第6回は、木挽町、芝濱﨑町、南佐久間町、愛宕町、芝公園地周辺の4図を読みます。現在の銀座東部、新橋、浜松町、芝公園にまたがるこの地域では、寺社地、公園、旧武家地、鉄道・港湾に近い市街地が混在します。
港区によれば、芝公園は増上寺境内を基盤として明治6年(1873)に設けられた日本最初期の公園の一つです。五千分一東京図が作られた1880年代には、寺院境内と近代的な公園制度が同時に存在していました。
五千分一東京図測量原図とは
本シリーズ全9地域の位置関係、資料番号1001〜1038の対応、地図の読み方は「明治五千分一東京図を読む|9地域・38資料 完全ガイド」にまとめています。
国土地理院「古地図コレクション」では、五千分一東京図測量原図を明治16〜17年に作成された東京市中の地図として整理しています。資料番号は国土地理院における資料整理番号です。
東京府武蔵国京橋区木挽町近傍
国土地理院 資料番号1021

原図左端には「明治十七年二月」とあり、1884年2月の木挽町・銀座・新橋・築地周辺を記録しています。この時期は、鹿鳴館の開館直後である一方、商法講習所や訓盲院などがまもなく改称・所管変更を迎える時期でもあり、明治国家の制度が短期間に組み替えられていく過程を一枚の地図で確認できます。
鹿鳴館・東京府庁・農産陳列所――内幸町に集まる外交・行政・殖産興業
原図には鹿鳴館が明瞭に描かれています。鹿鳴館は外務卿井上馨の欧化政策のもと、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計で1883年11月に開館した外国賓客の接遇・社交施設です。地図は開館から数か月後の姿を記録しており、後世に「鹿鳴館時代」と呼ばれる外交・社交政策が始まったばかりの時点にあたります。
近くの「東京府廳」は、1868年に東京府が発足した際、幸橋内にあった旧大和郡山藩柳沢家上屋敷を転用して設けられた庁舎です。新政府は江戸の大名屋敷をそのまま近代行政の拠点へ転換しており、鹿鳴館の新築洋館と旧大名屋敷を用いた府庁が近接する景観は、明治初期の東京の新旧が重なる姿をよく示しています。
「農産陳列所」も重要です。東京農工大学の沿革によれば、同じ1884年に農商務省農務局農産陳列所内へ蚕病試験場が設けられました。養蚕・蚕病研究を担ったこの施設は、その後の蚕業教育機関を経て現在の東京農工大学につながります。原図は、農産物の展示施設が近代的な蚕糸研究・教育拠点へ展開していく転換期を捉えています。
商法講習所・日報社・泰明学校――銀座・木挽町の教育と情報
木挽町の「商法講習所」は現在の一橋大学の源流です。森有礼が1875年に開いた商業教育機関を起点とし、1876年に木挽町へ移転して東京府立となりました。1884年3月には農商務省へ移管され「東京商業学校」と改称されるため、1884年2月の原図に残る「商法講習所」は、名称が変わる直前の姿です。1885年には一ツ橋へ移り、木挽町時代を終えます。
「日報社」は1872年創刊の『東京日日新聞』を発行した新聞社です。東京大学明治新聞雑誌文庫の書誌でも、創刊時の出版社として日報社が確認できます。銀座周辺が新聞・出版文化の拠点でもあったことを示す施設です。
「泰明學校」は1878年創立の現在の中央区立泰明小学校です。のちに北村透谷や島崎藤村らを輩出し、関東大震災後には震災復興小学校として鉄筋コンクリート校舎が建てられました。原図では創立からまだ6年ほどの学校として描かれています。
新橋停車場・東京馬車鉄道・電信局――交通と通信の結節点
新橋停車場の構内には「發車場」と読める表記があります。1872年に新橋―横浜間で日本最初の鉄道が開業して以来、新橋は東京側の旅客・貨物の玄関でした。1914年に東京駅が開業すると旧新橋停車場は汐留駅となり、貨物専用駅へ転換します。原図は、その約30年前の旅客ターミナル時代を記録しています。
停車場近くの「東京馬車鐵道會社」は、1882年6月に新橋―日本橋間で開業した東京馬車鉄道の会社施設です。開業翌年には上野停車場と新橋停車場を結ぶ都市交通の役割も担いました。1021は開業から2年足らずで、蒸気鉄道と馬車鉄道が接続し始めた時期を示しています。
