通信担当者が艦艇・部隊で勤務するための実務と作戦理解 |
| 1944年 | 電波探信儀の概念 | レーダーの原理と運用に関する教材 |
| 戦争末期 | 方位測定機関係資料 | 電波の到来方向を測り、発信方向を探る技術 |
防衛研究所の目録には「通信戦指揮参考案(小艦艇指揮官用)」「通信戦務講義案」「戦務講義案」「戦術講義案」「戦略講義案」「通信長執務便覧」などが並びます。通信員だけが符号を覚える教育ではなく、艦艇の指揮官や通信長が、戦闘中に通信をどう維持し、命令・報告をどう扱うかまで学ぶ体系があったことが分かります。
戦争が進むにつれて、扱う電波技術も変化しました。航空機の高速化と行動範囲の拡大、夜間や悪天候での索敵、敵通信の把握などが課題になると、無線電話、方向探知、電波探信儀などの教育需要が増えます。1944年の「電波探信儀の概念」は、通信学校が新しい電波兵器に対応していた一例です。
電信は、文字情報を電気信号に変えて送受信する技術です。モールス符号では短点と長点の組み合わせで文字を表します。訓練では速さだけでなく、聞き違いや書き間違いを減らす正確さが求められました。
暗号は、通信内容を敵に読まれないよう一定の規則で変換する技術です。久里浜駐屯地の歴史ギャラリーには、海軍通信学校の無線暗号教育「一打必通訓練」の写真が残っています。名称からも、通信を正確に送り届けることが重視された訓練だったことが伝わります。

航空通信も重要な分野でした。防衛研究所に残る1940年の教育制度資料には、海軍通信学校高等科電信術練習生の教程改正と、航空機通信を専修する制度の検討が記録されています。艦艇中心だった海軍通信は、航空兵力の拡大に合わせて航空機と基地、航空機同士を結ぶ分野へ広がりました。
電波探信儀は、当時の日本海軍でレーダーを指した呼称です。電波を発射し、対象物から返る反射波を利用して位置などを探ります。防衛研究所の所蔵史料には、横須賀海軍通信学校の1944年「電波探信儀の概念」があります。通信学校の教育が従来の電信・無線だけでなく、電波を使って敵や物体を探知する技術にまで広がっていたことが分かります。
方位測定機は、受信した電波がどの方向から来たかを測る装置です。複数地点の測定を組み合わせれば、発信源の位置を推定できます。こうした技術は、味方の航法や通信だけでなく、敵の発信源を探る電波情報にも関係しました。
「通信戦」という教材名も残っています。通信は命令を伝える手段である一方、敵の通信を把握し、妨害を受けても指揮系統を保つ必要があります。海軍通信学校では、モールス通信、無線機、暗号、航空通信、方向探知、レーダー、通信戦へと、電波と情報を扱う教育が広がっていました。
久里浜駐屯地歴史館には、その時代の機材も保存されています。海軍航空機用「一式空三号隊内無線電話機」、九弐式特受信機改四、各種真空管、電信機などです。教材の名称だけでなく、実際の装置を見ることで、当時の通信教育が機械の構造や整備を含む実務だったことが分かります。

戦争末期、久里浜の山に地下壕群が造られた
久里浜には海軍通信学校に加え、1941年に海軍機雷学校が設けられ、1944年には海軍対潜学校へ改編されました。横須賀市内には海軍工廠、航空関係施設、各種学校なども集中し、東京湾口を守る軍事拠点として多くの施設が配置されていました。
機雷は海中に設置して艦船を攻撃する兵器です。対潜戦は潜水艦を発見・攻撃し、味方の艦船や航路を守るための活動を指します。久里浜周辺は通信教育と同時に、機雷・対潜関係の教育施設も置かれた海軍学校地区でした。
1944年から45年にかけて本土空襲が激しくなると、横須賀の軍事施設では重要機能を地下へ移す動きが進みました。山が海岸近くまで迫る横須賀では、山腹を横に掘る地下壕が各地に造られています。久里浜駐屯地の山中に残る地下壕群も、この時期の地下化と共通する構造を持ちます。
築造時期と細かな用途を示す記録は乏しく、戦争末期の空襲に備えた防空・退避施設として使われたとみられています。久里浜には複数の海軍施設があったため、「通信学校専用の地下司令部」や「秘密通信基地」と限定するより、久里浜の海軍施設群の中に造られた大規模な地下防空施設として捉える方が資料に沿っています。