木挽町には「電信局」もあります。工部省では1877年に電信寮を電信局へ改組し、築地電信局を廃止して木挽町に電信中央局を置く整備を進め、1878年には東京電信中央局が国際電報も扱う拠点となりました。原図には「電信局修技校」と読める表記もありますが、制度上は1873年から「修技学校」と呼ばれ、1886年に逓信省所管の「電信修技学校」となります。後世の正式名称を1884年時点へ遡って当てはめず、原図表記と制度上の名称を分けて読む必要があります。
訓盲院――改称直前の盲・聾教育
築地側には「訓盲院」があります。1875年に古川正雄、津田仙、中村正直、岸田吟香らが楽善会を組織し、1879年に築地3丁目で訓盲院の建物が完成、翌1880年から盲生・聾生の教育が始まりました。原図作成の3か月後にあたる1884年5月には「訓盲唖院」と改称され、1885年には文部省直轄、1887年には東京盲唖学校となります。現在の筑波大学附属視覚特別支援学校・附属聴覚特別支援学校につながる教育史の重要地点です。
教導団騎兵営――陸軍下士官教育の東京時代
原図の「教導團騎兵營」は、陸軍下士官を養成した教導団の騎兵施設です。教導団は1871年に東京へ移され、歩兵・騎兵・砲兵・工兵・軍楽などの科を置きました。1885年には国府台へ移転するため、1021は東京所在時代の末期を描いています。南極探検で知られる白瀬矗も1879年に日比谷の教導団騎兵科へ入団しており、この施設は明治陸軍の教育史だけでなく、後の探検史とも接点を持ちます。
延遼館と海軍兵学校――浜離宮・築地に重なる外交と海軍
浜離宮側には「延遼館」が描かれています。外国賓客の宿泊・接遇に使われた明治政府初期の迎賓施設で、1879年には米国前大統領ユリシーズ・グラントも滞在しました。東京都の浜離宮関係資料では、1884年4月30日に延遼館を含む区域の所管が宮内省へ移る変化が確認できます。1021はその直前の時期です。
築地の大規模な海軍用地には「海軍兵學校」「海軍倉庫」が確認できます。海軍兵学校は1869年創設の海軍操練所を前身とし、1876年に海軍兵学校と改称、1888年に江田島へ移転しました。現在「江田島の海軍兵学校」として知られる教育機関が、1021の時点ではまだ東京築地に置かれていたことがわかります。
この築地一帯は、江戸期には大名屋敷が広がり、松平定信の浴恩園もありました。幕末には講武所・軍艦教授所などの軍事施設が置かれ、明治3年以降は海軍省用地へ転換します。東京都埋蔵文化財センターによる築地市場跡の発掘でも明治期の海軍関連施設の痕跡が調査されています。原図の「海軍倉庫」は、築地の海軍用地が士官教育だけでなく、物資の保管・補給にも使われたことを示す表記です。発掘遺構と原図の建物を一棟ずつ対応させるところまでは確認できませんが、この一帯が海軍の教育と兵站の双方を担っていたことは読み取れます。
東京府武蔵国芝区芝濱﨑町近傍
国土地理院 資料番号1022

原図左端には「明治十七年七月」とあり、1884年7月の芝濱﨑町・浜松町・芝離宮・浜離宮周辺を記録しています。ここでは東京のガス事業、海軍軍楽、皇室の離宮、江戸期から続く鴨場など、近代化した施設と旧幕府以来の庭園施設が同じ画面に並んでいます。
東京府瓦斯局――東京ガス創立の前年
芝浜崎町には「東京府瓦斯局」が明瞭に記され、敷地内にはガス製造施設とみられる大規模な構造物が描かれています。東京では1874年、芝浜崎町にガス製造工場が建設され、金杉橋から芝・銀座を経て京橋まで85基のガス灯が点灯しました。当初は官営でしたが、東京府瓦斯局長を務めた渋沢栄一らを中心に民営化が進められ、原図作成の翌年である1885年10月に東京府から瓦斯局の払下げを受けて「東京瓦斯会社」が創立されました。現在の東京ガスへ直接つながる事業で、芝浜崎町は東京の都市ガス事業発祥地にあたります。
海軍軍楽隊所――西洋軍楽と「君が代」
芝離宮北側の海軍関係地には、原図で「海軍々樂隊所」と読める表記があります。海軍軍楽隊は明治初期に西洋式軍楽を導入した組織で、1876年には初代海軍軍楽隊長の長倉彦二、のちの中村祐庸が初代「君が代」の改訂を上申しました。現在につながる旋律は1880年11月3日の天長節に初演され、海軍のお雇い教師フランツ・エッケルトが吹奏楽用に編曲しました。1022はその4年後で、明治政府が国家儀礼の音楽を整えていた時代の軍楽拠点を示しています。
鉄道局用地南端の「芝」――初期の野球場だった可能性
浜離宮の西側、鉄道線路に沿った未開発地には「荒」「芦」といった地表表現に混じって、四角く整えられた区画に「芝」と記された場所があります。慶應義塾史展示館は、この1022原図そのものを取り上げ、平岡熙らの「新橋アスレチック倶楽部」が使った「保健場」と呼ばれる初期の野球場である可能性を指摘しています。同館によれば、明治7年の図には見られず、明治14年の図にはすでにこの芝地区画が描かれています。確定した施設名が原図に書かれているわけではありませんが、周囲が荒地・葦地のなかで意図的に芝を張った長方形区画があること自体が特徴的で、東京の鉄道用地周辺で近代スポーツが行われ始めた痕跡である可能性があります。
陸軍省用地――建物名ではなく土地の所管を示す区画
原図南端の海岸沿いには「陸軍省用地」と書かれた細長い区画があります。これは兵営や学校のような固有施設名ではなく、土地を陸軍省が所管していたことを示す表記です。内部には建物が少なく、荒地や小規模な施設が描かれているため、1884年時点の具体的用途を一つに決めることはできません。一方で、明治初期の芝浦・浜崎町の海岸部では、官庁・鉄道・海軍・陸軍などがまとまった土地を確保しており、「何が建っていたか」だけでなく「どの官庁の土地だったか」まで五千分一東京図が記録している例として読むことができます。
濱離宮・鴨場・中島御茶屋――将軍家の浜御殿から皇室の離宮へ
東側には「濱離宮」が大きく描かれ、潮入の池、御茶屋、鴨場などの庭園施設まで細かく表現されています。浜離宮の起源は17世紀に甲府藩主松平綱重が海面を埋め立てて屋敷を築いたことにあり、その子が六代将軍徳川家宣となると将軍家の別邸「浜御殿」となりました。明治維新後は皇室の施設となり、1884年には延遼館を含む区域が宮内省所管へ移っています。原図は、まさにこの制度的転換の時期を記録しています。
園内の「鴨場」「新鴨場」は、池から細い引堀へ鴨を誘導し、鷹や網で捕獲するための鴨猟施設です。現在の浜離宮には庚申堂鴨場と新銭座鴨場が残り、それぞれ1778年、1791年の築造とされています。原図の名称は簡略ですが、池と細い水路を組み合わせた区画は、将軍家から皇室へ受け継がれた鴨猟のための設備として読むことができます。
「中島御茶屋」は1707年に造られた中島の御茶屋です。歴代将軍や賓客が潮入の池を眺めながら休息する施設で、現在の建物は1983年の再建です。1884年の原図では、明治の離宮となった後も江戸期の庭園構成がはっきり残っていたことがわかります。
芝離宮――大名庭園から離宮へ
「芝離宮」は現在の旧芝離宮恩賜庭園です。1678年に老中大久保忠朝が四代将軍徳川家綱から土地を拝領し、小田原から庭師を呼んで「楽壽園」と呼ばれる回遊式庭園を築いたのが始まりとされます。幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となり、1871年に有栖川宮家の所有、1875年に宮内省の所有となり、翌1876年に芝離宮となりました。1022は離宮化から約8年後の姿です。関東大震災で宮殿や樹木が大きな被害を受けた後、1924年に東京市へ下賜されて一般公開され、現在は国指定名勝となっています。
「富士山」――富士塚である可能性
芝神明町付近には、築山状の地形に「富士山」と読める表記があります。位置や人工的な地形表現、同時代の宗教活動を考えると、富士講を背景とする扶桑教系の富士塚である可能性があります。扶桑教は富士講の流れを受け、宍野半が諸講をまとめて発展させた教派神道で、1882年に独立しました。扶桑教には高さ約10メートルで洞窟や池を備えた「扶桑富士塚」があったと伝わります。ただし、1022の「富士山」とこの富士塚を直接同定する史料までは確認できないため、記事では可能性にとどめます。