久里浜の地下壕は、戦争末期に全国で進んだ軍事施設の地下化の一例でもあります。1944年秋以降、米軍の本土空襲が本格化すると、横須賀では工場、司令部、通信・教育施設などを守る必要が急激に高まりました。地上の建物は爆撃で機能を失いやすいため、山を利用できる場所では坑道を掘り、退避や資材保管、施設機能の分散を図りました。
ただし地下化の目的は施設ごとに違います。航空機エンジンを生産する地下工場と、司令部を守る地下壕、学校地区の防空壕では必要な広さや設備が異なります。久里浜では詳細な築造命令や各区画の用途を示す記録が十分残っていないため、地上にあった海軍施設群、坑道の配置、戦争末期の横須賀全体の地下化を組み合わせて理解する必要があります。
4地区・約2km|1951年「地下道路地図」が伝える地下壕の姿
地下壕の具体的な姿を知る手掛かりが、久里浜駐屯地歴史館に展示されている1951年7月作成の「地下道路地図」です。地域サイト「三浦半島日和」はこの地図を現地で確認し、地下壕群を4地区、総延長約2,000m、最大のA地区を約1,200mと紹介しています。
地図には約30カ所の出入口が描かれていますが、1951年の調査時点ですでに約半数が進入できない状態だったとされます。約30の入口が現在もすべて残っているという意味ではありません。戦後6年の段階で閉塞が進んでいたことは、地下壕の保存が早くから難しい条件にあったことを示します。
現地調査では、主要坑道は高さがおおむね170~180cm、幅約2mで、壁面に掘削工具の跡が残る場所も紹介されています。坑道は枝分かれし、行き止まりになる部分が多い一方、A地区には久里浜駐屯地側から長瀬海岸方面へ山中を抜ける線が1951年地図に描かれているとされます。用途は決めつけず、地図にそうした線が残ること自体が地下壕群の広がりを示す資料です。
1951年の地図が重要なのは、終戦直後に近い時期の状態を記録しているからです。現在では閉塞や地形変化で確認できない入口も、当時の地図では坑道網の一部として追えます。戦時中の完成図ではなく、戦後に実際の地下空間を調査してまとめた資料である点にも特徴があります。
約2kmという総延長も、この地図と後年の調査・紹介を通じて知られるようになった数字です。防衛省の公式Webページによる詳細な測量値ではなく、地下壕群全体の概略規模を示す値として扱うのが適切です。
| 地下壕 | 主な性格 | 所在地・関連施設 |
|---|---|---|
| 浅川地下壕 | 航空機エンジン地下工場 | 東京都八王子市 |
| 日吉台地下壕 | 連合艦隊司令部 | 横浜市・慶應義塾大学周辺 |
| 赤山地下壕 | 館山海軍航空隊関係の地下施設 | 千葉県館山市 |
| 貝山地下壕 | 追浜の海軍航空拠点に残る地下壕 | 横須賀市追浜 |
| 久里浜の地下壕 | 海軍通信学校など海軍施設群に残る大規模地下壕 | 横須賀市久里浜 |
これらの地下壕は、同じ「戦争末期の地下施設」でも役割が異なります。浅川は軍需生産、日吉台は司令部、赤山と貝山は海軍航空拠点との関係が深く、久里浜は通信学校を含む海軍教育・軍事施設が集中した地区に残ります。比較すると、地下壕を一括して「地下要塞」と呼ぶより、地上施設の役割と合わせて見る必要があることが分かります。
1945年、米海兵隊が久里浜を武装解除した
1945年8月、日本の降伏が決まると、東京湾口の横須賀・浦賀・久里浜では連合国軍による接収と武装解除が進みました。国立国会図書館の「米海兵隊太平洋戦争文書」目録には、第15海兵連隊第1大隊による「Yokosuka, Kurihama, Uraga Area 31Aug–5Sep45」の武装解除行動報告がMCJ 3473として記録されています。
米海兵隊の占領史『Securing the Surrender: Marines in the Occupation of Japan』によると、8月31日以降、第15海兵連隊第1大隊の部隊が浦賀・久里浜方面へ進みました。大隊を率いたウォルター・S・オシポフ中佐は久里浜海軍基地の降伏を受け入れ、武装解除を進めました。
日本側は設備の詳細な目録、防御施設の詳細地図などを引き渡しました。米海兵隊側の記録では、久里浜でも抵抗なく降伏手続きが進んだとされています。横須賀軍港の接収と並行して、東京湾南部の浦賀・久里浜にある海軍施設も順に武装解除されたのです。