細見兵太郎――測量図を作った側の人物
欄外には「陸軍省御用掛 細見兵太郎」と明記されています。後年の陸地測量部資料でも細見兵太郎は「測量手」として確認でき、近代陸軍の測量事業に継続して携わった人物です。市街地の地主名ではなく、五千分一東京図の制作に関わった測量技術者の名が原図自体に残っている点で重要です。名前の確実な読みは今回確認できなかったため、ルビは付していません。
東京府武蔵国芝区南佐久間町及愛宕町近傍
国土地理院 資料番号1023

原図には「明治十七年七月」とあり、1884年7月の南佐久間町・愛宕町から虎ノ門、内幸町方面までを記録しています。大名・宮家の邸宅、工部省の技術教育・調査機関、師範学校、病院、裁判所、陸軍施設が近接し、明治国家の行政・教育・軍事・医療の拠点が集中していた地域です。
日比谷練兵場――日比谷公園になる19年前
原図北端には「日比谷練兵場」が大きく記されています。現在の日比谷公園一帯は江戸時代には大名屋敷地でしたが、明治維新後に陸軍の練兵場となり、部隊の訓練や観兵などに使われる広い軍用空間になりました。1023では市街地の建物が密集する脇に、ほとんど建物のない大きな平坦地として描かれています。1889年の東京市区改正計画で公園地に指定され、その後本多静六らの設計によって1903年6月に日比谷公園が開園しました。1884年の原図は、現在の都心公園がまだ陸軍の訓練場所だった時代を記録しています。
鍋島邸と有栖川宮邸――旧大名家と宮家の邸宅
原図北西部には「鍋島邸」「有栖川宮邸」が明瞭に記されています。鍋島邸は、位置と年代から旧佐賀藩主鍋島直大の東京邸とみられます。直大は佐賀藩最後の藩主で、廃藩置県後にイギリスへ留学し、駐イタリア特命全権公使などを務めました。原図が作られた1884年には華族令によって侯爵となっており、旧大名家が新しい華族社会へ組み込まれた時期と重なります。
隣接する有栖川宮邸は皇族の有栖川宮家の東京邸です。同時期にはジョサイア・コンドルが有栖川宮邸の洋館を手がけており、この一帯は旧大名家・宮家の邸宅と近代洋風建築が並ぶ地域でもありました。原図から読み取れる中心的な情報は、ここが有栖川宮家の大規模な東京邸宅であり、周囲の旧大名家邸宅とともに明治の上層居住地を形成していたことです。
工部大学校・地質調査所――技術立国を支えた官営機関
虎ノ門側には「工部大學校」が大きく描かれています。工部大学校は工部省が1877年に工学寮を改称して設けた高等工業技術教育機関で、外国人教師を招き、土木・機械・造家・電信などの近代技術者を育成しました。原図の翌年、1885年12月に工部省が廃止されると文部省へ移管され、1886年には東京大学工芸学部と統合して帝国大学工科大学となりました。1023は工部大学校として存続していた末期の姿を記録しています。
近くには「地質調査所」もあります。前身は1878年に内務省地理局へ設けられた地質課で、1882年2月に地質調査所として独立しました。現在の産業技術総合研究所・地質調査総合センターにつながる機関で、原図は創立から約2年後です。地下資源・地質・土壌の調査は鉱山開発や農業、国土把握に直結し、殖産興業を技術面から支えました。
工部省用地には「電信修技校」と読める表記もあります。1021の木挽町側にも電信技術者養成に関係する施設が描かれており、この一帯に電信行政と技術教育の機能が集積していたことがわかります。制度上の正式名称は時期によって変わるため、原図の表記と後世の「電信修技学校」を同一名称として扱わないよう注意が必要です。
工部省用地・内務省用地――官庁がまとまった土地を所管する時代
原図には「工部省用地」「内務省用地」と書かれた区画もあります。どちらも特定の建物名ではなく、その土地を官庁が所管していたことを示す表記です。工部省は1870年に設けられ、鉄道・鉱山・電信・技術教育など近代産業の基盤整備を担いました。内務省は1873年に設置され、地方行政、警察、土木、地理、測量など広い内政分野を所管しました。1023では工部大学校や地質調査所などの具体的施設名と並んで官庁用地の表示があるため、明治初期の東京では旧大名屋敷地などの大区画が省庁単位で再編され、その中に学校・調査機関・事務所が配置されていったことが読み取れます。