この記録から確認できるのは、久里浜海軍基地が米海兵隊によって接収・武装解除されたことです。地下壕が米軍司令部や倉庫として使われたという具体的な用途まで、この資料は示していません。地下壕の戦後史を考えるときは、接収の事実と、その後の個々の施設利用を分けて見る必要があります。
敗戦後、海軍通信学校は復員・検疫の施設になった
敗戦で海軍通信学校の教育は終わりました。その後も校地と建物は使われ、1945年秋には、海外から帰還する軍人・民間人を受け入れる復員・引揚げ関係の施設として久里浜周辺が使われ始めます。
1945年9月28日付の海軍大臣から連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)への文書 N.D. No.25 では、帰還者を受け入れるため旧海軍通信学校などの継続使用が求められています。旧海軍通信学校で想定されたのは、宿泊、検疫、消毒、復員手続などでした。軍事通信を教えていた学校施設が、敗戦直後には海外から戻る人々を受け入れる終戦処理の拠点へ転用されたことになります。
同時期の文書には、東京湾地区へ戻る人員を約2,500人とする見込みがあり、別時点の文書には約4,500人とする記載もあります。人数は計画時点によって変化しました。重要なのは、久里浜の旧学校施設が大規模な帰還者を処理するための実務空間として検討・利用された点です。
1945年12月4日の海軍公報には、「東京出張所 横須賀市久里浜海軍通信学校内」と記されています。海軍組織が解体される過程でも、旧通信学校の施設は終戦処理関係の事務に使われ続けました。
この転用は、久里浜の施設史が1945年8月15日で切れないことを示します。戦争中に人員を教育していた校舎、宿舎、衛生設備、交通条件は、敗戦後には大量の帰還者を短期間で受け入れるための資源になりました。軍事施設の用途が、武装解除と復員という終戦処理へ急速に切り替わったのです。
復員手続では、帰還した軍人の身分確認や部隊関係の整理、解員の事務が必要でした。検疫と消毒は、長期間の航海や劣悪な衛生環境を経て帰国する人々から感染症が広がるのを防ぐために欠かせませんでした。宿泊や給養と合わせ、港の近くにまとまった施設を確保する必要があり、旧軍学校の建物が利用価値を持ちました。
浦賀と久里浜は帰還者を迎える地域になった
浦賀港は1945年9月28日に引揚港の一つに指定されました。浦賀上陸地支局は、宿営、給養、検疫の援助、救急診療、鉄道輸送などを担いました。10月7日には病院船「氷川丸」がミレ島から約2,000人の傷病者を乗せて浦賀へ帰還し、浦賀に入った最初の復員船となりました。
帰還者の受け入れには港だけでなく、周辺の旧軍施設や医療施設が必要でした。浦賀、旧海軍対潜学校、久里浜病院、旧海軍通信学校などはそれぞれ異なる役割を担い、地域全体で復員・引揚げを支えました。これらをすべて「海軍通信学校」と一括りにすると、戦後直後の施設利用の実態が見えにくくなります。
警察予備隊から自衛隊へ|同じ場所が再び通信教育拠点になった
1950年、警察予備隊が発足すると、久里浜にはその部隊が置かれました。久里浜駐屯地はこの時期から続く自衛隊最古の駐屯地とされています。1952年には通信学校が置かれ、その後長く陸上自衛隊の通信電子教育の中核を担いました。
旧日本海軍の海軍通信学校と、戦後の警察予備隊・自衛隊の通信学校は同じ組織が連続したものではありません。敗戦で旧海軍の組織はいったん終わっています。一方、旧海軍通信学校があった久里浜の敷地が、戦後も再び日本の通信教育拠点として利用されたという地理的・機能的な連続はあります。
戦後の通信学校では、有線・無線通信、交換、通信機器の整備、電子技術などが時代に合わせて発展しました。冷戦期には部隊間の通信網を確実に維持することが中心課題となり、その後はコンピューター・ネットワークを使う指揮通信へ比重が移ります。久里浜という場所は同じでも、教育する技術と安全保障環境は大きく変化しました。
1953年、保安大学校も久里浜で始まった
久里浜は、防衛大学校の前身にも関わります。防衛大学校公式沿革によると、前身の保安大学校は1953年4月1日に横須賀市久里浜で開校し、最初の学生400人を受け入れました。内訳は保安隊向け300人、警備隊向け100人でした。