青松寺――駒澤大学につながる僧侶教育の出発点
愛宕山の東側には「青松寺」が記されています。寺院そのものは江戸時代から続く曹洞宗寺院ですが、明治期には近代的な僧侶教育の舞台にもなりました。駒澤大学の公式沿革によれば、1875年6月、青松寺の獅子窟学寮内に「曹洞宗専門学本校」が開校しています。学校は翌1876年に駒込吉祥寺へ移転したため、1023作成時の1884年には青松寺内に学校はありません。それでも、この寺が現在の駒澤大学につながる教育機関の出発地点の一つだったことは、愛宕下の寺院が宗教施設だけでなく近代教育史にも関わっていたことを示します。
東京府師範学校――東京の教員養成を担った学校
「東京府師範學校」は現在の東京学芸大学につながる教員養成機関です。1873年に東京府庁構内へ設けられた東京府小学教則講習所を起源とし、1876年3月に東京府小学師範学校、同年11月に東京府師範学校と改称しました。明治初期には小学校教員の急速な需要増加に対応し、通常の師範生だけでなく短期間で教員を養成する速成教育も行われました。原図は、近代学校制度の整備と教員養成が同時進行していた時期を示しています。
東京共立病院――慈恵の医療と近代看護教育の出発点
愛宕町側には「東京共立病院」と記されています。東京慈恵会医科大学の公式沿革でいう「有志共立東京病院」にあたり、海軍軍医だった高木兼寛らが貧しい人々も診療できる施療病院として1882年に診療を始めました。1884年4月19日には有栖川宮威仁親王を総長に迎えて正式な開院式を行い、同年6月には鹿鳴館で病院を支援する婦人慈善会のバザーが開かれています。1023は開院式から約3か月後、バザーから約1か月後という時点です。
高木はイギリス留学で学んだ病院と看護教育の仕組みを日本へ導入し、1884年秋から看護教育を開始しました。病院は1887年に東京慈恵医院へ改称され、現在の東京慈恵会医科大学と附属病院へつながります。原図上の「東京共立病院」という表記は、公式沿革上の正式名称「有志共立東京病院」と区別して扱います。
「航海學校」――航海・測量技術を教えた学校
原図には「航海學校」と読める施設があります。当時の航海教育は、船を動かす実務だけでなく、測量・天文・数学などを含む近代的な海事技術教育でした。芝新銭座では近藤真琴の攻玉社が1871年から教育を行い、1875年には「航海測量習練所」を設けています。位置と年代から、原図の「航海學校」はこの系統の航海・測量教育施設である可能性があります。原図の文字だけで正式な校名まで決めることはできませんが、芝一帯に民間の海事技術教育の場が置かれていたことは読み取れます。
芝区治安裁判所・東京鎮台会計倉庫――司法と軍事の制度転換
原図の「治安裁判所」は芝区治安裁判所とみられます。治安裁判所は1881年の司法制度改編で設けられた第一審の裁判機関で、明治18年の判決資料にも「芝区治安裁判所」の名が確認できます。1890年の裁判所構成法施行後は区裁判所へ移行していくため、1023は明治前期特有の裁判所制度を地図上に残しています。
南東部の「東京鎮臺會計倉庫」は東京鎮台の補給・会計関係施設です。東京鎮台は1871年に置かれ、首都と東日本の軍事体制を担いましたが、1888年の師団制移行で第一師団へ改編されます。原図はその4年前で、都市内部に軍の倉庫・会計施設が置かれていた状況を示しています。
愛宕神社――愛宕山公園開園の約2年前
愛宕山には愛宕神社と急峻な地形が描かれています。港区の資料によれば、神社境内を含む愛宕山の公園地が「愛宕山公園」として本格的に開園するのは1886年です。したがって1884年7月の1023は、公園化・行楽地化が完成する約2年前の景観にあたります。のちには愛宕館や愛宕塔などが設けられ、高所から東京市街を眺める行楽地として知られるようになりました。
東京府武蔵国芝区芝公園地近傍
国土地理院 資料番号1024

原図には「明治十七年七月」とあり、1884年7月の芝公園地と増上寺、その南側の三田育種場までを記録しています。1873年に日本最初の公園の一つとして開園した芝公園には、徳川将軍家の霊廟、東照宮、寺院群が残る一方、紅葉館・能楽堂・消防分署・海軍施設・農業試験施設など明治の新しい制度と社交施設が入り込んでいました。
芝公園地と増上寺――寺院境内を含んだ初期の都市公園
原図中央には「芝公園地」と「増上寺」が大きく記されています。芝公園は1873年1月の太政官布達による公園制度を受け、同年10月19日に開園しました。上野・浅草・深川・飛鳥山とともに日本最初期の公園で、当初は現在のような環状の区域ではなく増上寺境内を含む広大な範囲が公園でした。戦後の政教分離によって寺院境内が公園区域から外れ、現在の形になっています。
増上寺は1590年に徳川家康の帰依を受けて徳川将軍家の菩提寺となり、1598年に現在の芝へ移転しました。原図作成の11年前にあたる1873年には大殿が放火で焼失しており、1024は江戸期の巨大寺院景観が明治維新後に変化した後の姿です。それでも境内には徳川家関係の霊廟や墓域が広く残り、原図にも「徳川墓場」と明瞭に記されています。
徳川墓場――戦災前の将軍家霊廟
増上寺には二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六将軍が葬られ、正室・側室の墓も設けられました。二代秀忠の台徳院殿、六代家宣の文昭院殿、七代家継の有章院殿などの霊廟は、江戸幕府の威信を示す壮大な建築群でした。1884年の1024は、これらがまだまとまって残っていた時代の配置を詳細に記録しています。
1945年の空襲で増上寺の伽藍と御霊屋の大部分が焼失し、戦後に墓所は現在の形へ改葬・整備されました。したがって原図の墓域配置は、現在の境内だけを歩いても復元しにくい戦前の徳川霊廟空間を知る手掛かりになります。
東照宮――神仏分離から11年後
公園内には「東照宮」も明瞭です。現在の芝東照宮で、もとは増上寺境内に徳川家康を祀った「安国殿」でした。家康の遺命を受けて1617年に完成し、家康が生前に作らせた等身大の寿像を祀りました。明治初期の神仏分離によって増上寺から分かれ、1873年に芝東照宮となっています。1024は独立から約11年後の姿です。
芝丸山古墳――古墳と判明する前の「丸山」
増上寺の南側には、等高線で大きく盛り上がった丘陵区画が描かれています。現在ここに残るのが芝丸山古墳で、全長約106メートルの都内最大級の前方後円墳です。現在は古墳として知られていますが、原図が作られた1884年の段階では、考古学的な性格がまだ確定していませんでした。1897~1898年に人類学者坪井正五郎が本格調査を行い、丸山と呼ばれていた丘が前方後円墳であることが明らかになります。1024はその調査より13年以上前で、後に古墳と判明する地形を測量図として精密に記録している点でも価値があります。
紅葉館と芝能楽堂――鹿鳴館とは異なる明治の社交空間
公園西側には「紅葉館」と「能楽堂」が並んでいます。紅葉館は1881年に開設された純和風の会員制高級料亭で、外国賓客の接待、政財界・海軍関係者の懇親、文人の交流に使われました。港区の資料では、鹿鳴館に先立って芝公園に生まれた和風の社交場として位置づけられます。建物は1945年の空襲で焼失し、その跡地には後に東京タワーが建てられました。
芝能楽堂も1881年、岩倉具視ら華族を中心に設立された能楽社によって建てられました。明治維新で幕府や大名の保護を失った能楽を再興する拠点となり、舞台と観客席を一つの建物内に収める近代的な「能楽堂」形式の先駆とされています。1024は開場から約3年後で、明治政府の要人や華族が伝統芸能を新しい公共・社交文化として再編していた時期を記録しています。
三田育種場・興農競馬場――農業近代化と競馬
原図南端には「三田育種場」が大きく描かれ、内部には楕円形の競馬場と「興農競馬場」の表記が確認できます。三田育種場は1877年、旧薩摩藩邸跡に明治政府が設けた農業試験施設で、初代場長は前田正名でした。海外農作物の試作、牛・馬・羊・豚の飼育・種付け、農機具の改良などが行われ、場内の競馬も多くの観客を集めました。