保安大学校は1954年に防衛大学校へ改称され、1955年に現在の小原台へ移りました。久里浜の仮校舎時代は短期間でしたが、戦後日本の新しい防衛組織で幹部を育成する学校がこの地域から始まった事実は、久里浜の施設史を理解するうえで重要です。
海軍通信学校、敗戦後の復員関係施設、警察予備隊、通信学校、保安大学校の仮校舎。久里浜の同じ地域は、1945年を境に組織と目的を変えながら、戦後の新しい制度に組み込まれていきました。地下壕が残ったのも、完全に放棄された軍用地ではなく、別の公的施設として土地利用が続いたことと切り離せません。
モールス信号からサイバーへ|2024年の大改編
2024年3月21日、陸上自衛隊通信学校は「陸上自衛隊システム通信・サイバー学校」へ改編されました。防衛省はサイバー人材育成を強化する中で同校の機能を拡充し、3月31日の改編行事では防衛大臣が、防衛省・自衛隊のサイバー人材育成基盤の中核を担う学校と位置づけました。
通信の対象は、電信機や無線機からデジタルネットワークへ大きく変わりました。現在のサイバー教育は、旧海軍通信学校の制度や組織を継承したものではありません。ただし、横須賀・久里浜で通信教育が行われてきた地域史として見ると、20世紀初頭の無線電信から21世紀のシステム・サイバー分野まで、通信技術の変化が同じ地域に重なっています。
| 年 | 久里浜・通信教育・地下壕をめぐる出来事 |
|---|---|
| 1901年/1903年 | 田浦で海軍無線教育が始まった時期を示す資料 |
| 1930年 | 海軍通信学校が独立 |
| 1939年 | 海軍通信学校が久里浜へ移転 |
| 1940年代 | 暗号、航空通信、電波探知、通信戦など教育範囲が拡大 |
| 1944~45年 | 久里浜を含む横須賀で地下化が進み、大規模地下壕群が造られる |
| 1945年 | 米海兵隊が久里浜を接収・武装解除。旧通信学校は復員関係施設へ |
| 1950年 | 警察予備隊が久里浜で活動開始 |
| 1952年 | 通信学校が置かれる |
| 1953年 | 保安大学校が久里浜仮校舎で開校 |
| 1955年 | 防衛大学校が小原台へ移転 |
| 2024年 | システム通信・サイバー学校へ改編 |
| 2025年 | 旧海軍通信学校地下壕の一部一般公開開始 |
| 2026年4月 | 三浦市が平和学習として地下壕見学会を実施 |
| 2026年8月 | 台風による倒木と入口付近の環境整備のため地下壕内部見学を一時中止 |
2025年、旧海軍通信学校地下壕の一般公開が始まった
久里浜駐屯地は2025年7月30日、旧海軍通信学校地下壕の一部一般公開を始めました。現役駐屯地内にあるため自由見学ではなく、案内係と回る事前申込型の見学です。地下壕だけでなく、歴史館、海軍通信学校の碑、貴賓室などを組み合わせる回もあり、地上の学校史と地下壕を一緒に理解できる構成になりました。
公開範囲には注意が必要です。日本国防協会の2025年研修資料には「総延長約2km(公開は約1.2km)」と記載され、A地区で約1時間の地下壕研修が組まれています。一方、久里浜駐屯地の2026年6月24日一般向け案内では「安全上、地下壕の見学は入口周辺」と明記されました。
A地区そのものは約1.2kmとされ、特別な団体研修資料には「公開約1.2km」との記載がありますが、通常の一般向けツアーで1.2kmを歩けるという意味ではありません。ツアーの種別や時期によって見学範囲が異なり、一般向け案内では安全管理のため入口周辺に限定されていました。

こうした制限は、地下壕が戦後80年を経た山中の施設であることに加え、現役駐屯地の内部にあることとも関係します。公開には坑道の安全確認、部隊運用、警備、見学者の動線を同時に管理する必要があります。
2026年の平和学習と、現在の見学中止
三浦市が平和学習に活用
2026年4月8日、三浦市は「旧海軍通信学校地下壕見学会~歴史遺構から平和を学ぼう~」を実施しました。対象は三浦市内在住・在学者、定員18人で、地下壕だけでなく歴史館、記念碑、貴賓室なども見学する企画でした。
これは地下壕の利用目的が、駐屯地広報だけでなく自治体の平和教育・歴史教育へ広がった例です。現役自衛隊施設の中に残る戦争遺跡を、地域の近現代史を学ぶ教材として扱う試みが始まったことになります。
2026年8月3日、地下壕内部の見学を一時中止