この施設は1024作成のわずか3か月前、1884年4月から大日本農会へ運営が委託されていました。さらに同年8月には「大日本農会三田育種場」を出版者とする『舶来果樹要覧』が刊行されています。1884年7月の原図は、官営農業試験場から農業団体による運営へ移った直後を記録したものです。1886年には民間へ払い下げられ、育種場としての役割を終えました。
海軍病院――脚気対策が進んだ海軍医療の拠点
原図には「海軍病院」と書かれた区画も確認できます。これは海軍軍人の診療を担う東京の海軍医療施設です。高木兼寛は1880年に英国留学から帰国すると東京海軍病院長に就任し、海軍内で深刻だった脚気の調査と兵食改善を進めました。原図作成と同じ1884年には、練習艦「筑波」で食事内容を改めた長期航海を行い、脚気予防に大きな成果を上げています。1024の海軍病院は、病気の治療だけでなく、軍隊の衛生・栄養・軍医制度が近代化していく時代の医療拠点として読むことができます。
海軍兵器局――芝公園南側の海軍軍政施設
三田育種場の北西には「海軍兵器局」が明瞭に記されています。明治初期の海軍省では、造兵司・武庫司など兵器関係組織の再編を経て1875年に兵器局が設置され、兵器の製造・保管・管理に関わる事務を担いました。原図は、芝公園周辺にも海軍の行政・兵器関係施設が置かれていたことを示しています。後世の海軍工廠や兵器廠とは組織・名称が異なるため、それらを1884年の「海軍兵器局」と同一視しません。
消防第二分署――現在の芝消防署の前身
原図北東部には「消防第二分署」があります。東京では1880年に内務省警視局の消防本部が発足し、1881年に警視庁消防本署へ改称、同年6月に第一から第六までの消防分署が設けられました。第二分署は芝区宮本町に置かれ、現在の芝消防署の前身です。1024は設置から約3年後で、江戸の町火消から近代的な公設消防制度へ移行した初期の拠点を記録しています。
4枚を続けて見ると見えてくる芝・愛宕
1021〜1024は、水辺の低地、商業地、愛宕山の高地、増上寺の大寺院空間を連続して見られます。新橋・銀座から芝公園へ移動するだけで、近代商業、交通、寺社、公園という異なる都市機能が短い距離に集まっていたことがわかります。
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主な参考資料
- 国土地理院「古地図コレクション 五千分一東京図測量原図」
- 東京都公文書館「資料解説―東京府庁の始まり」「東京市史稿 遊園篇」
- 国立国会図書館「近代日本とフランス―憧れ、出会い、交流」「白瀬矗、南極へ―日本人初の極地探検」「鍋島直大|近代日本人の肖像」「舶来果樹要覧」
- 一橋大学「150年の歩み」
- 東京農工大学「沿革」
- 東京学芸大学大学史資料室「東京府小学校則講習所設立と変遷」
- 筑波大学附属聴覚特別支援学校「沿革」
- 東京慈恵会医科大学「東京慈恵会医科大学の130年」「本学の源流」
- 産業技術総合研究所 地質調査総合センター「地質調査所/地質調査総合センターの沿革」
- アジア歴史資料センター「教導団」「電信局」「工部省」「工部大学校」「内務省」「地理局」「東京鎮台」「海軍省組織変遷」
- 海上自衛隊幹部候補生学校「海軍兵学校の沿革」
- 攻玉社「攻玉社の歴史」
- 駒澤大学「沿革」「近代印刷関係資料 明治時代の本学教科書を印刷した版木」
- 慶應義塾史展示館「新橋アスレチック倶楽部と保健場」関連展示
- 宮崎県「高木兼寛|宮崎県郷土先覚者」
- 東京都公園協会「浜離宮恩賜庭園」「旧芝離宮恩賜庭園」「芝公園」「芝公園は150周年」
- 大本山増上寺「由来・歴史」「徳川将軍家墓所」
- 芝東照宮「御由緒」
- 国立劇場 文化デジタルライブラリー「近代の能楽」
- 東京消防庁「公設消防の誕生」
- 大日本農会「沿革」
- 東京都埋蔵文化財センター「築地市場跡遺跡」
- 東京都交通局「都電荒川線|交通局のあゆみ」
- 東京大学明治新聞雑誌文庫「東京日日新聞」書誌
- 中央区「焼けただれた泰明小学校」
- 港区「紅葉館資料」「三田育種場」関連資料、「地名の歴史(芝地区)」、芝地区地域情報誌「歴史探訪 愛宕山幻影」