2026年にも4月、6月、7月などに地下壕見学の案内が続き、2025年だけの一回限りの公開ではありませんでした。しかし8月3日、久里浜駐屯地は地下壕内部の見学を「当分の間」中止すると発表しました。
公式発表の理由は、台風による倒木のため地下壕入口付近で環境整備を行っていることです。地下壕内部で崩落事故が起きたという発表ではありません。2026年9月3日現在、公式サイトに再開日は掲載されていません。
通常の久里浜駐屯地見学は実施されています。地下壕内部の見学だけが一時中止となっているため、駐屯地全体が閉鎖されたと受け取らないよう区別が必要です。再開時期や見学条件は今後変わる可能性があるため、訪問前は久里浜駐屯地公式サイトの最新案内を確認するのが確実です。
一般公開の開始は、地下壕を単独の遺構として見る機会だけでなく、久里浜の土地利用がどのように変わったかを現地で確かめる機会にもなりました。海軍通信学校の碑、歴史館の通信機器、戦後の自衛隊施設、そして山中の地下壕が同じ駐屯地内にあります。1930年代の軍事教育、1945年の武装解除と復員、1950年代の新しい防衛組織、現在のシステム通信・サイバー教育までを、一つの場所の変化として追える点が久里浜の特徴です。
地下壕の保存では、坑道内部だけでなく入口、斜面、排水、樹木の管理も欠かせません。2026年の一時中止が台風による倒木と入口付近の環境整備を理由としたことは、戦争遺跡の公開が建物の保存だけでは成り立たないことを具体的に示しました。安全確認と公開範囲の調整を続けながら、どこまで見学に利用できるかを判断していく運用になります。
旧海軍通信学校地下壕は今後どうなるのか
旧海軍通信学校地下壕は、2025年に一部公開が始まったばかりです。2026年9月現在、約2kmとされる地下壕全体の常設公開、地下博物館化、国・県・市の指定文化財や史跡への指定が正式に決まった事実は確認できません。
一方、2025年の地域報道では、久里浜駐屯地の広報担当者が「日本最古の駐屯地」内にある戦争関連遺跡として保存し、広報活動に利活用する方針を説明しています。安全点検を行ったA地区を公開対象とし、説明板などを整える構想も報じられました。
保存と公開には複数の条件があります。第一に現役駐屯地なので、部隊運用と警備が優先されます。第二に、坑道の老朽化、落石や浸水など地下構造物の安全管理が必要です。第三に、今回の見学中止理由にもなった倒木など、入口周辺の山林環境も維持しなければなりません。
そのため、全区間を自由に歩ける観光施設より、点検済み区間を限定して案内する方式が現実的です。歴史館には海軍・陸軍の通信機器があり、地上には海軍通信学校の碑や旧施設に関する資料があります。地下壕だけを見せるのではなく、通信教育の歴史、敗戦後の復員、自衛隊の通信学校までを一体で説明できる点は久里浜の大きな特徴です。
1939年に海軍通信学校が置かれた久里浜では、地下壕、旧海軍の通信機器、戦後の自衛隊通信教育、現在のサイバー教育が同じ場所に重なっています。地下壕の公開は2025年に始まり、2026年には自然災害への対応で中断しました。保存と公開の方法はいまも進行中です。
参考資料
- 陸上自衛隊 久里浜駐屯地
- 久里浜駐屯地「歴史と沿革」
- 久里浜駐屯地「歴史館」
- 久里浜駐屯地「見学等お問い合わせ」
- 久里浜駐屯地「旧海軍通信学校地下壕見学について」
- 横須賀市「海軍通信教育発祥記念碑」
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「海軍通信学校令」
- 防衛研究所 戦史研究センター史料室
- 防衛研究所「航空関係 教育制度」
- 国立国会図書館「米海兵隊太平洋戦争文書(4)」
- U.S. Marine Corps, Securing the Surrender: Marines in the Occupation of Japan
- アジア歴史資料センター「公文書に見る終戦―復員・引揚の記録―」
- 防衛大学校 History of NDA
- 防衛省「防衛大臣臨時記者会見」2024年3月31日
- 三浦市「旧海軍通信学校地下壕見学会」
- 三浦半島日和「旧海軍通信学校地下壕」
- 日本国防協会「久里浜駐屯地研修見学会」
- タウンニュース「久里浜駐屯地地下壕 本土決戦の備え一部公開」

